明治維新で、日本が封建社会から市民社会に変わった。

その変化は予定されていたものではない。

 

徳川家の分家である水戸徳川家は、本家の繁栄が妬ましく尊王思想を唱えた。

それと反徳川の感情を持つ、薩摩藩士と長州藩士が結びついた。

それが明治維新の原動力であった。

 

しかし途中で、様々な変化があった。

その因果関係を考え、その本質を調べる必要がある。

 

歴史小説では、江戸の無血開城を山場とし、西郷と海舟の会談を両雄の快挙と描く。

しかし西郷は「江戸の会談は、お芝居でごわした」と語っている。

 

「無血開城」は海舟と西郷の間で、以前から話が付いていた、という。

それを知ると、表の動きと裏の本質が理解できる。

 

 

 

江戸開城談判〔結城素明画〕

 

 

 

「明治維新」という言葉は、曖昧である。

この変化は、封建社会を市民社会に変えた大改革であったので「明治改革」という言葉がはっきりする。

 

それはともかく大切なことは、なぜ「維新が成功したか」である。

 

下級武士が大名にかわり、権力を奪うということは、なかなか出来ることではない。

大名や公家勢力は、徳川家と朝廷で政権を取り合い終わりにしようとした。

 

長州の木戸孝允は、市民社会を目的にしていなかった。

また坂本龍馬は大政奉還の後に、大名の連合政府を作ろうと動いたこともあった。

 

このような中途半端な変化ではなく、四民平等な社会作りに引っ張ったのは薩摩藩の西郷と大久保であった。

それには理由があった。

 

史書を見分けるのは難しい。

なぜならば、最初に書かれた本は偽書だからである。

勝ち残った権力者は、敗者を悪く書くのが常である。

 

ところが日本人は性善説である。

権力者が書いた本は権威があると、錯覚している人が多い。

多く売れる本が、正史だと思っている。

 

政治は多数決が正しい。

しかし日本の史書では、多数決は怪しい。

西郷の本は、古い歴史小説家の書いたものには偽書が多かった。

 

偽書というのは、内容の半数近くが史実でないものと、歴史の重要な視点が誤っているものを言う。

小説家は、真偽を確かめずに書くからである。

 

シナの町では、肉屋の店頭にブタの死体がぶら下がっている。

それはグロテスクである。

しかし、そうしないとシナでは肉は売れない。

 

「羊頭をかかげ、狗肉(犬の肉)を売る」の諺がある。

羊頭をかかげても、かかげた物から切って売らなければ、シナ人は買わない。

 

そのようにシナ人は、性悪説である。

その代わり、シナの史書は信用がある。

権力者が死んだ後に、学者が書くからである。

それが「正書」である。

日本の史書には、正書が少ない。

 

明治維新については、大久保政府が学者を集めて書き方を指導した。

出版条例などを作って、真相を書かせなかった。

 

福沢諭吉は大久保が没するのを待って『丁丑(ていちゅう)公論』を書いた。

そのように福沢は、維新について先書を改めて書いた。

 

西郷隆盛を征韓論者と決めつけるのは誤りである。

西郷は韓国へ開国要求使節として行くことを望んだ、と言うのが正しい。

自分は平和的に解決する自信がある、と富村雄に語ったという。

 

多くの参議を味方に付けたいために、征韓論者の板垣に手紙を送り、使節目的失敗の場合の対応を述べただけである。

 

神風連事件などに対して「不平士族の乱」と書くのは正しくない。

「不平士族」と書くと、そのような後ろ向き士族を連想し、内容が誤解されるからである。

 

これらの事件の人々は民権思想を持つ者が多く、反専制政策要求の行動が中心。

とくに大久保政府が言論弾圧を行ったから、過激な反対運動になった。

 

「西南の変」を不平士族の反乱と日本史の教科書で教わったが、今となっては誤りである。

「反乱」という用語は政府側の都合で使った言葉で、歴史家は公平な評価をして用語を決めるのが正しい。

 

実際に、西郷小平は船で大阪方面に行こう、と提案した。

つまり、中央方面への政策変更要求のデモのつもりであった。

 

「西南の変」はデモ行進を、軍隊が弾圧した事件だ。

武器を持っているから悪い、というのも正確ではない。

 

島津久光は政策要求のために、刀を持つ家来を多数連れて京都に行き、さらに江戸まで行った。

それと同じ気持ちだ。

百姓一揆でも、鍬や竹槍の武器を持っているが、それを反乱とは言わない。

 

幕末から明治維新にかけては「暗殺の時代」だ。

井伊大老が桜田門外で討たれたのも暗殺で、池田屋を新撰組が襲ったような暗殺事件の連続であった。

 

集団暗殺だけでなく、個人暗殺も多かった。

桂小五郎も城崎温泉に隠れたことがあった。

坂本龍馬が鹿児島に新婚旅行に行ったのも、幕府の暗殺を逃れるためなのだ。

 

大久保一蔵の人相書きが残っているが、それは幕府側が暗殺のために作った物であった。

西郷の写真嫌いは、写真が人相書きとして使われるのを恐れたからであった。

重要人物ほど暗殺に狙われる。

西郷はしばしば刺殺団に狙われた。

それで維新の期間は剣術に優れた富村雄が、参謀として西郷と同伴していた。

 

維新の後、鹿児島に私学校を建てたころは、大久保や藩主の刺客がしばしば現れた。

それで富村雄は、西郷に同伴を頼まれた。

西郷が田舎の温泉宿に滞在することが多かったのも、その方が安全だったからである。

 

西郷が外出する時は、村雄が前を下男が後ろを、それぞれ犬を引いて歩いた。

犬は怪しい者を、早く見つけるからであった。

上野にある西郷隆盛の銅像は、この時の様子を示している。

このような苦労なしには、維新が成功し平等な社会が訪れることはなかった。

 

 

 

西郷隆盛像〔上野恩賜公園〕

 

 

さぼ

 

 

 

1875年には大久保は、マスコミの「文字の獄」といわれた言論弾圧をはじめた。

讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞条例により、新聞が槍玉にあがった。

 

やられた主なものは、東京暁新聞や東京日々新聞・郵便報知新聞・横浜毎日新聞などであった。

福沢諭吉は「明六雑誌」を廃刊せざるを得なかった。

 

翌年には、新聞記者57人が処罰された。

福沢は大久保を、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)をした秦の始皇帝に例え、スパイ政策で失敗したナポレオン3世に例えた。

 

出版不能の時代〔西南の変のあった丁丑(ていちゅう)年〕の世論を書いた本を、福沢はすぐ出版するのを我慢して24年後の死ぬ前に発行した。

 

なぜなら、福沢は権力者〔大久保〕をはばかり虚説を書くことなく、権力者の影響の失せた時期に真実を書いた。

その本の題名は詳しくは『明治十年丁丑公論・痩(やせ)我慢の説』となっている。

奇妙な題名であるが、貴重な本である。

 

 

 

福沢諭吉の生家〔大分県中津市〕

 

 

 

彼は「天は人の上に、人を作らず」という『民約論』を書いたフランスのルソーの言葉を「と、言えり」を付け加えて紹介したことで、有名になった。

 

正しい全文は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり。」

 

「しかしながら実際には賢い人と愚かな人、貧しい人と富んだ人、身分の高い人と低い人がいて、雲泥の差がついている」という意図の文章が続く。

 

「だからこそ、その不平等な差を埋めるため、生まないために、勉強して自分を磨くことをお勧めする」と説いている。

 

福沢は平等主義者だが、真意は不平等を認め、受け入れている。

 

同じく平等主義者であるので、西郷を弁護している。

『丁丑公論』で福沢は書いている。

 

反西郷論者は、有名無実となった徳川を倒したときには、西郷を第一の忠臣とし、今度同じく有名無実の大久保政府の転覆に失敗したからとて、これを国賊と呼ぶのか・・・

 

『丁丑公論』はさらに書く。

 

政府の人が内政を修むるの急務を論じながら、その内政の景況いかんを察すれば、内務省設立の頃より政務はますます繁多にして、かつて整頓の期あることなく、これに加うるに、地租改正、禄制の変革をもって、士族は益窮し、農民は至極の難渋に陥り、およそ徳川の政府以来、百姓一揆の流行は、とくに近時三、四年を以て最とするほどの次第なれば、遠方の閑居する薩人の耳に入るものは、天下の悪聞のみにして、益々不平ならざるを得ず。

