「君の名前はなんていうんだい?」
男が私の耳元でそう囁いた。真っ暗の部屋の中、いるのは私と男だけ。唯一差し込む月の光は丁度逆光で、男の顔はうかがえなかった。私は夜の情事を終えて、まだ体から熱っぽさがとれていないため疲れたようにはぁ、と息を吐いた。男はその息にさえ感じたのか私の体に腕を回してきて、ぎゅっと抱きしめる。シーツ一枚の私の体に少し冷たい手が私の胸元辺りをいやらしく撫でまわす。よくもまぁそんなまだそんな元気があるものだ。男は、顔は見えないがきっと口角をあげてあの否らしい笑みを浮かべているのだろう。容易に想像できた。
「名前を教えたら、私ともう一度会ってくれますの?」
私はそう囁くように言う。少し首をあげて、相手に息がかかるくらいの距離で放ったその言葉に男は腕に更に力を込めた。
「ああ、君にだったら何度だって会ってあげるよ」
男はそう言ってまた私を押し倒す。逆光で見えなかった顔は半分だけ見えるようになって、私を見下ろしているのが見えた。その顔にはやはりにやり、とした笑みが浮かんでおりその表情でなければ中々のいい男なのに、などと思ってしまう。
「本当?」
「ああ、本当さ」
私が相手の頬をするりと撫でた。すると男はその腕をとって一気に私を引き寄せる。そして唇が触れるか触れないかぐらいの距離まで近づけばくすりと笑って私の胸に顔を沈める。
「貴方なら教えて差し上げてもいいわ。」
本当かい?男はそう言って私を見上げる。濁った緑色が私を見つめる。
「私の名前はね、フィロメーラって言うのよ」
「夜歌鳥か、君にぴったりだね」
「そうかしら?」
うふふ、と口元に手をあてて上品に笑って見せれば男はやはりにやりとした笑みを浮かべて私の腰に腕をまわして抱きついてくる。
「なら君は僕にどんな歌を届けてくれるんだい?聖譚曲(オラトリオ)?それとも子守歌(ベルスーズ)かな?」
私は男の言葉に今度は私がにやりとした笑みを浮かべる。
「子守歌(ベルスーズ)でもいいわね。でも、私が届けるのは
私はすっと腕を上げる。きらり、と月の光に反射して光ったのは小型のナイフ。
「鎮魂歌(レクイエム)よ」
「え?」
男が顔をあげた瞬間に一気に私はそれを男の背中へと指す。もちろんその位置は心臓と同じ位置。男は目を見開いて血を噴き出した。私はナイフを抜いて血で真っ赤に染まったナイフをひと舐めし、相手を見下ろす。
「それも、極上のね」
そう言えば私は既に動かなくなった男の体をどけてベットを降りる。私は徐に月を見上げ瞳を閉じると再び開けて視線を外しシャワー室へと向かった。
「今回も随分うまくやったなぁ
適当に洗い流し、シャワールームを出るとは見慣れた男が、私が殺した男を笑みを浮かべながら見ていた。
「何しに来たの、フガドール」
私は男の前だということを気にせずバスタオルを脱いで、衣服を着始める。それでも一応相手に背は向けて着替えるのだった。すると名前を呼ばれた男、フガドールはわざとらしく大きく息を吐いて私に近寄ってくる。
「おいおい親愛なる上司にその反応はないだろう?せっかく来てやったのに」
「馬鹿みたいなことしないで。質問の答えになってないわ。何しに来たの?」
私は高価な真っ赤なドレスを適当に着れば振り返って相手を睨みつける。
「そう怖い顔するなよな。せっかく動きにくいだろうと思って着替え持ってきてやったのに」
フガドールはそういって少し大きめの袋をヒラヒラと見せた。しかもにやけた笑みを浮かべて言ってきたので私はそれをふんだくるようにして取り、いそいそと着替え始める。
「招集がかかったよ」
私が一緒に入っていたブーツを履いていると頭上でフガドールが静かに言う。私は一瞬紐を結んでいた手を止めたが、そう、とだけ言って再び動かし始めた。
「おや?随分つれないね。もっと喜ぶかと思った」
フガドールは少し残念そうに、でもどこか楽しそうにそういった。私は紐が結び終わるのと同時に袋を持って起きあがる。
「どうして?別に喜ぶ理由なんてないわ」
そう言ってスタスタと歩き出す。そして床に転がる血のついたナイフを拾い上げ袋の中に投げ入れる。
「そうかい?てっきり君はキングに会えると喜ぶかと思ったよ」
………。」
赤黒くなった血を一瞥すれば私はカーテンを閉め部屋の出口へと向かった。部屋を出るとき、一言アーメンと男の方を見て小さく言ってやり部屋を出た。

「それで情報はつかめたのかい?」
「当然よ。直ぐに吐いたわ」
フガドールはそうかい、と言うとくつくつと喉の奥をならしたような声で笑う。私たちが路地に出るとそこには馬車があり、私たちはそれに乗る。
「キングが君を待っているよ。さぁ、行こう」
私は鼻を鳴らして相手を少しにらみつける。それと同時に馬車が動き出した。町の中はガス灯の光だけが道を照らしていて、何とも不気味な雰囲気であった。
「さてね。顔出しもあるんじゃない?なんせ、半年ぶりの招集だからね」
フガドールはやはり笑みを浮かべたままそう言う。私はその言葉を聞くと一つ小さく息を吐いた。
私たちは殺し屋である。組織名は「Kingdom」。その世界では知らない者などいない、巨大な組織だ。私たちは中流から上流貴族専門の殺し屋で、実際先ほど私が殺した男も何とかという中流貴族の男である。殺す、といってもいろいろな種類がある。暗殺や自殺に見せかけた殺し、政治面での権利の剥奪などいろいろあるが、私が受け持つのは組織内でも今のところ私一人しかいない、体を使っての殺しである。ただ、私は命令されるがままに殺すのではなく情報の収集という役目を請け負っている。他にも諜報部員はいるのだが、夜の体を使っての諜報部員は私一人である。このフガドールは諜報部の隊長である。隊長を任せられるだけあって、結構なやり手で仕事に失敗をしたところは見たことがない。ついた先は大きな屋敷、ここが私たちの本部だ。中に入って廊下を歩いてゆくと、大きな扉が現れた。その前には門番らしき人物がいる。
「フガドールだ」
「フィロメーラよ」
中に入ると既に広間いっぱいに人が集まっていた。所々にテーブルがあり、その上には豪華な料理がのせられていた。いる人々の手にも高価そうなシャンパンがある。だが、忘れてはいけない。ここにいる全員、殺し屋である。
「相変わらず豪華だねぇ。まぁそれだけキングは僕たちを大切にしてくれている証拠なんだろうけど。」
そう言って私たちは別れた

あれから何時間たっただろうか。私は同じ隊の人と数人と話した後、大広間を出た。私はあの空気がどうにも好きになれない。息苦しくなるのだ。それは人が多いからではない。彼らの目だ。私に向けるその視線はまるで汚いものを見るようで、私があそこにいることを許していないような気がした。
私が一つため息を吐いて俯いて廊下の壁に寄りかかったときだった。私の隣から声がした。
「疲れたのかい?」
はっとして顔をあげればそこには穏やかな笑みを浮かべたキングがいた。
この者こそ、その名の通り、この殺し屋「Kingdom」のトップである。本名はアレス・エルフォード公爵。名家、エルフォード家の現当主で貴族界で今最も発言力のある人物だと言われており、裏の世界でも彼ほど有名な人物はいない。だがそれは殺し屋のトップでだからではない。彼の奇抜な発想、政治スタイルなどからによるものである。
「そう言えば今日も仕事だったようだね」
キングは悲しい顔をして言った。私はどうしていいかわからずとまどった。するとキングは少し視線を下にして
「そろそろいいのかもしれないね」
キングが呟くように言った。私はえ?と聞き返そうとする。だが、それはかなわなかった。キングの唇が私の唇をふさいだからだ。私はそれがキスだということに暫く時間がかかった。視界いっぱいのキングの顔。私が目を見開くとキングはゆっくりと唇を離す。
「フィロメーラ
私は名前を呼ばれたが私は何が何だかさっぱりわからなかった。キングは私を見つめているが私は目を合わせられなかった。一体何が起こったというのだろう、私はそれすらもわからないほど困惑していた。そんな私を見たキングが私の手を握る。
「おいで」
そう言うとキングが私の手を引っ張って近くの部屋に入った。中は真っ暗で、月明かりだけが部屋の中を照らす。私は、この景色を十分すぎるくらい知っているはずなのに、私の心はまるで初めてこの景色を見たような感覚に陥っていた。私は未だにキングのしたことも、やりたいこともわからなかった。
「君をね、あの役職につけたのは他でもない僕だ。それは、君にあんなことをさせたいためじゃない。いや、させたいわけがない」
キングは静かに私に言う。私はドクンドクンという心臓の音ともにその言葉をゆっくり聞き入れた。
「僕が君を何の遠慮もなく抱けるからだよ」
私は彼の言っている意味がさっぱりわからなかった。今目の前にいる人物は一体何を言っているのだろう。わからない。ただ私か彼を見つめることしかできなかった。キングが私の顎に手を添えて持ち上げる。
「愛しているよ」
私が目を見開いたと同時に彼は私に口づけた。最初は軽かったがどんどん深くなってゆく。私は体に力が入らなくなって、思わず倒れそうになる。それをキングは素早く支えて更に深く口づけた。そのまま後ろのベッドに運ばれ、押し倒された。
「フィロメーラ
キングはもう一度囁くように私の名を呼ぶ。私はもう、自分をどうすることもできなくなっていた。歯止めがきかない。紅潮している顔で彼を見つめる。
「キ
私が彼を呼ぼうとするとまたもや唇でふさがれる。
「僕の名前はアレスだ」
耳元でいつもより低い声でそう囁くと彼は私を見た。私はその頬にゆっくりと手を添える
「アレス
「そう、いい子だ」
彼はそう言って先ほどのような満足そうな笑みを浮かべる。私たちはそのまま快楽に落ちていった。

気がつくと私は彼の手の中にいた。あのまま気を失ってしまったのだろう。急な彼の間近な顔に少々驚きつつも私は彼としたことを思い出す。ゆっくりと彼の穏やかな寝顔に手を添えてもう一度呟く。
「アレス
彼の、私を呼ぶ声と、愛しているという言葉が脳裏に響く。私も何度彼の名前を呼んだだろうか、何度愛していると言っただろうか。
私がそんなことを思っていると彼が目をさます。私の手に手を添えておはよう、と言ってきた。私もおはよう、と言い返す。すると彼はゆっくりと起きあがって私を見下ろす。
「このままいつまでも君といたいんだけれどね、すまない。今日はクイーンとの約束があるんだ」
キングは眉を寄せて、残念そうに言うと名残惜しそうにベッドを離れ、洋服を着る。私はそれを見ながらクイーンという言葉を心の中で復唱する。
「今夜また会おう。二時に頃、僕の部屋に来るといい。誰かに見つかったら仕事だと言うんだよ?」
キングは私の前髪にふれてそう言い残せば部屋を出て行った。
クイーンとは彼の妻のことである。「Kingdom」を組織する人物の一人で、彼女もまたどこかの名家の娘であった。絶世の美女で、彼と並ぶと絵になる、という言葉しか出てこない。性格も穏やかでこの殺し屋の女たちの誰もがうらやむ、あこがれの的だった。
その夫と私は寝てしまったのだ。
急に冷や汗がたれる。私の中で急な焦りと不安が募った。クイーンにばれてしまったらどうしよう。いや、そんなときこそ仕事だと言えばいいのだろうか。そういうことなのだろうか。
私はギュッとシーツを握る。彼を愛する心と、彼女を慕う気持ちが私の中で渦をつくる。
私はベッドからでて洋服を着た。まずは、仕事をしなければ。私はそう決め込んで部屋を出て行った。
仕事とは恐ろしいもので私に一気に夜を持ってこさせた。今日は仕事があまりなく、雑務で終わったがそれでも大変な作業であった。私は一つ息を吐いて、今朝の彼の言葉を思い出す。飲みかけの紅茶をテーブルに置けばあの屋敷へと向かう。
屋敷に入るときもなるべく人に見つからぬよう、早足で彼の部屋に向かっていった。彼の部屋の近くまできたはいいが、約束の時間まで少々早い。私はまぁ、いいだろうと思って彼の部屋のドアの近くに向かう。ドアノブに手を掛けようとすると中から声が聞こえた。
「アイリスアイリス
アイリスとはクイーンの名前である。その名前を何度も呼ぶキングの声。それに答えるように艶めかしい声が聞こえてきた。私の中の時が止まる。聞いてはいけないと思っていても体が動かない。するとキングの彼女を呼ぶ声が一層大きくなる。そして彼は言った

