今までの経緯

 

 

  わたしは、今まで多くのことを語ってきた。創造主としてのあなたをあなたの大我、あなたの大我が自分の分身としてこの世に送り出したあなた自身をあなたの小我として語り、小我としてのあなたに大我に至れと語ってきたのだ。これが、仮の法華経である。なぜ、このような仮の法華経を説いてきたのか。

 

  本当は強引にでも菩薩界に導いてしまえばよいのだ。しかし、菩薩界に導くためには、永遠の裁きの地獄に自ら堕ちるように持っていかなくてはならない。これが本当に可能ならば、ヨハネの黙示録があるのだから、実際に聖書で火と硫黄の燃える地獄に次々と自ら入る者が現れるはずである。しかし、現実はどうか。『この教えを信じれば火と硫黄の燃える地獄を免れる事が出来る。』『火と硫黄の燃える地獄を免れたいのならばこれを信じよ。』『火と硫黄の燃える地獄を免れるためには自分の財産を寄進せよ。』などと言う教えばかり。

 

  口先では『イエス・キリストを信じよ』『アッラーを信じよ』などと語る。そして、いかにも信じているようなことは言う。また、権威があるかのように振る舞いはする。しかし、信じるとは口先ばかり。『イエスを信じる』とは語っても、福音の言葉を守らない者たちばかり。『アッラーを信じる』とは語っても、コーランの言葉を守らない者たちばかり。結局、信じる事など誰もできなかった。

  わたしは、千年と言う時を待ったのだ。千年と言う時をかけても実際に信じる者など一人も現れなかった。これが現実である。所詮、無理であった。無理なものは無理でしかなかった。わたしが、ここで、再びこのように語っても、所詮、無理なのだ。

 

  無理ならば、次善策を講ずるしかない。次善策となり得るのは声聞界への導きと言うことになる。声聞界に導くには、人の心の動く範囲を六道として俯瞰する位置に導けばよい。だが、ここに一つ大問題がある。現実問題として、六道自体が理解不能となっているのだ。

 

 

  六道の内の、地獄界・餓鬼界・畜生界はかろうじて理解の内に入っているようだ。と、言ってもロシアのプーチンも中国の習近平も畜生界思考が理解できていない。あらかじめ法を定め、そのあらかじめ定められた法の範囲で自由は保障されるというのが畜生界思考である。畜生界思考をすれば、自分が批准した法に違反するはずはない。法に違反して他国に攻め込むことなどあるはずはない。これが、畜生界思考なのだ。

 

  ではプーチンや習近平はどのように考えているのか。法を定める者と、法を守る者は別と考えているのだ。『法を定める者は王であり、一方的に法を定めそれを奴隷たちに守らせなくてはならない』と考える。つまり、プーチンは、ロシアは王、ウクライナは奴隷と考える。そして、奴隷であるウクライナが王であるロシアに逆らったのだから、罰を加えなくてはならないということとなり、ロシアはウクライナに攻め込んだのだ。習近平も同じである。王である中国が、奴隷である周辺諸国を従えるのは同然であると考える。だから、周辺国に対しても人民に対しても威圧的な態度に出るのだ。このように、常にどちらが上なのかと考え、自分が上となれば、強引に下のものたちに言うことを聞かせなければならない。と言うのが餓鬼界思考である。

 

  餓鬼界思考をする者たちは、他の者も同じ餓鬼界思考をすると考える。餓鬼界思考で国際情勢そのものも判断するのだ。彼らにとって、畜生界の常識すらも理解できない。理解できないから、すべてが餓鬼界思考をしていると考える。

  すなわち、プーチンは『アメリカと言う王が、アメリカの奴隷の国々に言うことを聞かせている』と考える。『アメリカと言う王国がウクライナというロシアの奴隷国家を奪いに来た』と考える。だから『防衛しなくてはならない』となる。これが、ウクライナ戦争は防衛戦なのだと彼が語る理由であり、プーチンにとって、国際法を守るという法治主義、すなわち畜生界思考は理解の外にある。

 