 

西郷の持論にも、今の事物の有様なれば、討幕の戦はひっきょう無益の労にして、今日に至りては、かえって徳川家に対して、申し訳なしとて、常に慚愧(ざんき)の意を表したりと云う・・・

 

 

 

福沢諭吉〔明治15年頃〕

 

 

 

西郷隆盛は征韓論者だ、と学校で習ったが、誤りである。

当時、確かに征韓論者がいたけれども、西郷はそうではなかった。

 

征韓論については、勝海舟が『氷川清話』に書いている。

 

世人は西郷公を征韓論の張本人とし、明治十年の乱の原因が征韓論で意見が対立したのにあるというが、これは未だ西郷公の心を知らないのである。

 

公が征韓論の張本人であるということは、大きな誤認であることを明らかにすれば、これから揣摩(しま)〔手探り〕盲測した臆断か誤謬であることは、刀を下さずとも、おのずから解することができる。

試みに、次の書簡を一読せよ。

これは明治八年十月八日、西郷公が、篠原国幹少将に送ったものである。

 

「〔政府が朝鮮と〕戦争を開きましたことは、誠に遺憾千万です。一度は韓国と談判しなければなりません。ひたすら韓国を軽蔑し、韓国が発砲したからこれに応じて、砲撃したのだといっては、これまでの韓国との交際上、実に天理において恥ずべき行為です・・・」

 

さぼ

 

 

 

西郷は、城山の麓の馬屋跡を利用して、1874年6月に私学校を作った。

 

そこには、600人定員で篠原国幹が監督する銃隊学校ができた。

 

 

 

篠原国幹

 

 

 

また200人定員で村田新八監督の、砲隊学校もあった。

村田はフランスに3年滞在し、欧州兵法を学んだ。

その後、宮内大丞(だいじょう)の要職を務めた逸材であった。

 

 

 

村田新八

 

 

 

1875年2月に、島根県大社町の富村雄の家に、西郷従道が訪れた。

兄の隆盛の使いであった。

隆盛は兄弟の行動には、干渉しなかった。

従道は大久保政府に属していたが、隆盛とは仲が良かった。

 

 

 

西郷従道

 

 

 

「富様が私学校で剣道を教えて欲しか、と兄が強く望んでおり申す」という話であった。

村雄は快諾して、鹿児島に行った。

 

私学校には、綱領が書かれていた。

その中に、次の文句があった。

 

・・・王を尊び、民を憐れむは、学問の本旨、しかれば、この天理を極め、人民の義務に臨みては、一向難に当たり、一同の義を合い立つべき事。

 

以前の士族は、「民」とか「人民」の言葉を、あまり使わなかった。

つまり人民の権利を、あまり考えなかった。

この点が西郷持論の民本主義を表している。

 

「人民の義務・・・一向難に当たり」に、国民皆兵の精神が示されている。

この人間平等主義により、私学校には農民出身者も混じっていた。

 

私学校には、賞典学校が連携していた。

これは、薩摩藩出身者の賞典禄をもとにして、幼年教育を目的としていた。

ここでも村雄は、剣道を指導していた。

 

九州の反政府運動と聞くと、封建的な古い考えのような印象だが、全く逆であった。

私学校では、隆盛の甥の市来(いちき)宗介がアメリカ留学4年目に帰ってきて、アメリカの民主主義と英語を教えていた。

 

賞典学校では、イギリス人コックスとオランダ人スケッフルがいて、西洋の共和制の歴史や新兵器による戦術などを教えていた。

 

 

明治維新のあとに政府高官たちは、昔の大名のように贅沢を始めた。

西郷の言葉が、次のように伝えられている。

 

文明とは、道のあまねく行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を云うには非ず・・・

 

万民の上に位する者、己をつつしみ、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)をいましめ、節倹をつとめ、職事に勤労して人民の標準になり、下民の勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し。

 

しかるに、草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾(びしょう)を抱へ、蓄財を計りなば、維新の功業は遂げられまじくなり。

 

今となりては、戊辰の義戦もひとえに私を営みたる姿になり行き、天下に対し戦死者に対し、面目なきぞとて、しきりに涙を催(もよほ)されける・・・

 

 

私学校を作った真の目的は、大久保専制政権の打倒であった。

大久保と岩倉・木戸の専制主義3巨頭の2人が弱る時を待ち、ヘゲモニーを奪うための準備だ、と西郷が富村雄に語った。

 

私学校を作り、基礎が固まったら、西郷はまた田舎の温泉旅館に泊まりっきりになった。

 

1877年に大警視・川路利良の命を受けて、1月11日に小警視・中原尚雄が鹿児島に来た。

自供により、かれら警察官は政府密偵として西郷と桐野利秋・篠原らを暗殺する役目であったことが判明した。

 

 

 

中原尚雄

 

 

 

密偵の自供書が、熊本博物館に存在する。

それに、西郷隆盛暗殺目的があったことが、書かれている。

 

2月7日までに密偵70人が、暗殺未遂犯として逮捕された。

2月11日には、さらに1人の男・野村綱が自首し、大久保と岩倉の命で西郷暗殺のために帰郷した、と自供した。

 

政府は汽船・赤竜丸を鹿児島に送り、夜にこっそり弾薬を積み出した。

それを見つけた私学校の連中が、怒って1月29日から2月1日までに草牟田と磯の火薬庫と襲い、16万発以上の弾薬を奪った。

 

それを隆盛に知らせようと、末弟の小兵衛(こへえ)が逗留先の小根占(こねじめ)に走った。

それを聞いた隆盛は「チョッ シモタ(えっ 了った)!」と叫んだ。

 

西郷は萩の前原党事件の真似をせぬよう、私学校指導者たちを抑えてきたが、政府の火薬持ち出しの挑発のために、予定外の結果となった。

 

2月6日に私学校の門に「薩軍本営」の門標が付けられ、募兵広告が張り出された。

私学校では幹部たちが集まって、秘密の作戦会議が開かれた。

 

西郷小兵衛は、海路長崎を奇襲し、政府の軍艦を奪い横浜に行く案を出した。

このように「南九州の変」の始めの意図は、反専制政治のデモ行進であった。

しかし長崎まで行く大型船が鹿児島にないため、この案は否決された。

 

次に、桐野が発言した。

かれは「人斬り半次郎」として鳴らした、剛の者であった。

かれは少将として、熊本鎮台司令官を勤めたことがあった。

「堂々と熊本を通り、小倉に向かうべきである」と主張した。

かれが自信満々であったから、その案に決まり、後には薩軍の司令官と見なされるようになった。

 

 

 

桐野利秋

 

 

 

2月7日に西郷は私学校に来て、善後策を相談した。

そして決断した。

自分に協力して来た者たちに、すべてを任せよう、と。

 

明治維新の結末を、西郷は民本主義の方向に向けたかった。

しかし、今は時期が悪い。

失敗するだろう。

自分の仕事は、もはや終わった。

日本は専制政治になる他はあるまい。

それも1つの道かも知れない、と覚悟した。

 

西郷は新政治を求めるデモ行進を、東京にまで続けようと呼びかけた。

このとき西郷小兵衛は、新政要求のスローガン「新政厚徳」と書いた旗印を作ったのであった。

 

 

 

南九州の変と西郷小平(小兵衛)〔旗印〕

 

 

 

西郷はまだ、政府の陸軍大将の資格を保有していた。

大将の資格を示す服装で、出発することに決めた。

 

鹿児島県令・大山綱良は、以前は西郷に対立することがあったが、私学校を作るときには協力した。

今回も県庁の公金を、軍資金に15万円を提供してくれた。

 

「南九州の変」の専制政治変更要求デモ行進を「士族の反乱」と書く本があるが、それは違う。

そう新聞にその言葉を書かせたのは、大久保政府であった。

 

この南九州の変は、専制政治に対する抗議行動であった。

讒謗律(ざんぼうりつ)があったから「適切な表現」が禁止され、新聞は政府寄りの表現しかできなかった。

 

私学校で武器の訓練をしていたので、武器を持った行進になったのは、不幸であった。

戦争をするつもりはなかった。

 

