西郷は、城山の麓の馬屋跡を利用して、1874年6月に私学校を作った。
そこには、600人定員で篠原国幹が監督する銃隊学校ができた。
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篠原国幹
また200人定員で村田新八監督の、砲隊学校もあった。
村田はフランスに3年滞在し、欧州兵法を学んだ。
その後、宮内大丞(だいじょう)の要職を務めた逸材であった。
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村田新八
1875年2月に、島根県大社町の富村雄の家に、西郷従道が訪れた。
兄の隆盛の使いであった。
隆盛は兄弟の行動には、干渉しなかった。
従道は大久保政府に属していたが、隆盛とは仲が良かった。
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西郷従道
「富様が私学校で剣道を教えて欲しか、と兄が強く望んでおり申す」という話であった。
村雄は快諾して、鹿児島に行った。
私学校には、綱領が書かれていた。
その中に、次の文句があった。
・・・王を尊び、民を憐れむは、学問の本旨、しかれば、この天理を極め、人民の義務に臨みては、一向難に当たり、一同の義を合い立つべき事。
以前の士族は、「民」とか「人民」の言葉を、あまり使わなかった。
つまり人民の権利を、あまり考えなかった。
この点が西郷持論の民本主義を表している。
「人民の義務・・・一向難に当たり」に、国民皆兵の精神が示されている。
この人間平等主義により、私学校には農民出身者も混じっていた。
私学校には、賞典学校が連携していた。
これは、薩摩藩出身者の賞典禄をもとにして、幼年教育を目的としていた。
ここでも村雄は、剣道を指導していた。
九州の反政府運動と聞くと、封建的な古い考えのような印象だが、全く逆であった。
私学校では、隆盛の甥の市来(いちき)宗介がアメリカ留学4年目に帰ってきて、アメリカの民主主義と英語を教えていた。
賞典学校では、イギリス人コックスとオランダ人スケッフルがいて、西洋の共和制の歴史や新兵器による戦術などを教えていた。
明治維新のあとに政府高官たちは、昔の大名のように贅沢を始めた。
西郷の言葉が、次のように伝えられている。
文明とは、道のあまねく行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を云うには非ず・・・
万民の上に位する者、己をつつしみ、品行を正しくし、驕奢(きょうしゃ)をいましめ、節倹をつとめ、職事に勤労して人民の標準になり、下民の勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し。
しかるに、草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾(びしょう)を抱へ、蓄財を計りなば、維新の功業は遂げられまじくなり。
今となりては、戊辰の義戦もひとえに私を営みたる姿になり行き、天下に対し戦死者に対し、面目なきぞとて、しきりに涙を催(もよほ)されける・・・
私学校を作った真の目的は、大久保専制政権の打倒であった。
大久保と岩倉・木戸の専制主義3巨頭の2人が弱る時を待ち、ヘゲモニーを奪うための準備だ、と西郷が富村雄に語った。
私学校を作り、基礎が固まったら、西郷はまた田舎の温泉旅館に泊まりっきりになった。
1877年に大警視・川路利良の命を受けて、1月11日に小警視・中原尚雄が鹿児島に来た。
自供により、かれら警察官は政府密偵として西郷と桐野利秋・篠原らを暗殺する役目であったことが判明した。
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中原尚雄
密偵の自供書が、熊本博物館に存在する。
それに、西郷隆盛暗殺目的があったことが、書かれている。
2月7日までに密偵70人が、暗殺未遂犯として逮捕された。
