伊賀忍軍と織田信長の戦いの続きです
北畠信雄、名張小波田に築城
伊賀南部での戦いも信雄軍の破竹の進軍が続いていました。
一昨年の戦いの勝利で“北畠信雄恐るるに足りず”の意識が強かった南部の豪族達も、前回に倍する敵軍の数と北部の豪族の支援も頼めない絶体絶命の状況から自ずと及び腰になり、大きな抵抗を見せぬまま後退して行きました。
その多くは阿保から前深瀬川を遡って、種生の山間で天嶮の国見の地に集結し、砦を造って立て籠もります。
また一部は名張郡の豪族が拠り堅城だった赤目の柏原城へと合流し、また一部は上野の豪族が拠り勢い盛んな比自山砦へと逃れて行きました。
これらの攻略には時間が掛かる事を察した信雄は、名張郡東部の大波田に築城を始め、南伊賀の監視をする傍ら、自身は北部に侵攻した諸将が集結し、決戦場となりつつある比自山めざして北上しました。
大波田の初瀬街道沿いに残る桜町中将城跡 中納言信雄の京屋敷が桜町にあった事からそう呼ばれます。 この後に出馬して来る織田信長が滞在した場所です。
隣接して残る滝川氏城跡は、戦後に伊賀を領した滝川雄利の陣屋か?
平楽寺、氏郷の猛攻に陥落
甲賀口から破竹の勢いで佐奈具まで進軍した蒲生氏郷は、すでに目指す比自山を目の前に見据えていましたが、その前に立ちはだかっていたのが上野山に聳える平楽寺の伽藍でした。
当時の平楽寺は寺領7百石と言われ、山塊狭しと楼門や七堂伽藍が建ち並び、僧坊の数は19を数えたと言います。
この上野を中心とする地域では、長田の百田藤兵衛が中心になって織田軍迎撃策が練られ、個別撃破が必至な状況では全豪族が一丸となって要害の比自山に籠り、徹底抗戦する事に決しましたが、平楽寺の僧兵はあくまでも寺の死守にこだわり、豪族達とは別の戦いを選んで上野山に籠城していました。
蒲生氏郷軍が押し寄せた依那具方面から見る上野山(現:上野城) 後方の山が比自山です
比自山東麓の西蓮寺から見る上野山 平地にポツンとある独立丘で、ここで4万の兵に囲まれたら生き残る術は万に一つも無いのは明らかですが…。
僧兵3百余名に寺男など加えた約7百人が平楽寺の戦力で、これに十倍の7千の蒲生氏郷軍が襲い掛かります。
緒戦は僧兵もよく奮戦して激戦となりましたが、“寺院を攻めるのは天下一”の織田軍のこと、手薄になった箇所から侵入した兵が何の躊躇もなく歴史ある堂塔に火を掛け始め、あちこちから火の手が上がると僧兵の戦意も一気に萎えて行き、攻防半日を待たずして平楽寺は焼滅してしまいました。
もちろん寺に籠っていた者は高僧から女子供に至るまで全員が殺害されたそうです。
筒井順慶も長岡山へ着陣
その頃、南伊賀の名張郡から侵攻して来た筒井順慶の軍3千7百は、予野から猪田、依那具、久米と土豪達の居館を掃討して進みました。
これらの居館にはまだ進退を決めかねて、あるいは玉砕覚悟で籠っている豪族が相当数居た様ですが、所詮数十人単位の抗戦で敵う相手ではなく自然と追い立てられる事となり、その落ち延びた先は大半が比自山砦でした。
現在も残る木津氏館 上野周辺は詰め城を持たず居館を拠り所とする土豪が多い地域でした
その中には伊賀忍軍にあって軍師として名高い久米の菊岡丹波守が居り、彼はもともと講和生き残り論者で、主戦派とは行動を別にしていましたが、その後、覚悟を決めた菊岡丹波守の指揮による戦闘で筒井軍は手痛い敗戦を喰らってしまいます。
見境の無い焼き討ちで比自山砦の増援に協力してしまった筒井軍、そんなことは知ってか知らずか、比自山決戦に向けて筒井順慶はその南東約2kmの長岡山に着陣しました。
西蓮寺から見る長岡山 遮る物の無い目と鼻の先の至近距離で、百戦錬磨の筒井順慶らしくない迂闊な陣取りですね