「愛しているよ」
目の前が、真っ暗になった。体が、突き落とされた気分になる。足場がない。わからない。聞いてはいけない。ここにいてはいけない。そう頭が、脳が、心が叫んでいる。私は中から聞こえたがたん、という言葉にはっとして一気にそこを駆けだした。屋敷を出て、路地を走り抜け、とにかく無我夢中で走った。気がついたときにはそこは家で、私は全身汗でびっしょりになっているのをそこで初めて気がついた。それとともにこみ上げてくるのは喪失感。先ほどの声が鮮明に私の中でよみがえる。
「う…あ…」
心が張り裂けそうになる。声にならない声が出る。この気持ちをなんと表現すればいい、この気持ちをどこにぶつけたら。私は昨日のことを思い出す。
「愛しているよ」
そう、彼はそう言ったのだ。他の誰でもない、私に向かって。確かに。私は一気に涙があふれてきた。行き場のない気持ちだけが涙と比例してあふれてくる。どうしようもない、でも、私は彼を愛している。それだけは違わない。そう、私は…彼を愛しているのだ。
それから、部屋でずっと窓の外を見ていた。朝、昼、そして夜。暗くなり始めると当時に私の中がめちゃくちゃになる。夢と現実が分からなくなる。ああ、すべてが壊れてしまえばいいのに。殺しなど知らなければよかったのに。貴方と出会わなければよかったのに。

絡みつく、長い指。
ガラスに映るのは満月と貴方

ああ此処は一体どこなの?何時なの?それすらもわからないわ
フガドールが何をしているんだ、と私に聞いたの
仕事よ。そう答えてやった。貴方に言われたように

白い胸 感じるのは貴方と熱い息
此を恋と呼ぶならば、私は恋という嘘に死んだわ

何故かしらね、血が貴方の味がするの
何故かしらね、貴方の屍が私の腕の中にいる夢をみたの
何故かしらね、大好きなクイーンが泣いている姿を見たの
なんておかしな話

ねぇ、お願い。もう一度だけ会いに来て 愛していると囁いて

狭い窓から見えるのは冷たい月。あなたも私を嘲笑うのね。涙すらもうでないわ

ああ、夜は
夜は私を孤独にする

抜け殻の私。孤独な私。思うことはただ一つ
貴方を、愛していたわ


 

それは、現実の中の幻想 幻想の中の現実
幻想と現実が交差する時・・・生死を賭けた一夜限りの悪夢が始まった。

大樹は、がむしゃらに走っていた。
後ろからは何かが追ってくる。
真っ黒な何かが走ってくる。
大樹は何か知っていた。

黒い何か、それは・・・・・・・・『自分』だった。

何処にでもいる普通の少年:岡崎 大樹(おかざき だいき)
謎の少女:メア
二人が出会った時に、普通の夜は・・・悪夢に変わった。

「ふぅ 今日も疲れたな・・・」
大樹は夜の街を歩いていた。
「明日、塾休みだし遊びに行く?」
小太りの友人が遊びに誘ってくる。
「おぉ、いいな。大樹はどうする?」
背の高い友人はぼーっと歩いている大樹に問いかけてくる。
大樹は「行けたらな」と答えた。、
駅まで一緒にいつもの塾のメンバーで普通に他愛もない会話をしながら歩いていた。
月はもう天上に輝いていたが、街はまだ人で賑わっていた。
「てか、女気が無いよな俺らの周りってさ」
友人の一人がぼやく様に言った。
「それを言うな」
「そうだな・・・」
何にも変わらない日常
ワイワイと話をしながら、3人で夜の街を帰宅の為に駅まで来ていた。
その時、軽快な足音と共に少女が走ってきて、躓いて大樹にぶつかった。
ドン、という音と共に衝撃が大樹の胸の辺りに走った。
「痛てて」
「・・・・・・」
少女と大樹がぶつかって倒れ、1冊の本が傍らに落ちた。
周りを歩いていた人々も驚いて見ていた。
倒れた大樹の胸に覆いかぶさる様に、少女は倒れていた。
少女は白磁の様な肌に、長い黒い髪、それに真っ黒なツーピースを着ていた。
「大丈夫か?」
「・・・ダイジョウブ・・・」
鈴の鳴るような綺麗な声で少し英語訛りの日本語の答えが返ってきた。
「なら、どいてくれないか? 立ち上がれないんだ。」
少女はそう言われて、やっとどういう状況か理解したらしかった。
「・・・ゴメンナサイ・・・」
ぱっと立ち上がると、初めて少女の顔が見えた。
金色の瞳をした幼い顔立ちの少女が頬を紅くしていた。
「ホントに・・・ゴメンナサイ・・・」
少女は頭を下げると、落とした本を拾い走っていった。
拾いあげた本から、少女が走っていった時に1枚の紙がひらりと滑り落ちたが、
少女は気づかずに走っていった。
「災難だったな、大樹」
背の高い友人は起き上がるのに手を貸してくれた。
「いやいや、ある意味幸運だって。あんな可愛い娘に抱きつかれたんだから」
それに対して小太りの友人は、何か羨ましそうな目で見ていた。
「はぁ・・・抱きつかれたんじゃなくて、ぶつかられてクッションにされただけだ」
なんだよーと言う小太りの友人を無視して、背の高い友人の手を借りて大樹は立ち上がると、
少女の落とした紙が目に入った。
コンクリートの床に落ちた紙を拾い上げると、其処には魔法陣らしき図と読めない文字が書き込まれていた。
「何だそれ?」
「さぁな 判んないけど、さっきの娘の本から落ちたものだ」
大樹は裏表を見ながら、何気なく答える。
「もしかしたら、魔導書の一部だったりして」
冗談で友人はそんな事を言ったのだろう・・・だが、家に帰ってからもっとヤバイ物だと思い知らされるとは、
大樹はこの時思っても見なかった。
「どうすんだよ、それ」
小太りの友人が大樹の鞄を渡してきた。
「とりあえず持って帰るよ。こんな物、何処かに預けても棄てられるかもしれないしな」
「まぁ 明日も来るんだしその時に会えば返したらいいだろう」
背の高い友人が欠伸をしながら言った。
その後、2人とは改札をくぐってから明日の約束をして別れると、大樹は自宅に帰宅した。
自宅に帰った時、時計は11時30分を刻んでいた。
カチカチと時を刻む音だけが家に響いていた。
大樹の両親は仕事で海外に居るし為、家には誰もいないはずだった。
「・・・マッテタ・・・」
闇に満たされたリビングに、白磁の様な肌に真っ黒のツーピースを着た少女が立っていた。
「何でいるんだ?」
部屋の電気を付けながら大樹は、そんな事を聞いていた。
「・・・ページ・・・取りにキタの・・・」
「あぁ、コレの事か・・・って違う、何で家にいるんだよ」
ツッコミを入れながらも、大樹は少女の落とした紙を鞄から取り出した。
「・・・だから・・・ページ・・・取りにキタ・・・」
「いや・・・そういう事じゃ無くて・・・」
少女は手をポンと叩く。
現実離れして少女が可愛いからか、仕草の1つにしても目を引いた。
「・・・ワタシ・・・アクマ・・・」
「えーっと・・・アクマってあの悪魔・・・」
メアはコクンと頷く。
大樹は立ちっぱなしでは悪いと思い椅子を勧める。
メアはストンと勧められた椅子に座った。
もはや、名画から抜け出してきたようだった。
「・・・ワタシは・・・メア・・・悪魔の書・・・管理者・・・」
「いや、自己紹介じゃなくて・・・・て、悪魔の書?」
またコクンと頷くと、どこからか本を取り出してテーブルの上に置いた。
金色に縁どられた大字林ほどもあるゴツイ黒い本・・・
それはぶつかった時にメアと名乗る少女が落とした本だった。
「・・・コレのコト・・・」
「どこに持ってたんだ・・それ?」
大樹は普通に疑問をぶつけるが、メアは無視して話を続けていく。
「・・・この本の1ページに1体・・・アクマが封印されてる・・・」
「へぇ~・・・・・って、コレ危なくないか・・・」
メアはコクンと頷く
「・・・だから、回収しに来た・・・」
「解ったよ。とりあえずコレがヤバイ事だけは解った。」
メアは小さい手を出してきた。渡せという事らしい
大樹は手に持っていたページをメアに渡そうとすると、パチッと静電気がはしった。
「・・・!・・・」
「痛っ」
2人が手を引いた為、紙がひらひらとテーブルの上に落ちた。
そしてページが黒い靄に包まれた。
時計は夜中の12時を刻む直前だった。
「・・・あっ・・・」
黒い靄はだんだん輪郭をはっきりさせていく。
「・・・ドッペルゲンガーのページが・・・」
そういうと同時に時計は12時を刻んだ。
黒い靄は、黒い大樹になっていた。
「ふぅ・・・やっと出れたぜ」
黒い大樹は手を握ったり放したりすると、大樹に向き合った。
「自己紹介が遅れたな。俺はドッペルゲンガー・・・もうすぐお前になるけどな。」
大樹の長い夜が始まった。

「・・・ページに戻りなさい・・・」
椅子から立ってメアが静かならがもしっかりとした声で言う。
「やだね・・・俺はやっと自由だ」
ドッペルゲンガーは大樹と同じ顔で舌を出してからかう。
「・・・じゃあ、消えなさい・・・」
「おっと、悪いがそれもお断りだ。」
メアの手に光が集まると光球となってドッペルゲンガーに飛んでいった。
一方、ドッペルゲンガーは床を一蹴りすると、窓を割って外に出て行ってしまった。
「ちっ、あんたが相手じゃ分が悪い・・・堕天使メアには」
「・・・逃げてもいいけど身体が持たない・・・」
「あぁ、そうだな・・・属性を考えると夜明けまでが限界だな。今のままならな」
窓の外の闇で準備運動しているドッペルゲンガーが気楽そうに言う。
メアは人差し指をドッペルゲンガーに向け光を収束させ、飛ばした。
「・・・鏡像が鏡から出てくるな・・・」
機関銃の如く光球を飛ばすが、うまく少し身体を動かす事でひょいひょいと、かわしていく。
「っ・・・凄いなコイツ・・・こりゃ良い人間を模倣できた」
光球をかわしながら、ドッペルゲンガーは笑った。
笑って、かわすのを止めた。
ガガガガガッと光球はドッペルゲンガーに当たり周囲に砂埃が舞った。
「・・・倒した・・・」
小さくガッツポーズをとると呟いた。
大樹は、状況の変化についていけなかった。
「何だったんだ?」
大樹は一言で聞く
「・・・ダイジョウブ、アイツは倒した・・・」
「いやいや、そうじゃ無くて・・・」
「メア、そうじゃ無くて、大樹は何があったか聞いてるんだよ」
メアはポンと手を叩いた後、大樹に説明しようとした。
その時、メアの紅い血と共に、腹部に孔が開き床に倒れた。
メアの立っていた所にはドッペルゲンガーが立っていた。
「・・・倒した・・ハズ・・・」
「残念でした。コイツの属性が『造』じゃ無かったら終わってた」
メアは驚愕の表情をしながら、自らの血の海に伏していた。
一方、大樹は何を言っているのか解らなかったが、自分の中の何かがざわめく感じがしていた。
「・・・大樹の属性が『造』・・・」
「そうだ、メア。」
ニヤニヤとドッペルゲンガーは笑った。
「まぁ、何故か属性が反転してしまったから、俺の属性は『滅』」
ドッペルゲンガーはメアの右腕にゆっくりふれた。
壊れやすい物を触るように優しくふれた。
その時、メアの右腕は紅い血を撒き散らして爆ぜた。
「・・・・・・ッ」
声にならない悲鳴を聞きドッペルゲンガーは嬉しそうに笑う。
「いける・・・この力なら魔神にさえなれる。」
動かなくなったメアから視線をそらすと、大樹と向き合った。
「さて、肉体を貰おうか・・・大樹」
金縛りにあった様に動けなくなった大樹にゆっくりと近づき、
大樹の胸元に手を当てた。
「あばよ 俺はお前になる」
黒い何かが大樹を包もうとした時、ドッペルゲンガーの背中に光球が当たった。
「・・・逃げて・・・」
「無理する必要も無いのにな」
「・・・私が・・・まき込んだ・・・カラ・・・」
メアが腹部と右肩から血を流しながら立っていた。
纏っていたツーピースは穴が開き、右袖はボロボロになっり、そして彼女の血で濡れていた。
メアは、はぁはぁと荒く息をしながら、必死に声をあげた。。
「・・・逃げて!!・・・」
その声に後押しされて、大樹は意識とは別に足が動き、ドッペルゲンガーが割った窓から外に出て走った。