  習近平は、一帯一路構想で、アメリカと言う国の奴隷国家を中国のものとしようとした。自分の主権の及ぶ範囲を拡大しようとしたのだ。アメリカの締め付けはさほど厳しくないのだから、少し条件を緩めればアメリカの奴隷ではなく中国の奴隷となる国も出てくるはずであると考えたのだ。一旦中国の奴隷となれば、今度は締め付けて離れないようにしなくてはならない。このようにすることにより、アメリカから世界の主権を奪おうとしたのだ。

 

  では、アメリカはどうか。アメリカもロシアや中国と同じである。覇権国とは言うが、アメリカが王であり、アメリカに従う国々をアメリカの奴隷国家と言う扱いをする。アメリカに言いなりにならないと経済的に締め付け、軍事で脅す。この意味では、ロシアや中国と何も変わらない。

  しかし、アメリカの支配者はこのような考え方をしていない。支配者とは、大統領でもなく官僚でもない。ディープステイトと呼ばれる者たちが実質的にアメリカを支配しており、彼らが修羅界思考をしているのだ。ロシアの支配者、中国の支配者は餓鬼界思考をしている。餓鬼界と修羅界には二つの差があり、ロシアや中国では全く太刀打ちできないのだ。そればかりではない。ロシアや中国が共産主義国家となったのは、ディープステイトの思惑である。ディープステイトがより良い未来を創ろうとして創り出した国家がソ連であった。彼らにとって、アメリカが覇権国である必要などどこにもない。それが、ロシアでも中国でも構わないのだ。

  このように、基本的な常識に二つ以上の差があれば、下の常識を持つ者たちでは上の常識を持つ者たちに太刀打ちできなくなる。このように六道は、そのまま力の差ともなる。

 

  分かると思うが、六道とは言っても、現状は下から二番目の餓鬼界か、下から三番目の畜生界止まり。畜生界とは言うが、実際には畜生界思考すらも怪しい国々ばかりである。六道の修羅界・人界・天界は政策の内にも入っていない。つまり、六道自体が理解不能なのだ。

 

  菩薩界への導きならば地獄界の衆生であっても、餓鬼界の衆生であっても構わない。菩薩界となれば、『わたしは裁きの地獄に堕ちる選択をしたゆえに、他の者たちに勝る』となるからであり、『裁きの地獄を恐れる臆病者どもはひれ伏せ』とやっても何の問題もない。

 

  しかし、声聞界への導きには制限がある。声聞界へ導くことができるのは、人界・天界の住人に限られる。正確に言えば、少なくとも人界の常識が理解できる人でないと、声聞界への導きができないのだ。これは、導く先が声聞だと、『誰でもこれを知れば声聞に至る』とはならないからである。なぜならば、三悪道の人々は、この話を聞くと『私はこれを知るゆえに正しい、優れている』と思考することとなる。そして、『正しい我々が良果を得るべきであり、このようにならないのは世の中が悪い』となっていく。

  だから、三悪道しか知らない人々には、まず、人界・天界を教える必要があるのだ。そして『三悪道・四悪道は劣であり、人界天界の二正道が優である』と言う事をしっかり教え、しっかり覚えさせなくてはならない。こうしないと、彼らは思考の根本を三悪道に置いたまま、三悪道思考から物事を判断する。つまり、『我々はこれを知るので優れている。優れている我々が他の者と同じなどと言うことはあり得ない』となってしまう。

 

  キリスト教は何をしてきたのか。『我々はイエス・キリストを信じるので優れている。優れている我々が他の者と同じなどと言うことはあり得ない』と、全世界を征服してきたではないか。そこにあったのは、虐殺、略奪、阿鼻叫喚。

 

  イスラム教は何をしてきたのか。『我々はコーランに記されているムスリムなので優れている。優れている我々が他の者と同じなどと言うことはあり得ない』と、世界征服を試みてきたではないか。そこにあるのも虐殺、略奪、阿鼻叫喚。

 

  このように、残念な事に、今のほとんどの教えがこの段階、つまり、三悪道思考に留まる。キリスト教はカトリックもプロテスタントも三悪道思考であり、イスラム教も三悪道思考でしかない。儒教も三悪道思考であり、西洋哲学も三悪道思考の内をさまよう。

