現在の皇室も旧宮家も等しく北朝系統の血筋に当たる。北朝が正統扱いであったのに明治になって後醍醐天皇の南朝方が正統ではないとはどういうことだと世論の風当たりが強くなり、遂に明治天皇が南朝方が正統であるとしてしまったのである。今日の男系男子継承でなければならない論にも通ずるが「このようであるべき・このようでなければおかしい」と云う正義感的価値観をごり押しした結果、逆に皇統が不安定になると云う副産物を盛大にもたらしてしまった。殊に北朝の天皇であるのに南朝こそが正統であると言わせてしまったことが後の世からすれば大問題なのであった。
要するに南朝が正統なのだが後小松天皇の時に南朝方から三種の神器が譲渡されて南北朝合一と相成り、以降の北朝系については正統であると云う建付けの仕方が為されたわけである。君主の統治正統(正当)性とは何によって担保されるか。これには三つあって、①血統、②権威、③継続性(既成事実)となる。現在の皇室が正統である建付けは②と③による。②権威とはこれ即ち、三種の神器である。この三種の神器の権威性によって後小松以降の北朝系が正統化された。③継続性とは以降北朝系が天皇位を独占し続けており、他の系統は見当たらない(とされている)ことによる。
それで問題となるのが①血統である。明治にやってしまったことは南朝を正統とするとの決定であった。正統の反対は異端である。つまり北朝は異端とされたわけだ。北朝は異端だったが後小松の時に三種の神器を南朝より譲渡され、三種の神器という権威によって正統性を回復した。これが明治時代に北朝系の明治天皇が認めさせられた建付けなのだ。ここで重要なのは南朝を正統としたことにより北朝が異端となってしまったことだ。北朝がその後正統性を回復したのは飽くまでも②権威によるものであって、南朝が正統とされてしまった以上、血統面では南朝の子孫がどこまでも正統であり、北朝は異端のままなのだ。これは奈良末期に天武系の血統が絶えてきたので天智系に皇統を戻そうと云った流れとは全く異なる。天智と天武、どちらも正統であって壬申の乱後に天武系に皇統が移ったからと云って天智系が異端となったわけではない。そして奈良末に天智系に皇統が戻ったからと云って今までの天武系が異端になったものでもない。ところが南北朝の場合、南朝が正統だということになって南朝系の天皇が歴代天皇の系譜に組み込まれ、後小松までの北朝の天皇は単なる「北朝の天皇」扱いとなって歴代天皇の系譜から除外され、番外扱いのような形となってしまった。このような皇統の安定性を揺るがす重大な事柄を、後醍醐の南朝が正統でないのはおかしいとの世論の圧に押されて決定してしまったのだ。
話題の旧宮家は後小松の御代の後に於いて分かれたものであり、その血統正統性は現皇室同様にない。そして旧宮家にとって問題なのは③継続性(既成事実)である。現行の皇室は明治期の決定のせいで血統面で正統性を失ってしまった。したがって継続性というものが非常に重要なのだ。幾ら正統性に疑義が生じたとしても他に競争相手が存在しておらずにその系統しか事実上存在せず不断の継続性が確保されてきたならば、そのこと自体が真実となり、その既成事実の積み重ねによって正統性を確保する形となるのである。これはちょうど現行の建築基準法に適合しない建造物のようなものだ。仮に現行の建築基準法に適合しないとしても現行の建築基準法施行以前より存在していた建造物は現行の建築基準法に適合しないからと云って違法建築となり取り壊しの憂き目に遭うものではない。既成事実が重視・優先される。だが現行の建築基準法に適合しない建造物には普段の存在継続性が求められる。一旦その存在が失われたならば現行の建築基準法以前から存在していたとの既成事実は失われて、二度と同じ建造物をこしらえることは出来ないのだ。そして旧宮家と云うのはまさにこのような存在となっている。旧宮家が旧宮家になる前に於いては現皇室同様に②権威・③継続性がその正統性の証であった。ところが戦後に臣籍降下してしまい皇族としての地位を失ってしまった。一秒たりとも途切れることなく絶え間ない不断の流れであるから皇統は尊いのである。それが戦後に失われてしまった以上、旧宮家にとっての正統性は①権威しかない、極めて脆弱な建付けとなっているのである。このことは幾ら養子となって皇室に復帰したとて穴埋めすることの出来ない永遠の事実である。その建造物は取り壊されてしまったのだ。たとえ再建されても元の建造物とは似て非なる代物である。
