「女史」と云う言葉を初めて知ったのは、小学1年とか2年とかその辺りだったと思うが、ヘレン・ケラー絡みで、と云うことになろうかと思う。したがって女史と云う語からは真っ先にヘレン・ケラーの名が浮かぶ。
それから江青。江青はよく江青女史呼ばわりされていたものである。公的な肩書が無かったからだろう。江青夫人がそこまで多くは無かったのは、毛沢東から離れて活動していた、江青のイメージの悪さを毛沢東に波及させたくなかった等の事情があったものと推察する。
それじゃあ残り一枠は、、、この手の「世界三大もの」の場合、必ず一つは日本のものが入るわけである。そこで日本からと考えると、、、兼高かおるを推したい。女子力ならぬ「女史力」が物凄くあるように感じるのだ。相変わらず「○○女子」と云う言葉が世に溢れている中、世界中を飛び回る女子力を持った兼高かおるは世界三大女史に相応しいと思うものである。
回教・女史・ビフテキ、でいこうかな、と。
回教・・・「パーレビ国王」な薫りも漂ってくる言葉。昨今では「イスラム教」と云う言葉も使われなくなってきている感。単にイスラム。より玄人感を出すと「イスラーム」。
女史・・・女の名前には「氏」と云う敬称を付けていなかったものである。未だに女医とか女社長とか、女自ら肩書的に名乗っている場合も散見される中、女史の廃れっぷりは異次元。
ビフテキ・・・すっかり廃れた回教や女史に比べれば十分に使われているが、明らかにその頻度はか弱く痩せ細っている。ビーフステーキの略かと思いきやフランス語「ビフテック」由来らしく。そしてビフテックの対象となるものはビーフだけではない。つまりフランス的には、「ポークのビフテキ」も有り得るわけだ。「ポークのビフテキ」で思い起こされる語としてトンテキがあるが、今やビフテキよりもトンテキの方が使われているような気がする。これもビフテキのより一層の没落感を醸し出している。
ビフテキの代わりに、「アベック」を挙げようかなとも思ったが、そうなると「ナウい」のような一時的に流行した語に連なってくる感ありけり。アベックもまたフランス語由来であり、回教・女史・ビフテキと同じく昔から使われている由緒正しき語なのだが、余りにも昭和後期感が強過ぎる。アベックはスキーブームの終わりと共に葬り去られた。
回教・・・「パーレビ国王」な薫りも漂ってくる言葉。昨今では「イスラム教」と云う言葉も使われなくなってきている感。単にイスラム。より玄人感を出すと「イスラーム」。
女史・・・女の名前には「氏」と云う敬称を付けていなかったものである。未だに女医とか女社長とか、女自ら肩書的に名乗っている場合も散見される中、女史の廃れっぷりは異次元。
ビフテキ・・・すっかり廃れた回教や女史に比べれば十分に使われているが、明らかにその頻度はか弱く痩せ細っている。ビーフステーキの略かと思いきやフランス語「ビフテック」由来らしく。そしてビフテックの対象となるものはビーフだけではない。つまりフランス的には、「ポークのビフテキ」も有り得るわけだ。「ポークのビフテキ」で思い起こされる語としてトンテキがあるが、今やビフテキよりもトンテキの方が使われているような気がする。これもビフテキのより一層の没落感を醸し出している。
ビフテキの代わりに、「アベック」を挙げようかなとも思ったが、そうなると「ナウい」のような一時的に流行した語に連なってくる感ありけり。アベックもまたフランス語由来であり、回教・女史・ビフテキと同じく昔から使われている由緒正しき語なのだが、余りにも昭和後期感が強過ぎる。アベックはスキーブームの終わりと共に葬り去られた。
憧れの夕張の地に初めて足を踏み入れたのは、90年代後半の頃だったように思う。札幌大通から夕鉄バス急行便に乗り込み、行った。当時、美鉄バスは既に撤退していた。今なら異色際立つ美鉄バスに乗ったかもしれないが、仮にその時分に美鉄バスが撤退していなくとも、あの頃の自分は「夕張なのだから夕鉄バスに乗るべきだ」と考えたであろう。美鉄=美唄鉄道であるわけだから。
往時の繁栄とは程遠い夕張だったが、石炭の歴史村を筆頭に中田鉄治が築き上げた時限爆弾付レジャー帝国は健在、映画のセットになる程度の街並みを維持していた。本町にあるホテルシューパロにて西洋料理のランチを愉しんだように記憶している。今よりは随分マシだったわけだ。札幌への帰りはJRを使った。夕張駅から新夕張、スーパーとかちに乗り換えて札幌。
