人はパンのみにて生くる者に非ず 人生はジャム。バターで決まり、レヴァーのようにペイストだ。 -2ページ目
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地方議会の女性議員の3人に1人がセクハラ被害に遭ったことがあるとの記事に接したが、その中で30代女性議員が「〇〇さんがいると華があって良い」と言われ、これをセクハラだと感じたとの話があった。

このレヴェルをセクハラにするなら、それは確かに3人に1人が遭遇していることにはなるだろう。華があると云う表現は老若男女全てに適用するものであるのだが、「私が若い女じゃなかったらこんなこと言わないよね?若い女だから色目を使ってくるのであって、私から若さを取ったら無価値、用済み扱いになるんでしょ?」と云うところであろうか。何とも中二病的、精神が拗れている。10代でこの気持ちを抱くのはよく分かるが、せめて20代前半の内に卒業してもらいたいものだ。精神が歪むのは、自分に自信が持てないでいるからだ。この手の人間には「容姿ではなく能力で評価してくれ」と主張する向きがあるが、能力に自信が持てているなら、「〇〇さんがいると華があって良い」と云う言をセクハラだと捉えることはない。軽やかに「どうもありがとう」と云う話である。よほどスケベな目で見られた等、特殊な状況下を除いては。或いは「褒め殺し」だったと云う線は残るところではある。が、しかし、結局のところは、容姿ではなく能力で認められたい=男に認められたい・・・と云うことなのである。自分に自信が持てずに空回り、劣等感に苛まれると云うパターン。男に認められるなどと云うちっぽけな部分に拘泥するのではなく、神に認められる人間になれば宜しいのである。

マァしかし、これは男の側からしてみたら悪意の塊でしかない。なぜなら化粧して、アクセサリーを付けて、男の画一的な服装とは異なる装いに身を包み、自分から華のある存在になっておきながら、その事実とその為に費やした労苦とに鑑み、華があって良いと褒めればセクハラ扱いされるのだから。電車の中で化粧をする女が「こっち見るなよ!」と言ってくるようなものである。だったら車内で化粧なんぞするなよと云う話である。もらい事故もイイトコロだ。

だがこのような拗らせた精神性も使い方によっては必ずしも悪い存在ではない。敷かれたレールに沿って、軽度の「セクハラ」を糾弾する創造性の無さが、結局のところリベラルがイノベーションを起こせない、その限界性の露呈と云う部分に帰結してしまう。例えば男はノーメイクでも良いのに、女のノーメイクは御法度、失礼だ!マナー違反だ!と批判されてしまう風潮は極めてジェンダー的な事柄である。「華がある」を肯定的に捉えずセクハラだと断ずるなら、自分から華のない人間になれば良いのであって、それならばそこから更に一歩進めて、「ノーメイクで何が悪い!女のノーメイクを当たり前にしよう」と云うムーヴメントに自らの精神を投じれば、それは軽度の「セクハラ」追及よりも遥かに、多くの女を苦しみから解放させる実りある偉業となるであろう。問題意識をどうクリエイティヴに用いるかと云うことが重要なのである。

一番の問題はセクハラ体質が残っていることではなく、若い女の議員が少ないことだ。その数が多ければ多いほど、セクハラの対象は分散し、やがて消滅する。先に意識が高まるか、後から意識がついてくるか…黒猫でも白猫でも鼠を捕る猫が良い猫である。無論、黄色い猫でも。
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いわゆる上沢式FA問題について選手会側が「何で庇ってくれなかったんだ」とNPB側に「おねだり」する声明を出したが、上沢擁護派が必ず主張するのが「ルール上何ら問題はない」と云うところである。

但し、大抵のルールはモラルとして問題があるから制定されるわけで、モラルやエシカルな部分を一切除去してルールを裸の王様にすることは真田丸のない大坂城のようなものでもある。しかしながら「ルール上問題ない」と云うことも一つの見識ではある。そしてその言説が適切な場合も確かに存在するものである。

本件について選手会によく言いたいことは、それならば死球の際に投手はなぜ脱帽して謝るのか、と云う点についてである。ルール上、そんなことをする筋合いなど全くない。にも拘らず、日本プロ野球ではそれが常態化している。それをしない日本人投手は大変な無礼者扱いをされがちである。死球はよけない、よけられない打者の側にも問題があるのに、あたかも投手だけが悪い風潮にし、投手の職場環境をいたずらに悪化させている。昨年、阪神の監督が死球の多さに文句を言い、試合後に一言謝りに来なかったと云うことでも文句を言い、阪神ファンからブーイングやら誹謗中傷やらが寄せられる事態となっていた。

死球はルール上問題のない行為なのだから批判や誹謗中傷はやめるように、件の監督やファンに向けて選手会はアナウンスすべきであろう。また、死球はルール上問題のない行為なのだから、投手が打者や相手チーム監督に対して謝ることを一切禁止する通達を出すべきである。