さて最大の問題は①血統についてである。血統面の正統性を持っているのは南朝の子孫である。だが実は何も南朝の子孫だけに限定されるものではない。南北朝に分かれる以前に皇統から分かれた血統もまた正統性を持っているのである。要は源氏や平氏の子孫は血統正統性を持っているということだ。南朝の子孫、それに源氏や平氏の子孫は①について正統である。現皇室は②と③について正統である。1対2で正統性ポイントは現皇室が勝っている。ところが旧宮家は②しか正統性を見出せない。その旧宮家出身者が養子となって現皇室の一員となっても一旦失われた継続性は二度と元には戻らないから正統性ポイントは②だけのままだ。その子孫から天皇が生まれた場合、②のみの正統性に裏付けられた天皇が誕生することとなる。80年臣下として暮らした者が、先祖が室町時代に現皇統から分かれた皇族だったからと云う血統面の裏付けによって皇室に復帰する、だがその血統は飽くまでも北朝系のものであって異端である。しかも絶え間なく皇室の一員だったわけではなく80年、2-3世代の空白まである。室町時代という大昔にまで遡ってしまったならばもはや平安時代まで遡って正統な血統の皇室・天皇を奉っていこうと云う動きへのストッパーはなくなってしまった。
今回の旧宮家復帰・養子案を最も簡単なロジックで正当化するなら「GHQという外国勢力の介入を受けた皇室を元の姿に戻すだけ」であって何で反対するんだ、これは日本の主権の回復行為なんだというものとなる。だが外国勢力が動かしたものを元に戻すだけなのだから問題はないということがまかり通った場合、将来の皇統の安定性は著しく損なわれることとなるだろう。将来のことを本当に考えるならば日本が再び外国勢力に占領・統治されることも当然考えなければならない。その時にその外国が南朝の子孫を見つけ出して皇位に就ける、或いは源氏平氏の血統の人間を皇位に就けた場合、日本が主権を回復した後にその地位はどうなるのか。外国勢力が担ぎ上げたからその皇統は50年100年続いていても廃絶とし、元の悠仁親王の子孫、或いは旧宮家養子子孫の皇統に戻すのか戻さないのか戻せるのか、特に皇統が悠仁親王の子孫ではなく旧宮家養子子孫に移っていた場合は正統性が一段弱いから、最終的に今回のような養子案等によってまとまったとしてもそこに至るまでの長期間、喧々囂々百家争鳴状態となって、より一層混迷の度は深まることとなろう。旧宮家養子案を推進した右派は男系男子継承を守って皇統の安定性を重視したものだが、皇統は将来にわたって永久に不安定化してしまったものだなと嘆息するものである。
男系男子継承は飽くまでも皇統の安定性を企図してのものであった。目的ではなく手段だった。それを神武天皇のY染色体がーとか言い出して目的化してしまい、視野狭窄に陥ってどのような手段を用いてでも男系男子継承さえすればいいものとの盲信、誤謬へと陥った。
以前は旧宮家案に絶対反対ではなかったものだが、よくこれを検討してみると、未来の日本のアキレス腱となり得るものを創造してしまったものだと断ぜざるを得ない。歴史に学ばない人間が明治期に犯した過ちを、あれから100年以上経った令和期に形を変えつつ「再現」させてしまったわけである。まあ、とんだことをしてくれたものだ。
皇室典範問題についてはやっぱりそういう結果になりましたかと云うところである。何かねえ、神武天皇のY染色体云々の議論を眺めていると虚しくなる。万世一系で皇統が紡がれてきたと云うのはそれは飽くまでも系図上の話だ。どこぞの公家や下手をすると警護の兵士のY染色体を有難がっているのかと思うと虚しさしか募らない。昔は一夫多妻でそれでこその男系男子継承だった。一夫多妻ということは妻側にだって男が複数出来ている可能性が高くなってくるわけである。妻が何人もいては一人の場合とを比較して夫が管理しきれなくなるのは当たり前だからだ。平安時代は通い婚だったとか室町戦国の混乱と困窮などを見るにつけ、とてもじゃないが系図通りになどなっていないであろう。旧宮家など天皇家以上にどうなっていたことか。
君主にとって大事なのは血筋だけではない。まずは徳と云うものが無ければ血筋に問題は無くとも、中々これは難しい。そういう意味では血筋こそ全てと全振りするのは君主制の価値を損ねることとなる。実際の血統上に於いて皇統の断絶が起きていたならば敬意は減衰するのかね?
まあしかし、あそこまでのごり押しを見るにつけ、天皇家側か旧宮家側のどちらかに血統断絶が起きていることをあの人たちの中に認識している人がいるんだろうなとの疑念も湧く。明治天皇替え玉説が本当なのか、それとも旧宮家の中にそういうのがあったのか。スパイとかエージェントと云うのはそれらしい人よりも寧ろそれっぽくない人の中に紛れ込んでいるものだ。日本会議とか神道政治連盟とかそういった人々の中に存在していて愛国者のふりをしながら皇統断絶へ向けてほくそ笑みつつ活動しているわけである。だからこそ血統に全乗りするのではなく徳と云うものを第一に君主と云うものを考えなければなるまい。というのも仮に系図通りに実際の血も受け継がれているとしても皇室の血統問題は解消していないからだ。
君主にとって大事なのは血筋だけではない。まずは徳と云うものが無ければ血筋に問題は無くとも、中々これは難しい。そういう意味では血筋こそ全てと全振りするのは君主制の価値を損ねることとなる。実際の血統上に於いて皇統の断絶が起きていたならば敬意は減衰するのかね?