バリバリに張り切り過ぎた夕張は、ガスが溜まり過ぎて張りに張り、遂に破裂して永遠の思い出の三丁目の彼方へと消えていった。そうして過去ばかりでなく現在からも隔離され孤立化を深めてゆく。嘗てあれほどのルート、バスの便に恵まれていたと云うのに、今や外界から夕張へのアプローチはJRしかなくなってしまったのである。そのJRも新夕張まで。そこから細々と運行される夕鉄バスの市内線に揺られて漸く各所へ到達する。新夕張から見て、市役所のある本町はどん詰まり的立地条件。内陸部にありながらまるで半島の突端にでも位置しているかのようだ。夕張に行く意思が無ければ、夕張に辿り着くことは出来ない。
本年9月いっぱいで中央バスの高速ゆうばり号が廃止される。世の中には京浜・京阪・阪神等、機軸となる2都市間関係性と云うものがある。北海道では札樽がその嚆矢であった。福北こと福岡-北九州間に於いては主に「なかたに」「ひきの」「いとうづ」と3系統の潤沢な高速バス便があるが、札樽間のバスも円山経由と北大経由があり、本数が多い。だが嘗ては「札夕」もまた重要な軸であった。札幌から見て小樽は西方にある。これに対して東方の軸に当たるのが夕張だった。
札夕を巡っては昨年に夕鉄バスが撤退したが「まだ中央バスがあるから何とか…」と云う微妙な安心感も今回のこれで吹き飛んでしまった。手元にある1995年の時刻表によれば札夕のバス便は中央バスが3本、夕鉄バス急行便が10本、夕鉄バス普通便が4本ある。これに加えて美鉄バスの3本もある。夕鉄バス急行便の内の1本、夕鉄バス普通便を除いて札幌都心部発着だ。当時夕張の人口は2万を割り込んでいたが、それでもこの陣容を誇っていたものである。夕張には北から、本町・清水沢・南部などの地区があるが、札夕間輸送については本町は中央バス・夕鉄バス、清水沢は夕鉄バス・美鉄バス、南部については美鉄バスが担い、石炭の歴史村は本町の北にあって中央バスが受け持っていた。これが30年経って全て無となってしまうのだからまさに無の情である。
「愛の鐘」の音を初めて耳にしたのは恐らく1987年の旭川に於いてである。しかしその音色は、町田のそれと同じような鐘の音のような代物ではなかった。エレクトーン演奏の如きバリッバリの電子音で襲いかかってきたのである。自分の中での旭川の印象と云えば、それが一番の強烈さを伴って脳内を支配する。旭川って都会的だなと云う印象が非常にあった。
当時は中心部も賑わっていて西武・丸井今井・マルカツ・エスタ等、百貨店・ファッションビルの類が林立し、西武はA館・B館の2館体制だったが、それぞれの建物にレストラン街があり、町田の百貨店(小田急・東急・大丸プラザビーミー)のそれと比較しても引けを取らない充実ぶりだった。ホテルに至っては雲泥の差である。町田は東京近郊のベッドタウンだから碌なホテルがない。平成になってからエルシィが出来て、図書館併設の建物で話題となったが、ホテル自体は小さかった。一方の旭川には、グランドホテルこそまだ存在しなかったものの、ニュー北海ホテルが君臨し、パレスホテルが出来て、ターミナルホテルもある。東急インも当時あった。ニュー北海ホテルやターミナルホテルのレストランによく会食に連れていってもらったものだ。町田は駅周辺は栄えているが、繁華街の範囲は狭い。それに引き替え、旭川の街は大きかった。旭川の都市としての格・中心部の格の違いに眩暈がした。旭川がそんなだったから、札幌などそれこそ異次元の世界だった。
今でも旭川は大きな町だ。スーパーのチラシなど覗き見ると、それがよく分かる。例えば旭川市内各店に交じって、名寄店・士別店・深川店等の表記が見える。名寄にも士別にも深川にも町は一つしかない。しかし旭川には中心部の他に、永山だったり豊岡だったり春光だったりと色んな町がある。が、中心部については甚だ物足りない。やはり閑散としている印象は免れない。それでもそこまで寂れきってはおらず、新たな建物はどんどん出来ている。日本最北のタワマンが目下建設中だ。日常的に渋谷や池袋に出入りした後の今となっては、札幌中心部のサイズ感・密度のさまがちょうど良い感じになってしまったものである。たとえ昭和末・平成初期の賑わいが今の旭川中心部にあったとしても、物足りなく感じるのかもしれない。私の変化に比べれば、街は今も変わらない。