私学校集団に加わった者には、士族以外の民権主義者も多かった。

また鹿児島の参加者を薩隊と呼び、県外の志願兵の集団を党薩隊と呼んだ。

党薩隊は、10,792人が参加した。

熊本県の協同隊400人は、熊本民権党員が中心であった。

大分県の中津隊では、120人が民権党員であった。

 

鹿児島では「西郷どんが、新しい社会を作るそうだ」と言って、農家の次三男が多く参加した。

 

宮崎県では、佐土原隊は、1,313人中の600人は農民出身であった。

都城隊1,580人中430人は農兵であった。

延岡隊1,396人中840人は農兵であった。

 

この実例のように「専制政治変更要求デモ」の参加者は民権運動家が多かった。〔学習研究社『西南戦争』参照〕

 

1877年2月14日に鹿児島市伊敷練兵場で、決起大会が行われた。

ラッパの音を合図に、西郷が騎馬で人々の前に現れた。

 

西郷は、陸軍大将の正装であった。

その勇姿に観客からも、思わず「オゥー」と歓声が上がった。

紺色の軍服に金ボタンが光っていた。

両肩に飾りがあり、頭上に豪華なナポレオン三角帽子があった。

 

 

 

西郷隆盛〔日本文教出版〕

 

 

 

行進の説明が終わると、別府晋介率いる先遣隊が、大口経由で熊本に向かい行進を開始した。

加治木で、大勢が加わった。

 

翌15日に、西郷は熊本鎮台司令長官・谷干城(かんじょう)少将宛てに由緒状を書き、県令・大山に依頼して、使者に届けさせた。

 

拙者・・・政府に〔密偵派遣につき〕尋問の廉(かど)これあり・・・陸軍少将桐野利秋、篠原国幹、及び旧兵隊の者随行・・・其(そ)の台下通行の節は、兵隊整列指揮を授けらるべく・・・

 

陸軍大将 西郷隆盛

 

西郷は、現職の大将であった。

少将である鎮台司令官は、上官の命令に従うと、西郷は思っていた。

 

鎮台兵は4,000人であった。

鹿児島側には、途中参加者を含め15,000人集まる予測ができていた。

この薩隊15,000の人数を書けば、良かったかも知れない。

 

しかし兵数の優勢が、由緒状の高慢になった。

それが谷干城の反感を高めた、とも考えられる。

 

後発隊は、川内経由で行進した。

最後に、西郷の本営大隊は、大口に向かって出発した。

富村雄は、西郷の護衛として参加した。

役に立ちたい気持ちでいる西郷家のイヌも、西郷に付いて行った。

 

専制政治をなくすため、スローガンは「徳の厚い新政」を要求していた。

鹿児島では楽観していた。

家族もデモ行進隊を激励して、途中まで付いて行った。

 

 

 

南九州の変

 

 

 

先遣隊が20日に、熊本城の南方・川尻に着いた。

その日、熊本城天守閣が突然、炎上した。

新政要求に同感の者が、放火したらしい。

 

天守閣には兵糧500石と薪が蓄えられていたが、焼失した。

これは、かえって薩軍には不運であった。

 

薩軍は熊本城を無視して、小倉方向へ行進する予定であった。

ところが、熊本城の火災を見た薩摩人たちは「熊本城を落とせ」と叫び出した。

逃げるネズミを見ると、ネコが追いかけたくなる心理であった。

 

後続の薩摩隊も、続々と到着した。

その日の夜、鎮台側の隈岡大尉と小島大尉の率いる2個中隊が薩摩側に奇襲を掛けた。

 

これはデモ隊に、発砲をうながすような作用があった。

鎮台兵はそのあと、熊本城に逃げ帰った。

「小癪な鎮台兵め!」

 

薩摩側のすべてが、熊本城に仕返ししたい気持ちを、抑えられなくなった。

西郷は「チョッ シモタ。早く通り過ぎる予定ごわしたが・・・」と、村雄に言った。

 

案の定、薩摩の各集団は、熊本城を取り囲む作戦を採用した。

西郷はあきらめて、もはや何も言わなくなった。

熊本城攻撃で、2か月が無駄になった。

 

2月22日に、政府軍・約5,600人が博多に上陸し、熊本に向かった。

薩摩側も熊本城から、西北10キロの田原坂方面に向かった。

 

双方は3月に田原坂で激突した。

官軍700兵に対し、薩摩側1,800人であった。

菊池川の対戦は薩摩側2,800に対し、官兵2,800人であった。

 

薩摩川は後退し、再び田原坂で対戦した。

人数に勝る政府軍に、薩摩側は破れた。

これが、興廃の分かれ目であった。

田原坂方面で、官軍は2,401人死んだ。

薩摩側も加えると、総数5,000人前後死んだ。

 

 

 

西南戦争当時の田原坂〔田原坂西南戦争資料館〕

 

 

 

「鹿児島へ、帰り申そう」西郷が言った。

 

村雄がうなずいた。

反政府集団は5月に南方の人吉に逃れた。

鹿児島に帰るつもりであったが、熊本隊2,500の生き残りと協同隊も付いて来た。

 

そこで人吉隊が500人参加して来た。

ここでは政府に反省を求める反政府側の人数が増加したのだ。

「どげんし申そう」西郷が言った。

 

「宮崎まで行ってみましょう」村雄は答えた。

さらに政府軍の攻撃を受け、薩摩側は小林を通り6月に宮崎に移動した。

 

その北方の佐土原で、西郷は「西郷札」と呼ばれる、藩札のような紙幣を発行し食費にあてた。

西郷札には、拾圓札や五圓札がある。

 

壱圓札は富商に配布されて、6万円の軍資金が調達された。

これは事実上、寄付金であった。

西郷札の裏には「通用三ヶ年限」の字がある。

西郷は3年後に、返済する気であった。

 

 

 

西郷札

 

 

 

反政府集団は乗船して大阪か京都に行き、デモ行進をしたいと考え、宮崎県の海岸を8月に北上した。

 

しかし、細島を通るとき、政府の軍艦が海上を封鎖しているのを確認した。

海上を進むことが出来ないことが、ハッキリ分かった。

 

8月14日に延岡で、薩摩集団の本部が艦砲射撃を受け、北方の俵野に本部を移した。

15日に官軍の総攻撃を受け、大敗北となった。

 

もはや、これまでと、悟った。

西郷は16日に、全集団に解放令を出した。

まず途中参加の志願行進隊〔党薩隊〕が、官軍に降伏して行った。

人吉隊を始めとし、都城隊・佐土原隊・高鍋隊・延岡隊・中津隊と続いた。

 

この「南九州の変」は、後ろ向きの士族の乱とは違うものであった。

新しい社会を理想としていた。

 

「西南戦争」の言葉は、おかしい。

日本西南部とは、四国を含む中国地方と九州を示す言葉である。

 

この曖昧な言葉には、南九州の変に、萩事件と秋月党事件を重ねて、同じ性質の事件に見せ掛けたい意図が働いている。

 

南九州抗議行進隊解散の最後に傷病兵が、官軍に下った。

残るは、西郷直属の私学校党600人だけとなった。

今や全滅寸前であった。

 

残った富村雄に、西郷が言った。

「もう、おいどんは何もできもはん。富さんは逃げて、おいどんの代わりに、第2の維新をやってくいやい。頼みもんで」

 

真剣な、顔つきであった。

村雄は2人の薩兵に囲まれて、安全な道を探し、西郷と別かれて進んだ。

三方、官軍に囲まれた西郷軍の逃げ場は、急傾斜の可愛岳しかなかった。

西郷たちは、断崖をよじ登った。

 

その頂上は、見晴らしが良かった。

官軍の少ない所が見分けられた。

そこを私学校勢は、夜に紛れて通った。

祝子川を逆上り、高千穂へ向かった。

 

米良の山道を通り、霧島山の麓を巡った。

鹿児島に着いたのは9月初めであった。

城山に隠った西郷軍に対する官軍の包囲網は、どんどん縮まった。

9月24日、官軍総員突撃の、合図が聞こえた。

 

残った薩兵が丘を下り始めると、次々に銃弾に倒れた。

西郷も銃弾を2発受けた。

「もう良かろう。晋どん、切ってくいやい」

 