まあしかし、あそこまでのごり押しを見るにつけ、天皇家側か旧宮家側のどちらかに血統断絶が起きていることをあの人たちの中に認識している人がいるんだろうなとの疑念も湧く。明治天皇替え玉説が本当なのか、それとも旧宮家の中にそういうのがあったのか。スパイとかエージェントと云うのはそれらしい人よりも寧ろそれっぽくない人の中に紛れ込んでいるものだ。日本会議とか神道政治連盟とかそういった人々の中に存在していて愛国者のふりをしながら皇統断絶へ向けてほくそ笑みつつ活動しているわけである。だからこそ血統に全乗りするのではなく徳と云うものを第一に君主と云うものを考えなければなるまい。というのも仮に系図通りに実際の血も受け継がれているとしても皇室の血統問題は解消していないからだ。
ICCの所長が日本人であると云うこともあってICC擁護が甚だしい。トランプがICCを解体してくれると云うのならこんなに喜ばしいことはない。こんな機関に首ったけだった歴代日本政府の態度こそおかしかった。
昨今、国連から女性天皇を認めないのは女性差別であるとのご忠言を複数回賜り、右派を中心に大反発し、政府もまた反発を示したわけだが、あれは所詮勧告止まりであった。だがICCと云うのはそれを更にパワーアップさせて強制力を持たせるものだ。国家主権を大幅に制限しかねない超国家機関であり(インターナショナルと云うよりもトランスナショナル)、このような機関の活動の推進に一役買うことは日本の主権を護持する立場からすればとんでもない暴挙となるものである。
確かに現行のICCは戦争犯罪等に特化した機関である感がある。だがそれは目下のところはそう云う機関だと云うことに過ぎない。この機関を強力に支援しているのがリベラル左派の巣窟たるEUであることを忘れてはいけない。今はグロティウス的国際法の審判と云った立ち位置だが、古典的リベラリズムからリベラル左派へと変化を遂げていったように、古典的国際法遵守の立場から次第に人道主義へと移行し、更には広く社会的不正義を糺す機関へと変貌を遂げるであろうことは決して荒唐無稽な未来予想図ではない。リベラル左派・グローバリストが狙っているのはまさにその方向性である。
例えば、である。高市早苗が男系男子継承維持を公約にして政権を取った。ところがICCが高市を女性差別主義の犯罪者であると断じて逮捕状を取る、こう云った事態が起こり得るということなのである。主権国家とは何か、国民主権とは、民主主義とはと色々問われる事態になるがリベラル左派のお眼鏡に適う部分のみ、国家の主権や民主主義を認めると云う建付けであることは現在のリベラル左派の選別的リベラリズムを見てもらえば非常に分かりやすい。
日本がICCを積極的に支持してきたのはひとえに対中戦略の一環としてと云うところであろう。中国を抑え込むために「法の支配」が有効だからICC強化を推進してきた。だが当の中国に対してICCは無力である。そして中国は現行の国際法やリベラル左派的思考を、西欧中心主義であると見做し、そこからの離脱と伝統的中華主義的法秩序の構築を狙っているわけだ。高市の「台湾有事発言」とその後の成り行きの際にも深く感じたところだが、日本は中国に支配されているわけである。これは一般的イメージとして思い浮かべるであろう「中国をこれ以上怒らせるとまずいからそれはやめよう・中国に謝るべきだ」と云う言説のみを以て中国に支配されていると指摘しているものではない。「高市政権を批判することは中国を利することになるからやめるべきだ」と云う方向性の言説を、中国に支配されていると評しているのだ。これをすると中国に怒られる・あれをすると中国を利することになる・・・親中だろうが反中だろうが、軸は中国であって、中国の意向次第で外交対応姿勢ひいては国策が決まる状況に陥っているのだ。要するに日本外交・日本の針路が中国に規定されている状態になっている。そうすると中国も馬鹿ではないから、表向き強烈な不満を示して、日本を損失の大きな政策へ誘導しつつ、陰では日本の国力消耗をほくそ笑んでいると云った事態も生まれてくるわけである。
ICCがリベラル左派的機能拡大を図ることは日本にとって良くないことだ。だが対中封じ込めには法の支配を掲げるICCは有用な存在として利用しているつもりが、ICCを支援する以上はリベラル左派的価値観の普遍化作業をも付随的に支援することとなり、それがいつの日か日本に対して牙を向くこととなるのだ。その段階になってICC批判を繰り広げても遅い。法の支配とは究極的にはリベラル左派的価値観による支配であることを見落としてはならない。
昨今、国連から女性天皇を認めないのは女性差別であるとのご忠言を複数回賜り、右派を中心に大反発し、政府もまた反発を示したわけだが、あれは所詮勧告止まりであった。だがICCと云うのはそれを更にパワーアップさせて強制力を持たせるものだ。国家主権を大幅に制限しかねない超国家機関であり(インターナショナルと云うよりもトランスナショナル)、このような機関の活動の推進に一役買うことは日本の主権を護持する立場からすればとんでもない暴挙となるものである。
確かに現行のICCは戦争犯罪等に特化した機関である感がある。だがそれは目下のところはそう云う機関だと云うことに過ぎない。この機関を強力に支援しているのがリベラル左派の巣窟たるEUであることを忘れてはいけない。今はグロティウス的国際法の審判と云った立ち位置だが、古典的リベラリズムからリベラル左派へと変化を遂げていったように、古典的国際法遵守の立場から次第に人道主義へと移行し、更には広く社会的不正義を糺す機関へと変貌を遂げるであろうことは決して荒唐無稽な未来予想図ではない。リベラル左派・グローバリストが狙っているのはまさにその方向性である。
例えば、である。高市早苗が男系男子継承維持を公約にして政権を取った。ところがICCが高市を女性差別主義の犯罪者であると断じて逮捕状を取る、こう云った事態が起こり得るということなのである。主権国家とは何か、国民主権とは、民主主義とはと色々問われる事態になるがリベラル左派のお眼鏡に適う部分のみ、国家の主権や民主主義を認めると云う建付けであることは現在のリベラル左派の選別的リベラリズムを見てもらえば非常に分かりやすい。
