書きたいネタが沢山あるのだが振り向けるエナジーが中々ない。困ったところである。ワールドカップが終わったわけだが32チームから48チームに増えた影響で試合数が一つ増えて8試合になった。もし前回までの7試合制だったならばアルゼンチンが粘り勝ちしたかもしれない。アルゼンチンはスペインと比較して高齢選手が多かったからマァ、キツかったなと。
アルゼンチンの「汚いサッカー」が結構好きだ。あれぞ人間味溢れている。タンゴが反転するとああなるのだな。中南米自体の構造としてヨーロッパによる征服、先住民抑圧、黒人奴隷導入、北米同様のサラダボウルになる一方で北米以上にメルティングポットにもなり、クリオーリョの、本国に対する怨念と現地に対する優越と色々あって中南米は矢鱈と嫌味に戦闘的なわけだがアルゼンチンはその中で例外的に白人移民が圧倒的多数でヨーロッパ志向、だが先進国から途上国へと没落、そこにフォークランド紛争と更に拗れているキャラクター。綺麗な体で生き抜けられるほど甘くないと云うことなのだろう。
同じ南米、ライバル同士でも淡白なブラジルと粘着質なアルゼンチンは好対照。マリーシアなところは両者同じなのだが、ブラジルはプレッシャーに弱い。が、アルゼンチンは中々強く、より魂で戦うのはアルゼンチン。マァ、ブラジルでもアルゼンチンに近い南部では割とそう云う気質らしいが。深いタックル、見えない所での肘打ちとか最高だ。弱者の怨念のサッカー。これは背景風土を知っていれば嫌いにはなれないな。サッカーをしているわけではないのだ。サッカーは勝つための手段なのだよ。したがってフェアプレー精神溢れる「綺麗なサッカー」=貴族の蹴鞠遊びのようなもの。
「汚いサッカー」は弱者が表面上取り繕った偽善溢れる強者を倒すためのツール。実際のところ、フェアプレーが貫徹されたらどうなるか。体格と身体能力が全ての競技になるだろう。バスケやバレーのような、或いは陸上のようになる。現に近年のヨーロッパ優位はこの恩恵に浴している部分がある。日本も今のところそうだ。韓国の低迷はラフプレーをし辛くなったことも影響している。だがこれが徹底されると日本にとって不利になってくるであろう。5-6人、アフリカ系の選手を揃えないと勝てなくなる恐れが出てくる。フェアプレーを推進した結果、アンフェアプレーな状況となる・・・世の中、よかれと思って推進したことが全くダメになることはよくあることだ。強者と云うものは不正を働いて強くなるわけだがしかし、正論を進めても強くなる場合もある。弱者もまた、強者の不正を暴いて勝つこともあれば、強者に対して「不正」を犯して勝つ場合もある。地球世界はこのように経糸と緯糸が折り重なって出来ている布地なのである。
昔よく見た映像。金正日唯一の肉声と云うことで金日成が死んだ際など、小泉訪朝までの間は金正日と云えばこの映像。懐かしい。しかし中々面白い映像。13秒辺りに出てくる死にそうな顔したおばちゃん軍団がイイ。そして92年だからまだギリギリ、シアヌーク殿下。北京大好き殿下、北朝鮮は目と鼻の先でお安い御用。一人だけ、蹴鞠遊びのような拍手がいい味出している。一人だけと記述したがよく見ると後ろの方でお付き合いして同じように拍手している北朝鮮側の人間が一名。我々はあなたを見捨てない。決して孤独な存在ではない。
指原莉乃プロデュースのノイミーが新メンバーを募集することが先日発表された。2017年にイコラブ、19年にノイミー、22年にニアジョイとこれまで3つのグループが誕生してきたが追加で新メンバーを募るのは初めて。ということで色々とざわついているわけだが、AKBや坂道等の秋元系とは異なり、指原系はオリジナルメンバー固定化策を採ってきた。後輩メンバーが入ったところで先輩メンバーやそのファンへの遠慮や委縮が出て伸び伸び活動することが出来ず、結果そのメンバーも伸びず、やがてはグループも伸びなくなり・・・と云う状況となりがちである。グループの色がやがて変質していくと云う懸念もある。それならば新メンバー用に丸々別の箱を用意したほうが生き生きと活動することが出来てイイと云うところだろう。