  今日の教育の根本は西洋哲学である。西洋哲学から唯物論が生まれ、それが理系と呼ばれる学問体系となり、西洋哲学から唯心論が生まれ、それが文系と呼ばれる学問体系となっているのだ。根本の西洋哲学自体が三悪道思考に留まるので、現代の教育も三悪道の内に留まるしかなくなる。

 

  三悪道思考とは優劣思考である。三悪道では『何が正しく、何が間違っているのか』『何が優れており、何が劣っているのか』と判定しようとする。人の思考でこのように判定するならば、それが三悪道と言うことになる。三悪道しか知らない者は、平等思考が理解できない。自分と他人が同等であるという考え方そのものが理解不能となるのだ。そして、このように考える。『自分と他人が同等であると言う考え方は間違っている。優劣は必然であり、何によって優劣を定めるのかが重要である』と。

 

  例えば、三悪道思考しか知らない者は、宗教そのものも優劣判定の材料にしてしまう。『我々は、これを信じるゆえに正しく、これを信じない者たちは劣っている』とするのだ。だから、キリスト教もイスラム教もこのような行動となる。このようになることが分かっていたので、わたしはヨハネの黙示録を与えたのだ。ヨハネの黙示録により導く先は菩薩界である。菩薩界への導きだと、『裁きの地獄に堕ちる選択する我々は正しく、裁きの地獄を恐れ、裁きの地獄から逃げ惑う者たちは劣る』となる。正しいとする以上、裁きの地獄に至るしかないので、三悪道しか知らない者たちであっても菩薩界へは導けるからである。

 

  ところが、導く対象が声聞界だと、『これを知る我々は正しく、これを知らない者たちは間違っている』と、三悪道思考により、自分を正、他を邪とするための判定材料の一つとしてしまうのだ。

 

  現実に、三悪道思考しか知らない者たちは、『菩薩』すらも自分たちは正しく、他の者は間違っているとするための材料としてしまっている。『自分たちは菩薩であり正しい』とするのだ。この代表格がイスラム教である。イスラム教は『自分たちはムスリム(菩薩)であり正しい』というところから論を構えているのだが、『ムスリムの指名権はアッラーの神権であり、アッラーの神権違反は永遠の裁きの地獄に堕とされる』となっているのがコーランである。

  また、仏教を標榜するものたちの中にも『我々は菩薩であり正しく、誤った他の者たちを導かなければならない』とするところもある。この代表格が創価学会である。確かに、彼らが菩薩であれば、このように語っても何の問題もない。しかし、代表者であった池田大作の著書を見れば、菩薩ではないことなど丸わかりである。菩薩と自称する偽菩薩たちが、他の者たちを菩薩界に誘導できるはずはない。

  彼らの何が問題なのか。菩薩、ムスリムと口先では語る。しかし、彼らには菩薩とは何なのか、ムスリムとは何なのかが理解できないのだ。理解するとは有とすると言い換えることができるが、六道の有は、無から生じた有である。菩薩・ムスリムの有は『空』から生じた有である。この『空』を言葉であらわせば、『有であるが無でもある。命であるが命でなく、生きているが死んでもいる。全知ではあるが無知であり、全能であるが無能でもある』などの表現となる。

  実際に菩薩、ムスリムとなれば、この『空』が実感としてわかるのだ。しかし、菩薩、ムスリムとならなければ、これは誰にも分らない。説明のしようがないのだ。だから、もし、わたしが彼らを導くのならば、有無を言わさず全員を無間地獄に叩き込む。このようにしないと真の菩薩とはならないからである。真の菩薩にさえしてしまえば、後は任せておけばよい。このように、イスラム教徒も創価学会も、菩薩ではないのに、菩薩と自称する事が問題なのだ。偽物は本物にしてしまえば何の問題もなくなる。

 

  なぜ、コーランをあのような者たちに授けたのか。三悪道しか知らないものたちでも、火と硫黄の燃える地獄の洗礼を受ければ菩薩(ムスリム)となれるのだから、あのような三悪道の中でも地獄界、良くても餓鬼界という者たちにコーランを授けたのだ。まぁ、火獄に一番近い者たちだから、恐れずに飛び込むのではないかと少し期待した。しかし、結局、誰も飛び込まなかった。真のムスリムは一人として生まれなかった。