日本がICCを積極的に支持してきたのはひとえに対中戦略の一環としてと云うところであろう。中国を抑え込むために「法の支配」が有効だからICC強化を推進してきた。だが当の中国に対してICCは無力である。そして中国は現行の国際法やリベラル左派的思考を、西欧中心主義であると見做し、そこからの離脱と伝統的中華主義的法秩序の構築を狙っているわけだ。高市の「台湾有事発言」とその後の成り行きの際にも深く感じたところだが、日本は中国に支配されているわけである。これは一般的イメージとして思い浮かべるであろう「中国をこれ以上怒らせるとまずいからそれはやめよう・中国に謝るべきだ」と云う言説のみを以て中国に支配されていると指摘しているものではない。「高市政権を批判することは中国を利することになるからやめるべきだ」と云う方向性の言説を、中国に支配されていると評しているのだ。これをすると中国に怒られる・あれをすると中国を利することになる・・・親中だろうが反中だろうが、軸は中国であって、中国の意向次第で外交対応姿勢ひいては国策が決まる状況に陥っているのだ。要するに日本外交・日本の針路が中国に規定されている状態になっている。そうすると中国も馬鹿ではないから、表向き強烈な不満を示して、日本を損失の大きな政策へ誘導しつつ、陰では日本の国力消耗をほくそ笑んでいると云った事態も生まれてくるわけである。
ICCがリベラル左派的機能拡大を図ることは日本にとって良くないことだ。だが対中封じ込めには法の支配を掲げるICCは有用な存在として利用しているつもりが、ICCを支援する以上はリベラル左派的価値観の普遍化作業をも付随的に支援することとなり、それがいつの日か日本に対して牙を向くこととなるのだ。その段階になってICC批判を繰り広げても遅い。法の支配とは究極的にはリベラル左派的価値観による支配であることを見落としてはならない。
歴史の話ではなく先だってのサッカーの話である。マァいずれこれも歴史の話になるものであるが。
ブラジル戦の敗因は先制してしまったこと、そして二点目が取れなかったことである。非常にそらそうだろと云うことになるのだが、まずは一つ目、先制してしまったこと。ドイツ戦もスペイン戦も、そして先日ブラジル戦初勝利を挙げた一戦にしても、前半に相手に先制され、後半にこれをひっくり返す。これが格上必勝パターンだったわけだから先制して「しまった!」時点でヤヴァいと云う話である。それでも二点目が前半の内に或いは後半早々に取れていれば流石に相手に焦りも出て前にしようもなく突っかかってきたところをカウンターと云う手が使えたわけだが、二点目が取れなかったが為にそれも叶わず。
今回は史上初めて少しの運が向けば優勝可能な大会であった。昨今なぜ日本が強くなったかを考える。相手が油断してくれている、日本対策をしてこない・・・この前提をまず踏まえつつ、他の要素を見ると、それは相手がパスサッカーをしてくれるから、ここに尽きる。日本の苦手だった自在なドリブル突破、ゴール前に上げられたロングボールに屈強な長身FWが襲い掛かってくる、この手の戦法が半ば絶滅状態になってしまって、兎にも角にもパスパスパスと、外国人が苦手な箸を何とか使いこなそうとするが如く、大男たちもモダンでおしゃれなサッカーをやろうとする、これはもう日本にとっては好都合、わざわざ自分たちの土俵の上に立つ予測可能なサッカーだった。
それは初戦のオランダ戦である程度余裕ある引き分けだったことと3戦目のスウェーデン戦が薄氷の引き分けだったことの差に出ている。オランダの方がスウェーデンよりも強いのに(5-1で圧勝)、こんなことになったのもスウェーデンが意外にもシンプルにゴール前にボールを上げてくるスタイルだったからである。したがって相手がパスサッカーしてくれなかった場合にそれが即、日本の優勝はない!と云うことになってしまうのだ。ブラジル戦にしてもゴール前になりふり構わずボールを放り込まれての失点であった。
それから選手層の薄さも大きかった。これは怪我人の多さ、大会前から目立っていた上に大会に入ってから久保の負傷、これは予想以上に痛かったように見えた。そして鎌田。ここで保一監督が意図的に選手層を薄くしたことが響く。例の守田問題である。ボランチは守田と鎌田だった。ところが佐野が急伸してきて佐野がいるから守田なんかいらねーみたいな感じになった。しかしこれが間違いなのだ。中日の抑えをやっていたマルティネスが巨人へ移籍した。大丈夫大丈夫、その穴は8回に投げていた松山をスライドさせれば埋まる、と云うことだった。事実そうなった。では8回の松山の穴は?・・・ここが問題、埋まらなかったわけである。佐野がいるから守田は要らない、では佐野が怪我をしたら?実際には佐野ではなく鎌田が負傷したわけだが、守田も呼んで初めて選手層が厚くなったと言えるわけであって、佐野がいるから守田いらねーでは選手層は薄いままなのである。実際、守田がいれば鎌田を3戦目に出さずに済んでブラジル戦もそこそこのコンディションで戦えたわけだから、保一監督のエゴが日本敗退を導いた格好になったわけだ。
こう云うことをやっていれば運を自分から逃がすことになってしまうわけである。本当に何の為のスピリチュアルだったのだろうか。その観点から言えばブラジル戦前の塩貝の「ビッグマウス」、相手の闘志にわざわざ火をつけることを言ってしまう、これは非常に愚かなものだった。マァ、ブラジルよりもモロッコの方がやりやすかったことは事実だろう。ブラジルは直近の一戦で日本に負けているわけだから碌な日本対策などせずに臨むことは望めないわけで死んだふり作戦的なものを使えなかったのはちょっと致命的だったのかなと思う部分はある。結局ドイツとスペインに勝った前回と比較してチュニジアにしか勝てなかったのが今回と云うことになった。無邪気に応援すればいい、批判することに意味があるのか・・・そんな風潮はあるけれども、厳しい批判に晒されずにサッカー村の秩序の中で快適に過ごした結果が、今大会の全く進歩の感じられない経過と結果とに繋がったものである。家族・ファミリーと云う語を強調する組織は碌なことにならない。臭い物に蓋をする便利な発明品にアディオス!