兎にも角にも、ルール上問題のない行為なのだから。

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昔は熱かったね。今は、気候は暑いけれどね。
2000年を境にした前後2年。日本のフットボールはトルシエの季節だった。
トルシエ派と反トルシエ派の暗闘は素晴らしかった。
あの熱さはもう戻ってくるまい。
今の森保が一か、まどかか、どうするんだなどと云うことなど
どうでもいい部類の論争に過ぎない。
私は結構やっちゃえトルシエ!的な感じだったものだ。
第一、トルシエとダバディは面白すぎた。
あの頃の川淵三郎はフットボールの人だったが、その後、バスケにも触手を伸ばした。
これはきっとアイスホッケーに触手を伸ばしたセル爺に対抗したに相違ない事だ。

そしてそのバスケ代表監督が話題になった。
ホーバス見てるとトルシエ思い出すね。確かに。
マウントをとることに命を懸けてる。小物だもの、しようがない。
キャリアも、内心も、誰を相手にしても胸を張れるような代物じゃあない。
ホーバスがその視界に八村塁を捉えた時、明らかにルイルイ気分にはならない。
本場をよく知る自分よりも格上の存在。
舐められないようにしよう、嘗められないようにしよう。確からしいことはそれだけだ。

しかしトルシエとホーバスは異なる。
トルシエにとってのルイルイは中田英だ。
だがトルシエは、トルシエにしては、中田英をリスペクトした。
本場のフットボールを熟知している人間として遇した。
確かに別格の存在だったからそれは現実的な対処だった。
そこはアフリカで地道に結果を出してきたトルシエのある種の年の功、
たっだのかもしれない。背に腹は代えられないと云うことだったのだろう。
その分、トルシエのストレスの矛先は中村辺りに向かった、
のかもしれない。あれはあれで中々ムラっとするほど気の毒だった。
それでトルシエは中田英と決裂状態にはならなかった。
それが彼に成功をもたらしたわけだ、山本昌邦のフォローがあったにせよ。

ボタンの掛け違いとでも云うか、
ホーバスは初手からミスった。ルイルイ気分で向かえば、迎えれば良かったのに、
自分を権力によって大きく見せようとしすぎた。
いわば八村を中田のように扱わず、中村のように扱った。或いは名波か?
瘦せ我慢であっても包容力を誇示すれば良かったのに。
小心者でも小心者なりに大物ぶる方法は幾らでもあるわけだ。
トムの冒険はハックの冒険に引き継がれる。
ハッキングされてトルシエ魂を会得すれば、もう一度
大いなるチャンスに恵まれることになるだろう。

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やっぱりね・・・と云うところである。
並走区間がかなり長い。
国鉄時代は国鉄は長距離・広域輸送、地鉄は地元密着・地域輸送。
名古屋圏も大阪圏もそんな感じ。
JRになるちょっと前辺りから国鉄も地域輸送シフトに切り替え始めて、
JRになってから更に本格化。
富山の場合、新幹線がなかったからJR路線には特急が走る。
地域輸送オンリーではない状態。
そして何より、JRが全ての面倒を見てくれた。
ところが北陸新幹線開業で3セクに経営移管。
貨物列車は残るものの、地域輸送専業状態に。そして地元がそれを負担せねばならぬ。
地鉄と役割がモロ被りしてしまう上、費用まで重複してしまうゾ?
どうするんだろうナァ、どうにもならんだろうナァ・・・
と思っていたが遂に、と云う感じで。。。
在来線には特急が必要なのである。たとえそれが新幹線並行在来線であっても。
地域輸送専業はキツ過ぎる。


のっけから歌詞を間違えるサブちゃんである。私の中で「歌詞間違える歌手」と云えば、北島三郎と宇都宮隆。ウツはTM唯一の紅白出場時に於ける「舌出し事件」が有名だが、ちょくちょく小出しに間違えるイメージ。サブちゃんの方は中々壮絶であり、今から40年位前にたまたま見ていた番組でこれでもかと云うほどに間違えていて「すいません、間違えました」と云ったような言を一区切りする度に連呼していたものだった。その姿は私の幼年期の記憶の中に強烈に刻まれている。


「津軽平野」はオリジナルが千昌夫でセルフカヴァー・吉幾三と云うことでよく知られているが、この曲にまつわる話として、冒頭オーボエが使われているところを当初、レコード会社の人間は尺八を使えとオーダーした。マァ、ありきたりでつまらないと云うことで編曲者がオーボエで押し切ったとの由。

それでその尺八構想が冒頭の北島ver.で図らずも聴けたわけなのだが、オーボエにして本当に正解だったように思う。北島三郎が歌っているせいもあるのだろうが、尺八を使うと「津軽平野」と云うよりも「津軽海峡」になってしまうのである。海!波の花乱舞!と云う趣になってしまう。静かにじわじわと津軽平野の息吹が広がってゆくさまは、オーボエ選択あってこそ、である。