 

  創価学会は日本の常識が転倒したゆえに生まれた組織である。日本では江戸時代、人界を主とした国となっていた。そこに、三悪道思考が欧米からもたらされた。人々は、人界は時代遅れの劣った常識であり、三悪道こそが最新の優れた常識であると勘違いしてしまったのだ。この勘違いをさせた代表者が福沢諭吉である。この勘違いは今も続いている。日本の政策は、旧来の人界の常識に沿うべきか、欧米の常識に沿うべきかが対立点となる。この欧米の常識側に大学などの学術会議があり、旧来側に人々の常識があるのだ。

  欧米思考は三悪道思考である。このため欧米側にある日本学術会議などは自分たちを優とし、旧来思考を劣と思考することとなる。人界思考では、優劣の判定はしない。人の間に優劣も正邪も設けない。人と人の間にあるのは違いであり優劣でも正邪でもない。これが人界思考である。このため、日本では優秀とされる者が三悪道思考、劣るとされる者が人界思考と言うことになった。これが西洋哲学を根本とした教育の成果であり、根本的な害悪である。つまり、人界思考は残っているのだが、三悪道の下と言う位置に置かれる事となったのだ。これが日本と言う国の公式見解と呼ばれるものである。

  この見解に沿うと、アメリカや中国や韓国は正しく、日本は間違った国と言うことになる。間違っている日本は謝罪し続けなればならないということになる。法に従う限り我欲を全開にすることが正しく、他人に迷惑をかけないことは間違っているということになる。

  法に従い我欲を全開にするのは正しいとする法治主義は畜生界思考。これに対して、他人に迷惑をかけない限り自由である、他者を尊重する限り自由であるとするのは人界思考。

  どちらが簡単でどちらがむずかしいのか。法を学び尽くし、法の抜け穴を探し、その抜け穴を使って我欲を叶える行為こそが正しいとするのが畜生界思考の法治主義である。要するに訴訟となった時に負けなければそれが正しいのだ。人界思考にあるのは他者を尊重する、他人に迷惑をかけない、これだけである。人々は譲り合い、自然発生的に法も生まれ、その法を人々は遵守する。

  日本の官僚などの上層部とされる者たちは畜生界思考こそが正しい、人界思考は劣っているとする。日本の庶民は、人界思考こそが正しいとし、畜生界思考はあってはならない考え方であるとする。普通に考えると人界一択となるのだが、これを逆転させなくてはならない。

  これを逆転させる論理がないと敗戦でアメリカに『このようにしろ』と言われても、人々は納得できない。そこで、国際社会への協調、平和というものを上位に据えたのだ。これが創価学会である。要するに、国際社会を人界に勝る天界の社会に見せかけた。天界の虚城を創りだし、その虚城に従えとしたのだ。

  当然の事ながら、畜生界思考すらわからない餓鬼界思考の国である中国や韓国が天界の国であるはずはない。かろうじて畜生界思考に至っているアメリカや欧州が天界の国であるはずはない。法治主義などと言っている国際社会が天界であるはずはない。しかし、敗戦国である日本がとれる論理はこのようなものでしかなかった。

 

  上位の常識を持つ国と下位の常識を持つ国が争えば、上位の常識を持つ国が勝利する。もし、この差が二つ以上あれば実際の戦争となる前に、下位の常識を持つ国が乱れ、最悪の場合は崩壊してしまうのだ。つまり、もし日本が人界思考のままであり、その日本が畜生界のアメリカと争えば、勝利するのは日本となる。実際、江戸時代、アメリカは日本を植民地にしようとした。これゆえ南北戦争が起き、アメリカ自体が乱れた。では、なぜ、日本は戦争に負けたのか。江戸時代の人界思考よりも欧米の餓鬼界・畜生界思考の方が正しいとしたからである。

 