しかし当然ながら問題点もあってそれは割かれるリソースには限りがあると云うことだ。新グループ立ち上げとなれば費用もかかる上に指原への負担が増大する。一からメンバー対応をしなければならなくなり、制作すべき曲数や企画数も桁違いだ。それから各グループの差別化をどう図るかと云う難問もある。この点、AKB系は地域色と云う差別化要素があるから楽だ。そしてそれが出来ない坂道系は乃木坂・櫻坂・日向坂の3つしかないわけだ。三国志とか御三家とか日本三景とか世界三大〇〇のように、3つまでなら対比させやすい。それ以降は難しさが格段に増す。しかし「人口ボーナス」がなければ事業は回っていかない。3年程度に一度の新メンバー投入は必須なのだ。22年のニアジョイ誕生から4年が経過し、どうするんだろうなと思っていた。ハッキリ言って今までの指原のやり方は詰んでいたわけであり、ここで何も手を打たないならばそのままメンバーの離脱と共に全てのプロジェクトが終焉する形になるところだった。この度、これまでの「禁」を破って毀損グループに新メンバーを投入すると云う手法へと修正を試みたことは、指原たちが今後ともアイドルプロジェクトを推進したいとの意思表示と見た。マァ、指原本人と云うよりも周りの利権に与っている人たちが、というところだろうが。
しかし当然ながら問題点もあってそれは割かれるリソースには限りがあると云うことだ。新グループ立ち上げとなれば費用もかかる上に指原への負担が増大する。一からメンバー対応をしなければならなくなり、制作すべき曲数や企画数も桁違いだ。それから各グループの差別化をどう図るかと云う難問もある。この点、AKB系は地域色と云う差別化要素があるから楽だ。そしてそれが出来ない坂道系は乃木坂・櫻坂・日向坂の3つしかないわけだ。三国志とか御三家とか日本三景とか世界三大〇〇のように、3つまでなら対比させやすい。それ以降は難しさが格段に増す。しかし「人口ボーナス」がなければ事業は回っていかない。3年程度に一度の新メンバー投入は必須なのだ。22年のニアジョイ誕生から4年が経過し、どうするんだろうなと思っていた。ハッキリ言って今までの指原のやり方は詰んでいたわけであり、ここで何も手を打たないならばそのままメンバーの離脱と共に全てのプロジェクトが終焉する形になるところだった。この度、これまでの「禁」を破って毀損グループに新メンバーを投入すると云う手法へと修正を試みたことは、指原たちが今後ともアイドルプロジェクトを推進したいとの意思表示と見た。マァ、指原本人と云うよりも周りの利権に与っている人たちが、というところだろうが。
7月7日のフジテレビによる再度の声明を受けての追記。
フジテレビはこの問題に関して自己保身第一ではあるのだがその要素を除外すれば、「被害者」である橋本愛の保護を最優先に活動を行っており、故にこの声明は橋本愛の保護に関してネガティヴな影響を与えるものについては割愛や改変を行っている可能性を考慮すべきである。これはリベラル左派がよくやる、マイノリティへの差別・偏見に繋がる事実は伏せるとの手法同様のものである。したがってそのような性質の声明である以上、述べられている「事実」を全面的に信用することは不可能である。
殊に橋本側が佐藤二朗の顎頬に触るアドリブ演技をハラスメント扱いしたことを認めることは絶対に出来ないわけである。それはここがこの問題の出発点であり最も巷間からのバッシングを買った部分(その程度のことでハラスメント扱いするな)だからである。だが本件はその部分を橋本側がハラスメント扱いしなかったならばそもそも起こらない構造なのである。フジテレビの声明からは、1回目の話し合いから2回目の話し合いまでの間の事情が欠落している。これは自然に考えるならば、1回目の話し合いで得た結論と現実の状況に齟齬が生じていたと解される。だから佐藤二朗が再度乗り込んで説教したわけである。顎頬タッチがハラスメント扱いされていなかったならばこんなことにはならないはずなのだ。加えて顎頬タッチがハラスメントではないにも拘らず、以降繰り返してそう云うシーンは出てこない。また、事前準備をすれば身体の絡み合うシーンも可能であるのにそれもない。このような客観事実、或いは状況証拠を踏まえれば、ハラスメント扱いされたと云うようにしか見えてこないのである。フジテレビの主張には客観事実或いは状況証拠による補強が全く不能な状況となっている。