ブラジル戦の敗因は先制してしまったこと、そして二点目が取れなかったことである。非常にそらそうだろと云うことになるのだが、まずは一つ目、先制してしまったこと。ドイツ戦もスペイン戦も、そして先日ブラジル戦初勝利を挙げた一戦にしても、前半に相手に先制され、後半にこれをひっくり返す。これが格上必勝パターンだったわけだから先制して「しまった!」時点でヤヴァいと云う話である。それでも二点目が前半の内に或いは後半早々に取れていれば流石に相手に焦りも出て前にしようもなく突っかかってきたところをカウンターと云う手が使えたわけだが、二点目が取れなかったが為にそれも叶わず。
今回は史上初めて少しの運が向けば優勝可能な大会であった。昨今なぜ日本が強くなったかを考える。相手が油断してくれている、日本対策をしてこない・・・この前提をまず踏まえつつ、他の要素を見ると、それは相手がパスサッカーをしてくれるから、ここに尽きる。日本の苦手だった自在なドリブル突破、ゴール前に上げられたロングボールに屈強な長身FWが襲い掛かってくる、この手の戦法が半ば絶滅状態になってしまって、兎にも角にもパスパスパスと、外国人が苦手な箸を何とか使いこなそうとするが如く、大男たちもモダンでおしゃれなサッカーをやろうとする、これはもう日本にとっては好都合、わざわざ自分たちの土俵の上に立つ予測可能なサッカーだった。
それは初戦のオランダ戦である程度余裕ある引き分けだったことと3戦目のスウェーデン戦が薄氷の引き分けだったことの差に出ている。オランダの方がスウェーデンよりも強いのに(5-1で圧勝)、こんなことになったのもスウェーデンが意外にもシンプルにゴール前にボールを上げてくるスタイルだったからである。したがって相手がパスサッカーしてくれなかった場合にそれが即、日本の優勝はない!と云うことになってしまうのだ。ブラジル戦にしてもゴール前になりふり構わずボールを放り込まれての失点であった。
それから選手層の薄さも大きかった。これは怪我人の多さ、大会前から目立っていた上に大会に入ってから久保の負傷、これは予想以上に痛かったように見えた。そして鎌田。ここで保一監督が意図的に選手層を薄くしたことが響く。例の守田問題である。ボランチは守田と鎌田だった。ところが佐野が急伸してきて佐野がいるから守田なんかいらねーみたいな感じになった。しかしこれが間違いなのだ。中日の抑えをやっていたマルティネスが巨人へ移籍した。大丈夫大丈夫、その穴は8回に投げていた松山をスライドさせれば埋まる、と云うことだった。事実そうなった。では8回の松山の穴は?・・・ここが問題、埋まらなかったわけである。佐野がいるから守田は要らない、では佐野が怪我をしたら?実際には佐野ではなく鎌田が負傷したわけだが、守田も呼んで初めて選手層が厚くなったと言えるわけであって、佐野がいるから守田いらねーでは選手層は薄いままなのである。実際、守田がいれば鎌田を3戦目に出さずに済んでブラジル戦もそこそこのコンディションで戦えたわけだから、保一監督のエゴが日本敗退を導いた格好になったわけだ。
こう云うことをやっていれば運を自分から逃がすことになってしまうわけである。本当に何の為のスピリチュアルだったのだろうか。その観点から言えばブラジル戦前の塩貝の「ビッグマウス」、相手の闘志にわざわざ火をつけることを言ってしまう、これは非常に愚かなものだった。マァ、ブラジルよりもモロッコの方がやりやすかったことは事実だろう。ブラジルは直近の一戦で日本に負けているわけだから碌な日本対策などせずに臨むことは望めないわけで死んだふり作戦的なものを使えなかったのはちょっと致命的だったのかなと思う部分はある。結局ドイツとスペインに勝った前回と比較してチュニジアにしか勝てなかったのが今回と云うことになった。無邪気に応援すればいい、批判することに意味があるのか・・・そんな風潮はあるけれども、厳しい批判に晒されずにサッカー村の秩序の中で快適に過ごした結果が、今大会の全く進歩の感じられない経過と結果とに繋がったものである。家族・ファミリーと云う語を強調する組織は碌なことにならない。臭い物に蓋をする便利な発明品にアディオス!