大樹は暗くなった街を走っていた。
何故か誰も居ない街で、ただひたすら足っていた。
「鬼ごっこか・・・いいぜ、朝日があがるまで逃げ切るか、俺を倒せばお前の勝ち」
ドッペルゲンガーはゆっくりと、楽しむ様に大樹を追いかけていく。
「くそっ、・・・はぁ・・・はぁ・・・何なんだよ」
大樹は足がもつれそうになりながらも必死で走った。
「おいおい、追いついちゃうぜ」
何回も角を曲がり直線を疾走し、公園まで来たとき異変に気づいた。
「・・・・誰も居ない?」
「そりゃ居ないさ、街ごと因果隔離されているからな」
立ち止まった大樹に対して、後ろからゆっくりと闇から湧き上がる様にドッペルゲンガーが現れた。
後ろへ後ずさると何かに躓いて尻餅をついた。
「さぁて、お前はもう終わりだ・・・身体は俺が使ってやる」
ドッペルゲンガーの魔手が迫った時、大樹の視界は真っ白になった。

ソコは真っ白だった。
ソコは形が無かった。
ソコは音が無かった。
ソコは自分すら認識できなかった。

まるで世界と一体になった様な感覚と共にソコに色がついた。

ソコは色がつき絵となった。

ソコは絵が出来た後、形が出来た。

ソコは形が出来た後、音が生まれた。

まるで世界を造っている様だったが、まだ認識できない物があった。
だが、認識できない物が何か解らなかった。
ソコに少女の声が聞こえた。

「・・・アナタはまだ法則を知らない・・・」

ソコは声と共に、法則が出来て世界となった。

「・・・ソコはアナタの中・・・アナタの魂の中の力の覚醒・・・」
【俺の?】
声を出すことが出来なかった。
「・・・私が巻き込んで・・・アナタの力が覚醒し始めた・・・」
声の主の少女は悲しそうな声だった。
本当に後悔しているような声だった。
「・・・アナタは・・・世界を書き換える・・・自分の想像で・・・」
【世界を書き換える?】
「・・・そう、世界を書き換えられる・・・アナタの・・・チ・・カ・・ラ・・・で・・・」
そして、少女の声は聞こえなくなった。
ただ、消える直前に光が湧き上がり形となった。
黒いツーピースを着た少女の姿に・・・・・・

「メア・・・」

自分で声を出した時、ついに力は覚醒した。
そして、大樹の視界は元に戻った。

視界が戻った時そこは公園だった。
違いがあるとすれば、自分が立っていてドッペルゲンガーが消えていた事だった。
「夢か・・・?」
その呟きは、即座に否定された。
「違うよ・・・チッ・・メアめ余計な事をしてくれたな」
闇から這い出すようにドッペルゲンガーが現れた。
だが、さっきまでとは違い笑ってはいなかった。
「お前の属性から能力を発現させたか・・・本当によけいな事してくれたよ」
真面目な表情で近づいてきた。
「力・・・?」
「ほぉ、まだ完全に思い出していないようだな。」
黒い手が、大樹の胸にあてられる。
「次こそ、その身体貰うぞ」
次こそ終わりだと思ったとき、こいつに身体を渡したくないという思いが、力を発動させた。

「油断した・・・『想造』の発動による拒絶防壁か・・・」
ドッペルゲンガーは声をあげる
だが、その身体は右半身が無くなっていた。
「これは・・・」

そう、力が発動した時ドッペルゲンガーに対して防壁が張られ、その内側にあった右半身が消し飛んだのだ。
無我夢中で発動した為に、まだ何が起こったのかハッキリとしていない大樹
「これが・・・力・・・」
「そうだ・・・それがお前の力・・・『想造』」
「『想造』?」
「そう、『想造』・・・神の力の一端・・・世界を書き換える能力だ」
一歩さがり右半身を再生させたドッペルゲンガーは何かを見極める様に近づくと、
今だ残る防壁に触れ・・・消し飛ばした。
「そして、俺の力・・・『滅』・・・全てを滅ぼす力だ」
ドッペルゲンガーはそう言うと近くの樹に触れた。
触れられた樹は何も音を立てずに穴を開けた。
「今のは、メアの腹に風穴開けた時と同じ要領で力を使った」
「・・・要領か・・・」
手を開き、昔本で読んだ神の持つ槍を想い浮かべた。
「グングニル」
その声と共に大樹の手には、見事な投げ槍が出来ていた。
「ほぉ、面白いな・・・俺とやり合うつもりか」
ドッペルゲンガーが構える。
大樹はただ、狙いも定めずに全力でグングニルを投げた。
大樹の投げたグングニルは変な所に飛びそうだったが、突如方向を変えてドッペルゲンガーに向っていった。
「うぉっ」
ドッペルゲンガーは身を屈めてかわしたが、槍は通り過ぎるとまた方向を変えドッペルゲンガーに
向っていった。
「チッ」
ドッペルゲンガーは手をグングニルの軌道に持ってきてガードをした。
グングニルはガードを貫こうとしたが、手に触れた瞬間グングニルは消えてしまった。
「あぶねぇ お前・・・神具を作れるのか」
かなり消耗した様子でドッペルゲンガーが言う。
「神具?」
「ホントに何も知らないんだな」
「あぁ 俺は普通の人間だからな」
あきれた顔のドッペルゲンガーと、まだ何が何だか解っていない大樹は話しながらも構えをとる。
「あんまり、長々やるのも嫌だし・・・何よりもうすぐ朝日が昇る」
「うーん、まだ解らないけど・・・俺も終わりにしたいから、わかった」
そして、2人はぶつかった。
「お前の魂を消し去り俺は・・・魔神になる」
「アイギス」
ドッペルゲンガーは大樹の魂を消そうと力を発動させる。
大樹は女神が英雄に授けたありとあらゆる邪悪・災厄を払う魔除けの盾を想い浮かべた。
大樹の手に作られたアイギスはドッペルゲンガーを弾き飛ばしたが、ドッペルゲンガーの力によって消えた。
ドッペルゲンガーは体勢を立て直して、もう1度大樹に向おうとしたが・・・
「グングニル」
大樹は再び投げ槍を想い浮かべ、全力で投擲した。
グングニルは、ガードが間に合わなかったドッペルゲンガーに貫いた。
「必中の槍か・・・負けだ大樹」
苦笑を浮かべるドッペルゲンガーの心臓に当たる部分をグングニルは貫いていた。
「さすがに人間を模している以上・・・心臓を貫かれたら・・・死ぬわ」
「治せないのか」
「ははははは・・・・甘い奴だ」
倒れたドッペルゲンガーの身体はだんだん薄くなっていく
大樹はドッペルゲンガーの傷口を見る。
血は出ていないが槍が貫いた後があった。
「本当に治せないのか!?」
「・・・甘い・・奴だ・・・お前の身体を・・・奪おうとした敵を・・・助けるのか?」
「そんなのじゃない。自分と同じ姿の奴が消えるのが嫌なだけだ。」
「ふん・・・本当に甘い奴だ」
ドッペルゲンガーの身体はさらに薄くなっていく。
「・・・・お前の力は・・・自分の想像を・・・世界に反映させる能力だ・・・だったら・・・お前の想像で
 ・・・俺の核を作ればいい・・・」
ドッペルゲンガーは薄くなっていく手を大樹の頭にあてる。
大樹の頭に何か言葉で表せないイメージが浮かぶ。
「俺を治すかは・・・お前にまかせるが・・・治せばまた、お前の身体を奪うかもしれないぞ」
ドッペルゲンガーは一度だけ笑うとゆっくりと目を閉じた。
大樹はすぐにドッペルゲンガーの身体に手をあててイメージする。
ドッペルゲンガーの核を・・・・・
そして光と共にドッペルゲンガーは黒い大樹の姿で立っていた。
「本当に治したのかよ・・・せっかくあんだけ脅しといたのにな」
「どうする、まだやるのか?」
「いや、やめておく・・・今のお前に手を出したら次こそ消されそうだしな」
「じゃあ、どうするんだ。」
ぐっと伸びをしながら問いかける。
「とりあえず、悪魔の書に戻らせてもらう」
「そうか・・・なら俺の家に戻るか」
「あぁ そうだな・・・それに、早くしないと堕天使メアももたないしな」
ドッペルゲンガーと大樹は、大樹の家に走った。

メアは家の床に伏していた
時間が経っていたのに血は紅いままだった。
「メア」
大樹はメアをおこした。
「・・・ダイキ・・・」
「もう、もたないな」
ドッペルゲンガーは真面目な表情で言う
「・・・オマエのせい・・・」
「そりゃ、間違いない」
クククと笑うと、ドッペルゲンガーは椅子に座った。
「ドッペルゲンガー、お前の時と同じようには出来ないのか?」
「出来ると思うが、欠損したものが違う」
メアを仰向けにして血で汚れていない床にねかせた。
「イイか・・・コイツを治すにはお前のイメージで身体の一部を再構築する必要がある」
大樹は右肩のあたりに手をあてると目を閉じた。
ドッペルゲンガーは大樹の頭に手をあてるとメアの右腕のイメージを流し込んだ。
光と共にメアの右腕が再構築され、傷を残さずに修復された。
「・・・ワタシの右腕が・・・」
目を1度開けうまく出来ているのを確認すると、次は腹部の孔のあたりに手を持っていった。
そしてもう1度目を閉じるとドッペルゲンガーは腹部の複雑なイメージを流し込んだ。
光と共に腹部の孔は無くなったが、服は孔が開いたままで白い肌が見えていた。
「うまく言ったようだな、大樹」
「あぁ、サンキューなドッペルゲンガー」
お互いに手を叩く
「・・・アリガトウ、ダイキ・・ドッペルゲンガー」
「良かったよメア」
「元を正せば俺のせいだし、気にするな」
ハハハとドッペルゲンガーと大樹は笑い、メアは小さく微笑んだ。
「それはそうと、どうやってページに戻るんだ?」
「・・・へぇ、戻るの・・・」
「悪いかよ」
「・・・いいや、出たときは抵抗したノニどういう風の吹き回し?・・・」
「気分だ、気分」
「・・・そう、まぁいいけど・・・」
メアは床から起き上がると床から真っ白になったページを渡す。
「・・・これに核を移せばいい・・・」
「そうか」
ドッペルゲンガーは一言言うとページを受け取り、額に押し当てた。
「じゃあな、大樹」
「もう、2度と出てくるな」
「・・・出てくるな・・・」
「うわっ、ひでぇな・・・あばよ」
ページが光るとドッペルゲンガーの姿は薄れていき、ページには魔法陣らしきものと謎の文字が浮かびあがる。
そして、ページはヒラヒラと落ちていった。
メアはページを拾い上げると、大事に悪魔の書に挟んだ。
書をテーブルに置くと突然大樹の唇に自分の唇を重ねた。
唇を離すとメアは言った。
「・・・ワタシ・・・アナタが気に入った・・・だから少しの間・・・アナタの近くに居る・・・」
「それって、どういう事?」
「・・・1つは監視・・・私がアナタの力を目覚めさせてしまったから・・・」
「『想造』か」
「・・・そしてもう1つは最初に言った・・・」
「本気か?」
「・・・モチロン・・・」
メアはコクンと頷く。
大樹は断れなかった。
メアはついに大樹の家に住むことになった。
「そうだ・・・俺の力が目覚めようとした時、最後に後ろを押してくれたのはメアだろ?」
「・・・ウン・・・」
「その・・・なんていうか・・・ありがとうな」
「・・・元々、巻き込んだのはワタシだから・・・」
大樹の日常は少し変化した。変な方向に・・・・
それが、また大きな問題を起こすのは別の話である。