受け手の側がハラスメントであると感じたならハラスメントなのであるとのスタイルを応用すると、腕肩を触った際には何も言われなくとも、顎頬を触った際にたとえ「今の演技はハラスメントではないけれども以後気を付けて下さい」と言われたならば、言われた側は、自分の顔を立ててそう云う言い方をしてきたが実際には顎頬タッチをハラスメント扱いしてきたのだなと認識することとなろう。フジテレビの言うように橋本側がそのことについてハラスメント扱いをしていなくとも、佐藤二朗がそう感じてしまったのならばハラスメント扱いをしたと云うことにならなければなるまい。橋本側が本当にハラスメント扱いしていなかったのならば寧ろ、佐藤に対してどんどん顎頬を触って欲しいと依頼すべきであった。佐藤の出方待ちでなく、橋本側から積極的にこう云ったアクションを取らなければ誤解は晴らせない。
どうも橋本愛の存在感の無さと云うか身内以外とまともにコミュニケーションが取れないさまにもやもやする。佐藤の説教を前に泣き続けて撮影に穴をあけたこともそう。目上の人間相手であろうときちんと自己主張することが出来ない。これをトラウマがフラッシュバックしたから仕方がない等の理由で済ませて擁護するなら、個の成長や成熟はない。涙を流すのは結構だが怯まずに立ち向かわなければならない。何故なら「口」がついているのだから。あなたのその口は一体何のためについているんですかと云う話である。結局のところ本件はきちんと橋本側が相手側に自己主張しなかったことにより悪化している。要求はある、だが言いにくいから出来れば自分からは言いたくない・・・それは無責任な態度である。自分の利益のためにはきちんと自ら泥を被るべきだ。
外部弁護士は、佐藤の説教に対して号泣し続け以降出勤しなかった日があったことを受けて、受忍限度を超えた精神的負荷であるとしたのだろうが(彼らはたとえそう云うことが無かったとしても判断に変わりはないと言ってくるのだろうがそれが本当なら判断の根拠が無くなってしまうわけで杜撰極まりない判断となる)、強い心・強い個があって号泣せずにきちんと対峙したならばハラスメント認定されなかっただろうなと思うと暗澹たる気分になる。佐藤二朗に対する精神的負担を一方的にフジテレビと橋本側はかけ続けているがそこに対する謝罪がない。橋本愛が佐藤二朗の説教をキャリアの否定であると捉えたことをおかしなことだとは全く思わない。橋本愛の立場で考えれば佐藤の要求には理不尽なものがある。橋本がそのように捉えたことへの非難も多々あるが、私はそこに対しては全く与しない。橋本の捉え方は正当だ。だがそのことを第三者が同じように捉えて判定することへの支持はまた別である。「被害者」の側へ寄り添い過ぎている。今度の声明の中で一応フジテレビは佐藤に謝罪した格好だが、橋本側もまた佐藤に多大な負担をかけたことについて謝罪すべきだ。トラウマ持ちであってもキャリア構築の障害にはなりたくない・やりたい仕事をしたいと云う欲望、そしてトラウマによってキャリア構築が妨害されるべきではない・そんなことは社会正義の観点から許されざるものだとの正義感、それらが一点となって佐藤二朗に集中して押し付けられている構造なのである、佐藤にとっては橋本愛のトラウマ云々のことなど何も関係ないことであるのに。本件のトラブルの根源的要因はこの部分にある。
「被害者が謝るのはおかしい」と云う部分に拘泥され過ぎているのである。トラウマを未だ克服出来ないことと、その結果現実として周りに負担をかけていることは別問題だ。ここを分けられないから軋轢が生じる。トラウマを未だ克服することが出来ないことについて橋本愛が謝罪する必要性は全くない。だが現実に佐藤二朗へ多大な負担を掛けたことは事実なのだからそれについては謝罪する必要がある。「(善悪的な観点から)悪くないのに謝る」のではない、「現実に負担を掛けた事実」に対して謝るのだ。通常謝罪には再発防止策が伴うものだが、この場合は再発防止に努める必要性は全くない。迷惑をかけた事実のみに謝罪し、迷惑をかけたその原因について謝るものではないからだ。何度迷惑をかけても良い。その代わり都度謝る、或いは感謝する。トラウマのせいでキャリア構築を妨げられる筋合いはない。だがあなたのキャリア構築に付き合わされている人間への愛も持つべきだろう。