西郷の首から、血吹きが飛んだ。

行年48才であった。

この事件は、地元では「南九州の変」と呼ばれた。

 

これは戦争のつもりではなく、抗議行進として始められたが、政府軍により戦争に、仕向けられたものであった。

 

 

 

薩軍の主な進路〔南日本新聞〕

 

 

 

西郷の死の8か月後、ビスマルクを目指した大久保利通が、東京の紀尾井坂で、石川県人・島田一郎により暗殺された。

 

富村雄は故郷の島根県に帰り、出雲大社の仕事に戻った。

しかし、西郷の言葉が忘れられなかった。

 

「おいどんの代わりに、第2の維新を頼む」というのは、村雄を戦線離脱させるための言葉だったのか、それとも実際にやって欲しかったのか、考えあぐんだ。

 

その挙げ句2年後に、村雄は家族に内緒で家から消えた。

宮崎県妻(つま)地区〔西都市〕の赤池に住み、家塾を開き剣道を教える身となった。

 

そこから南九州の変に参加した人々の家を訪れ、民権運動に誘った。

少しは集まったが、もはや「第2の維新」を実行できそうもなかった。

〔南九州の変を含めて〕明治維新戦争で、死んだ戦友に対し、自責の念を感じたのか、1887年11月に、村雄は割腹自殺した。

 

富村雄は、古代出雲王の末裔である。

これは先祖の因縁か、その王国を亡ぼしたヤマタイ国があった妻国〔投馬国と魏書は書く〕に行って死んだ。

右差し  旧出雲王家の名残り

 

 

さぼ

 

明治9年〔1876〕10月28日には、山口県萩で「前原党政策要求挙兵」が起きた。

前原一誠は吉田松陰の門人で、政府の参議を勤めたこともあり、前兵部大輔(たいふ)〔陸軍大臣〕であった。

 

前原党は前原を党首とし、奥平謙輔を参謀格としていた。

前原党では、大久保政府の政策6項目の変更を、主張する人たちが集まっていた。

 

 

 

前原一誠

 

 

 

項目の1つは、地租改正の内容への反対であった。

5月には和歌山で、地租改正に反対する農民一揆が起きていた。

 

次に千島・樺太交換条約に反対した。

これは得失が同じではない。

樺太を与えたと、同然であると、主張した。

 

豪商と結託し〔山代屋事件〕私利を貪っている。

名は大臣〔陸軍大臣・山縣有朋の汚職〕というも国賊ならんや、と。

 

彼らは「政府の国内に対する横暴〔表現の自由の弾圧〕と外に対する軟弱〔今のままの朝鮮対策では、ロシアの朝鮮併合を招くと警告〕」を告発した。

 

前原党は殉国軍として挙兵し、山口県令・関口隆吉を捕虜にし、広島鎮台の山口分営を討ち払うことを決めた。

そして佐賀事件の残党や肥後の神風連・筑紫の秋月党と連絡をとり、連合して行動を起こそうと準備していた。

 

秋月党挙兵の報告を受けて、次の日〔28日〕に前原党は挙兵した。

萩の金谷天神に集結していた官軍は、400人の前原党に攻められて、山口に向かって逃走した。

 

山口県令・関口隆吉と、彼が前原党に送り込んだスパイを捕らえる予定であったが、前原党は取り逃がした。

しかし官軍が敗れたので、前原たちは意気揚々と明倫館に入った。

 

 

 

明倫館の跡地に建つ萩市立明倫小学校

 

 

 

29日には広島鎮台から、歩兵大隊が来ることになった。

30日には大軍に包囲された。

その上、明倫館は日本海の軍艦からの艦砲射撃の砲弾を浴びせられ戦死者が増えた。

 

前原党の残兵は弾薬も尽きて、市街地の民家に逃げ隠れた。

前原たち幹部は東京に行き、政治家たちに悪徳政策の停止を訴えようと考えた。

 

前原2兄弟と奥平たち7人が、宵闇に紛れて船で東に逃れた。

彼らは島根県の宇竜港を目指した。

 

そこには、討幕戦を共に戦った知り合いがいた。

富村雄である。

彼は大社町の取締役〔町長〕であった。

『大社町総合年表』には、次のように書かれている。

 

前原一誠らは、出雲に逃れ、11月4日、宇竜港に入ったが、山陰の同士、とくに富村雄を頼って来たものである。

夜に萩の同士が上陸し、富家に入った。

 

彼らは、広い富家の屋敷に隠れた。

村雄は疲れ果てた戦友の一行を、酒食でもてなした。

まだ戦う気持ちでいる戦友に、勝ち目がないことを諭し、松江県庁に自首することを勧めた。

 

蜂起か降伏かを相談した結果、天下の形勢、我に利あらずと判断して、前原一成の先祖の発祥の地である出雲に於いて賜死(しし)することを条件として、富家に2日間滞在した後、11月6日、装束を整え、富村雄の先導により松江県庁に、降伏を申し出たものである。

 

 

 

前原一誠上陸地付近〔島根県宇竜〕

 

 

 

富家には駕篭(かご)があったから、前原一誠を尊重して「立派な駕篭」に乗せて送ることを伝えた。

 

他の者は歩いて行くが、彼らが沿道の人から罪人と見られることが、村雄は心苦しかった。

それで朝早く人が起きていない時に、出発させた。

 

これが富家に聞き伝えられている正確な事情であった。

 

杵築分署の警察は気づいていなかったが、松江からの連絡で驚き、宇竜港で全員を逮捕した、との報告書を作成した、という。

 

 

 

宇竜港で捕縛される前原一誠〔警察の報告書に基づく錦絵〕

 

 

 

後世の郷土史家は、この記録を正確な資料と考えて、本を書いている。

さらに宇竜港の旅館は前原が自分の旅館に泊まったと、もっともらしい話を付け加えた。

 

「立派な駕篭」というのは「富家の当主」が使う駕篭であった。

富家は出雲大社の、筆頭上官であった。〔『出雲と蘇我王国』参照〕

 

大社に勤務するときは駕篭に乗り、雇い人〔下男〕2人が前後で担いで、家と社殿の間を往復した。

 

実は、この2人を雇う人件費は、かなり出費を要した。

それで2人の下男は、炊事や掃除・洗濯・買い物・庭の手入れしか、しなかった。

娘がその影響で、花嫁修業をしないで、売れ残ることがあった。

 

売れ残り娘は下男に与えて、5段ほどの農地を持参金として渡した、という。

そのような事情で、富家は財産が増えなかった。

 

前原家の発祥地である出雲で賜死する、という前原一誠の希望は叶わず、山口に送られ斬首の刑を受けた。

奥平謙輔も同じ刑となった。

 

 

11月末に萩で起きた「前原党の挙兵」で、地租改正も非難されたが、12月には高い地租に反対し、竹槍や鎌を持った農民一揆が、茨城や三重・愛知・岐阜などの諸県で起きた。

 

明治5年に土地売買が自由化され、地租改正局が地主所有田の広さを測り地価が決められ、それが書かれた地券が地主に渡された。

4年前の地租改正では、地価の3%の金額が地租と決められていた。

 

 

 

地券〔地価地租記入〕

 

 

 

農民一揆が全国的な暴動になることを恐れた政府は、1877年1月4日に、地租を地価の2.5%〔2分5厘〕に軽減した。

 

それは以前の地租より、0.5%の引き下げであった。

次の川柳が作られた。

 

竹槍で ドンと突き出す 2分5厘

 

さぼ

 

1875年6月に専制政府は、民権運動をおさえ、朝鮮に開国のために軍事力を使うために、讒謗(ざんぼう)律と新聞紙条例を公布した。

 

讒謗律は事実の有無は考えず、人の名誉を害する図書の販売や文書の展示を「問答無用」で処罰する法律である。

 

これは身分の高い人に対する罰が、より重く決められた。

高い身分は、天皇の次は官吏であった。

これで政府批判を、完全に封じ得る時代になった。

政府はどんな悪い行政でも、出来ることになった。

 

新聞紙条例により、讒謗律違犯の記事があれば、社主と編集者が処罰されることになった。

この範囲は裁判記事にもおよび、結果的に裁判も規制された。

 