  福沢諭吉の論理は、人界よりも三悪道の方が正しいとするものであった。これに人びとが賛同した。また、人々が賛同するように朝日新聞などのマスコミが煽ったのだ。この結果、日本は人界の常識を捨て、まず、修羅界に移行した。そして、次に、大日本帝国憲法を中心とする法治主義に移行していった。法治主義とは畜生界の常識そのものである。あとは坂道を転げ落ちるように餓鬼界思考となり、ついには鬼畜米英などと言う地獄界にまで堕ちていったのだ。

 

  常識が下がれば、餓鬼界の国にも勝てなくなる。指導者が地獄界思考で勝てるはずはないのだ。

 

  つまり、日本敗戦の最大の立役者が福沢諭吉であり、補助役が朝日新聞のなどのマスコミなのだ。これは十界論に基づく、わたしJHVHの意見である。わたしは論拠を示し、これを公開している。しかし、慶應義塾の者たちも朝日新聞も誰も反論すらしてこない。まぁ、わたしの意見など封殺すればよいと考えているようだが、わたしの言う通りであれば、彼らは未来永劫の恥をさらす事となる。彼らの思惑が勝てば人類は滅びる事となる。

 

  この世の中には日本と言う国がある。その日本と言う国では敗戦の最大の立役者、つまり、日本を敗戦に導いた福沢諭吉を一万円札にするほどの聖人と崇め、もう一つの立役者である朝日新聞などに対しては『これは正しい』として消費税を減額する始末。こんなことをしていて国が栄えるはずはなかろう。まぁ、誰が立役者なのかと分析してもあまり意味はない。『人々が人界思考よりも三悪道を正しいと勘違いした』ここに最大の過ちがある。そして、未だ、この過ちを認めようともしない。

 

  創価学会の論理を十界論で語れば『世界は正しく日本は間違っている。なぜならば世界は天界を常識としているのに、日本は人界止まりだからである』と言うものである。もっとも、これで法華経と言うのだから溜息をつくしかないのだが、菩薩界に人びとを導けない以上、導く先は声聞界しかない。声聞界に人びとを導くためには六道をしっかり教える必要がある。そのために天界思考が必要となると言われれば、確かにその通りとなる。方便ではあるが、間違いとして切り捨てるほどのものでもない。

 

  何が間違っているのか。世界は天界思考ではないのだ。中国や朝鮮などは、餓鬼界思考しか知らない。彼らには、法治主義と言う畜生界思考すら理解できないのだ。これはロシアも同じである。アメリカは確かに法治主義の国ではある。イギリスもフランスもドイツも法治主義であり畜生界の国である。しかし、国際資本、すなわちディープステイトと呼ばれる者たちの思考にも及ばない。ディープステイトたちはユダヤ人たちであり、ユダヤ思考とは修羅界思考なのだ。だから、簡単に彼らに社会の実権を握られる。ただ、ここまでは西洋哲学の範囲ではある。つまり、今日、教育と称して教えているものも、このユダヤ人の範囲までは理解の内に入っている。ただ、ここまでである。

  六道の内の人界・天界は彼らの理解の内に入らない。これを端的に示す例がある。今日の西洋哲学の第一人者とされる者に、ボン大学のガブリエル教授と言う者がいる。彼には日本社会が理解できなかったのだ。日本は上層部とされる教育界も、行政界も、政界も、司法界も、皆、三悪道である。これに対して、日本社会そのものは人界社会なのだ。これを聖書的に言えば、【大勢のキリストが集まり日本社会をつくった。これを三悪道しか知らないアメリカ帝国が牛耳ろうとした。アメリカは日本に迫害に次ぐ迫害を加えた。そして、一時的には三悪道でキリストの国を支配した。しかし、キリストは真の王であるから、やがてアメリカ帝国をも手中に収めた】と言うことになる。西洋哲学の第一人者ですら、キリストの思考にまでは及ばない。しかし、日本では三歳児ですらキリストの思考を身につけている。これが日本と世界の実情である。

 