フジテレビはこの問題に関して自己保身第一ではあるのだがその要素を除外すれば、「被害者」である橋本愛の保護を最優先に活動を行っており、故にこの声明は橋本愛の保護に関してネガティヴな影響を与えるものについては割愛や改変を行っている可能性を考慮すべきである。これはリベラル左派がよくやる、マイノリティへの差別・偏見に繋がる事実は伏せるとの手法同様のものである。したがってそのような性質の声明である以上、述べられている「事実」を全面的に信用することは不可能である。
殊に橋本側が佐藤二朗の顎頬に触るアドリブ演技をハラスメント扱いしたことを認めることは絶対に出来ないわけである。それはここがこの問題の出発点であり最も巷間からのバッシングを買った部分(その程度のことでハラスメント扱いするな)だからである。だが本件はその部分を橋本側がハラスメント扱いしなかったならばそもそも起こらない構造なのである。フジテレビの声明からは、1回目の話し合いから2回目の話し合いまでの間の事情が欠落している。これは自然に考えるならば、1回目の話し合いで得た結論と現実の状況に齟齬が生じていたと解される。だから佐藤二朗が再度乗り込んで説教したわけである。顎頬タッチがハラスメント扱いされていなかったならばこんなことにはならないはずなのだ。加えて顎頬タッチがハラスメントではないにも拘らず、以降繰り返してそう云うシーンは出てこない。また、事前準備をすれば身体の絡み合うシーンも可能であるのにそれもない。このような客観事実、或いは状況証拠を踏まえれば、ハラスメント扱いされたと云うようにしか見えてこないのである。フジテレビの主張には客観事実或いは状況証拠による補強が全く不能な状況となっている。
受け手の側がハラスメントであると感じたならハラスメントなのであるとのスタイルを応用すると、腕肩を触った際には何も言われなくとも、顎頬を触った際にたとえ「今の演技はハラスメントではないけれども以後気を付けて下さい」と言われたならば、言われた側は、自分の顔を立ててそう云う言い方をしてきたが実際には顎頬タッチをハラスメント扱いしてきたのだなと認識することとなろう。フジテレビの言うように橋本側がそのことについてハラスメント扱いをしていなくとも、佐藤二朗がそう感じてしまったのならばハラスメント扱いをしたと云うことにならなければなるまい。橋本側が本当にハラスメント扱いしていなかったのならば寧ろ、佐藤に対してどんどん顎頬を触って欲しいと依頼すべきであった。佐藤の出方待ちでなく、橋本側から積極的にこう云ったアクションを取らなければ誤解は晴らせない。
どうも橋本愛の存在感の無さと云うか身内以外とまともにコミュニケーションが取れないさまにもやもやする。佐藤の説教を前に泣き続けて撮影に穴をあけたこともそう。目上の人間相手であろうときちんと自己主張することが出来ない。これをトラウマがフラッシュバックしたから仕方がない等の理由で済ませて擁護するなら、個の成長や成熟はない。涙を流すのは結構だが怯まずに立ち向かわなければならない。何故なら「口」がついているのだから。あなたのその口は一体何のためについているんですかと云う話である。結局のところ本件はきちんと橋本側が相手側に自己主張しなかったことにより悪化している。要求はある、だが言いにくいから出来れば自分からは言いたくない・・・それは無責任な態度である。自分の利益のためにはきちんと自ら泥を被るべきだ。
外部弁護士は、佐藤の説教に対して号泣し続け以降出勤しなかった日があったことを受けて、受忍限度を超えた精神的負荷であるとしたのだろうが(彼らはたとえそう云うことが無かったとしても判断に変わりはないと言ってくるのだろうがそれが本当なら判断の根拠が無くなってしまうわけで杜撰極まりない判断となる)、強い心・強い個があって号泣せずにきちんと対峙したならばハラスメント認定されなかっただろうなと思うと暗澹たる気分になる。佐藤二朗に対する精神的負担を一方的にフジテレビと橋本側はかけ続けているがそこに対する謝罪がない。橋本愛が佐藤二朗の説教をキャリアの否定であると捉えたことをおかしなことだとは全く思わない。橋本愛の立場で考えれば佐藤の要求には理不尽なものがある。橋本がそのように捉えたことへの非難も多々あるが、私はそこに対しては全く与しない。橋本の捉え方は正当だ。だがそのことを第三者が同じように捉えて判定することへの支持はまた別である。「被害者」の側へ寄り添い過ぎている。今度の声明の中で一応フジテレビは佐藤に謝罪した格好だが、橋本側もまた佐藤に多大な負担をかけたことについて謝罪すべきだ。トラウマ持ちであってもキャリア構築の障害にはなりたくない・やりたい仕事をしたいと云う欲望、そしてトラウマによってキャリア構築が妨害されるべきではない・そんなことは社会正義の観点から許されざるものだとの正義感、それらが一点となって佐藤二朗に集中して押し付けられている構造なのである、佐藤にとっては橋本愛のトラウマ云々のことなど何も関係ないことであるのに。本件のトラブルの根源的要因はこの部分にある。