この事件には大きな特徴があった。「この人は犯人じゃない、冤罪です」これはよくある話だ。だがこの事件は「この人は犯人じゃない、真犯人はこいつです」と云う事件となっているわけである。「犯人」小原勝幸の冤罪を訴えてきた人物=ジャーナリスト黒木昭雄がZと云う人物を事実上真犯人視する形で主導してきた。この黒木の活動を全面的に後援したのが当初黒木から犯人視もされたと云うXと云う人物なのであった。他方、警察は梃子でも動かぬ様子で疑念を抱かれる言行を交えつつ、小原犯人視絶対なのである。この事件には明確に、小原を犯人にしたい勢力と小原を犯人にしたくない勢力がいるわけである。
この事件が急展開を見せ始めたのは2008年6月28日からだ。小原と車中等で寝食を共にし働いていた(働かされていた)梢Aが盛岡競馬場近くのホテル付近から宮城の実家へと逃走する・・・ここから破局へ向けて大きく動き始めたものである。黒木説では梢Aは小原の隙を見て逃走したことになっているが、盛岡競馬場周辺は市街地から離れた場所に位置しており、盛岡駅までの足をどう確保したか、ここが不明だったわけである。一応バスの便はあるのだが、梢Aがその存在を知っていたか、知っていたとしてバス停の位置やダイヤを正確に把握することが出来たか、ここに疑問をまず持つわけである。次に把握することは出来ていたとして実際にそれを使って決行に及ぶのかどうか、バス停までの間に小原に気付かれて連れ戻される、或いはバス停で待っている間に見つかって連れ戻される・・・その後に小原からの激しい暴行が待ち受けているであろう点を考慮すればバスを使って逃走すると云うことは選外となるだろうと思うものである。
その一方で梢Aは小原からの求めに応じて実家到着後に小原の携帯電話にワン切りしており、また小原から実家へAの私物を送ったと云う話もあることから身の危険を感じた小原が恋人であるAを実家へと逃がしたとの説もある。この事件の被害者=犯人によって殺害されたAと同姓同名の梢Bと云う人物に対してAは自分の身代わりで殺された旨、告白しているわけだが、Aは殺され得る人間だったにも拘らず、特に不安そうな様子もなくメディアに出てきている。その点を考慮すると外形的には小原の下から逃走したとの黒木説を採る。だがAの身がその後も安泰だった点を鑑みれば、黒木説によって如何にも想起される追っ手を気にしながらの逃走劇ではなくもっと堂々としたもの、即ちAが宮城側に小原を売り、以て今後は免罪扱いとされたことや駆け付けた彼らによって駅まで送迎された点を推察するものである。それと云うのもAが小原の下を離れてから急に小原が被害届の取り下げに動き始めたからだ。従来これは被害届を出された側であるZからのプレッシャー加減によるものとされてきたが、A逃走後に急にこの話がクローズアップされた点を踏まえれば、Aが盛岡に呼び寄せた宮城側の人間による要求だったと見る方が自然だろう。
但し小原自身が嘘をついて宮城側からの要求であることをZからの要求だと周囲に漏らしていた可能性はある。小原の心理状態として過度に追い詰められることを防ぐ為に、より重い存在の宮城ではなく、より軽い存在のZの名を出すことで周囲から過度に深刻に受け止められずに、以て自分はまだイケる存在なのだと思い込みたかったはずだとも思うからである。一般的にも例えば、本当は重い負傷であるのにそんなに大したことはない、大丈夫だとアピールすることは多々あるものだがそれに近い状態だったと見る。宮城側とヤバい状況だと云うことが知れ渡れば小原から人が離れて独りぼっちになる可能性を考えるだろうからそこを避けるために嘘をつく・・・と云ってもZから取り下げるよう要求されているのもまた事実だろうから小原としては嘘をついているわけでもなく、より都合の良い事実を選択しているに過ぎないとも言えるわけだが。
宮城側が小原に被害届の取り下げを要求したのは、小原が警察と関係を持つことをリスクと捉えたからだと見る。元々小原は信用されていない上に(恐らく小原は宮城側に黙ってA等を使い闇営業をしていたのだろう)裏稼業をしている人間が自分から、それも正規ルートを使って警察との関係を求めるとは何を考えているのかと云うところだろう。小原は警察との関係を基に自分たちをゆすってくることを宮城側はリスクとして危惧していたのだろうと見る。そこで小原は被害届取り下げへと向かうが、この被害届をとっかかりにしてZを検挙したい警察からは、梢Aと連名で出したのだからAも一緒に来るようにと言われる。小原はAに対して戻ってくるように説得するがAは一切聞き入れない。そこで同姓同名の梢Bを召喚して被害届取り下げを目論んだのだろうと推察する。だがここで小原は気付いてしまった。宮城側が自分に対して被害届取り下げを強く要求してきた背景を。小原は兎に角金欠だった。金に困っていた。そこでBを使って宮城側から金を脅し取ろうとした。自分が囲っていたAに比べてBは宮城側の内情に通じているから脅しはより有効に作用すると小原は踏んだのだろう。自分は警察と繋がっている(小原は例の警部補との関係をあることないこと織り交ぜて大いにアピールしたに違いない)。Bは連中から見れば商品でもある。したがって連中は手を出してこないだろうと小原は高を括っていたが予想に反してBは殺害されてしまい、見せしめとして比較的分かりやすい場所へ遺棄された・・・こう云った可能性を見るものである。このように、BはAの身代わりとして召喚されて殺害されたことと、BはBとして殺害されたことは両立するのである。