2月11日には、さらに1人の男・野村綱が自首し、大久保と岩倉の命で西郷暗殺のために帰郷した、と自供した。
政府は汽船・赤竜丸を鹿児島に送り、夜にこっそり弾薬を積み出した。
それを見つけた私学校の連中が、怒って1月29日から2月1日までに草牟田と磯の火薬庫と襲い、16万発以上の弾薬を奪った。
それを隆盛に知らせようと、末弟の小兵衛(こへえ)が逗留先の小根占(こねじめ)に走った。
それを聞いた隆盛は「チョッ シモタ(えっ 了った)!」と叫んだ。
西郷は萩の前原党事件の真似をせぬよう、私学校指導者たちを抑えてきたが、政府の火薬持ち出しの挑発のために、予定外の結果となった。
2月6日に私学校の門に「薩軍本営」の門標が付けられ、募兵広告が張り出された。
私学校では幹部たちが集まって、秘密の作戦会議が開かれた。
西郷小兵衛は、海路長崎を奇襲し、政府の軍艦を奪い横浜に行く案を出した。
このように「南九州の変」の始めの意図は、反専制政治のデモ行進であった。
しかし長崎まで行く大型船が鹿児島にないため、この案は否決された。
次に、桐野が発言した。
かれは「人斬り半次郎」として鳴らした、剛の者であった。
かれは少将として、熊本鎮台司令官を勤めたことがあった。
「堂々と熊本を通り、小倉に向かうべきである」と主張した。
かれが自信満々であったから、その案に決まり、後には薩軍の司令官と見なされるようになった。
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桐野利秋
2月7日に西郷は私学校に来て、善後策を相談した。
そして決断した。
自分に協力して来た者たちに、すべてを任せよう、と。
明治維新の結末を、西郷は民本主義の方向に向けたかった。
しかし、今は時期が悪い。
失敗するだろう。
自分の仕事は、もはや終わった。
日本は専制政治になる他はあるまい。
それも1つの道かも知れない、と覚悟した。
西郷は新政治を求めるデモ行進を、東京にまで続けようと呼びかけた。
このとき西郷小兵衛は、新政要求のスローガン「新政厚徳」と書いた旗印を作ったのであった。
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南九州の変と西郷小平(小兵衛)〔旗印〕
西郷はまだ、政府の陸軍大将の資格を保有していた。
大将の資格を示す服装で、出発することに決めた。
鹿児島県令・大山綱良は、以前は西郷に対立することがあったが、私学校を作るときには協力した。
今回も県庁の公金を、軍資金に15万円を提供してくれた。
「南九州の変」の専制政治変更要求デモ行進を「士族の反乱」と書く本があるが、それは違う。
そう新聞にその言葉を書かせたのは、大久保政府であった。
この南九州の変は、専制政治に対する抗議行動であった。
讒謗律(ざんぼうりつ)があったから「適切な表現」が禁止され、新聞は政府寄りの表現しかできなかった。
私学校で武器の訓練をしていたので、武器を持った行進になったのは、不幸であった。
戦争をするつもりはなかった。
私学校集団に加わった者には、士族以外の民権主義者も多かった。
また鹿児島の参加者を薩隊と呼び、県外の志願兵の集団を党薩隊と呼んだ。
党薩隊は、10,792人が参加した。
熊本県の協同隊400人は、熊本民権党員が中心であった。
大分県の中津隊では、120人が民権党員であった。
鹿児島では「西郷どんが、新しい社会を作るそうだ」と言って、農家の次三男が多く参加した。
宮崎県では、佐土原隊は、1,313人中の600人は農民出身であった。
都城隊1,580人中430人は農兵であった。
延岡隊1,396人中840人は農兵であった。
この実例のように「専制政治変更要求デモ」の参加者は民権運動家が多かった。〔学習研究社『西南戦争』参照〕
1877年2月14日に鹿児島市伊敷練兵場で、決起大会が行われた。
ラッパの音を合図に、西郷が騎馬で人々の前に現れた。
西郷は、陸軍大将の正装であった。
その勇姿に観客からも、思わず「オゥー」と歓声が上がった。
紺色の軍服に金ボタンが光っていた。