  人は先に思考があり、その思考を実際の形とする。この形となったものが現実と呼ばれる社会である。例えば、日本では、幼稚園で人界思考を学ぶ。そして小学校では基本的な読み書きを学ぶ。これが中学、高校となると、西洋哲学が形となった優劣思考・正邪思考を中心とものとなる。高等教育とされるものほど十界論では低レベルのものとなるのだ。大学となるとさらに悲惨である。西洋哲学から生まれた唯物論や唯心論が中心となり、それを教えるというのだから、学ぶよりも遊んでいた方がましというような状態となる。これは西洋哲学を根本とするからである。

  では、西洋哲学とはどのようなものなのか。『人は三悪道にあるのが当たり前であり根本的に犯罪者なのだ。だから、実際の犯罪とならないように教育により規制しなくてはならない。』これが根本的な考え方なのだ。要するに三悪道から逃れる方法を探しているのに見つからないという段階なのだが、日本ではこの程度のものであれば幼稚園で覚える。

  西洋社会は、三悪道から逃れようと、三悪道の内をさまよう。このさまよいが教育と呼ばれるものとなっている。三悪道では、『物事には正邪・優劣があるのは当たり前であり、何を正とし、何を邪と定めるのか』と思考する。これに対して人界では、『他者に迷惑をかけないこれが正、他者のことを思いやらないこれが邪』となる。

 

  今日の教育は、西洋哲学から派生したものを正しいとし、それ以外のものは間違っているとする三悪道思考そのものを教育と称して子供たちに教えているのだ。このため、『人と人の間に優劣がある。物事には正邪がある』と、教育者は三悪道を教える。そして、その教育により、優秀とされる者たち、正しいとされる者たちが国を運営する。彼らは三悪道思考の申し子であり、国家を三悪道思考により運営しようとする。しかし、人々はそんな理論により動いるわけではない。他者を押しのけて自分の利益を得よう、他者を騙して自分の利益を得ようとしているわけではないのだ。

  西洋学問は奪い合うことを前提とした学問であり、理論である。ところが日本社会は分け合うことを前提とした社会なのだ。前提が全く違うのだから、彼らの考える理論で日本社会が運営できるはずはない。これが日本の現状である。

  ただ、それでも他の国よりはましである。他国の思考は三悪道。法で禁止されていなければ奪えばよいという社会なのだ。人々は奪い合う。人々が奪い合うから、それを前提として、物事を思考する。学問体系もそこからできている学問体系なのだ。これを学ぶ意味はあるのか。実は無意味ではない。

  人界では平等が根本にある。根本が平等だから『平等にせよ』とは言わない。しかし、平等が根本にない考え方も存在するということを知らないと、また、福沢諭吉のような者が現れ簡単に洗脳されてしまう。要するに、六道があるということを知るためには、地獄界思考も、餓鬼界思考も、畜生界思考も覚える必要があるのだ。

  三悪道思考をする者は、『不平等だ』『平等にせよ』と語る。平等であると思っている者は不平等だとは考えもしないし語らない。しかし、このように語る者たちも存在することを知らないと、六道を知ることはできないのだ。このため、先に人界思考を教え、のちに三悪道思考を教える事は無意味であるとは言えないのだ。これは、六道の先の声聞に至るためには必要な要素である。

 

  では、なぜ人を声聞に導く必要があるのか。人界に至れば、争いも、犯罪もほとんどなくなる。しかし、人界自体が不安定であり、いつ三悪道に戻るかわからない。これが六道輪廻であり、不安定な状態から脱する、すなわち、六道輪廻をしないためには、最低でも声聞界に導く必要があるからである。

  三悪道に陥れば、平等思考そのものが理解できなくなる。人界思考も不可解なものとなるのだ。不可解なものは邪教であり洗脳であるとして、徹底排除することともつながっていく。このようになるので、三悪道・四悪道思考をする者たちには、二正道(人界・天界)の存在を教え、まず、二正道が四悪道よりも勝るという認識を持たせる必要があるのだ。

 

  では、三悪道しか知らないものたちが二正道を知らずに、優劣思考から声聞に至る、すなわち、悟りに至れるとするとどのようになるのか。これは実例を挙げて語ろう。

 