「被害者が謝るのはおかしい」と云う部分に拘泥され過ぎているのである。トラウマを未だ克服出来ないことと、その結果現実として周りに負担をかけていることは別問題だ。ここを分けられないから軋轢が生じる。トラウマを未だ克服することが出来ないことについて橋本愛が謝罪する必要性は全くない。だが現実に佐藤二朗へ多大な負担を掛けたことは事実なのだからそれについては謝罪する必要がある。「(善悪的な観点から)悪くないのに謝る」のではない、「現実に負担を掛けた事実」に対して謝るのだ。通常謝罪には再発防止策が伴うものだが、この場合は再発防止に努める必要性は全くない。迷惑をかけた事実のみに謝罪し、迷惑をかけたその原因について謝るものではないからだ。何度迷惑をかけても良い。その代わり都度謝る、或いは感謝する。トラウマのせいでキャリア構築を妨げられる筋合いはない。だがあなたのキャリア構築に付き合わされている人間への愛も持つべきだろう。
橋本愛と佐藤二朗の件は、佐藤二朗が色々といい人風なことを言っていてそこに取り繕っている可能性も感じるが、その要素を取り除いてもなお、橋本愛の側に問題があると思うところである。
本件を外形的にスマートに「処理」するならば、橋本愛が制約を持っているにも拘らず起用を決めたのはフジテレビ側なのだから、一介の演者である佐藤二朗が橋本愛に対して物申すのはおかしく、仮に物申すならフジテレビ側やこの仕事を受けたことへの最終責任を持つ橋本愛のプロダクション相手にすべきであって、橋本愛本人に対して為されるべき事柄ではない、だから佐藤二朗の言行は間違い・筋違いであって故に佐藤二朗が悪い・・・こんなところかと思う。
マァ、こう云う処理の仕方をするものだから、生身の人と人との交わりがまともに出来なくなって社会の分断が進むことになるのだがね。佐藤二朗と橋本愛がサシで互いの役者論、芝居論をぶつけて闘わせれば本来済む話なのだ。けれど、それが佐藤二朗には出来るけれど橋本愛は出来ないわけでしょ?(だからこんなことになっている) それは橋本愛は未熟なのだと云うことを意味する。若手女優だから仕方ないじゃないかって?一人の俳優として評価していないではないか(マァ右派にもその傾向がないわけではないが日本のリベラル左派の悪いところは状況に応じて若い女を一人前扱いしたり半人前扱いしたりと変えてくるところだ。単に若い女を甘やかしているだけ)。プロダクションやリベラル左派の連中がよってたかって「保護」していたらいつまでも40になっても50になっても成熟しないのだ。ま、これもまた余計なお世話ということになるものだが、こちとらとて橋本愛の未来がどうなろうとそんなことは知ったこっちゃあない。だが、世相とか風潮と云った言葉もあるように世の中と云うものは繋がっているから直接的な関係性の有無を以て「私の勝手。お前らには関係ないだろ?」と云うことにはならない面があるのもまた真である。
本件に関してはフジテレビが声明を出しているがこれは極めて重要なものである。世間は佐藤二朗が橋本愛の顎又は頬に触れた行為によりハラスメント認定された・気の毒過ぎると「勘違い」している・・・だが、それに関しては無問題であり、その後の佐藤の説教「周りに負担強いるなら役者やるな」が橋本のキャリア否定となるからハラスメント認定されたことを言いたいがための声明となっている。ところがこの問題がなぜ起こったのか、その直接的原因は顎頬に触ってきた佐藤二朗のアドリブ演技を橋本愛がハラスメントであるとした点にある。それで佐藤二朗がこんなことでハラスメント扱いされたら芝居にならないと憤慨したから事態を収拾させるために実は過去に受けた行為のせいでトラウマがあって・・・と云う話に後出しじゃんけん的になり、だからと言ってトラウマを錦の御旗のように掲げて自分の行動を正当化するなよと佐藤二朗が新たに憤慨して件の「キャリア否定発言」をしたように読み取れる。フジテレビは佐藤のアドリブ演技をハラスメントであると認定していない。したがって橋本は佐藤の正当な演技をハラスメント扱いしたことについて謝罪しなければならないのだが、それをしているのだろうか。佐藤の態度を見るに恐らくしていない、或いは形式的で真摯なものではなかったということになるのだろう。当然佐藤の橋本への態度は頑ななものとなるわけで、その佐藤の「酷い」態度を見た誰かが憤慨して文春にリークしたのだろうなとも推察する。