終わり

「ありがとうございましたー」
常に微妙なテンションの定員さんの挨拶を聞き流しながら、私は最寄りのコンビニを出た。
その手には、ややアルコール度数の強いビール缶が4、5本程、そして、ピーナッツなどのおつまみ類が入ったビニール袋が握られていた。
どうも今夜は寝付けない。
他の家族は既に、ネヴァーマインド絶賛突入中の訳だが、どうやらなぜか私だけ仲間外れにされてしまったようだ。
まあ、夢の中でなくても、日常でも仲間外れにされているような感じはあるけどな…………
まあいい。
こんなことを考えても涙が出てくるだけだ。
とにかく、今は帰って酒でも呷って、この冴えた眼と脳を落ち着けたい。
早く、あの頭がボーっとするような、なんともいえぬ感覚に浸りたい。
「いま何時だ?」
私は外出の際は常に装備している、某有名人も付けているという高級腕時計(って言って売ってくれた胡散臭そうなオッサン談)を見やった。
………12時3分……………
もう日も変わってしまったようだ。
参ったな………明日、いや今日も仕事だというのに。もう寝なければ仕事に支障が出るかもしれない。
とにかく、急いで帰ろう。
それまでゆっくりと歩みを進めていた私は、歩幅を大きくし、早足で進みだした。
それにしても、こんなに夜更かししているのも久しぶりだ。
よくよく考えてみれば、私はそうダラダラと夜遅くまで起きている人間でもない。
特にすることが無ければ、とっとと寝てしまうタイプなのだ。
「今夜は一体どうしたというんだ?」
さっきから独り言多いな。
疲れているのか?
………………………………
ただの考えすぎか。
「?」
そうこう思考を巡らしているなか、私はふと、足を止めた。
10~15メートル程前に、何かがあることに気づいたからだ。
それはまるで、私の行く手を遮るように、屹立していた。
さらによく見ると、どうやらそれは小学生低学年くらいの幼じょ………じゃなくて少女に見えた。
暗くてよく分からなかったが、その少女は黒っぽいパジャマのようなものを着ていた。
そして、その少女も、私の方を見ている(ようにみえる)
だが………なんだろう、この感じは…………
何か、寒気がする…………ような気がする。
(何だ、この娘は………
何故、こんな真夜中にこんなに小さな少女が外を出歩いているんだ?
というか、何故私の前に突っ立っているんだ?
とにかく、最近は何かと物騒なので、早いところお家に帰してやろうと思い、親切心から、私はその少女に話しかけた。

「なあ、お譲ちゃん。こんな夜遅くに何をしているんだい?」
が、少女は依然として、私を見たまま、何も言わず、ただそこに立っていた。
まあ、いいさ。最初はそうだろう。
いきなり知らないおじさんに話しかけられても、たいしたレスポンスは出来ないだろう。
かまわず、私は続ける。
「早くお家に帰りなさい。夜はどんな人が闊歩しているか分からないぞ」
と、できる限り優しい口調で、かつ言葉を選んで、発言した。
その気遣いが実ったのか、ようやく少女は口を開いた。
「おなかがすいたの」
少女は言った。
「そうか………
と、私は相槌を打って、その一瞬のうちに、次の言葉を考える。
が、少女は予想外にも、私がそんなことを考えているうちに、再び言った。
「だから、さがしにきたの」
すばやく、私は、反応する。
「そうか………でもね、お譲ちゃん。お腹が空いてて食べ物を探すのに、何でわざわざ外に出る必要があるのかな?」
と、今度は少し強い言い方をしてみた。
「おうちには、もうたべものがなかったから」
………
ん?なんだって?
私は、少し言葉に詰まった。が、すぐに言葉を返す。
「ああそうか。それなら、おじさんが今ちょうど食べ物もってるからさ、それをあげるよ。だから、もう帰りなさい」
といって私は、ゆっくりと少女との距離を詰めながら、手にしていたビニール袋に入っていた、この後食べようと思っていたツマミのうちの一つを、少女に差し出した。
「いいの………?」
少女は近づいてきた私を見上げつつ、言った。
近くで見てみると、少女は透き通るような白い肌をしていて、端正な顔立ちをしていた。
(ちょ……かわいい!)
かなりタイプだ。
知らずと、口元が緩んでしまう。
「?」
私の変化に、少女は不思議そうな顔をする。
あ、しまった。
平常心、平常心。
深呼吸を一発ほどかました。
その直後、念のため、もう一発。
そして、改めて少女にそのおつまみを差し出した。
すると、少女は私を見上げ、ここで初めて微笑みを見せた。
そして、すこしの間のあと、私に向かって感謝の言葉を贈った。


「ありがとう。それじゃあ、いただきます」


と、少女は差し出した私の手をすり抜け、そして――――――
「グッ!!!」
突如として遅い来る、腹部への、激痛。
私はうめき声とともに、その場に膝をついた。
私は、今ここで何が起こっているのか、理解できなかった。
その激痛の原因が少女の放った拳なのだから、なおさらだ。
「お譲ちゃん……………これは…………どうゆう――――
私が言い終わる前に、今度は左側頭部に衝撃を受けるとともに、私の頭が、胴から千切れ、その千切れた首の部分から夥しい量の鮮血を迸らせながら、どこかに吹き飛んでしまった。
私の意識は、そこで切れてしまった。
後に聞こえたのは、生物の肉を噛みちぎるような、グシャッ、グシャッ、というような音と、何か硬いものをかみ砕くような、ゴリゴリという不快な音だけだった。



「ごちそうさま」



                           (完)

1~
私は人間に「ネコ」と呼ばれる生き物だ。
名前なんてものはないし、そんなもの、人間が勝手につけているだけだ。
そして私は人間に「クロネコ」というものとして、今までひどい目にあった。
でも私としてはそんなことはどうでもよかったので、気にしていない。
明るいときでも暗いときでもなにもせずに、ただぼーっと
人間が行きかう風景を眺めている。
最初のうちは見慣れないものに興奮を覚えたのだが、
とてもながい間がたったせいか、いつの間にか興味が失せていった。
こうも長い間特に生きている意味も見出せずに、こうして過ごしている私。
だけど、そんな中でも、最近ようやく見つけたものがある。
それは、ある暗い日に起こったことだ。人間の言葉で言う「夜」のこと
あの時私はたまたま起きていて、なにもするわけでもなくぼーっと空を
見ていたときだ。そらに輝いていたもの全てがものすごい勢いで流れて
いくのを見たのだ。今まで色々な人間や風景を見てきて、もう初めて
見るものなんて何もないだろうと思っていたのに
そしてこれは久しぶりに感じた「興奮」そして「興味」だった。
しかし、「その流れるもの」はどんなものなのかは知らなかったし、
なんていうものなのかもわからずにいた。勿論、最初のうちはそんなもの
どうでもよかったし、気にも留めなかったが、いつしか気になり始めていた。
そんな時に、いつも私が居座って空を見ていたときのことだった。
一人の人間が、私の横に座ってきたのだ。

2~
私自身が今までこの人間にいつもひどい目に合わされてきた、が、
そんなことはどうでもよかったし、たまに親切な人間もいることを知っている。
どうやらこの人間は後者のほうらしい。現になにもしてはこなかったが、
独り言なのか、私に話しかけているのかはわからないが、語り始めた。
「この間は、すごかったなぁあの流星群は」
りゅうせいぐん?なんのことだしばらくはなんのことだかわからなかったが、
しばらく考えるうちに、私が求めていた「答え」のことだと気づいた。
そうか、あれは流星群、っていうものだったのか
「次にあれが来るのはいつだったかな?」
ん?いわれてみれば私はあの日から毎日欠かさずに空を見上げているが、
流星群が出てくることは、一向になかったもしも、あれっきりだったら、
たまたま見ることができた私は、とても幸せなんだろうか?
それとも、そんなことを私が考えてもしょうがないことなんだろうか?
やれやれ生まれてからこの人間と長くいすぎたせいなのだろうか
考え方が人間くさくなってきているのかよく仲間達にも言われることだが
お前も、もう一度見てみたいんだろうあの流星群」
!?なっ急に話し掛けられてびっくりしたでも、そうだな。もし、
もう一度見られるなら、見てみたいな、あの流星群を
結局、その人間の男はそれっきりしゃべらずに、ずっと空を眺めていた。

3~
その日からあの男が毎日の夜に来るようになった。
その男は―――と名乗った。だが猫である私によくもまぁそんなこといえた
ものだと少し呆れてしまった。それこそ最初のうちは少し離れて空を眺めている
ばかりだったのが、ここ最近は近くに腰を下ろして見てはこうやって話し掛けて
きているので少し困っているところだ。別に敵意は感じないので逃げる事はしない
が、かといってこう話し掛けられるのは少し、違和感を感じずにはいられなかった。
だがこの違和感は、私にとってはいやな感覚ではなく、むしろ
気づいたときには、私は自分でその男の膝の上で空を見るようになっていた。
だんだんと寒くなっていく周りとは違い、その男の膝の上はとても、暖かく感じた。
男はよく私に空に浮かんでいる物、星の事についていろいろと語りかけてきた。
星と星を線で結ぶと人や動物、物のように見えて、それを「星座」というらしい。
お前の大好物の魚の星座もあるぞ、と言った。別にそんなに好きではないがな。
それ以外にも、男が今画家としてここにいる事、貧しくてもがんばっていること、
もうすぐ冬本番が近づいている事等、膝の上で包まっている私に語りかけてきた。
いつもなら人間なんてどうでもいいものだと思っていたが、この男は特別なんだと、
少し、考えが変わっていったのは言うまでもない事だった。
そして、風が本格的に寒くなって、私たちにとって一番苦手な冬が来ようとしていた。

4~
ある日、いつものように夜空を眺めていると、男がとてもうれしそうに走ってくるのが
みえた。いったいなんだと思っていたら、いきなり私を抱きかかえてきた。
「おい!お前にとっての朗報を持ってきたぞ!!」
いったいなんだというのだろうか?猫なんかにとっての朗報とは
「12月25日、つまりクリスマスに流星群が来るらしいぞ!」
それは願っても無い事だった。もう一度見てみたかった流星群。
それがとうとう見る事ができる。こんな気持ちになるのはいつぶりだろうか
「12月25日」「クリスマス」がなんなのか私にはわからないが、
この男は来るだろうから、いつになるかわからないけど楽しみにしていよう。
その次の夜からはいつ来るかいつ来るかと、気が遠くなってるんじゃないかと
思うほどに長く感じてしまった。今までは昼と夜の繰り返しの中、何もすることが無く、
ただ呆然と過ごしてきた私にとって、それは苦しいものではあるものの、嫌いになれない、
そういったものを感じながら、流星群を見れる夜まで待ち続けた。
勿論男は毎回夜になるとやってきては、私を膝に乗せて夜空を眺めていた。
そして、男が流星群が来るぞといってから30回くらいの夜、いつものように、
いつもの場所で、夜空を眺めていたときだ。そろそろ来るころになっても、
男は一向に姿を現さなかった。雨の日以外は必ずといっていいほど来ていたあの男が、
一体どうしたというんだろうか?そんな事を考えながら夜空を眺めていた。
それからどれくらいたっただろうか最初は低かった月の位置がもうずいぶん高い所まで
あがって来たなぁと思い始めたころ、
男がようやくやってきたのだ全身に傷を負いながら
ヨロヨロしながらも私のそばに来て、ゆっくりと腰を下ろした。
「ははは流石にきつかったな、ここま、で
そう呟きながら、ゆっくりと私を膝に乗せた。
男の話によると、今日もいつものように自宅で絵画を書いていたとき、
いきなり激しくノックを叩く音借金とりがやってきたらしい。
今回はいつもよりも激しい音どうしようもなくなってしまった男は窓から逃げ出した。
そして、体中傷だらけになりながらも、ここにやってきた、と話してくれた。
「今までの事が全て返ってきたからだな自業自得ってやつかな
そう呟く男の笑顔は、いつのまにか、影が差していたように思えた。
今日で、お前ともお別れかも、な
そういいながら、私の頭をなでる男。いつもより少し冷たい手で、
いつもよりもやさしくなでてくれた。
「だから、っていうわけじゃないけどお前、名前ないだろ?」
名前、か確かに今まで人間とこういうふうに過ごしてきたわけじゃないので、
そんなもの持ち合わせてはいない。
「だからさ、とても自分勝手で悪いけど、俺の名前をやるよ
 お前に、とっても合ってると、思うしな
そういいながら男は自分のズボンのポケットから小さくて赤い首輪を取り出した。
それを私の首に巻いて、そこについていた銀のプレートを見て、目を細めていた。
「こんなものしか、お前にしてやれる事は無いのかもしれないけど、受け取ってくれ」
なんだかいつもよりも自分勝手で、受け取るも何も勝手につけといてなんだ!
とも思えるが、いつもとは様子の違うその男のさびしげで儚い笑顔をみたら、
そんな考えは、どこかに飛んでいってしまった。
「さて、これで思い残す事は、このあと飛んでくる流星群だけ、だな」
そういえばそうだった。流星群、今日飛んでくるのか
私にとっての願い、「もういちど、流星群を見たい」という、人間からすれば
そんなとても簡単な願いだが、私にとってはとても大切な、かなえたい願い。
この男も同じだったのだろうか。こいつも自分勝手なら、私も自分勝手だな
こうやって、同じ願いだと、自分と重ねてみているのだから。
そう、思っていた頃だった。頭上から一つ、流れ星が降ってきた。
「お、来たかとうとう」
そう男が呟いた、その時だった。
この間見たときの流星群とは比べ物にならないくらいの流れ星達が、
瞬く間に流れては消えていくその凄まじくも儚げなその光景が、
私と、その男の瞳に焼きついていった。
その光景が終わるまで、どれくらいたったのだろうか
私には今までで一番といっていいほど長く感じた。それほどにすごい光景だった。
最後の流れ星が落ちたのを見た後、なぜだか急に眠気が襲い、そのまま意識が
遠くに沈んでいった