これらの法令により、表現の自由は完全になくなった。

これで国民は「見ざる、聞かざる、言わざる」の、江戸時代と同じ情況に閉じ込められた。

これら法令の準備のあと、江華島(こうかとう)事件を起こし、政府は朝鮮貿易を成功させた。

 

しかし西郷の使節による平和的朝鮮開国に反対した政府が、武力で朝鮮を開国したことに、矛盾を感じる人々が多かった。

また西郷政治時代の集議院を懐かしむ民権主義者が多くなった。

それで各地で民権運動が激化した。

 

熊本県に、敬神党という宗教団体があった。

その幹部は、神社の宮司や祢宜(ねぎ)たちであった。

かれらは神国主義者で、排外思想の持ち主であった。

 

新開皇大神宮の宮司・太田黒伴雄(ともお)がその首領で、かれらは皇大神宮に集まって対外問題を論じあっていた。

 

 

 

太田黒伴雄

 

 

 

かれらを刺激したのは、ロシア問題であった。

1854年に日露和親条約が結ばれた。

千島はエトロフ島とウルップ島の間が国境となった。

樺太は、両国雑居と決められた。

 

1875年頃、樺太でロシア人の横暴による事件が相次いだ。

黒田清隆長官は、ロシア領の北千島と樺太の雑居地を交換する案を考えた。

 

榎本武揚が大使となってロシアと交渉し、5月に交換条約に調印した。

これに対し、樺太が良い場所だと訴え、敬神党員が屈辱外交だと憤慨した。

かれらは戦争に訴えて、樺太を取り返すべきだ、と主張した。

 

「安永と弘安の役のように、神風がロシア軍を吹き飛ばす。神国日本は必ず勝利が得られる」と。

その論により、敬神党は「神風連」と呼ばれるようになった。

 

陸軍卿・山縣有朋が、旧友・山城屋和助に官金を融通し、国庫に莫大な損失を及ぼした。

大蔵大輔(たいふ)在職中、井上馨が尾去沢(おさりざわ)銅山を横領した。

 

それに岩崎弥太郎の船舶払い下げ事件などを隠すために、真面目な西郷を政府から追い出した、と大久保政府を非難した。

 

これらの活動は県内だけで、影響が少なかった。

なぜなら讒謗律や新聞紙条例により、広く日本中に訴えることができなかった。

 

国民議会があり、選挙戦での訴えがあれば、かれらの不満はある程度解消されたかもしれない。

しかし大久保警察政府のやり方では、平和なデモ行進はすぐ逮捕されてしまう。

 

そのような状態の中では、神風連の行動は過激なものとなる。

1876年10月24日の夜、太田黒伴雄ら170人の党員が、熊本鎮台幹部や県令の暗殺を目的にして挙兵した。

 

鎮台司令長官・種田の屋敷を襲った第1隊は、長官・種田の首を切り落とした。

第2隊は参謀長・高島を斬った。

 

熊本城の鎮台営舎は火をつけられ、多くの営兵が焼け死んだ。

神風連党員も123人が、主に銃弾を受けて死んだ。

 

 

 

神風連事件〔神風連の乱〕の錦絵

 

 

 

「神風連事件」の影響をうけて、福岡県で「秋月党事件」が起きた。

その首領は、今村百八郎であった。

秋月町の天満社に秋月党急進派が160人ほど集まった。

今村は演説した。

 

「・・・このように(山城屋事件や払い下げ事件を起こし)腐敗している政府高官は、10年前には幕府の非を鳴らし討幕した人々ではないか。一朝政権をにぎれば、腐敗に安住するも余儀なしと言うのか。断じて否! われわれは、これを傍観するに忍びない。君側の悪漢を追放するべく、奮起せざるを得ない。機いよいよ熟した。ただちに剣を執って立て!」

 

一同が武装をととのえて再び集まったときは、22人になった。

一方、秋月党穏健派は、今村の兄・宮崎車之助らと神風連に関係のある者も混じり60人が、辻の秋月学校に集結した。

 

神風連事件と同じ10月の27日に「報国」と大書した旗印を先頭に、秋月党は小倉鎮台を目指して出陣した。

 

 

 

秋月党事件〔秋月の乱〕

 

 

 

周防灘にある豊津の町にも、秋月党員が数人いた。

豊津の者たちが多く参加する、と杉生らが伝えた。

秋月党の軍勢は、豊津を通って小倉に進むことになった。

 

豊津に秋月党の一行が着くと、杉生らの話は罠で、連絡を受けた鎮台兵の集団と元小笠原藩兵に囲まれた。

襲われた秋月党は、総退却した。

20数人死んだ後に、宮崎車之助たち7人は自刃し果てた。

 

今村百八郎は逃げ延びたが、逮捕され斬首刑が宣告された。

江藤が作った刑法で、斬首刑は禁じられている、との主張は無視され、今村は斬首された。

 

これらの事件を乱と呼ばないのは、事件の発起人には「義」があるからだ。

四十七士の討ち入りを乱と言わないように「神風連事件」・「秋月党事件」が妥当である。

 

さぼ

 

大久保政府は士族の不満の目を海外にそらすために、台湾征討を閣議決定した。

原因は3年前に逆上る。

 

1871年2月、宮古島島民遭難事件が起きた。

日清修好条規の結ばれた年、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説もあり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。

政府は清国に抗議し賠償を求めたが、清国は無視し続けた。

 

 

 

那覇波の上の護国寺にある「臺灣遭害者之墓」〔台湾南部〕

 

 

 

陸軍中将・西郷従道(つぐみち)が、指揮官に任命された。

従道は1874年5月18日に、艦隊を率いて長崎を出航した。

 

従道軍は20日間で、台湾側を屈服させた。

10月になって清国との間で、台湾問題は解決された。

旧藩主の父君、島津久光は、大久保政権から左大臣として東京に招かれた。

 

 

 

西郷従道

 

 

 

5月には、日本海軍が釜山に入港し、湾内で軍事演習を行なった。

9月に岩崎弥太郎の三菱汽船会社へ、政府の13隻の汽船が無料で払い下げられた。

同じ月に、江華島(こうかとう)事件が起きた。

日本の軍艦・雲揚号が韓国の京畿湾内で測量を始めた。

韓国砲台が警告し、発砲した。

 

日本軍艦は直ちに応戦し、艦砲射撃で沿岸の砲台を破壊した。

その後、湾内の江華島に上陸し、永宗城を占領した。

 

 

 

江華島事件〔永宗城を攻撃する雲揚号の兵士ら(想像図)〕

 

 

 

その報を聞き、西郷は政府を非難した。

通告なしで測量するなら砲撃を受けるのは自然で、それに応戦するのは、理に合わない、と語った。

この事件を受けて、左大臣・島津久光と参議・板垣は、政府を非難し辞任した。

 

江華島事件の6ヶ月後に、日鮮修好条規ができた。

その6ヶ月後に、貿易規則ができて、日朝貿易が始まった。

 

さぼ

 

1873年8月の閣議で、西郷の朝鮮派遣が決定された。

西郷派の板垣退助は、武力で韓国を開国させる政策を唱えていた。

西郷はまず自分が使節として韓国に行き、開国を説得することを主張した。

 

それが不成功の場合には、ペリーが日本で行ったように、軍艦の武力で脅して開国させれば良い、と説明した。

西郷の朝鮮派遣は、天皇の裁可があれば、すぐ実行される手順になった。

 

9月に岩倉具視が帰国して、大久保が参議に復帰する前に既成事実を作り、ヘゲモニーをにぎり続けようと、西郷は試みた。

 

太政大臣の三条実美が都落ちし、太宰府で困っていた時に、西郷が助けたことがあった。

その恩を売り、革新派の江藤新平と後藤象二郎を、4月に参議に就任することを、三条に認めさせた。

 

遅れて帰国した岩倉や木戸・伊藤も、専制政治主義者になっていた。

専制派の大久保と革新派の副島(そえじま)種臣が、10月に参議に追加された。

 

 

 

副島種臣

 

 

 

大久保は何かの手段で、西郷を政府から追い出すことを狙った。

そして韓国への使節派遣の件を、反対の材料にしようと考えた。

「使節派遣は韓国が嫌い戦争になるから、時期早々だ」と強硬に主張し、西郷使節案に大久保は反対した。

 