昼夜を分かたぬ比自山砦の構築
伊賀忍軍の拠り所となった比自山には城砦はなく、伊賀観音寺と呼ばれる伊賀国鎮護の寺院がありました。
その山頂に立つと四方の山並みが波の様に続くのが見渡せ、伊賀という国の隔絶された地勢が判り、眼下の伊賀盆地には美しい田畑が広がって、点在する農家から上がる炊煙はつつましくも平穏な人々の暮らしを感じさせる、さながら桃源郷の様な景色だったと言います。
つまり私欲の邪悪な侵略から“守るべきもの”が強く認識できる環境だった訳ですね。
西蓮寺の南側の谷間が比自山砦の大手だった様です。
西蓮寺の霊園を経由して登攀を試みますが、すぐに道は消えてしまいます…。
この地点で山頂までの距離はまだ500mはあり、藪漕ぎには季節も早いので、大手口からの登攀は断念します
一方でその山塊は南東は谷と尾根が複雑に入り組んで横たわり、北西は断崖絶壁が続く天然の要害を呈していました。
この比自山の東麓で生まれ育ち、山が遊び場だった百田藤兵衛ら地元の豪族は、ここに城を構えて籠れば、いかに天下の織田軍であろうと半年やそこらの持久は可能と踏んでいた様で、緒戦の各地の敗報が聞こえても、その戦意は盛んでした。
かくして集まった豪族と一族郎党3千に妻子、さらには鋤鍬を携えた近郷の農民も集まって、突貫の築城が始まりました。
さらに前述の様に、居城を追われた豪族達が集まって来ます。 中でも、地域を挙げて降伏した島ヶ原の中で唯一人、富岡秀行が駆け付けたり、小田村の下人達が駆け付ける途中に遭遇した耳須弥次郎の首を手土産に持参するサプライズもあって、籠城側の戦意はいやが上にも最高潮に達しました。
*耳須弥次郎は当初から織田に内通し、蒲生氏郷軍を道案内していた玉滝の土豪です
おかげで昼夜を問わぬ突貫工事が進み、山頂には望楼が現れ、夜間の夥しい篝火と槌音が包囲する織田軍の焦りを誘います。
比自山砦の戦い 9月30日
この時点で比自山を囲んでいたのは蒲生氏郷軍7千、堀秀政軍2千3百、それに筒井、浅野連合軍5千余の計1万5千ほどの兵力でした。
対する伊賀勢は老若男女合わせて1万近くが籠っていて、士気も高く着々と強固な砦を築いています。
特に築城術に長けた蒲生氏郷は比自山の厄介さを理解しており、『これ以上強固な陣城を構えられたら相当に苦戦するぞ、一刻も早く叩かねば!』という思いがあります。
1kmほど北へ移動した長田小学校裏の谷は搦め手口だった様です こちらは『芭蕉の森公園』として整備されている様なので、公園を足掛かりに遺構を探って見ます
尾根道も片側が土塁となり、それらしい雰囲気です
展望の東屋も物見台の雰囲気を醸していますが、まだまだ標高は低いので、砦遺構ではない模様。
その夜の三軍の軍議で強く主張した氏郷は、未だ主力の丹羽・滝川軍1万4千は到着せぬものの、明朝を期して総攻撃に出る事に同意させます。
この時氏郷は25歳、『動きの鈍い宿老の手などアテにせずとも…』という驕りがあったかも知れません。
温厚な堀秀政や何時潰されてもおかしくない外様の筒井順慶には、織田信長が娘を娶らせてまで目を掛け重用している氏郷の主張に異を唱える選択肢はなかったでしょうね。
翌早朝、蒲生軍は北方から、筒井・浅野軍は南方から、そして堀軍は西方から進撃を開始、比自山山頂に向けて1万5千の大軍が我先にと怒涛の勢いで攻め登ります。
これを手ぐすね引いて待ち構えていた籠城側も一斉に鬨の声上げ、防戦を開始しました。
比自山砦の大手口に迫った筒井・浅野軍を待っていたのは急坂の上から落下する丸太や大石の仕掛けで、先鋒に大きな被害を蒙った筒井勢は進軍を止めてしまいます。