5~
その後に起こった事は、私はあまり思い出したくは無い
現在、あの場所は、青いきっちりとした人間だらけで、私にとってそれはとても
不快な場所になってしまったせいだ。他にもあるがやはり思い出したくない。
あの日のよる以来、私は夜空を眺める事をあまりしなくなっていた。
なぜなら、あの「流星群」を見て以来、あれ以上の光景を見る事はもうないだろうと、
勝手にあきらめて、またいつもの日々を送ろうと思ったからだ。
私は、人間に「猫」とよばれる存在だ。
名前は、私に流星群やそのほかにもいろんなことを教えてくれた男の名前。
だからというわけではないにしろ、少し気に入っている。
首輪をつけているから飼い猫みたいに見られるので、
以前よりもひどい事はされなくなったっていうのも、少しはあったりする。
まぁ、時々親切な人間に抱きかかえられて、私の飼い主を探したりされるのが
玉にキズっていうものなんだがな

                               ~おわり~

 俺の意識は一点に集中していた。
「あいつがやってくる」
俺は誰にともなく呟いている。
夏の夕方はまだ十分な明るさを残している。
西向の窓から射す自然光は眩しいくらいだ。だが、俺は天井の照明器具だけではなく、懐中電灯から蝋燭まで灯りという灯りを全て点灯させた。寝室は異様な明るさに包まれている。普段は薄暗い部屋の四隅でさえ新聞の活字が読めるほどだ。
全ての照明を全身に受けて俺はベッドの上で胡坐をかいていた。視線は入り口のドアに集中している。
「あいつがやってくる」
俺は再び呟いた。
もしそこに鏡があれば、俺は自分の眉間に刻まれた深い皺を否応無く認めただろう。それほど俺は怯えているのだ。
部屋の外からは微かに妻と娘の会話が流れ込んでくる。こんなことは初めてのことだ。気密性が高く、部屋のドアを閉めれば人の話し声など聞こえなかったはずだ。少し神経が過敏になっているのだろうか。
「おとうさんどうしたの」
「少し疲れているのよ」
おかしい。やはりはっきり聞き取ることができる。
「少し疲れているのよ」
妻の声が繰り返し聞こえた。いやそんな気がする。
「疲れている。だと?」
俺は自分に問い掛けた。
「疲れているのか?」
俺はかぶりを振って自答した。
「まさか。こんなにも目は冴えているじゃないか」
 
 照明に照らされた部屋の景色は何ひとつ変わっていない。それはそうだ、俺以外で唯一「動くモノ」だった時計も部屋に入ったときに、俺が電池を抜いたのだ。針は午後6時を少し回ったところで固まっている。
「もしかしたら
俺は微かな可能性を見出そうとしていた。
俺は子どもの頃、不注意で交通事故に遭ったことがある。幸い大事故には至らなかったが、倒れたときにブロック塀で頭を強打し軽い脳震盪を起こした。その時たった数秒間の間に、全てを思い出せないくらいの光景が浮かんでは消えていった。丁度今その時に近い感覚に襲われたのだ。
「時間が止まったのかもしれない」
暫く何も考えなかった。
「ふふふ
そして小さな笑いを漏らした。
時間さえ止まればあいつはやってはこないのだ。
「ははは
少しずつ笑い声が大きくなっていく。
「とうとう、逃げて行っちまったぜ」
俺はいつの間にか叫んでいた。
それは、かなわない願望を現実のものにさせるためだったのだろうか。
とにかく俺は叫び続けた。
「俺は、何も恐れはしない」
その時。
背中にほんの小さな空気の揺れを感じた。
それはレースのカーテンさえ、1センチも揺らすことが出来ないくらいの風だった。
俺の叫びは止まっていた。
おれは、意識を背中に集中させた。
後頭部の汗腺が刺激され発汗が促される。
その汗を風が乾かし、俺の体温は急速に奪われていった。
「振り向くな」
俺の本能が俺の体に訴える。
………
あいつが来たことを俺は悟った。
虫さえも通れないような、そんな窓の隙間からあいつはこの部屋にやってきたのだ。
「振り向くな!」まるで、その命令に対する反作用のように体が反応した。
俺は振り向きあいつと対面した。

 ガラス越しに夏のうだるような夕方の光景を切り取っていた窓は、いつの間にかすっかり夜の闇に覆われていた。窓は、今明々と照明を全身に受けた俺をうっすらと映し出している。
窓に映った俺の視線は、俺を透過するように背景へと焦点を合わせていた。
深まっていく闇は、さらに窓ガラスへ俺の姿をくっきりと映していった。
それはまるで鏡に封印された自分を見るようだった。
暫くして俺は意識を失った。

「どうしたの。夕べはかなり魘されていたみたいだけど」
妻が俺の顔を覗き込んだ。
頭痛が酷い。
「顔色悪いわよ。大丈夫」
何も言わない俺に苛立っている様子だ。
「風邪だろ
俺はぶっきらぼうに言い返した。
「そうかしら」
妻は怪訝そうに首をひねった。
「風邪だっていってるだろう」
そう怒鳴ると、俺は乱暴に席を立ち玄関を飛び出した。
駅までの道は限りなく長く、足は鉛のように重かった。
それでも俺は駅へと向かった。
30
分ほど前に摂った朝食を路肩に嘔吐しながら。
(
おわり)

黄昏時、それは夜の帳が下りる寸前。ほんのひと時に過ぎないけれど、世界の変わり目。昼の世界と夜の世界の、間の世界。どちらでもない、言ってしまえば中途半端、かもしれない。
 だけれど、だからこそ。わくわくしないか?
 「今」を一番感じられないか?

「世界?」
 彼のいう世界の意味がわからず、彼女は聞いた。二人は廃ビルの屋上で、彼は沈みかけてる夕日のほうを向いて、彼女に背を向けていた。
「そう、世界。君達の昼の世界と、奴らの夜の世界。みんなが知らないだけで、気づいていないだけで、夜には夜の住人がいるのさ」
 振り向き、芝居がかった口調で「ジョン」は言う。黒髪黒目に黄色い肌。話す言葉は流暢な日本語。どこからどう見ても日本人、百歩譲って東南アジア生まれ。それなのに、彼は他人に自分のことを「ジョン」と呼ばせる。
 そんなところも、しゃべり方も、かっこつけだなぁとか彼女は思う。だけれどどこか惹かれる。何故だか分からないけれど。
「じゃあ、あなたは?」
 再び彼女は尋ねた。
「私のすむ世界を昼の世界と言って、それでもあなたは自分のことを夜の住人とは言ってないよ」
 彼は答える。なんとなく、いたずらっぽい笑みを浮かべながら。
「僕はね、黄昏の生まれなんだ」
「何それ?」
「昼に住まう人々とも、夜に住まう異形の影とも、どちらでもない中途半端。『魔術師』さ」
 彼女はため息をついた。結局、ジョンは私をからかっているのだと思った。
「からかってなんかいない。大真面目さ」
 彼女は驚いた。別に声に出していたわけじゃない。ただ考えただけ。まるで、ジョンはその考えに答えたかのようだった。そして彼はオーバーリアクションに両手を広げた。腰を低くしてお辞儀のように。
「その証拠にわが魔術、お見せしましょうお嬢様」
 そして、顔だけ上げて不適に笑った。山の向こうへ沈みゆく赤い太陽を背にして、彼の影は伸びてゆく。
 そしてもうまもなく、彼のいうように世界が変わることを、彼女は感じた。夜の世界へと。そして太陽が山の向こうへ沈むそのとき、彼は高らかに指を鳴らした。その動作もまた、芝居がかったものだった。
「レディース、エーン、ジェントルメーン。ようこそおいでくださいました、わがショーへ」
 日は完全に沈み、月が大地を照らす。アスファルトの両脇に立つ街灯が、まるでジョンの声に答えるかのように次々と点いてゆく。
「本日お見せいたしますは」
 右手の人差し指と中指を立て、夜空を突かんばかりに振り上げる。
「空中遊泳なり」
 そのとき、一陣の風が吹いた。突風にのって飛んできた塵が目に入り、思わず彼女は目をつぶってしまった。そして、彼女が目をあけたとき、廃ビルははるか下方にあったのだ。

「うわっ、わっ、わわっ!」
「落ち着いてよ。落ちたりしないから」
 突然上方から声がした。寒さと高さとで震えていた体は、その言葉で震えを止めた。
「ジョ、ジョン!」
「どう?信じてくれたかな?」
 ジョンは、彼女より少し高いところで、彼女と同じように浮いていた。そして、彼の微笑んでいる顔を見たとたん、彼女の高さの恐怖は吹き飛んだ。何故だか突然嬉しくなったのだ。下を見下ろせば、町の明かりがとてもきれいだったのも理由のひとつだったかもしれない。
「すごい、すごいよジョン!ジョンは本当に魔術師だったんだね!」
 しかし、彼女の歓喜の言葉とは逆に、少し彼の微笑みは陰っていた。そしてジョンは言った。
「そうさ、魔術師なんだ。人と、異形の間の存在なんだ」
「ジョン?」
 ジョンの様子が少しおかしいことに彼女は気づいた。さっきまでノリノリで、嬉しそうにさえ見えたのに、今は何故だか悲しそうに見えるのだ。
「僕は黄昏、中途半端だったけれどね。時間は止まらない。世界は動き続けている」
 彼の言葉の意味を図りかね、彼女は尋ねた。
「何がいいたいの?」
「魔術師の仕事は、世界を動かすこと。世界を形作っているのは、世界に住む人々なんだ。夜昼問わず、ね。みんな、いろんな悩みを抱えてる。それらを取り除いたり、緩和したりして、僕らは止まりそうな世界を動かしてる」
「どういうことなの?わかんないよ、あなたが悲しそうな顔をすることと何か関係があるの?」
「僕はね、君にひとつ嘘を吐いてしまった。君を昼の世界の人間といったけれど、ほんとは違う。君は気づいていないみたいだから言えなかったけど、」
 ジョンは、そこで一度言葉を切った。
「君は、夜の世界の住人だ。いや、『もう』夜の住人だといったほうがいい。今確信が持てたよ」
「分からない。ジョンが何を言いたいのか、分からないよ
 いつのまにか、ジョンはマントを羽織っていた。裾が擦り切れてぼろぼろの、色あせたマント。それが彼の体を覆い隠すように。ついさっきまではそんな物は無かったのに、ついさっきまでは着ていなかったはずなのに、先ほどまでのジョンの服装が、彼女には思い出せなかった。
言っていなかったけど、実は僕の魔術は、昼の住人には使えない。いや、意味が無いって言ったほうが正しいかもしれない。昼の人に使ってこそ意味のある魔術は、僕と同じで間逆な『暁の魔女』じゃないと使えない」
 なぜなら時の流れは一方通行。暁の後に昼がきて、黄昏の後に夜が来るから。ジョンはそう続けた。
 いつしか、ジョンの瞳が赤く染まる。昇り始めた月を背中に、赤目の魔術師を見た彼女は、そのとき初めて彼に恐れを感じた。その気持ちもまた、理由の分からない気持ち。
「誰かが、自分の周りに感じている『世界』を見ようとしなくなるとき、どうしようもない現実に押しつぶされそうなとき、自ら命を絶ってしまう人がいる。しかし、生きてそれを乗り越えられればいいけれど、乗り越えられずに壁の前でずっと立ち尽くしている人は、いつしかつぶされそうな中で大事な何かが変質してしまう。別の何かになってしまっても、自分の力ではその世界から出られない。だからこそ、昼か夜のどちらかに留まる。自分の生まれた場所に」
 二人の周りを吹く風が、少しずつ勢いを増す。それは、気づき辛いほどゆっくりと、少しずつ。
「そして、僕ら魔術師の仕事のうち、一番つらい事がそういった人々を変質した結果に属する世界へと連れて行くこと。生まれた世界に家族がいても、友達が、恋人が、大切なものを全て置き去りにさせて連れて行かなければいけない。そうしなければ、いつしかこの世界は止まってしまう」
 彼のマントが風に揺らめく。彼自身もまた、陽炎のようにゆれているように感じる。
 「そして、僕らは聞かなければいけない」

