写真は1枚目が1924年英国隊の登攀隊員で、2枚目にはこの遠征には呼ばれなかったジョージ・フィンチ(右側)が写っています。
今のエヴェレスト北東稜のいちばん基本的な登攀ルートは1921、1922、1924年の英国の遠征隊が確立したもので、山麓(と言っても標高は富士山越え)の東ロンブク氷河を遡って高度7060m地点のノース・コルを経由して頂上を目指すというもの。
エヴェレストには北側にノース・コル、南側にはサウス・コルがあり、ちょうど馬の鞍(コル)のような地形。
( ̄ー ̄)v- サウス・コルは南東稜の最高度のキャンプ地ですが、ノース・コルは「高さ400mほどの凍結した瀑布」で、上部には雪が積もり、下半分は硬い氷。おまけにところどころにクレバスが口を開けているという難所です。
まずノース・コルに到達するまでに、段々に積み重なった氷を乗り越えて、雪の急斜面やねじれたクレバスを迂回しなければならない。3枚目はそれを越えてノース・コルに到達した1999年の調査遠征隊ですが、足元はモノクロ写真でも分かる、ツルツル光る氷です。
( ̄ー ̄)v- 調査遠征隊のポウリッツさん曰わく「そこに着くまでが、まさに生き延びる苦しみを味わう試練の場」。現代の最新装備をもってしても、「自分の望むペースが保てず、みじめだった」と言われる場所です。
そのルートはだいたい1922年の第二次遠征で確立されていた。1924年隊も同じ道を行きますが、登攀隊員の体力を節約するために、まさに大名行列のスケールで、150人もの現地人ポーターを雇っていました。
( ̄ー ̄)v- 第1キャンプ(前進ベースキャンプ:ABC)から第2キャンプ(6030m)までの設営と食糧・備品備蓄は2~3日で終了。ここまでは順調でしたが、さらに高い第3キャンプの設営からが難行でした。
第3キャンプ(6400m)を建てる場所は氷河の側溝のすぐ上で、まずそこまで行くのが危険だった。そこでポーター達を20名ずつ2班に分け、英国隊員が交代で同行し、荷上げやルート偵察に当たります。
第1班(マロリーとアーヴィン)は5月3日にベースキャンプ(BC)を出発し、5月5日に第3キャンプに到着。しかし1日遅れでBCを出た第2班がブリザードに捕まってしまいます。
第2班のポーターたちは怯え、第3キャンプより手前で荷物を捨てて逃げ帰る。おかげで第3キャンプにいたポーター達に充分な食糧や毛布が届かず、気温が氷点下30℃まで下がったため、次々と撤退してしまう。
(; ゜д ゜)(; ゜□ ゜)(; ゜皿 ゜) なんだこの有り様はーーーーーーーー!!!
そんな事態を知らぬまま、5月7日に第2キャンプに着いたノートン隊長・サマーヴィル・ビーサムの3人は仰天。そこはブリザードから命からがら逃げてきた第2班と、「このままじゃ死ぬ」と第3キャンプから撤退したポーターで満員でした。
みんな虚脱状態で、衰弱しているポーターもいた。彼らを回復させるには、さらに高所のキャンプに運び上げるつもりだった食糧や備品を使うしかありませんでした。
ノートン隊長はそれらを惜しまず使い、回復したポーターに第3キャンプまで物資を運び直させようとしますが、駄目押しのようにまたブリザードに襲われる。物資の届かなかった第3キャンプから疲労困憊したマロリーも撤退し、ノートン隊長は「BCまでの全員退却」を命じます。
( ̄ー ̄)v- プレモンスーン期で天候がいちばん安定すると言われる5月なのに、異様な寒波。時速150kmの強風が尾根に吹き荒れ、石つぶてのような雪を叩きつけてくる。遠征隊はさきに瞑想中で来られなかった最高位のラマ僧に改めて祝福を与えてもらっていましたが、天候は「雪の魔神」そのものでした。
ノートン隊長が疲弊したポーター達に惜しげもなく補給物資を与えたのには理由があり、隊はもう前回の遠征のように死者を出すわけにはいきませんでした。また犠牲者を出せば遠征そのものが頓挫する。こんな初期段階で、それは絶対に避けねばならない事でした。
※しかしBCへの退却の際にポーター2人と随行のグルカ兵が1人ケガをして、後に亡くなった。
( ̄ー ̄)v- 疲弊の度合いはポーターも英国人も変わらず。ポーター達はほとんど着の身着のままで、英国隊員にせよ国から個人装備の費用に50ポンドしか貰っていないので、「普通のシャツやセーターにウールの背広、ニッカボッカにゲートルを巻いて革の鋲靴」が平均的ないでたちでした。
( ̄□ ̄;) 何だこれは? まるでアイルランドの低山にピクニックに行くいでたちで、地球上で最も過酷な雪山に行ってたのか?