或いは単純にZ側から宮城側へ依頼があっての取り下げ要求かもしれず、Zがパクられることが宮城側にとってみても不利益を被る恐れありと見て取り下げ要求したと云った可能性も無論あるのだろうなと思うところである。いずれにせよ重要なことは小原からすれば、何と云っても被害届の取り下げには自分と梢Bが必要である点だ(Aが実家から出てこない以上は)。この被害届の存在が当初はZに対する御守りとして、そして今や宮城側に対する御守りとして機能しているわけで、当然自分の身も保障され、梢Bの身についても保障されるものと思いきや、あっさりBが殺害されたとなれば小原は自分の命が危ないことを思い知って非常にビビることになる。あのいきなり狼狽し、絶望に打ちひしがれる小原の様子とも辻褄は合うところでもある。Zに対する被害届である以上、小原が死ねばZが犯人視されることは確実なわけで宮城側からすれば痛くも痒くもない。小原はその点を見落としていたわけである。加えてB殺害犯として最も疑われるのも外形的には呼び出した格好の自分となるのだからこれはたまらない。
黒木はZがB殺害の犯人と見做していたが、Z絡みでこの事件が起きた場合、黒木の主張とは裏腹に小原が殺害犯である可能性はかなり高くなると見る。それと云うのも、Zが何故Bを殺害しなければならないのか、私もZ説を考えてきたがここがやはり弱いのだ。Zが検挙されるとZ自身というよりもその後ろで暗躍している人たちが危険になる、だからZは捕まるわけにはいかず、警察もまた被害届の取り下げに応じずにZを検挙しようとしていたのだろう。ZはAの顔を知らないからAとしてBがやってきたとしてもそれが偽物だとは気付かない。また警察にしてもAの顔を知っているのは例の警部補くらいかもしれず、BがAとして警察に向かってもバレなかったのではとも思われる。その前に、Z側にBを殺害する動機が余りないように思われるわけである。あるとすればBを殺害し、その罪を小原に被せることで小原からの被害届を無力化させてZが検挙されないようにすると云う線だけだが、その可能性はあるけれどもそこまでして警察から追及されたくない何かがZに連なる人間にあったのか、とはその線を記述しつつも正直感じてしまったものでもある。Z側からすれば被害届を取り下げてくれればそれでいいわけだから、その為の切り札である梢(AであれBであれ)を殺害するのか、そうもスパッと被害届取り下げ要求から小原を殺人犯に仕立てることによる被害届無力化へと舵を切ることが出来ただろうかとも思うところである。
そうするとBが言うことを聞かないことに腹を立てた小原が衝動的にBを殺害してしまった線が実はZ説では一番有力なものとなる。そうなると遺体の遺棄スタイルが問題となる。如何にも見せしめ的に遺棄されていたわけだ。小原が犯人ならもっと見つかりにくい場所に遺棄することは出来ただろうと云うことである。私もその点は強く考えていたが小原と云う情緒不安定な人物が殺人を犯してしまったと云う点を考えれば自暴自棄的に、見つかりにくい場所と云う部分は重視せずにその辺りに遺棄することは有り得るなとも感じたものである。いち早く車と遺体とを分離させたいと思ったならば、さほど複雑でもない場所に遺棄するだろうなと云うわけである。逆に宮城説の場合、Bを殺害したのは小原と云うよりも宮城側の人間の方が可能性として高いと見る。
XとZの主張は真っ向から対立しており、XとZ、どちらが犯人かと云った議論が湧いていたけれども、Zが犯人だと可能性は元より低いものだった。その最大の論拠は黒木の自殺である。大々的に小原の無実とZ犯人視説を流布してきたが小原が犯人ではとの疑念或いはZは犯人ではないのではとの疑念が湧き上がったのではと見るものである。但し、Zに連なる人物が殺害に及んだ可能性はなお残る。ではXはどうなんだと云うことになるが、Xの登場の仕方=小原自損事故現場に颯爽と現れる、がどうにも芝居臭い。その後、黒木の調査に献身し、上出の調査にも全面協力する・・・破格である。自分が犯人視されない為との域を超えている。また、強硬にZ犯人説を主張する点にも違和感を覚える。本件を見ていく中でXが強烈にノイズを発している点を評価するなら、Xは宮城側と協調していると見るのが自然であろう。無論、犯人ではない。Xが犯人である可能性はZより低い。