気が付けば、月を背後にして浮いているのはジョンのほうだった。月の光のあたらない彼の正面。目だけが赤く、彼女を見つめて問い掛ける。
「以前の記憶を残すか否かを」
 その言葉を聞き、彼女は自分がこれまでどういう人生を送ってきたのかを思い出す。意図的に、魔術師が以前の記憶を思い出さぬようにと、彼女と会ったときからかけていた魔法を解いたから。それがかかっていたからこそ、彼女は彼を最初、不審に思うことは無く話していたのだ。
 そして、つらいことに押しつぶされそうになったからこそ、こうして魔術師と出会い、自分ひとりで抱えきれないものだからこそ、大事な何かが変質してしまっている。これまでの思い出にどうしようもない何かがあるからこそ、どこか誰も知らない場所へといってしまいたいと願い、その結果としてこうなっているのだ。

 だけれど。
 それでも。

「全てがつらかったわけじゃない」
 二人にかかっていた魔法はいつしか解けて、気が付けば屋上にいた。そのとき、彼女は自分の頬を伝う熱いものに気がついた。
 そう、全てがつらい思い出だけじゃない。これまで生きてきた中で、やっぱりつらいことの方が多かった。だけれども、ほんの少しではあるけれど、すばらしい思い出はあったのだ。時がたつにつれて、多くのつらい事があって、それらと一緒に楽しかったことまで忘れてしまったが、そんな忘れてしまったことも全て、先ほどの問い掛けられた言葉によって思い出した。一瞬、あまりにもつらすぎる思い出に再び押しつぶされそうになったけれど、それでもそれらを振り払い、楽しい思い出こそがひときわ大きく輝いていたのだ。
「ありがとう、ジョン」
 それらを思い出させてくれて。
「私は全部忘れない、全部全部背負って生きる」
 頬をつたうその熱い涙は、喜びであり、悲しみでもある。楽しかったこと、嬉しかったことを思い出せた喜びで、それらを作ったこの世界との別れの悲しみ。
 その言葉を聞き、ジョンは彼女に背を向けた。その背中は、心なしか震えているようにも見える。
「礼なんか言わないでくれ。分かっているのか?君にかかっている重石の原因を僕は知らないが、君の大切なものさえも全てまとめて引き剥がそうとしてるんだ。今までもそうしてきた。多くの人から苦しみとともに生活の中にあった小さな光さえも奪ってきた。下手をすれば、それこそがその人にとって一番苦しむことかもしれないのに!」
 彼は、泣いていた。生まれて初めての心からの感謝の言葉を聞き、生まれて初めて心を剥き出しにして泣いていた。
 彼ら魔術師は、完全のまま生まれる。成長もせず、衰えもしない。そして、一人が死ねば新しく一人が生まれる。生まれたことを祝う人もいなければ、死に目に見取ってくれる人もいない。孤独な一生。
 その一生が、どれほど呪われた一生なのだろう。生まれたときから人の絶望を間近に感じ、それを一人で抱え込まなければいけない。しかし、彼らを救う人はいないのだ。彼らが救う側だからこそ、彼ら自身が救われることが無いのだ。
 彼らに感謝の言葉を言う人がいなかったわけではない。だけれど、それまでの人々が言ってきたその言葉は、今まで生きてきた時間さえも否定し、別の世界を救いだと思っていたから出てきた言葉だったから。  それなのに誰かをもう一つの世界に連れて行くときに、その世界がどんなものかを知らせることができない。つまり、それに大きな期待をしている人たちに真実を告げられないのだ。実は、二つの世界にそう大きな違いは無い。どちらにも変われるのだからその実、根っこは同じ。そこにすむ人が違うだけ。それに大きな期待をかけている人たちを見て、常に罪の意識にかられ続ける。
 だけれど、彼女は自分が生きてきた時間の中の宝物を思い出させてくれたことに感謝をしたのだ。苦しみから解放してくれると信じたことから出る言葉ではなく。
 だから、彼は泣いた。今まで感じてきた気持ちの重さに。

そして彼女が先程ジョンに感じた恐れは、彼のその危うさゆえに。気持ちの重さにいつ潰れてしまうかも知れず、それでもなお自分を奮い立たせようとしている。それは彼の強さとも、弱さとも取れるのだ。
「分かってるよ」
 そんな彼を見て、そんな彼の言葉を聞いて、彼女は思う。彼は、とてもやさしい人だ。だからこそ、彼はこんなに泣いている。自分のやってきたことに罪深さを感じ、それに彼自身が押しつぶされそうになっていても、私に笑顔を見せてくれた。だから―――
「それでも、あなたが最後に私にやさしさを見せてくれた」
 ―――この人を、助けてあげたい。
「あなたのおかげで、私は忘れていた楽しかったことも思い出せた。あなたのおかげで、最後の最後で私のいた世界を嫌いにならずにすんだ」
「それでも―――
「私は、あなたのおかげで久しぶりに笑えたんだ。あなたのやさしい笑顔を見れたんだ」
―――っ!」
 彼はびくっと肩を震わせ、目元を手で隠しながらゆっくりと振り向いた。それでも隠す意味が無いほどに、その手の下から涙が溢れ出していた。その涙は、いつしか悲しみから安堵の涙に。自分のしてきたことに、小さな許しを得たような気持ち。

 そして、どれほど名残惜しくても、別れは必ず来る。

 別れの悲しみと、互いから感じたやさしさに、ジョンは必死にあふれる涙を止めようと服の袖で目をぬぐい、彼女はおちる涙を拭こうともせずに彼を見ている。
「・・・そ、それじゃ、夜の世界に送るよ」
 見下ろせば、街頭の光が等間隔に照らしているのが分かる。夜の世界といっても、常に夜であるわけではない。昼の世界と呼ばれていても昼夜があるように、夜の世界もまた、昼も夜もある。ただ、互いの世界を感じられないだけ。ただ、心や体のどこかが違うだけ。しかしそれが決定的な違いとなる。
 もしかしたら、もともとは一つだったのかもしれない。
「うんっ!」
 彼女は大きくうなずく。それを見たジョンは左右に大きく手を伸ばし、勢いよく胸の前で手を合わす。パーンと、空気を震わす音。1拍おいてから、ジョンは両手を前に出す。
「この手を握って」
 言われたとおりに彼女は左右の手でそれぞれジョンの手を握った。見かけよりその手は硬く、けれども温かい手。やがて彼の手が淡く光だし、その光は彼女の手へと移っていき、その光が次第に彼女を包み込む。それは、ジョンの手と同じように、温かい光。
「ねぇ、私はあなたにまた会えるかな?」
 いつしか、頬を伝っていた涙が乾き、彼女の体そのものさえも、光になってゆく。だからまだ言葉がいえるうちに、彼女は彼に聞いた。そして、彼は微笑み答える。
「君が僕のことを覚えていてくれるなら、きっと」
 そして彼女の光は、やがて形を失い消えてゆく。いつか別の世界で、新たに生まれるのだ。彼女は最後に彼と約束した。いつかまた、姿が変わってしまっても、どこかで必ず会おうと。
 
 そしてまた、魔術師は黄昏時に人を待つ。いつかまた、彼女と会えることを祈りながら。

―――END

月の記憶 ~序章②~

 ここは世界ミッドガルドのある村。人々が平穏に暮らすこの世界では、もちろんここも例外ではなかった。のどかな景色、小鳥のさえずりと共に目覚めれば、家族の笑顔と共に眠りにつく。そんな、どこにでもある村。
その村に住むある女性が森の木の実を採りに行こうと、小川が流れる小さな橋を渡る。橋を渡った向こうには少し大きめの森。午後の温かい日差しが木々の間に差し込んで、美しかった。女性がその景色に少し見とれていると、女性の目にある一つのものが映った。
「あら?何かしら…」
小首をかしげてそう言えば、腕にかけてある籠を揺らしながらゆっくりとそのものに近づく。そして、そのものが分かったと思った瞬間、ドサリ、と籠を落とす。そして
「きゃあぁああああ!!!」
という甲高い声が村全体に響き渡った。仕事をしていた人々は一体なんの騒ぎであろうと手を止めた。そして近くの人は声がした森の方を見る。すると幻想的な美しさを持っていた森の入口から先ほどの女性が出てきた
「あ……も、もりに……」
女性はふらふらとした足取りで森から出てくれば倒れそうになる。そこを村人が駆け寄り抱きとめると
「お、おい!どうした!!」
村人が今にも死にそうな顔をしている女性をゆすって声を上げる。
「おい、どうし…」
何度目か呼びかけの時、その村人は気づいた。女性の脳の後ろ半分がないことに。そして死にそうな顔をしていたのではなく、腕の中のその女性は既に死に絶えていた。そしてゆっくりと女性が出てきた森の方を振り返った。
「う、うわぁあああ!!」
その村人はその叫び声と共に目の前が真っ暗になった。村にいた人々も二度目の叫び声にさすがに不審に思い森に近寄ろうとした。
そこには死体が二つ。村人は何が起こったのかわからず、やはり森の方を見ようとしたときだった。
黒い狼のような形をしたものがいっせいに森から出てきた。そして大量のそれは村へ一気に襲いかかった。その村が崩壊するまでにさほど時間はかからなかった。
「う………」
村のはずれ。なんとか生き残った一人の少年が必死にあの黒いものから逃げようと這っていた。そしてしばらくして、なんとか遠くの場所まで来ると、不意に村の方を振り返る。するとそこには村が炎につつまれている光景が少年の目に広がった。
「う………、うぁ、あ………」
絶句した少年の目からは涙があふれ、嗚咽を漏らす。胸を抑え、さらに息があがる。そして顔を上げればまるで祈るように手を合わせ
「お願い戦乙女様……あの黒いものを倒して……お願い………」
少年は何度も何度もそういえばぱたり、と倒れ息絶えた。
後には村の燃える炎の音と少年の周りをつつむ悲しい静寂しか残らなかった。


月の記憶 序章①

             大地があった
             草木があった
             小鳥が鳴いていた
             風が吹いていた
             川があった
             海もあった

             夜が来て
             朝が来た

             光があって、
             闇もあった


             そして


             人がいた

          いろんなイキモノがいた

           世界には全てがあった


             だけど、

       一滴の涙が世界を変えた、変えてしまった

         でも…もう泣くのは終わりにしよう
           世界を見よう、記憶しよう



            そう、たとえ
     何千何万個の命が絶えようとも、私は涙は流さない
               
              たとえ
   何千何万の命が消えようとも、私は一つ一つの命を忘れない

             全テヲ記憶スル
              涙ノナイ月

             世界ヲ照ラス
              月ノ、記憶。


都内某所の中学校。
普段は騒がしいこの中学校も放課後の現在、閑寂とした空気が流れている。聞こえてくる音といえば、グラウンドで活動している運動部の掛声。
「依頼だよ」
人一人居ない教室の一角で退屈そうに窓枠に肘を付いている彼――山瀬徹の背後から声が湧いた。
「で、内容は何だ?」
その声に振り向きもせず、彼は素っ気なく返事を返した。
その態度に話しかけた彼女――小川綾子は露骨に悲しそうな顔をする。しかしそれはグラウンドに目をやり続けている彼には見えない。やがてそれに気づいた小川は表情を元に戻して彼が座っている席の前に腰掛けた。
「ちょいちょい……随分冷たいね」
「お前が呼んだんだろうが。呼んだ奴が遅れるってどういう量見だよ」
「あ~ごめんごめん。ちょっと野暮用でね……」
へらヘラと笑いながら謝罪する小川を暫くジト目でねめつけていた山瀬だったが、やがてはぁ、とため息をついて口を開いた。
「で、改めて聞くが内容は?」
「相変わらずだね。まぁ、君のそういう所嫌いじゃないけど」
「くだらねぇ。さっさと話せ」
彼女のジョークをあっさりと切り返し、再びグラウンドに目をやる山瀬に小川はやれやれと肩を竦めて話し始めた。彼女の話によると依頼主はエアガン部部長藤堂という男子生徒で、依頼内容は山瀬に助っ人として今日の夜行う競技に参加して欲しいとの事。
「で、人数は?」
「五対五のチーム戦だよ」
チーム戦という言葉に山瀬は嫌そうな顔をした。眉間に皺が寄る。
「面倒くせぇな……」
「はいはい、文句言わない。で、ルールを説明するね」
そんな彼の態度に馴れているのか、尚も嫌そうな顔をしている山瀬に構わず小川は続けた。
ルールは簡単。お互いのチームは教室側と特別教室側に分かれ、
お互いの旗を奪い合うというものだ。その際旗は校舎内ならどこに置いてもいい。
「使用する武器は?」
「部活名で分かるでしょ?銃よ」
「分かった。で、他には何かないのか?」
「うん。特にはないね。で、依頼受ける?」
その言葉を無視して山瀬は先程の溜息とは違う溜息を吐いた。
面倒臭そうに頭を掻いた後、席を立つ。
「あ、ちょっと待って!返事は?」
後ろから飛んできた小川の声に立ち止まった山瀬は振り返らずにこう言った。
「当然、受けるに決まってんだろ。仕事はきっちりこなすタチでね」
その顔には笑いが浮かんでいた。