両肩に飾りがあり、頭上に豪華なナポレオン三角帽子があった。
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西郷隆盛〔日本文教出版〕
行進の説明が終わると、別府晋介率いる先遣隊が、大口経由で熊本に向かい行進を開始した。
加治木で、大勢が加わった。
翌15日に、西郷は熊本鎮台司令長官・谷干城(かんじょう)少将宛てに由緒状を書き、県令・大山に依頼して、使者に届けさせた。
拙者・・・政府に〔密偵派遣につき〕尋問の廉(かど)これあり・・・陸軍少将桐野利秋、篠原国幹、及び旧兵隊の者随行・・・其(そ)の台下通行の節は、兵隊整列指揮を授けらるべく・・・
陸軍大将 西郷隆盛
西郷は、現職の大将であった。
少将である鎮台司令官は、上官の命令に従うと、西郷は思っていた。
鎮台兵は4,000人であった。
鹿児島側には、途中参加者を含め15,000人集まる予測ができていた。
この薩隊15,000の人数を書けば、良かったかも知れない。
しかし兵数の優勢が、由緒状の高慢になった。
それが谷干城の反感を高めた、とも考えられる。
後発隊は、川内経由で行進した。
最後に、西郷の本営大隊は、大口に向かって出発した。
富村雄は、西郷の護衛として参加した。
役に立ちたい気持ちでいる西郷家のイヌも、西郷に付いて行った。
専制政治をなくすため、スローガンは「徳の厚い新政」を要求していた。
鹿児島では楽観していた。
家族もデモ行進隊を激励して、途中まで付いて行った。
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南九州の変
先遣隊が20日に、熊本城の南方・川尻に着いた。
その日、熊本城天守閣が突然、炎上した。
新政要求に同感の者が、放火したらしい。
天守閣には兵糧500石と薪が蓄えられていたが、焼失した。
これは、かえって薩軍には不運であった。
薩軍は熊本城を無視して、小倉方向へ行進する予定であった。
ところが、熊本城の火災を見た薩摩人たちは「熊本城を落とせ」と叫び出した。
逃げるネズミを見ると、ネコが追いかけたくなる心理であった。
後続の薩摩隊も、続々と到着した。
その日の夜、鎮台側の隈岡大尉と小島大尉の率いる2個中隊が薩摩側に奇襲を掛けた。
これはデモ隊に、発砲をうながすような作用があった。
鎮台兵はそのあと、熊本城に逃げ帰った。
「小癪な鎮台兵め!」
薩摩側のすべてが、熊本城に仕返ししたい気持ちを、抑えられなくなった。
西郷は「チョッ シモタ。早く通り過ぎる予定ごわしたが・・・」と、村雄に言った。
案の定、薩摩の各集団は、熊本城を取り囲む作戦を採用した。
西郷はあきらめて、もはや何も言わなくなった。
熊本城攻撃で、2か月が無駄になった。
2月22日に、政府軍・約5,600人が博多に上陸し、熊本に向かった。
薩摩側も熊本城から、西北10キロの田原坂方面に向かった。
双方は3月に田原坂で激突した。
官軍700兵に対し、薩摩側1,800人であった。
菊池川の対戦は薩摩側2,800に対し、官兵2,800人であった。
薩摩川は後退し、再び田原坂で対戦した。
人数に勝る政府軍に、薩摩側は破れた。
これが、興廃の分かれ目であった。
田原坂方面で、官軍は2,401人死んだ。
薩摩側も加えると、総数5,000人前後死んだ。
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西南戦争当時の田原坂〔田原坂西南戦争資料館〕
「鹿児島へ、帰り申そう」西郷が言った。
村雄がうなずいた。
反政府集団は5月に南方の人吉に逃れた。
鹿児島に帰るつもりであったが、熊本隊2,500の生き残りと協同隊も付いて来た。
そこで人吉隊が500人参加して来た。
ここでは政府に反省を求める反政府側の人数が増加したのだ。
「どげんし申そう」西郷が言った。
「宮崎まで行ってみましょう」村雄は答えた。
さらに政府軍の攻撃を受け、薩摩側は小林を通り6月に宮崎に移動した。
その北方の佐土原で、西郷は「西郷札」と呼ばれる、藩札のような紙幣を発行し食費にあてた。