梢Aの逃走は小原にとって痛恨であった。小原の命脈はここに尽きたと見るものである。Aが宮城の実家に戻ったことは単なる地理的な意味合いでAが宮城の人間になったものではない。概念的・精神的な部分で宮城の人間になった、つまりは宮城側の人間になったと云うことである。したがって小原はAに岩手へ戻ってくるように執拗に言いながら自ら乗り込んで連れ去ると云うことはしなかった。これはAが概念的に宮城側の庇護を受ける側へ戻ってしまったことを意味しているものである。この事件、元々は宮城県内で展開されていたものだ。小原とA・Bの出会いからして宮城でのことだった。小原の故郷・田野畑村の田の字もない。ところが最終盤になって小原は急に田野畑へと顔を出し、滞在もするようになる。三陸の片隅にある故郷へと小原は追い詰められたわけである。Aが小原を売って自由を手にしたようにいつ小原が自由になるべく自分らを売るとも限らない。そこで自殺偽装と云う方法を宮城側が発案する素地が出来上がる。自殺したことにしてしまえば警察に捕まることはない。また、自殺した人間が出頭すると云うことは(概念上)起きない。或いは、自殺したことにしてしまえばその後に殺害しても明るみになることはない。
残る疑問は警察の異様とも思える小原犯人視についてである。小原が犯人でないと警察は困るわけである。第一にそれは小原が犯人だからだと云う見立てによるものであろうが、警察の失点としては小原と警察が接触していたにも拘らずその最中に小原によって召喚された梢Bが殺害されてしまったと云うことである。警察は小原からの被害届の存在を否定している。これにより警察が小原からの被害届の取り下げ要請に応じなかったからBは殺害されるに至ったのだとのロジックを潰しにかかる恰好となっている。警察とすれば小原と警部補との関係性が、そこに何らかの違法性が全く無くともそれ自体が黒歴史と化しており、小原に洗いざらい話されることは避けたい。小原を徹底的に犯人視して圧力を加えることによって小原が姿を現し辛い状況を逆に作り出している。仮に小原が犯人でないならば、なおのことその効果は絶大だ。ここまで強烈に犯人視されると絶望によって支配されて、裁判で潔白をなとどはとても思えないであろう。その結果、小原が死を選んでくれることは警察にとっても都合が良い。
この事件は登場人物に比してスケール感が大きいことが特徴で、黒木説に基づく見立てが従来中心だったわけだが、非常に違和感もまた大きく残るものであった。梢Bが何故殺害されなければならなかったのか、小原が何故偽装自殺を図ったのか・誰が入れ知恵したのか、ここが中々見えてこない代物だった。とてもZはその顔ではない。とすればZに連なる誰か位しか思い浮かぶものはなかった。Xと云う人物が上出遼平の登場と共に前面に出てきた。自殺偽装についてはこのXによる指南の可能性もあるなとは感じたが、B殺害の霧は一向に晴れることはなかった。だが宮城と云う存在を踏まえるならばこの事件に対して抱いた違和感は拭い去られる。宮城説が推理上は妥当なものであると云えそうである。
上出遼平プロジェクトを通じて、この事件の第一人者とされてきた黒木昭雄の評判が落ちていった。黒木の調査・推理範囲は岩手オンリーであり、意図的に宮城の事情には触れていない。そしてXの「監理」の下、Z犯人説へと傾いていった。だが肝心なところでは黒木は外していなかったのではなかったか。それが小原が梢B殺害の犯人ではない、と云う部分だ。小原自身の能力だけでは、自殺偽装を発案することも環境を整備して実行に移すことも出来ない。自殺を偽装している時点で誰かがこれに関与している。自殺偽装の「効用」は先に記した通りだ。したがって小原の今後の口封じと云う要素を鑑みれば、「100%そうだ」とは言えない。言えないがかなりの確率で、自殺偽装と云う手段を採ったと云うことは、小原はB殺害をしておらず、しかしその汚名を着せられたのだと云うことが言える。宮城側はいつでも小原を殺害することが出来た。だがそれをしなかった。小原を殺害すると誰が小原を殺害したかと云う点についてはZ側の人間だろうと云う話になるとしても、ではBは誰によって殺害されたのかと云うことが問題となる。Bは小原に殺害されたと見られたがその小原も何者かに殺害されたとなれば、Bも実は小原以外によって殺害されたのではと思われることになるであろう。そうなると宮城側の人間がBを殺害したのではないのかと云う展開にならないとも限らない。したがって小原がBを殺害し、追い詰められて自殺したと云う展開が必要となる。
仮に小原がBを殺害していたならば追い詰められた小原は出頭したのではないかとの意見を持つ人間が少なからずいるようだ。私もその可能性は高いのではと見る。小原は弱虫だから自殺することが出来ず(ヤケになって自損事故を起こした際も死ねなかったどころか大した怪我もしない有様だった)、また例の警部補との近い関係もあって、寧ろ追い詰められた場合には洗いざらいぶちまける方へ廻る気もするのである。あの自殺は偽装である、偽装である以上は小原が犯人ではない・・・この事件の、この根っこの部分は、様々な迷路に苛まれているこの事件の中にあって、その迷路全てをも押しのける真実として黒木は訴えているように感じるのである。