同時代の劇作家のジョージ・バーナード・ショーは、エヴェレスト遠征隊の写真を見ておののいたとか。テレビ中継などない時代、本国では遠征の様子なんてずいぶん後の記録映画や写真でなきゃ知られようがなかったんですね。
遠征隊はブリザードに苦しめられ、ふもとのBCへの退却を余儀なくされる。その後5月末まで繰り返し登高を試みますが、その間にもトラブルは頻発し、隊員たちにも高地性の疾患(咳や雪盲)が出てきました。
(; ゜д ゜) 酸素なんかいらん! 飲む物をくれ!!
何これ惚れる。次第に「どんな犠牲を払ってもノース・コルにキャンプを作り、モンスーン到来前に頂上に挑む」になっていたノートン隊長が、サマーヴィルと共に大クーロアールに達してノース・コル越えを成し遂げる。でも酸素吸っとこうよ隊長。
この辺りで「協調性に難あり」と言われていたハザードがやらかした。彼はポーターを連れて第4キャンプに登っていましたが、雪が深くて降りてくる。しかし連れて行ったポーターの一部を置き去りにしており、ここでまた英国隊員が命がけで連れ戻しに行く羽目になります。
(; ゜皿 ゜) どんだけ統率力ないんだあの馬鹿は!!
軍人のノートン隊長は内心煮え煮え。でも超高山では自分で自分を守るのが精一杯なので、ハザードにも言い分はあったはず。同じ山にいても、大規模遠征にはこういう「感覚の違い」もつきものでした。
退却に次ぐ退却。低地(と言っても6000m以上)キャンプでの停滞。そうこうするうちに、5月の終わりになってしまいます。前回の遠征では、モンスーンは6月1日に来た。今以上に、山が荒れる………
ノートン隊長はこの時まで酸素の使用を重要視しておらず、「荷物になるから置いていく」と言って、ずっと修理・改良していたアーヴィンを愕然とさせていました。
アーヴィンも基本は「酸素いらなくね?」でしたが、一番若くて体力があるので荷上げを黙々とこなした後、他の隊員が寝ついた後も黙々とボンベを直していた。不満は一切口にしない、我慢強い若者だったそうです。
マロリーも同様に酸素使用には乗り気ではなかったのですが、いつから使用を本気で考え始めたかは分からない。しかし彼は「酸素より飲み物よこせ!!」とやってきたノートン隊長に真っ先に酸素を差し出しており、その頃には酸素の重要性を実感していたろうと言われます。
( ̄ー ̄)v- 前回は酸素を使ったジョージ・フィンチが自分より高い8300mまで達した。同じくらいの技量の自分なら行けると感じ、次第にそれは確信に変わったと、「エヴェレスト初登頂の謎」を書いたトム・ホルツェル他、研究家は考えてます。
5月末には登攀可能な隊員は限られてきて、ノートン隊長にも限界が来ていました。(雪盲にかかった)
彼は最終登山計画を練り直し、「酸素を使って、2組のアタック隊員を交互に頂上に向かわせる」と決定します。
そして最後のアタックに、マロリーとアーヴィンが先発として向かう事になる。この時相方を選んだのはマロリーで、本来ならオデールの方が体調も良く、最後のアタック隊員として妥当でした。