使節派遣は2か月前に閣議決定済みだから、天皇の裁可を早く得るよう、西郷は三条太政大臣に求めた。

 

三条は両派の板挟みに悩んで、ノイローゼになり病床に伏した。

そのとき右大臣・岩倉が、三条の代理を勤めることになった。

 

岩倉は朝鮮遣使の無期延期を、天皇に奏議し決定された。

西郷たち革新派は、その決定の仕方が不明瞭であると、やり直しを主張した。

 

 

 

征韓議論図〔中央に西郷隆盛と岩倉具視〕

 

 

 

しかし一向に、変更はされなかった。

10月24日、西郷は怒って、ついに参議を辞任し野に下った。

 

翌日に、副島と後藤・板垣・江藤新平が下野した。

江藤は佐賀藩出身で司法卿を勤め、司法制度を整備した有能者であった。

これらの政府の激変は、元号年数により、「明治6年の政変」と呼ばれた。

 

西郷隆盛は政変のとき、参議の資格を返上したけれども、陸軍大将の資格は返上しなかった。

だから野に下っても、依然として陸軍大将であった。

 

 

明治6年の政変で政府を追われた参議の板垣と後藤・副島は、1874年1月12日に、「自由民権運動」の愛国公党を組織した。

 

17日には民選議院設立建白書を、左院に提出した。

西郷政治の集議院が廃止されたので、民権主義者中心の議院を造ろうという運動であった。

 

 

西郷たち革新派参議が下野した半月あとに、内務省が設置され、長官の内務卿に大久保が就任した。

新しい省には、地方行政に関する仕事がすべて集められた。

 

司法省から警察権が移され、治安維持を一元的に掌握し、新政策への不満士族や不満平民を取り締まる体制が作られた。

 

首都圏を管轄する警視庁が設けられ、薩摩出身の川路利良(としよし)が大警視長官に任命された。

彼は主に薩摩の氏族を集めて、警察権を掌握した。

それは大久保の私兵だと評された。

 

 

 

川路利良〔警視長官〕

 

 

 

警察権を始め出版権を司り、言論統制始めた大久保の内務行政体制は、ファッショ的性格だと批評された。

 

大久保は大蔵省から、戸籍や郵便・土木・勧業を内務省に移し、殖産興業を推進し、強兵のための富国政策を行なった。

多くの権限を集めた内務卿は、実質総理大臣のような振る舞いになった。

 

大久保は、西洋風の大邸宅を建てた。

その邸宅から、毎日儀式風の身なりをして、省庁に通勤した。

西園寺公望は、次のように語った。

 

大久保は40人もの私用の使用人を使い始めた。

大久保内務卿はまるで天皇のごとく、その馬車の乗り降りには、伊藤博文と大隈重信に車のドアの開閉と丁寧な敬礼をさせた。

 

これはプロシャで見た皇帝の様子を、真似たものだと言う。

岩倉右大臣も同じ様子であった。

 

国内で真面目に仕事を果たした西郷たちを追い払い、2年以上欧米で遊んでいた者が威張っている様を、不快に思う人が多かった。

 

1874年1月14日夜、帰宅する岩倉の馬車を暴漢が襲った。

赤坂の堀端であった。

岩倉は反対側の扉を開けて、飛び降りたら堀に落ちた。

馬車はそのまま走り過ぎた。

 

暴漢は板垣を敬う9人の高知県民権集団であったが、岩倉を見送った。

岩倉は後で堀から這い上がり、一命を取り留めた。

これは「赤坂遭難未遂事件」と呼ばれた。

 

佐賀には、前秋田県令・島義男を首領とする憂国党などの民権集団があった。

維新戦争に参加した元志士たちは「専制政治のために、維新戦争に参加したのではない」と怒った。

 

彼らは沖縄漁師殺害事件を放置していることや、朝鮮問題の解決を主張し、大久保の専制政治を非難していたが、2月4日に県庁を襲った。

これを「佐賀憂国党事件」と云う。

 

大久保内務卿は、江藤の追悼令を早くも5日に出した。

12日まで長崎にいた江藤新平は13日に佐賀に来ると、専制政治抗議活動が始まっていた。

この運動は2月の末に、熊本鎮台兵により鎮圧された。

 

 

 

江藤捕縛を報じた東京日日新聞の記事

 

 

 

これは大久保政府が仕組んだ、江藤を捕らえる罠だと言われた。

土佐に行った江藤が逮捕され、佐賀に連れ戻された。

裁判官は江藤に、死刑を判決した。

そして即日斬首され、佐賀城の近くに晒し首となった。

 

江藤は司法省の長官を務め、復讐禁止令を公布して「仇討ち」を禁止するなど、司法の近代化を行なった功労者であった。

江藤は証拠不十分であるのに、極刑となった。

 

斬首刑も晒し首も、刑法違反であった。

江藤が築いた司法の近代化の「逆戻り」の裁判・刑罰方法に、江藤が遇わされる結果となった。

 

 

 

江藤新平

 

 

 

「佐賀憂国党事件」のあと、大久保と木戸は1875年2月に大阪にいた板垣と会談した。

岩倉の「赤坂遭難未遂事件」の再発を、恐れたのであろう。

 

妥協策を提示して板垣を政府に取り込み、板垣は参議に復帰した。

これは板垣を、自由民権の結社から切り離し、自由民権運動を不振に導く狙いがあった。

 

さぼ

 

1873年には、海外視察団が帰国する頃であった。

筆頭参議・西郷は視察団が帰国すると、西郷政府のヘゲモニーが奪われるのを恐れた。

 

なぜなら有力者の数は、西郷派が西郷と板垣の2人で、保守派が三条と岩倉・木戸・大隈重信の4人であった。

 

西郷は、西郷派に新しく3人の参議を任命することを、三条太政大臣に求めた。

三条は3月に、参議・木戸と大蔵卿・大久保に召喚命令を出した。

 

1873年3月15日に海外日本視察団を、ビスマルクが宴会に招待した。

その席で、ビスマルクがスピーチを行った。

 

彼はドイツ内の小国プロシャの指導者であったが、ドイツ諸国を統一しドイツ帝国の初代首相になった。

彼は演説した、「現在の政治は言論ではなく、鉄と血によって決せられる」と。

それで、鉄血首相と呼ばれた。

彼は首相の職を20年間つとめた。

 

 

 

ビスマルク像

 

 

 

海外視察団はビスマルクの演説に、もっとも感銘を受けた。

日本が最近、各大名領を統一して日本帝国を創ったのと、ドイツ帝国は似ている。

ドイツは、今はまだヨーロッパの後進国である。

 

後進国が列強国に肩を並べるためには、富国強兵の専制政治をやる他はない。

私は国民に鉄血首相、と言われている。

しかし、この方法で発展しないと、列国に負ける。

 

すなわち早く軍備を強化し、強国になる。

産業改革を進め、経済強国になる。

これ以外に、一流国になる道はない、という意見であった。

 

伊藤博文が後に大日本帝国憲法を作るとき、ドイツ帝国の憲法を真似るきっかけは、このビスマルクのスピーチであった。

 

 

 

伊藤博文

 

 

 

視察団に、ビスマルクは言った。

不平等条約は話し合いでは、解決しない。

先に強国になることが必要だ。

万国公法〔国際法〕は、国家間のバランスによる。

強国になれば、すぐ不平等条約は改正できる、と。

 

大蔵卿・大久保は、とくにビスマルクの話に感銘を受けた。

日本を富国強兵にするために、殖産興業を進めたいとの気持ちが強くなり、大久保は急いで帰国して、準備を始めた。

 

 

 

大久保利通

 

 

 

大久保は岩倉より、4か月も早く帰国した。

しかし西郷政府には、近づかなかった。

こっそりと大隈参議に会って、西郷政府の内情を探っていた。

 

大久保は9月に島根県大社町まで来て、出雲大社の上官・富村雄と会った。

大久保は富に「遣欧米使節団の条約交渉は、失敗でごわした」と言った。

 

「しかし、ビスマルクに教えられ申した」

 

ドイツのビスマルクに会って、考えが変わった、と言う。

これからは「我、目指すビスマルク」をモットーにすると言い、紙に書いた。

 