  地下鉄サリン事件を起こしたオーム真理教と言う教えがある。彼らは、三悪道しか知らないのに、三悪道思考のままで悟りの位置、つまり、声聞や縁覚に至っているとした。彼らは、平等思考、すなわち、人界思考や天界思考の存在そのものを知らなかった。六道を知らずに、声聞や縁覚の位置、すなわち悟りの位置に至ったとすれば、自らを悟りに至った最高識者と言う位置に置くこととなる。これは、自分自身こそが優であり正であるという思考となり、それを認めないのならば世は滅ぼすべきと言う地獄界思考ともなる。彼らはこのようにして地獄界思考に囚われた。これゆえ、地下鉄サリン事件を起こした。結果、彼らは世の害悪とされ、全員が処刑されることとなった。

 

  また、統一教会と呼ばれる宗教団体があった。この宗教団体は朝鮮儒教、すなわち餓鬼界思考を正しいとして、聖書を朝鮮儒教の考え方で解釈しようとした。朝鮮儒教はチュチェ思想とも呼ばれる。【各人には社会における役割の違いがある。自らの役割を認識し、頭の役目を行うべきものは頭の役目を行い、手足の役目を行うべきものは手足の役割を行うようにすべきである】という考え方である。これも典型的な餓鬼界思想である。『頭脳の命じるまま動くことこそが手足の真の姿』と言うことになるからである。脳の役目を行うものは王、手足の役目を行うものは王の奴隷と言う位置となる。彼らは、聖書を使って、餓鬼界思考を正当化しようとしたのだ。どうなったのか。世の害悪とみなされ、名前を変えて逃げまわるしかなくなったのだ。

 

  また、エホバの証人と呼ばれる宗教団体があった。彼らは聖書を『禁止』と『許容』により解釈しようとした。旧約聖書は人びとを三悪道から離し、修羅界に導くための教えである。このため、同じものが、あるところでは禁止され、あるところでは許容されている。これを見る人々は、何が正しいのかと迷う。この迷う事が重要であり、迷う者は、世の物事を『これは正しい、これは間違っている』と、一方的に判別できなくなる。この時の、人の常識が修羅界なのだ。この意味が理解できなかったのがエホバの証人と呼ばれる宗教団体だった。これは、聖書を法治主義の法としようとする働きである。彼らには修羅界思考すら理解できなかった。だから聖書を畜生界思考で解釈しようとしたのだ。畜生界思考は、今の世では法治主義と呼ばれるものである。修羅界思考すらも理解できない彼らには、平等思考は更に不可解で理解不能なものだった。だから、イエス・キリストの言動も理解できなかった。理解できないゆえに、自分たちの理解できる範囲、畜生界思考で聖書を判別しようとしたのだ。

 

  ここに一つ重要な事がある。オーム真理教も、統一教会も、エホバの証人も、三悪道までしか知らなかった。このため、三悪道思考で聖書や仏典を解釈しようとしたのだ。三悪道思考では、物事を正邪や優劣に分類する。しかし、自分を邪とか劣とかに分類することはない。常に、自分たちを正の側、優の側に置こうとするのだ。つまり、聖書であろうが仏典であろうが、自分たちを正とする材料、優とする材料として使うようになる。

 

  この三悪道しか知らない者たちに、声聞と言う位置、縁覚という位置を教えると、『自分たちは声聞だから優れている。自分たちは縁覚だから優れている』としてしまう。正確に言えば、『自分たちは優れている』という思考が先にあり、『仏典により優れているのは声聞だ』と感じれば自分たちは声聞であるとするのだ。『ヤハウェが声聞を優れているとする』から我々は声聞であるとするのだ。

  三悪道は優劣思考・正邪思考である。この考え方しか知らなければ、必然的に、このような考え方となっていく。

 

  このようになってしまうので、最初に三悪道の者たちに最初に平等思考があるという事を認識させ、優劣思考は平等思考よりも劣るという事を教えなくてはならないのだ。平等思考である人界・天界が二正道であり、人の間に優劣を設ける地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界が四悪道であると認識させなくてはならないのだ。

 

  このように、声聞界に導こうとすれば、先に六道には四悪道、二正道があることを教えなくてはならない。その次に声聞界への導きを語らなくてはならない。この先もあるという意味で、菩薩界や仏界への話も少しだけしている。これが小我、大我論である。