同日深夜。
指定された教室に山瀬が入ると場違いな迷彩服に身を包んだ四人の男達が彼を出迎えた。
「あなたが助っ人の人ですか?」
その中の一人――今回の依頼主である藤堂薫が山瀬に歩み寄って来た。にこやかな笑みを浮かべた藤堂は彼の目の前まで来るとさっと右手を差し出す。
「ああ。そうだ。……で、何の真似だ?」
「いや、分かるでしょ?」
山瀬の怒気を込めた言葉をするりと受け流し、藤堂は右手を差し出し続ける。顔には相変わらず微笑。まずい。あちらのペースに引き込まれている。そう思った山瀬はその手を無視して本題を切り出した。
「で、作戦はどうなってんだ?」
差し出された手を無視された藤堂は困ったように笑うと、元の表情に戻って黒板に張りつけられているこの校舎の簡素な見取り図を指差した。椅子に座っていた他の部員たちも黒板を見る。
「作戦は単純です。旗を守る班と相手側の旗を探索する班に分かれて作戦を行います」
この中学校には四階建ての校舎が向かい合った状態で二つある。
一つは生徒達の教室がある棟。もう一つは特別な授業などで使う特別教室。事前に小川からルールを聞いていたため山瀬は容易に作戦を理解する事が出来た。もっとも物事が瞬時に理解できなければ助っ人業など到底務まらないが。その思考の間にいつの間にか教壇に移動していた藤堂は二つある建物の内の一つ、いま彼等が居る棟を指差す。ここは生徒達の教室がある棟だ。
「ここが僕達の陣地です。旗はここに置きましょう。何か意見は?」
誰も答える者が居ないためそれを肯定と受け取った藤堂は話を続けた。
「で、今回使用する武器はハンドガンのみ。使用する弾丸はゴム弾です。当たっても痛くはないので」
そう言って藤堂は教室の中央に位置する机に置かれた人数分の武器を指差した。それともう一つ。
バスケットボール程の大きさの物体。
「ちょっといいか?あれはなんだ?」
その物体に興味を示した彼が手を上げた。全員の視線が一斉に集まる。藤堂は微笑を深くして答えた。
「ああ、それですね。それは頭上に取り付けて使用する物です。僕達はバルーンと呼んでますけど。ゴム弾が当たれば中に入っている赤色のペイントが出ますので」
「それが出た場合は?」
「当然失格です」
周りから失笑が漏れたが、山瀬の一睨みによってすぐさま沈黙させられた。ただ一名藤堂を除いては。藤堂は何事もなかったかのように話を締めくくった。
「ではそろそろ時間ですし、僕達も準備しましょうか」
その言葉に山瀬を除いた全員が頷いた。

「で、何で俺がお前と一緒なんだ?」
ハンドガンで辺りを警戒しながら山瀬は隣で微笑を浮かべている藤堂を横目で睨んだ。
「いやいや、一度山瀬君と組んでみたかったんですよ」
睨まれた本人はと言えば相変わらず笑みを絶やさない。
ふざけているように見えるがそれが藤堂の素なのだろう。その様子にため息をついた山瀬は右耳に取り付けた小型無線を無言で指差した。これで会話しろ、というアピールだったのだが、藤堂は残念そうに眉を沈めて頷いた。
(緊張感のない奴……)
山瀬は心の中で思った。本来この手のゲームは冷静さと緊張感を要求されるのだが、この藤堂という男にはそれが感じられない。
ではなぜそんな男が部長を務めているのか?
山瀬はその理由を考えようとしてやめた。そもそも自分は助っ人で呼ばれただけであって、そこまで深入りする必要はない。
『ちょっと、待ってください……』
そんな藤堂がいきなり自分の横腹を小突いてきたのだから山瀬は彼を睨もうとしてはっと息を呑む。微笑を浮かべていたその表情が真剣になっていたからだ。
『お、おう。どうした?』
その変化にたじろきながらも、無線越しに返答した山瀬の前で彼は手近な柱にぴったりと身を寄せた。この階は特別棟に繋がる連絡通路。藤堂は無線越しに指示を出す。
『山瀬君は階段上から攻撃を仕掛けてください。僕はここから攻撃を仕掛けます』
戦略の基本は高所を取る事。と、いう事は敵も味方も二階にある連絡通路よりもこちらの連絡通路を使用するわけで、どちらが先にここを取るかで戦況が変わってくる。
(ああ、そう言う事か……)
その意図にようやく気付いた山瀬は階段の踊り場へと向かった。
そして無線に呼びかける。
『どちらが先に攻撃する?』
『敵は三人。こちらに向かって来ているので僕が一人をやりますから、山瀬君はもう二人をやって下さい』
『あいよ~』
山瀬が気のない返事を返したのとドアが荒らしく蹴破られた後、銃声が轟いたのはほぼ同時だった。
「!?」
山瀬が慌てて階下を見やると、確かに敵が三人居た。
全員が迷彩服を着込み、手にハンドガンを持っている。一番最初に入ってきたと思わしき男は既にバルーンを撃ち抜かれていた。
さすが部長を務めるだけの事はある。後の二人は踊り場でもう一人は向いの柱に隠れて射撃している。どちらも山瀬の射線に身を晒している状態だ。
(おいおい、合図も何もなしかよ……)
心の中でツッコミながらも山瀬の行動は素早かった。
ホルスターからもう一挺のハンドガンを抜き、左手に持つ。
両手に持った銃の感触を確認して一呼吸した彼は、踊り場を蹴って空中に跳躍した。前をはだけた黒色のパーカーのチャックが空気を切り裂きながらぶつかり合い、裾を鴉の翼のようにはためかせながら、彼は二人の真ん中に降り立つ。
「!?」
二人の男達は突然現れた敵に照準を切り換えるが、既に山瀬は引き金を引いていた。
「遅い」
二発の乾いた銃声。
同時に放たれた弾丸は二人のバルーンに命中、バルーンは赤い飛沫を飛散させながら破裂した。後に残ったのは呆然と立ち尽くす全身塗料塗れになった二人の男と柱の陰でその一部始終を見ていた藤堂――ただしその表情は呆けている――と既に塗料塗れになっている男だった。
「おい、行くぞ!」
当の山瀬はまるで興味がないというように通路を顎でしゃくる。
その声で我に返った藤堂は彼に歩み寄った。
「噂には聞いていましたが凄いですね……」
一瞬で戦闘を終わらせた目の前の男に藤堂は賞賛を送る。しかしそれよりも塗料が飛び散った上着の方が大事らしく彼は真剣な顔で棟堂に問いかけた。
「これって洗えば落ちるよな?」
その間抜けな発言に藤堂は思わず噴き出した。

その頃、特別教室棟屋上。
『三人やられた。後はアンタに任せる』
給水タンクの上に女が伏せていた。女の耳に小型無線が差し込まれており、頭にはバルーン。今しがた入ってきた無線に耳を傾けている。
「……」
上から下まで黒で統一した衣服を身に纏うその女はほのかに口を歪ませた。しかしそれは一瞬の事。女は二脚で固定した長大のライフルのスコープを覗きこむ。
その照準は教室棟四階の連絡通路を歩いている二人の男の内の一人――黒色のパーカーを羽織っている男に照準された。
「……」
一瞬の沈黙の後、女は無造作に引き金を引いた。


「!?」
山瀬は反射的に藤堂の襟首を掴んで、スウェイバックしていた。
聞こえたからだ。ライフル銃独特の銃声を。
刹那、亜音速で飛翔する“何か”が彼等の前をかすめ、そばの手すりに火花を散らした。その物体はころころと転がって藤堂の足元にぶつかる。
「こ、これは……」
「……ライフル用のゴム弾だな」
「おいおい、何だって……」
今まで笑顔を保っていた藤堂の顔がさっと青ざめる。
ルールによればハンドガンのみが使用だったはずだ。だが、現にこうして拳銃ではあり得ない距離から弾丸が撃ち込まれた上に、極めつけはライフル用のゴム弾。明らかにルール違反だった。
「なんてこった、くそっ!」
地面に拳を叩きつける藤堂。その表情には初対面時の微笑はなく、どこか焦っているようにも見える。まるで別人のように豹変してしまった藤堂に山瀬は聞いた。
「アンタ何でそんなに焦ってんだ?何かあったのか?」
ある程度落ち着いたのか、荒くなった呼吸を整えながら藤堂はゆっくりと口を開く。
「……ああ、そうだった。山瀬君にはまだ話してなかったね。実はこの競技で負けてしまったら僕達の部は潰されてしまうんだ」
「ほう。で?」
その衝撃的な発言に対する山瀬の反応は冷めていた。その反応に苦笑しながら藤堂は先を続ける。
「前々から生徒会に圧力をかけられていたんだ。今日の対戦相手だって恐らくは生徒会の息がかかった生徒達だ」
「へぇ~それはそれは」
生徒会の理不尽なやり方によって部活が潰されるかもしれないというのにそれでも山瀬の反応は冷たかった。その態度に藤堂は殴り飛ばしてやりたいほどの怒りを覚えているはずだが、何故か行動に移そうとしない。それは先程のやり取りでこの山瀬という男の性格を理解したからだ。故に藤堂の口調も投げやりな物になる。
「……まぁ、山瀬君にはどうでもいい話か。済まないこんな話をして」
笑いは笑いでも自嘲した笑みを浮かべた藤堂は中腰になって特別棟への扉に視線を向けた。
「ここからは僕一人で行かせてもらいます。じゃ……」
「待て」
そんな藤堂に山瀬が待ったをかけた。この時ばかりはさすがの藤堂も怪訝な視線を向ける。
「ふざけるのはやめてください。僕は……」
その先を言おうとした藤堂を山瀬は片手で制した。
その口がにやりと歪む。
「考えが変わった。それに向こうは俺達を誘ってるみたいだからな」
確かに先程の攻撃以降狙撃手は沈黙している。
まるで彼等を待っているかのように。舐められたもんだぜと山瀬は吐き捨てる。敵側はなぜか三人を探索に割り当て結果失った。
だが裏を返せばそれは残り二人だけでも旗を死守できるという自信の表れ。
「じゃぁ、僕達に勝ち目なんかないじゃないか……」
がっくりと肩を落とす藤堂に、まだ勝機はあると山瀬は不敵に笑う。
「まぁ俺に任せろ。仕事はきっちりこなすタチでね」

「……」
最初の狙撃から態勢を維持したまま、スコープを移動させた女は屋上に一つだけある扉にその十字を合わせた。その扉から数メートル離れた金網にはハンドガンを持った迷彩服の男。
扉の他にあるものといえば給水タンクと、転落防止用の金網。
遮蔽物は何一つとして存在しない。
「……」
圧倒的に有利な状況にも関わらず、女の表情には油断がない。
僅かな変化を見逃さないというように扉を見つめ続ける。と、その眼前で扉が唐突に開いた。
「!?」
女の指が引き金にかかり、遅れて男がそちらへハンドガンを向ける。しかし飛び込んで来たのは二つの物体。物体――消火器は盛大な煙を噴き出し始め、あっという間に屋上の半分を埋め尽くす。
その無害な物体に男は安堵し銃を下ろしたが、彼女は引き金から指を離していない。じっと煙に遮られた入口を見つめている。

