「ふくしま事件ちゃんねる」と云う今は福島以外の事件も取り扱っている中々マニアックなところがあるのだが、東北新幹線のトンネル内で帰省途上の10歳少女の遺体が発見されたとの中々謎めいた事件が紹介されていた。
走行中の車内から飛び降りてしまったのかと思いきや、原因は動画内でも触れられているように、子供たちは先に東北新幹線古川駅ホームに降り立ったのだが、帰省と云うことで大きな荷物を抱えていた母親がこれをうまく処置することが出来ずに中々ホームに現れない…そこで不安になった兄が車内の様子を見に戻ったところ列車が発車してしまい、妹がホームに取り残されてしまった…こう云う状況に陥ってしまったものである。そして妹は何と列車を追いかける形で線路脇を歩いてしまい…と云う経緯でこの惨事が起きてしまったわけである。
問題はこの動画のコメント欄にある。母親の兄が「新幹線のドアがもっと長く開いていれば母親も降りられたのに」と云うことを述べているわけだが、それに対する批判で渦巻いているような状況になっている。要するに自業自得だろう、他人のせいにするなと云うことである。【A】
母親がもっと早くに荷物を下ろすことをしていれば良かっただけであって、それを責任転嫁して新幹線の停車時間の短さを槍玉に挙げるなと、マァこう云うことになるわけである。こんな予想外の悲劇に見舞われて、泣き言恨み言の一つ二つ言いたくもなるよねと私は大いに同情を寄せるものであるが。
この、相手に完璧を求める姿勢こそ、日本社会を大いに疲弊させている要因となっているのは周知の通りである。少しの失敗も許されず、泣き言・恨み言の一つも言えば叩かれることになるわけで、そりゃあ出生率も下がるよね、親になることが負担にしか感じられないよねと云うことになるわけでもある。バスの運転手が水を飲んでいれば通報、消防署員がコンビニに立ち寄っていたら通報…母親や母親兄の行動言動を批判する人は如何にもそう云うことをしそうな趣である。「いや、私はそんなことはしない。どんどん水分補給してください」と反論・反発してきたところで別の場面、例えば車椅子ユーザーから上がる不平不満に対しては全力で叩き潰すであろうこと請け合いである。こうして何としてでも不平不満を抑えつけて保身、現状維持を図ろうとする…その結果が「失われた30年」であるわけだ。まさに彼らが大好きな「自業自得」「因果応報」そのものである。
【B】閑話休題。なぜこうも簡単に、単純に、母親の「失態」を責めることが出来るのだろう。まことに想像力の欠如と云うものを痛感するところである。例えばこう云った状況が考えられ得る。親子が乗車していたのは指定席車だったようだが、帰省シーズンと云うことであるから通路に立ち客が居たとしても不思議ではない。そうなると荷物を下ろすのは中々難しくもなろう。或いは通路の反対側にいた客が大きな荷物を先だって下ろし始めがために到着直前まで荷物が下ろせなかったのかもしれない。或いは子供に構っている内に存外早く古川駅に到着してしまったのかもしれない。また或いは疲労によりついつい到着直前までウトウト寝てしまっていたのかもしれない。状況も分からない中、決して単純に、母親がもっと早くに荷物への対処をしていれば良かったのだなどと切り捨てることなど出来ないのである。
「もっと停車時間が長かったなら」との言もまた的外れとは云えないものがある。【C】例えば中国の高速鉄道は大きな駅ではなくとも3分程度の停車時間を設けている。また、日本の特急に相当する在来線の直達特快列車は7-8分程度停車する。日本の在来線は基本的に最高時速130kmだが、中国の場合は160kmに達する。それでも7-8分停車する。軒並み30-45秒停車の日本の事情とは大きく異なるわけだが、【D】日本とて嘗てはもっと長時間にわたって停車していた。本件は大宮発盛岡行き列車にて発生した。東京駅はおろか上野にすら東北新幹線が達していない開業直後の出来事だったわけだ。したがって母親の中には、より緩やかに走行していた在来線特急・急行列車の感覚が濃厚に残っていた可能性もある…結果、本人の中ではあっという間に目的地に着いてしまった、あっという間に発車してしまったと云うことになったのかもしれない。
