その前に書いたものはこれ↓
なんと6年前の記事です。
この中にある、現役時代の私のエピソード。
「話の聴けない私は養護教諭失格だ」
と本当に落ち込む日が続いたんです。
そういう出来事が続いてしまって…。
そんな私が考えたこと。
「臨床心理士や認定心理士の資格を取れば、
“立派な養護教諭”になれるに違いない!!!」
そこからは、
通信制大学や夜間の大学、
はたまた臨床心理士での編入試験…。
そういうのを必死に調べたことがあります。
(〇ーキャンの心理学講座も受講したし、
心理系の社会人大学にも一年間通った。)
でも、ある時言われたんです。
臨床心理士の資格を持った養護教諭の友人に、
「私はね、看護師免許を持っているむっちゃんの方が羨ましいよ」って。
ぽかんとなりました。
「臨床心理士の資格を持っている彼女も悩んでいるのか…!」と。
彼女は私からすれば“立派な養護教諭”だったのに。
彼女自身はそう思っていなかったようで、
「看護師免許があれば“立派な養護教諭”になれる」
と思っていたようなのです。
私はその時から、
「病院のように医師もいないし、
医療器具もないし、
看護師であることなんて教育現場で
そんなにプラスになるのかなぁ…」
と思っていたのですが…。
(看護と養護と保健はイコールではないので)
ようは、
「ないものねだり」
ということに気づいたんです。
その時の私は、
自分にとって足りない部分を埋めるために
「臨床心理士の資格を取れば」
という条件付けをして自分の価値を図っていた。
その時の友人は、
「看護師免許があれば」
という条件付けをして自分の価値を図っていた。
あの時、目が覚めたのですよね…。
その結果、臨床心理士の資格を取ることを辞めました。
本質はそこではないと気づいたから。
資格を取って解決するものではないと気づいたから。
そして考えるようになったのですよね。
「養護教諭らしさ」って何だろうって。
↑
懐かしいなぁと思い出しました。
必死で、「外付けの何か」が欲しくてもがいていた頃。
それがあれば、
きっと自信を持てるようになる。
それがあれば、
きっと自分のことを責めなくなる。
それがあれば、
きっと自分のことを好きになれる。
そんな風に考えていた頃の話です。
今、私は、
「看護学部出身ではない養護教諭志望者」
に多く接する環境にいます。
「柏木さんは看護学部出身だから(いいよね)」
「柏木さんは看護師免許をもっているから(いいよね)」
「柏木さんは看護師として働いていたことがあるから(いいよね)」
というようなことを良く言われるのですが…。
正直私は今でもそうとは思いません。
ただし、補足するのであれば、
「看護(学)を学んでいるかどうか」
については多少の“影響”はあるのではないかと思います。
ようは「資格」とか「免許」の問題ではない、ということです。
少し厳しいかもですけれど、
看護師免許がある養護教諭の方がすごいとか
教育学を学んできた養護教諭の方がすごいとか、
そういうところで
誰かと比べて自分の優劣をはかっている間は、
結局は、
誰かに勝って、誰かには負けるので、
自分が一番しんどいと思います。
結局のところ、ここに尽きるのだろうと思います。
誰かと比べることで、より一層努力できるとか、
自分の今いる場所を正確に認識して、
目指したい場所までの距離を把握することができるとか、
そういうことではなければ、
誰かとの「優劣」の中でもがいて、
資格や免許といった「外付けの何か」にとらわれてしまうのだろうと思います。
(付加価値が悪い訳では決してなくて)
「付加価値」の「付加」は既にもう持っているかもしれないし、
そうでなくても、手に入れ方は自分が思っている方法とは違うかもしれない。
「付加価値」を見誤ってほしくないな。
そんな風に思います。
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