橋本愛が佐藤二朗の発言をキャリア否定と捉えたのはかなり事実であろうと思う。これは先述したように演者と云うのは基本受け身であって、プロデューサーや監督の判断に基づいてオファーが為されており、それが今日まで問題なく続いているわけだから、トラウマ持ちでもキャリアが続行されていたわけだ。それを佐藤の横槍で中断を求められることは心外であり、キャリア否定だと云うことになる。橋本は若手俳優や外国俳優相手には身体接触をベタベタやっているわけであり、この点からもトラウマとは折り合いをつけて活動してきたと云う自負もあるだろうから余計にキャリア否定と捉えられるものとなる。ただ一方で若手や外国人相手にベタベタやれるのに、佐藤に顎を触られた程度で発狂するとはどういうことだ?と云う話には当然なるものであり、このことは佐藤二朗を大いに憤慨させ傷つけることとなったろう。
事前に準備していたから身体接触が可能だったわけであり今回は準備無しだったからダメだったのだとの意見もあるが、当該ドラマでは身体接触はこの後無かったことからして準備していたならば身体接触は可能だったとの論は通用しない。準備した上で可能だったならばその後そう云ったシーンは幾らでも作れるからである。したがって結局のところ、佐藤二朗が相手だったから準備しても身体接触はNGと云うように取るほかないわけである(顎へのお触りがハラスメントであると橋本側が認識していたことの傍証でもある)。自分が如何に傷つかないか、快適に過ごせるか、そのことばかり考えて、自分の行動の結果として他者が傷つく可能性や負わされるストレスには無頓着である橋本愛の態度がこの問題を引き起こしたのだと評価するものである。橋本側はフジテレビの声明を肯定しているが、フジテレビの声明は、我々フジテレビは佐藤二朗の顎タッチをハラスメントであるとは認めないがこれを橋本はハラスメントであると見做したのが原因でトラブルになった(佐藤は悪くない・橋本が悪い。橋本はハラスメントであると見做しているが同意しない)、そしてそれに対して佐藤が抗議したから更なるトラブルになった(橋本は悪くない・佐藤が悪い。佐藤はハラスメントではないと見做しているが同意しない)=我々フジテレビは全然悪くないと云うように読めるのだが、橋本側はそれでも肯定すると云うことなのだろう。
橋本愛は以前、トランスジェンダー絡みの発言をSNSで行い、賛否巻き起こしていたものである。更衣室で自分の隣にトランスジェンダーがいたら警戒感を覚える、その警戒感が相手に伝わることで相手が傷ついてしまう事態になるのは嫌だから予め施設の方でトランスジェンダーを排除して欲しいと云うようなことを言っていた。実に自己中心的である。門前払いにされたトランスジェンダーの人間は傷つかないとでも思っていたのだろうか。自分さえ嫌な思いをしなければそれでいいと云う感覚。色々と反省した様子だったが結局変わっていなかったと云うところである。社会的な発言をするのも結局は、苦しむ人を見聞きすることで自分が嫌な思いになる、それが嫌だからやっているのだろう。見て見ぬふりをすることと比較すればマシとも言えるが、結局このようなトラブルを起こし「誰か」を傷つけたのだから、良い傾向であるとは思えない。