西郷札には、拾圓札や五圓札がある。
壱圓札は富商に配布されて、6万円の軍資金が調達された。
これは事実上、寄付金であった。
西郷札の裏には「通用三ヶ年限」の字がある。
西郷は3年後に、返済する気であった。
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西郷札
反政府集団は乗船して大阪か京都に行き、デモ行進をしたいと考え、宮崎県の海岸を8月に北上した。
しかし、細島を通るとき、政府の軍艦が海上を封鎖しているのを確認した。
海上を進むことが出来ないことが、ハッキリ分かった。
8月14日に延岡で、薩摩集団の本部が艦砲射撃を受け、北方の俵野に本部を移した。
15日に官軍の総攻撃を受け、大敗北となった。
もはや、これまでと、悟った。
西郷は16日に、全集団に解放令を出した。
まず途中参加の志願行進隊〔党薩隊〕が、官軍に降伏して行った。
人吉隊を始めとし、都城隊・佐土原隊・高鍋隊・延岡隊・中津隊と続いた。
この「南九州の変」は、後ろ向きの士族の乱とは違うものであった。
新しい社会を理想としていた。
「西南戦争」の言葉は、おかしい。
日本西南部とは、四国を含む中国地方と九州を示す言葉である。
この曖昧な言葉には、南九州の変に、萩事件と秋月党事件を重ねて、同じ性質の事件に見せ掛けたい意図が働いている。
南九州抗議行進隊解散の最後に傷病兵が、官軍に下った。
残るは、西郷直属の私学校党600人だけとなった。
今や全滅寸前であった。
残った富村雄に、西郷が言った。
「もう、おいどんは何もできもはん。富さんは逃げて、おいどんの代わりに、第2の維新をやってくいやい。頼みもんで」
真剣な、顔つきであった。
村雄は2人の薩兵に囲まれて、安全な道を探し、西郷と別かれて進んだ。
三方、官軍に囲まれた西郷軍の逃げ場は、急傾斜の可愛岳しかなかった。
西郷たちは、断崖をよじ登った。
その頂上は、見晴らしが良かった。
官軍の少ない所が見分けられた。
そこを私学校勢は、夜に紛れて通った。
祝子川を逆上り、高千穂へ向かった。
米良の山道を通り、霧島山の麓を巡った。
鹿児島に着いたのは9月初めであった。
城山に隠った西郷軍に対する官軍の包囲網は、どんどん縮まった。
9月24日、官軍総員突撃の、合図が聞こえた。
残った薩兵が丘を下り始めると、次々に銃弾に倒れた。
西郷も銃弾を2発受けた。
「もう良かろう。晋どん、切ってくいやい」
西郷の首から、血吹きが飛んだ。
行年48才であった。
この事件は、地元では「南九州の変」と呼ばれた。
これは戦争のつもりではなく、抗議行進として始められたが、政府軍により戦争に、仕向けられたものであった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240421/09/pelecyphoras/f1/0f/p/o0814086615428545340.png?caw=800)
薩軍の主な進路〔南日本新聞〕
西郷の死の8か月後、ビスマルクを目指した大久保利通が、東京の紀尾井坂で、石川県人・島田一郎により暗殺された。
富村雄は故郷の島根県に帰り、出雲大社の仕事に戻った。
しかし、西郷の言葉が忘れられなかった。
「おいどんの代わりに、第2の維新を頼む」というのは、村雄を戦線離脱させるための言葉だったのか、それとも実際にやって欲しかったのか、考えあぐんだ。
その挙げ句2年後に、村雄は家族に内緒で家から消えた。
宮崎県妻(つま)地区〔西都市〕の赤池に住み、家塾を開き剣道を教える身となった。
そこから南九州の変に参加した人々の家を訪れ、民権運動に誘った。
少しは集まったが、もはや「第2の維新」を実行できそうもなかった。
〔南九州の変を含めて〕明治維新戦争で、死んだ戦友に対し、自責の念を感じたのか、1887年11月に、村雄は割腹自殺した。
富村雄は、古代出雲王の末裔である。
これは先祖の因縁か、その王国を亡ぼしたヤマタイ国があった妻国〔投馬国と魏書は書く〕に行って死んだ。
旧出雲王家の名残り
さぼ