一方、搦手口に殺到した蒲生軍も急坂の地の利が悪い中で弓・鉄砲の集中射撃に晒され、軍監の安藤将監直重が弓に射抜かれ重傷を負うなど、被害が大きく立ち往生してしまいました。
両軍とも、次々に新手を繰り出してジリジリとは進軍したものの、対する損耗が激しく、進退が極まってしまいます。
さらに登って行くと、谷は堰き止められた水場になっています
その奥には山肌を急激に登って行く階段が…
階段を登り詰めた上は平場が造られていました
平場の先端は尾根を断ち切った“掘切り”が確認できます
裏手の西側から攻撃を始めた堀秀政軍はと言うと、攻めるに最も条件の悪い急斜面をよじ登る様な行軍の体で、籠城側が仕掛けた大石や丸太攻めの罠にまんまと掛かってしまい、こちらも先鋒の大半を失う大損害でした。
『これは、この陣容での攻城戦はいたずらに兵を損耗するだけだ…』 事態を冷静に受け止めた秀政は全軍に伝令を出し、ここは一旦退却し他の諸将が到着するのを待って陣容が整ってから総攻撃する様に強く進言しました。
秀政の提案には筒井順慶も同意し、蒲生氏郷も『無念!』の思いを抑えて渋々ながら同意して、夕刻までにはそれぞれの陣所へ引き上げ、初日の戦いは伊賀忍軍の大勝利でした。
平場へと至る取り付け道路は無く、重機を入れて削平したものではありません それに中途半端な削平具合は、突貫工事を物語ってる気がします
そしてこの急坂 此処が蒲生軍が釘付けになった搦め手口の馬出し郭ではないのかな?
平場の先は藪になって、登り斜面が先に続いています。 この地点からも山頂へはまだ500mあるので、今回はここで断念です。 真相究明はまた後日
比自山砦の戦い 10月1日
先勝に湧く比自山では、勝利の余韻に浸るのもそこそこに、もう次の作戦行動が始まっていました。
この勢いが冷めぬ間に今夜のうちに敵陣に夜襲を掛けよう…という積極的な作戦で、対象に選ばれた敵陣は大手口に最も近く接近が容易な長岡山の筒井順慶の陣でした。
蒲生軍は数日前に夜襲を受けた事もあり、警戒して4kmの距離を置いており、堀軍には甲賀忍軍が付いている事も決め手だったのでしょうね。
比治山の東麓には寺院が多く、至る所にこうして供養塔があります
すべてが天正伊賀の乱での殉難者を祀るものではないでしょうが…
最大の激戦地にふさわしい、生存者による慰霊の気持ちを目の当たりにする感じです
小沢智仙、横山甚介が率いる夜襲部隊は夜半に比自山を発つと散開して隠密裏に木津川を渡って筒井陣に忍び寄り、丑の刻(午前2時頃)を期して松明に火をつけ、一斉に筒井陣に乱入しました。
*小沢智仙とは、この戦いで百地丹波守が名乗っていた名前という説もあります
果たして、筒井陣内では若干の歩哨は居たでしょうが、大半は昼間の激しい戦闘で疲れ切り、熟睡の最中であったため応戦は著しく遅れてしまいます。
夜襲部隊は瞬く間に筒井順慶の寝所まで迫り、順慶も切腹を覚悟したそうですが、此処は近習の手で山間に逃げ、背後に近臣が立ちはだかって奮戦したので何とか逃げ延びる事ができました。
この戦闘で筒井軍は松倉重政、中坊忠政の二人の家老が重傷を負い、首を取られる寸前の惨敗でした。
昼間の激戦と合わせ、筒井軍の死傷者は全軍の半数にも上り、壊滅寸前の状態だったと言います。
中坊忠政の傷は重篤で、戸板に載せられてすぐに大和郡山に後送されますが、10kmほど南下した安場の地で息絶えてしまいました。
まだ家督を継いだばかりの二十歳前の若武者の死は大和郡山の新妻に伝えられ、すぐに駆け付けた新妻:綾姫は哀しみの余りこの地に庵を建てて住み、終生忠政の菩提を弔った…という哀しい話も伝わっています。
第二次天正伊賀の乱(下)に続く