西郷は「敬天愛人」をモットーにしていた。

それは藤田東湖から聞いた水戸学の「尊王敬幕」を変えたものであった。

「敬幕」の幕は、幕府の徳川本家を意味していた。

 

 

 

藤田東湖と西郷吉之助

 

 

 

それは「敬」よりも、「尊」に重点があった。

「敬天愛人」の「愛人」は民本主義だ、と西郷は語った。

その「敬天愛人」を、富と大久保も同じく実行しよう、と約束していた。

 

しかし、考えを改める、と大久保は言った。

今は「愛君憂国」の気持ちだ、としゃべった。

愛国のために「専制君主」を理想とする、と言い切った。

「実際政治では、どう違うのか」と富は尋ねた。

「人民を甘やかしては、ならぬ。重税政策で軍備を強化せにゃ、ならぬ」と答えた。

 

そして「以前の敬天愛人の契約を、破棄したい。これからは西郷政治は許さない」と言った。

これは西郷との戦いになる、と村雄は感じた。

 

大久保はモットーを2つ紙に書いて、富に渡して帰った。

その話を、富は西郷に手紙で伝えた。

西郷からの返事には、次のように書いてあった。

 

重税は悪策でごわす。

貿易で国富を増すのが、良策でごわす。

まず韓国貿易の実現のために、韓国を完全開国させもす。

敬天愛人は、変えもはん。

大久保にヘゲモニーは、渡しもはん

 

西郷はヘゲモニーの言葉を、よく使った。

両雄の真剣勝負が、始まる予感がした。

二人は自己の利益目的ではなく、理想の違う男同士の対決勝負であった。

 

さぼ

 

 

廃藩置県のあとに、大久保は島津久光に呼び出され、叱られた。

大久保は参議を辞任し、外遊中も無資格であった。

 

右大臣・岩倉具視は版籍奉還を中心的に推進していたが、廃藩置県の勅令が出たら、欧米を巡る外遊の計画を始め、条約改正交渉を名目にして、急いで海外使節団と称して出発した。

 

木戸と大久保は廃藩励行中に、きっと難事件が起きることを予測していたので、洋行して逃避した、というのが世評であった。

 

1871年10月に、欧米親善使節団が出かけたが、重臣として木戸と大久保と伊藤博文が同行した。

 

その使節団は、不平等条約改正の交渉を目的とした。

しかし、最高権力者からの外交委任状を持参しなかった。

それで最初の国・アメリカ政府から、交渉相手にされなかった。

 

そしてアメリカ政府に対して、不平等条約改正交渉の中止を通告した。

以後は交渉使節ではなく、実質的に視察団となった。

 

 

 

岩倉使節団〔左から木戸、山口、岩倉、伊藤、大久保〕

 

 

 

随員を含めると海外視察団は、総勢140人を越えた。

税金の無駄遣いだ、との批判があった。

新政府が新時代に必要な改革を行うべき重要な時期に、なぜ外遊するのか国民に不思議がられた。

 

外遊予定は10ヶ月であったが、実際は1年10ヶ月になった。

岩倉は西郷政府に対し、帰国するまで大きな政策を行わぬよう約束させた。

 

ということは、1年10ヶ月間、政府がストップすることを意味する。

これは国民の利益無視ではないのか。

 

次のような狂歌が流行した。

 

逃げの小五郎〔木戸〕 日の本の

政治を厭〔伊藤〕い 何と岩倉〔言わく等〕

 

廃藩置県のあと案の定、留守の責任者・参議西郷がひとりで、廃藩に反対する全国の保守士族と対決した。

西郷は大反対する島津の家臣団に、特に憎まれた。

1872年に、久光は参議西郷を、鹿児島に戻るよう命じた。

「吉之助が藩の恩を忘れ、藩に無断で廃藩を断行し、朝廷を西洋風に改革した。罪状書を書かせろ」と家臣団に強制した。

 

西郷は廃藩励行の監視役として、篠原国幹(くにもと)少将を帰県させ、上意討ちはもはや犯罪だと通告し、鎮台鹿児島分営を固めさせた。

 

 

 

篠原国幹

 

 

 

これには久光を始め、家臣団が激怒した。

数100人の家臣団が上京し西郷を殺すという噂が流れた。

 

岩倉海外視察団が留守の間は、三条太政大臣が政府の最高責任者であった。

しかし、海外の新しい政治組織や政治思想は知らなかった。

だから日本の進むべき政治や政策には無知で発案はなかった。

 

筆頭参議の西郷は大久保の代理で大蔵省の事務監督を兼ねていて、様々な改革案件を処理したから、事実上、西郷政府のような状態であった。

 

1871年11月には知県事を県令と改称し、府県に参事を置いた。

これは封建時代の士・農・工・商の身分が、ほとんど無くなったことを意味する。

 

1872年2月に、兵部省は陸軍・海軍の2省となり、親兵は近衛兵となり、西郷は近衛都督に任命された。

西郷はみずから近衛兵たちを訓練した。

 

 

 

江戸の軍隊訓練

 

 

 

8月に学制が定められ、義務教育制となった。

11月に太陽暦採用が布告され、12月3日が、明治6年1月1日となった。

それまでの月暦では、1ヶ月は28日で、1年には閏月を加えないと、いけなかった。

 

 

 

太陽暦の初まり

 

 

 

欧米と日付を同じにするために、太陽暦の採用が決められた。

この変更の日付は、こうせざるを得なかったが、不幸なことに旧暦と新暦では1ヶ月、季節がずれることになった。

 

旧暦の12月が新暦の1月になったのだから、季節がずれたことは当然なことであるが、国語の教員は今だにハッキリ「このズレ」を教えていない。

その結果、誤って旧暦の言葉が使われている。

 

つまり、旧暦の弥生は、新暦では4月であるのに、新暦3月に生まれた娘に「弥生」の名前を付ける人がいる。

 

また気象予報士が「皐月晴れ」〔梅雨の晴れ間の意味〕の言葉を、新暦5月の意味で使うことがある。

「皐月の空に、鯉のぼりを揚げることは、昔は有り得なかった」ことが、分かっていない。

 

七夕祭りは新暦では8月に行うものなのに、曇天の多い7月7日に行っている。

 

もともとは「牽牛星と織女(しょくじょ)星の星祭り」であるから、晴天の夜空が多い8月に行うものである。

歌もそうなっている。

 

笹の葉 サラサラ

軒端にゆれる

お星さま キラキラ

金銀砂子

 

星に願いを込めて短冊を飾るべきであるのに、梵天を並べていて、笹の葉が見られなくなっている。

 

この頃は「文明開化」の時期であった。

9月には新橋・横浜間に、鉄道が開業した。

その頃の機関車が、今は愛知県犬山市の明治村を走っている。

 

 

 

東京横浜間鉄道開通〔愛知県犬山市 明治村〕

 

 

 

1872年に横浜の馬車道の両側には、ガス燈が並んだという。

ただし、ガス燈が日本で始めて灯ったのは、横浜よりずいぶん早く、1857年に島津斉彬が鹿児島の仙巖園〔磯公園〕の浴室近くにガス室を設け、鶴灯籠までガス管を引いてガス灯の点火実験に成功した時であった。

 

 

 

鶴灯籠〔日本初のガス灯実験 仙巌園にある鶴の姿の灯籠〕

 

 

 

1873年1月に徴兵令が布告され、鎮台の数は6つになり、西郷が陸軍大将に任命された。

 

東北反乱が収まったあと、富村雄は帰郷して出雲大社の上官職に復帰した。

西郷政治の時代には、自由民権思想の普及を行っていた。

 

民権団体の仲間・岡崎氏とともに、松江市で1873年3月に、「島根新聞誌」〔『出雲と蘇我王国』より〕を発行した。

明治維新は大きな変革であったので、人々の考えが混乱していた。

右差し 旧出雲王家の名残り

 

 

徴兵令が布告されたとき、太政官の説明文書に「西洋では、これを称して血税という。その生血をもって、国に尽くすという意味である」の文句があった。

 

すると「血を抜き取られる」とのデマが広がり、「徴兵反対」の百姓一揆が各地で起きた。

また士族たちは、武士の特権が奪われた、と怒り「土百姓軍隊が日本を駄目にする」と騒いだ。

 