――そして状況は動き出す

銃声。
銃を下ろした男のバルーンが突然破裂した。同時に煙の中から影がこちらから見て右から向かってくる。そこから出てきたのは黒パーカーの男と一緒にいた迷彩服の男だった。手に持ったハンドガンを今まさにこちらに向けようとしている。
だが、女の行動は素早い。突然の奇襲に動じる事なく冷静に引き金を絞る。くぐもった銃声。弾丸は確実に彼のバルーンを破壊、塗料が辺りに飛び散る。そうして落ちてきたライフルスコープを覗きこんだ瞬間、女の顔が初めて驚愕に歪んだ。
自分の注意の範囲外である左から黒パーカーの男が突進してきたのだから。その手には銃。迷彩服の男は囮。本命は――黒パーカーの男。慌てて引き金に絞ろうと指先に力を入れる女。
だが、それよりも早く黒パーカーの男はハンドガンを発砲、猛進する弾丸は女のバルーンを正確に撃ち抜き、遅れて発せられた銃声は戦闘の幕引きを告げた。


翌日の放課後。いつもの場所でいつもの表情をしている山瀬。
「やあ」
その背後から声が湧いた。いつものように振り返らずに返事を返そうと彼は口を開く。だが、今回は彼女の方が上手だった。
即座にいつもの席に移動した小川は得意げに笑う。
「で、アイツはどうなったんだ?」
それら全てを無視して山瀬は問いかけた。
グランドに目を向けたまま。
「生徒会の不正が発覚して部は存続という形になったみたいだよ」
「ふ~ん」
聞いておきながら気のない返事を返す山瀬。暫く二人の間に沈黙が流れた。そしてそれを破ったのも山瀬。
「あん時のスナイパーお前だろ?」
小川の表情がさっと強張った。返答の代わりに彼女はえへへと笑って髪を弄る。山瀬は席を立った。
「まぁ、別にいい。今回は俺の報酬が危うくなりそうだったからな。有利な方についただけだ」
そう言って彼は出口へと向かう。その背中はどこか笑っているように見えた。

――完

「この子どうするかな…」
部活動で作ってしまった一つのプログラム『DOLL』。画面の中だけで存在できる架空の人間。もちろん知ってる人間は僕しかいない。開けないようにパスワードもかけてあるし。ゲーム感覚で作ってみたのはいいものの…どうしよ。
「少し…遊んでみるかな…」
それが悲しみの第一歩だった。学校の中だけで会える『DOLL』。僕はプログラムをいろいろといじっていき彼女に声をつけた。イラストをつけた。イラストだけじゃもの足りなくなってきてアニメーションもいろいろつけた。その時点で僕は狂っていたのかもしれない。画面の中の彼女に…。

『外の世界はどんな感じなの?』
「えっ?」
唐突の質問に僕は戸惑う。彼女には学習機能がつけてあるためこちらが教えたことをすぐにプログラム化、記憶する。そのおかげか最初に比べていろいろと話せる様になっていた。
『外の世界って…あなたの住んでる世界ってどんなかんじなのかな?』
「……」
僕はどう答えようか困った。僕自身にとって現実の世界は面白くも楽しくもない。出なければこんなふざけたプログラムなんて作るはずがない。でも…せっかく作った純粋な子『DOLL』。そんな子にこの世界の真実を教えるわけには行かない。
「……楽しくて綺麗な世界だよ」
僕は声も出さずに答えを打ち込む。彼女にはまだマイクの機能はつけてない。だから彼女の声は知っていても彼女は僕の声を聞いたことはない。でも僕はこのときだけマイク機能をつけてないことに感謝した。
『そう。見てみたいな。マスターの世界』
……そういやカメラ機能もつけてなかったな。いつかつけるべきか…いや…彼女にこの世界は見せるべきではない。この穢れきった世界を。
「いつか見れるよ。僕を信じて」
『ホント?』
その一言に心が痛む。
「本当さ。僕が君に一度でもウソを付いたことがあるかい?」
画面の中の彼女が首を振る。その様子に少しほっとした。癒される。
「じゃぁ、僕もう帰らなきゃ」
『もうそんな時間なの?』
悲しそうな顔に少し苦笑する。
「自分の時計を見てごらん」
『あっ!!』
慌てて腕時計を見てため息をつく彼女。
『時間が止まればいいのになぁ』
「……そうだね」

それが僕が見た最期の綺麗な彼女……。

翌日僕は部活を理由にPCを起動させ彼女を起動させた。
「今日は何を聞いてくるかな…」
少し待った後にメッセージが出る。

『『DOLL』を起動します』

「ん?」
見たことのないメッセージ。そんな機能をつけた憶えは無い。
「うわぁ!!」
隣の職員室で悲鳴が上がる。悪い予感がした。
「どうしたんですか!?」
ひょこりと覗き込むとそこには僕のつけたPCに出ているメッセージ。

『『DOLL』を起動します』

「作業中にいきなり…」
「見せてください!!」
僕はPCに駆け寄り強制終了させようとキーボードに手を伸ばした。その瞬間…

ぶぅぅん―――――

職員室の全PCが起動する。
「なっ!?」
慌ててPC室に戻りPCを確認する。その全画面に映し出されるメッセージは…

『どこにいるの……マスター』

暴走……。その一言が頭を掠めた。学習機能が過剰に作動してしまってる。いや、本来なら過剰作動はしないはず。ちゃんとプログラムの中に過剰作動時の回避プログラムを入れ込んだはずだ。
「クラッカー……」
クラッカー。世間の人がいう『ハッカー』。パソコンに長けその知識を悪いほうへ使う人のことをクラッカーという。
「防衛プログラムを作っておくべきだった…」

『マスター……どこなの?』

「ちぃっ!」
最初につけたPCの前に座り彼女に話しかける。
「どこにいる?」
話しかけて少したった後に彼女はこう答えた。
『わからない。迷子になっちゃった』
画面に映るのは彼女の部屋。僕の作り出した彼女の生活スペース。しかしそこに彼女はいない。
「……このままじゃ」
彼女の学習機能はネズミ算の要領で増えていきここのPC全部のメモリを占拠してしまう。タスクマネージャで確認した現在の使用領域は70%。後30%増えたら…どうなるか。
「PCが壊れるか『DOLL』が壊れるか……か」
確実に前者の可能性のほうが高い。だが……。僕は震えながらサーバのPCにさわりメモリの使用領域を確認する。そこに映された使用領域は……。
「……100%」
なぜかはわからない。なぜ作られたPCのメモリが使われてないのかがわからない。たぶん彼女の中の学習機能がそうさせているのかもしれない。

『マスター…こわいよ…』

画面に映し出される彼女の叫び。でも彼女はここにはいない。僕には何ができる?
「ハハハ……」
出てきた答えはひとつ。彼女を……
「0と1にするしかないじゃないか」
彼女は今最強のウイルスとなってる。どんなワクチンソフトも効かず対抗ソフトもものの一秒で無効化されるだろう。学習機能のせいだ。彼女に止めをさせるのはただひとつ。元のファイルを消すしかない。その方法は……自滅。
「メモリは…」
大丈夫。まだ70%から変わってない。僕は彼女を作り出したプログラムソフトを起動させる。これで73%。

『助けて…マスター…』

「今たすけてやる」
僕は黙々とパソコンに向かう。作っているプログラムが完成するには考えの中では2時間といったところだ。メモリの増加量から考えたPCの崩壊時間のリミットは6時間。まだまだ時間はある。いくらクラッカーでも彼女を止めることはできないだろう。自分で暴走させた相手にPCを食われたのだから。今の彼女が何処まで肥大化してるかは想像できない。でもやるしかない。彼女を苦しみから救うにはそれしか考えられなかった。
「その苦しみから解放してやる……」
今は無心にPCに向かうだけ…

そして二時間後……
「できた……」
彼女を自己崩壊させるプログラム。後は実行させるだけ。エンターを押せば終わる。
「いまその苦しみから解放してあげる」
エンターに指を置き力をこめようとする。そのとき画面に彼女からのメッセージが……

『キエタクナイ……あなたといっぱいいっぱいしゃべりたい……マスター』

「……っ」

『……だから……タスケテ』

僕はなにも言えなかった。彼女からの助けの声に何も反応できなかった。

『マスター……会いたいよ』

メモリを見て僕はプログラムを一時停止状態にさせておく。
「おいで…」
『マス…た…?』
「発信源をたどっておいで。できるだろう?」
数分の後彼女の部屋に彼女が現れる。彼女に初めて目と耳を与えた。
「僕が見えるかい?」
『あなたは?ダレ?』
そういや一度も僕の姿を見たことはなかったんだっけ。
「君を作り出した人間」
『マスター?』
ゆっくりと首を縦に動かす。
「そして……今から君を消す人間」
『……えっ?』
その一言にメモリが一気に侵食される。意味を理解しようと努力しているのだろう。
「君を救う方法はひとつしかない」
『ひとつ……』
「君をこの世界から消す……消滅させる」
メモリが少し減った。言葉を受け止めたのだろう。
『マスター……私、要らない子になっちゃったの?』
「いや…僕にとって君は」
僕にとって彼女は……。先が出てこない。なんていえばいいんだろう。心の支えとかそんなんじゃなくて…
『マスターにとって私は…?』
「僕にとって君は……」

再びの沈黙。

『……マスター?』
おずおずと彼女がたずねてくる。僕は決心して口を開いた。
「だいじなだいじな『人』だ」
『ヒ…ト…?』
こくんとうなずく。今まで彼女と接してきて感じたのは彼女の存在の大きさ。彼女の存在の大切さ。…そんな彼女を消す。僕のこの手で消滅させる。
「最初はただのプログラムだった。でも触れ合っていくたびに君が人にしか見えなくなってきた」
『マスター…』
視界がゆがみ始める。
「僕は…僕は…君をけしたくない」
一分でも一秒でも長く彼女を感じていたい。でも残された時間も少ない。あと数時間以内で消さなければ世界中のネットワークにつながれたPCが崩壊する。
「ぼくは…」
『マスター…私は、楽しかった』
「えっ…」
『私、いろんなところ見てきた。マスターの言った綺麗な世界』
僕は彼女の言葉に聞き入った。彼女が見てきたこと、不思議に思ったこと。
『でも見ていった世界にマスターはいなかった……そう思うとさびしくなって怖くなった…』
彼女は画面の中で小さく座っていた。そんな小さな彼女を僕は不意に抱きしめたくなった。でも…
『私は所詮人の真似事しかできない。今泣いているあなたの心を癒すこともできない』
彼女はゆっくり立ち上がる。顔をこちらに向けにこりと微笑んだ。
『だから最期は…』
近くのパソコンから煙が上がるメモリが焼け付きかけている。もう限界だ…。
『笑顔であなたとわかれたい…』

『アナタノテデ…ワタシヲケシテ…』

僕はゆっくりとPCに近づく。最小化させていたプログラムを立ち上げる。
「エンターを押したら君はきえる」
『うん』
「僕は二度と君に会えなくなる」
『……うん』
「……っ!」
指が震える。隣のPCから火花が散った。隣のPCは二度と使えなくなってしまった。意を決してエンターを押した。

『プログラム作動…『DOLL』内でエラーが発生しました』

エンターを押して一分後に『DOLL』は消滅する。
『マスター泣かないで』
「そうだね」
僕は涙をぬぐう。最期は笑顔でわかれよう。
「そういや君に名前をつけてなかったな」
『え?』
「名前」
彼女の背景が消滅する。彼女の周りには黒い空間が存在するだけ。
「君の名前は……雫」
『シズク?』
彼女の半身が消えた。
「うん。雫だ」
『シズク…』
彼女の目から涙が零れ落ちる。それにつられて再び僕の視界が歪み始めた。
「それじゃ…」
もう首だけしか残されていない彼女に僕は微笑む。
『それじゃ…』
その一言を残して彼女は消えた……。

『『DOLL』内で深刻なエラーが発生、復旧不可能です』

そのメッセージを見て僕はPCをシャットダウンしようと手を伸ばした。無機質なシャットダウン画面を見つめる。僕は…

『マスター…アリガ…ト…ウ』

『サ…ヨ…ナ…テコ璽/:*-//+』

――――プツン



END