改めて報道されている本件の経緯・経過を眺めると、協議してなお、腕と肩以外触ってはならぬことになっている。つまり、顎頬は触ってはいけないままとなっているわけだ。これは佐藤二朗にとってはかなりの屈辱だったろう。この仕打ちは佐藤の役者としてのプライド、要するにそのキャリアを否定するものだから。佐藤の現場での態度がキツいものになったと云う話は当然であるように思うものである。佐藤のハラスメントを呼び込んだのは橋本だった・・・橋本愛本人と云うよりも周りの大人の人たちが過剰に愛お嬢様を守ろうとの使命感に駆られて事態を悪化させたように見える。その観点からすれば、橋本愛もまた気の毒だなと思うところでもある。一連のプロダクションの対応が、橋本愛のプライドやブランド価値を守ることを取るか、それとも橋本愛の体調や現実的に働きやすい環境のどちらを取るかで、どっちつかずとなっている印象を抱くものでもある。佐藤二朗よりも橋本愛側に問題があったと見る部分は現状変わらないが、検討するにつれて橋本愛本人よりもプロダクション等周りの人間に最も問題がある、それが目下の所感である。・・・一人の人間・役者としてもっと橋本愛を信頼して本人に対処させた方が良かったんじゃないですかね。少なくとも今のような状況にはならなかったでしょうね。。。
【7月7日フジテレビ声明を受けての追記は次回にアップ】
本件を外形的にスマートに「処理」するならば、橋本愛が制約を持っているにも拘らず起用を決めたのはフジテレビ側なのだから、一介の演者である佐藤二朗が橋本愛に対して物申すのはおかしく、仮に物申すならフジテレビ側やこの仕事を受けたことへの最終責任を持つ橋本愛のプロダクション相手にすべきであって、橋本愛本人に対して為されるべき事柄ではない、だから佐藤二朗の言行は間違い・筋違いであって故に佐藤二朗が悪い・・・こんなところかと思う。
マァ、こう云う処理の仕方をするものだから、生身の人と人との交わりがまともに出来なくなって社会の分断が進むことになるのだがね。佐藤二朗と橋本愛がサシで互いの役者論、芝居論をぶつけて闘わせれば本来済む話なのだ。けれど、それが佐藤二朗には出来るけれど橋本愛は出来ないわけでしょ?(だからこんなことになっている) それは橋本愛は未熟なのだと云うことを意味する。若手女優だから仕方ないじゃないかって?一人の俳優として評価していないではないか(マァ右派にもその傾向がないわけではないが日本のリベラル左派の悪いところは状況に応じて若い女を一人前扱いしたり半人前扱いしたりと変えてくるところだ。単に若い女を甘やかしているだけ)。プロダクションやリベラル左派の連中がよってたかって「保護」していたらいつまでも40になっても50になっても成熟しないのだ。ま、これもまた余計なお世話ということになるものだが、こちとらとて橋本愛の未来がどうなろうとそんなことは知ったこっちゃあない。だが、世相とか風潮と云った言葉もあるように世の中と云うものは繋がっているから直接的な関係性の有無を以て「私の勝手。お前らには関係ないだろ?」と云うことにはならない面があるのもまた真である。
本件に関してはフジテレビが声明を出しているがこれは極めて重要なものである。世間は佐藤二朗が橋本愛の顎又は頬に触れた行為によりハラスメント認定された・気の毒過ぎると「勘違い」している・・・だが、それに関しては無問題であり、その後の佐藤の説教「周りに負担強いるなら役者やるな」が橋本のキャリア否定となるからハラスメント認定されたことを言いたいがための声明となっている。ところがこの問題がなぜ起こったのか、その直接的原因は顎頬に触ってきた佐藤二朗のアドリブ演技を橋本愛がハラスメントであるとした点にある。それで佐藤二朗がこんなことでハラスメント扱いされたら芝居にならないと憤慨したから事態を収拾させるために実は過去に受けた行為のせいでトラウマがあって・・・と云う話に後出しじゃんけん的になり、だからと言ってトラウマを錦の御旗のように掲げて自分の行動を正当化するなよと佐藤二朗が新たに憤慨して件の「キャリア否定発言」をしたように読み取れる。フジテレビは佐藤のアドリブ演技をハラスメントであると認定していない。したがって橋本は佐藤の正当な演技をハラスメント扱いしたことについて謝罪しなければならないのだが、それをしているのだろうか。佐藤の態度を見るに恐らくしていない、或いは形式的で真摯なものではなかったということになるのだろう。当然佐藤の橋本への態度は頑ななものとなるわけで、その佐藤の「酷い」態度を見た誰かが憤慨して文春にリークしたのだろうなとも推察する。