これらの状態を見て村雄たちは、新時代の正しい考えを教えるための新聞発行を目指した。

西洋の啓蒙思想を紹介したから、購入者は民権運動の協力者になった。

だから、その新聞はあたかも、民権運動結社の機関誌のようであった。

 

購入者は地主層と商人・士族が多かった。

このような人々が各地でで自由民権の運動を広めていた。

この年の夏には、福沢諭吉が東京の三田で、小泉信三たちと自由民権の結社をつくった。

 

7月末には、地租改正条例が布告された。

この改正で土地の権利が地主中心となり、地主の地位が高まり、地主層の民権運動への参加が増加した。

 

士族が地主から年貢を得ることが、否定される見通しとなった。

その後で、武士の家禄・章典返納の制が定められた。

経済的に衰え不満を持つ士族も、自由民権運動に参加した。

民権家の中には、考えが異なり混乱もあった。

しかし、士族の行動力が期待された。

 

さぼ

 

1869〔明治2〕年9月4日に、長州の大村益次郎が襲われた。

「上意討ち」の噂があった。

軍事視察で京阪地域を訪問中、京都三条木屋町の旅宿で会食中に、刺客に襲われ重傷を負い、当時の浪華仮病院(現在の大阪医療センター)に入院、右大腿部を切断する手術がなされた。

その後、切断部より敗血症となり、容態が急変し死去した。

 

 

 

大村益次郎〔キヨソネ作〕

 

 

 

廃藩政府の議会制度のはしりは、公議所であった。

それが集議院になった。

開院式が1869年3月7日〔旧暦〕に行われ、200数10人の藩代表が出席した。

 

1870年5月〔新暦〕に、集議院が開会された。

これらの詳しい資料は、栃木県喜連川町の旧家で発見され、栃木県文書館に保存されている。

 

7月26日の夜に、薩摩藩士で陽明学者の横山安武は、集議院の門扉に2通の直訴状を差し入れたのち、津藩邸裏門前で割腹自殺を遂げ、門前が血の海となった。

発見時の安武はまだ会話ができる状態であり、すぐさま鹿児島藩邸に引き取られて介抱され、また、切腹の理由などを尋問された。

しかし安武は回復することは無く翌27日の昼頃に没した。

これは、集議院の議案提出権などが縮小されたことを、批判したものと言われている。

 

彼は島津久光の5男の、家庭教師であった。

直訴状では士族を追い詰める政策を非難し、廃藩政策を止めることを訴えた。

そして岩倉具視を、名指しで糾弾した。

これは久光の不満を、代行したものと考えられた。

 

 

 

横山安武〔NHKアーカイブス〕

 

 

 

1871年1月9日には、木戸孝允と並ぶ長州藩の大物・広沢真臣が東京麹町の私邸で宴会後、深夜の寝込みを襲われて死んだ。

享年39。

自分は高官職に就かないと広沢が約束して、藩主に版籍奉還を勧めた。

 

その後で広沢が参議になったから、旧藩主の「上意討ちに遇った」との噂が出た。

廃藩置県の前までは、まだ上意討ちは犯罪ではなかった。

 

医師の検視によれば、傷は13ヶ所で咽喉には3ヶ所の突き傷があった。

犯行後、同室にいた妾は捕縛されていたものの軽傷を負っただけで、現場の状況など不自然な点が多々見られた。

横井小楠、大村益次郎に続く維新政府要人の暗殺であり、広沢を厚く信頼していた明治天皇は「賊ヲ必獲ニ期セヨ」という犯人逮捕を督促する異例の詔勅が発せられた。

 

 

 

広沢真臣〔国立国会図書館蔵〕

 

 

 

西郷は東北の会津や庄内藩の反乱を鎮定したあと、10月に京都に着き11月初旬に薩摩に帰った。

鹿児島では武町に、新しく家を建てた。

それで、どちらの家にいるか、わからぬようにした。

 

しかし鹿児島の町には、ほとんど住まなかった。

日向山などの温泉に住み山野を歩くことを好んだ。

これは町中にいるより、山中で過ごすのが暗殺に遇い難い、と考えた結果だ。

 

西郷が東京に住み、政府の役に就かないから、権力欲がないように言われるが、実際は逆でヘゲモニー〔覇権〕への意欲は強かった。

 

東京では敗れた藩の失業者の恨みを、受ける恐れがあった。

地元では、島津久光公の上意討ちの危険があった。

 

西郷たちが政権のいい役に就きすぎるとか、藩主の許可なしに藩士を動かしている、と久光公が怒っている、との噂があった。

久光はもう藩主ではないが、藩主のつもりでいた。

それを防ぐことに、気を使った。

 

西郷は入道頭になっていたが、僧侶の服装をすることもあった。

弟・吉二郎を始め、維新戦争で戦死した人々への祈りの気持ちがあったらしい。

頼まれて富村雄と影武者の永山弥一郎が、西郷を守った。

西郷家の下男・熊次郎も一緒であった。

 

3人が交替で寝て、昼間は2人が起きて、西郷を守った。

外を歩くときは、横綱の前後に露払いと太刀持ちがいるように、西郷の前後を歩いた。

 

薩摩犬が4匹飼われていて、各人が1匹ずつ紐で引いて歩いた。

これと似た版画が描かれている。

東京上野公園の西郷隆盛の銅像は、この頃の西郷の情況をモデルにしている。

 

 

 

西郷隆盛と犬

 

 

 

1869年2月に薩摩・長州藩に、勅使を下向させた。

勅使は廃藩置県を実現させるための、藩政改革を指示した。

薩摩藩では、西郷の出馬が必要となった。

 

2月20日、藩主・忠義が村田新八を従えて、日当山温泉にいる西郷に会いに訪れた。

目的は鹿児島での藩政改革の要請であった。

 

それを受けて「藩治職制」が発表され、武士の家格が廃止され禄制も改められた。

同時に軍政改革も実施された。

藩主が西郷を、鹿児島県の参政に任命したことで、西郷の地位は安定した。

 

1870年12月に岩倉が鹿児島に来て、廃藩置県の政策実現のため、中央政府への参加を求める勅令を伝えた。

 

西郷の所に2回も勅使が来たのは、廃藩置県断行への抵抗を恐れて、政府の高官たちが廃藩の役に就くことを、嫌がったからであった。

 

西郷は次の文を、書いたことがある。

 

命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。

この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。

 

これは西郷が相手の立場から、自分のことを書いている。

つまり、彼の自負が現れている。

 

西郷は今や、命の危険も返り見ず、立ち向かう時が来たと感じ、求められた役目を果たす決心をした。

 

大久保とともに状況した西郷は、筆頭参議となって薩・長・土からなる親兵を作る案を提言した。

1871年2月に庁議が決すると、西郷は薩摩から4大隊を率いて上京した。

 

集まった3藩の親兵は東京で訓練され、廃藩置県に反対する藩を撃滅することになった。

 

薩摩藩の重臣は、日記に書いている。

 

明治4年7月14日、廃藩置県の勅命が下り、人心騒乱世説紛々、各藩すこぶる動揺した。

高知県人のごときは、大いに為す所あらんとする勢いであった、と伝わる・・・

 

そもそも〔島津〕久光公は今日の急務を知られていたが、大小のこと、みな西郷・大久保一輩の専断に出て、余議することがないので、往年以来の積憤が重なり、不満に耐えられず、廃藩の報知が鹿児島に到着した後、ひそかに公子侍臣に命ぜられ、邸中に花火を揚げさせ、わずかにその鬱気を洩らされた・・・

 

参議の西郷は、7月20日に鹿児島の執政・桂久武に、書簡を送っている。

 

天下の形勢よほど進捗いたし・・・尾張藩をはじめ、阿〔波〕州、因〔幡〕州どどの56藩が〔廃藩を〕建言いたし・・・

ことに中国地方から東は、だいたい郡県の体裁にならい改革する様子となり、すでに長州侯は知事職を辞せられ、庶人と成られ御ぼしめしで、御草稿まで出来ている由です・・・

 

その後に太政官制が改められ、太政官の下に正院と左院と右院が置かれ、正院の下に、神祇官や大蔵省などが置かれた。

 

1871年5月には新貨条例が定められ、円と銭・厘(りん)が単位となった。

旧1両と永1貫文が、新1円となった。

 

さぼ