ところで本件は未解決事件ではない。未解決事件ではないのだが、ここまで述べてきた説明は、未解決事件の真相に達し得る推理をする上で重要な事柄を含んでおり、その点をうまいこと、説明しているのである。未解決事件を巡る推理には「〇〇なら△△に違いない、××であることなど有り得ない」と云った、理屈立てる場面がよく見られる。本件では【A】に相当する部分だ。しかし事件の当事者(犯人や被害者)はしばしば私たち外野の人間から見て不可解な行動に走る。けれども何らかの事情を抱えていた当事者からすれば、それは不可解でも何でもない合理的な行動なのである。本件では【B】に相当する部分となる。この部分は真相に達する上で非常に重要なところなのだが、【B】にて披露したような具体的な場面を想起する必要性がある。【A】は「マクロ的」であり、「理屈」であるのに対し、【B】は「ミクロ的」であり、より「感情」的なのだと云うことになる。当事者の立場になって「理屈」と「感情」を融合させることが真相に迫る中では重要である。
例えば私たちは泣く・涙を流すと云う現象に遭遇することがある。悲しい時に泣く。悔しい時に泣く。泣くと云うのはネガティヴな要素に彩られた行為・現象である。したがって例えば「被害者はその時泣いていたのだから悔しかったのだ。喜んでいたのなら涙は流さないはずだ」などと推理するわけである。だが…お気づきのように涙には別の要素が含まれることがある。即ち、「嬉し涙」と云う代物である。私たちはポジティヴな場面でも泣くことがあるわけである。しかし【A】にばかり捉われていると【B】は中々見えてこない。母親が荷物の処置に手間取った背景を推理したように、ここで想像力を如何に働かせられるかが重要となる。
あの「室蘭女子高生失踪事件」で被害者は、14時過ぎにパン屋の本店を訪れることになっていた。被害者はその時間に間に合うようにバスに乗り込んだ。ところがパン屋最寄りのバス停を素通りし、もはや待ち合わせ時間を過ぎていると思われるのに、パン屋から些か距離のある商業施設の中に於いて時間潰しをしているが如き行動に出た。そしてあたかも15時に間に合わせるかのような恰好で商業施設を出た。そこで【A】的に理屈立てて考えてみるならば、本当は待ち合わせ時間が14時なのではなく15時だったのではなかろうかと云うことになってくるわけである。実は最初から14時ではなく15時だったのか、或いは途中で14時から15時に変更されたと云った具合に。
しかし大事なのは【B】的な発想・想像力だ。そこで私は普段、通学の際に被害者がこのバスを始発から終点まで乗り通していることに着目した。終点まで乗っていると云うことは寝過ごす心配がないと云うことだ。したがって被害者は普段、バスの中で居眠りしているであろうことを考えた。しかしこの日は普段と勝手が違った。途中のバス停で降車しなければならない。だがいつものクセがついつい出てしまい、終点近くまで居眠りしてしまったのだろうと想像したわけである。この被害者は几帳面な性格だったと云うことだから、寝過ごしが発覚した際には「やっちまったー!」との強い念に襲われたことだろう。折角、間に合うように家を出てきたと云うのに。テンションが下がった被害者にはもう一度気持ちを作り直してテンションを上げる時間が必要だった…そこで商業施設内を特に目的もなくうろうろしていたのではあるまいか。眠気覚ましをしたい意図もあったろう。つまり、時刻変更の類はなく最初から最後まで待ち合わせ時間は14時過ぎだったと云うことである。
因みに【C】は他の事例との比較検討、【D】は当時の時代状況・時代背景から見た分析、と云うことになる。真相に迫る上で私たちは、現在の日本の事情・現在の日本人の感覚に捉われないようにしなければならない。如何に当時の当事者に寄り添って骨(=【A】)を肉付けする(【B】+【CD】)ことが出来るかが事件像を明らかにする、即ち真相を究明するために不可欠となるわけである。