橋本愛が佐藤二朗の発言をキャリア否定と捉えたのはかなり事実であろうと思う。これは先述したように演者と云うのは基本受け身であって、プロデューサーや監督の判断に基づいてオファーが為されており、それが今日まで問題なく続いているわけだから、トラウマ持ちでもキャリアが続行されていたわけだ。それを佐藤の横槍で中断を求められることは心外であり、キャリア否定だと云うことになる。橋本は若手俳優や外国俳優相手には身体接触をベタベタやっているわけであり、この点からもトラウマとは折り合いをつけて活動してきたと云う自負もあるだろうから余計にキャリア否定と捉えられるものとなる。ただ一方で若手や外国人相手にベタベタやれるのに、佐藤に顎を触られた程度で発狂するとはどういうことだ?と云う話には当然なるものであり、このことは佐藤二朗を大いに憤慨させ傷つけることとなったろう。
事前に準備していたから身体接触が可能だったわけであり今回は準備無しだったからダメだったのだとの意見もあるが、当該ドラマでは身体接触はこの後無かったことからして準備していたならば身体接触は可能だったとの論は通用しない。準備した上で可能だったならばその後そう云ったシーンは幾らでも作れるからである。したがって結局のところ、佐藤二朗が相手だったから準備しても身体接触はNGと云うように取るほかないわけである(顎へのお触りがハラスメントであると橋本側が認識していたことの傍証でもある)。自分が如何に傷つかないか、快適に過ごせるか、そのことばかり考えて、自分の行動の結果として他者が傷つく可能性や負わされるストレスには無頓着である橋本愛の態度がこの問題を引き起こしたのだと評価するものである。橋本側はフジテレビの声明を肯定しているが、フジテレビの声明は、我々フジテレビは佐藤二朗の顎タッチをハラスメントであるとは認めないがこれを橋本はハラスメントであると見做したのが原因でトラブルになった(佐藤は悪くない・橋本が悪い。橋本はハラスメントであると見做しているが同意しない)、そしてそれに対して佐藤が抗議したから更なるトラブルになった(橋本は悪くない・佐藤が悪い。佐藤はハラスメントではないと見做しているが同意しない)=我々フジテレビは全然悪くないと云うように読めるのだが、橋本側はそれでも肯定すると云うことなのだろう。
橋本愛は以前、トランスジェンダー絡みの発言をSNSで行い、賛否巻き起こしていたものである。更衣室で自分の隣にトランスジェンダーがいたら警戒感を覚える、その警戒感が相手に伝わることで相手が傷ついてしまう事態になるのは嫌だから予め施設の方でトランスジェンダーを排除して欲しいと云うようなことを言っていた。実に自己中心的である。門前払いにされたトランスジェンダーの人間は傷つかないとでも思っていたのだろうか。自分さえ嫌な思いをしなければそれでいいと云う感覚。色々と反省した様子だったが結局変わっていなかったと云うところである。社会的な発言をするのも結局は、苦しむ人を見聞きすることで自分が嫌な思いになる、それが嫌だからやっているのだろう。見て見ぬふりをすることと比較すればマシとも言えるが、結局このようなトラブルを起こし「誰か」を傷つけたのだから、良い傾向であるとは思えない。
改めて報道されている本件の経緯・経過を眺めると、協議してなお、腕と肩以外触ってはならぬことになっている。つまり、顎頬は触ってはいけないままとなっているわけだ。これは佐藤二朗にとってはかなりの屈辱だったろう。この仕打ちは佐藤の役者としてのプライド、要するにそのキャリアを否定するものだから。佐藤の現場での態度がキツいものになったと云う話は当然であるように思うものである。佐藤のハラスメントを呼び込んだのは橋本だった・・・橋本愛本人と云うよりも周りの大人の人たちが過剰に愛お嬢様を守ろうとの使命感に駆られて事態を悪化させたように見える。その観点からすれば、橋本愛もまた気の毒だなと思うところでもある。一連のプロダクションの対応が、橋本愛のプライドやブランド価値を守ることを取るか、それとも橋本愛の体調や現実的に働きやすい環境のどちらを取るかで、どっちつかずとなっている印象を抱くものでもある。佐藤二朗よりも橋本愛側に問題があったと見る部分は現状変わらないが、検討するにつれて橋本愛本人よりもプロダクション等周りの人間に最も問題がある、それが目下の所感である。・・・一人の人間・役者としてもっと橋本愛を信頼して本人に対処させた方が良かったんじゃないですかね。少なくとも今のような状況にはならなかったでしょうね。。。
【7月7日フジテレビ声明を受けての追記は次回にアップ】