「君の名前はなんていうんだい?」
男が私の耳元でそう囁いた。真っ暗の部屋の中、いるのは私と男だけ。唯一差し込む月の光は丁度逆光で、男の顔はうかがえなかった。私は夜の情事を終えて、まだ体から熱っぽさがとれていないため疲れたようにはぁ、と息を吐いた。男はその息にさえ感じたのか私の体に腕を回してきて、ぎゅっと抱きしめる。シーツ一枚の私の体に少し冷たい手が私の胸元辺りをいやらしく撫でまわす。よくもまぁそんなまだそんな元気があるものだ。男は、顔は見えないがきっと口角をあげてあの否らしい笑みを浮かべているのだろう。容易に想像できた。
「名前を教えたら、私ともう一度会ってくれますの?」
私はそう囁くように言う。少し首をあげて、相手に息がかかるくらいの距離で放ったその言葉に男は腕に更に力を込めた。
「ああ、君にだったら何度だって会ってあげるよ」
男はそう言ってまた私を押し倒す。逆光で見えなかった顔は半分だけ見えるようになって、私を見下ろしているのが見えた。その顔にはやはりにやり、とした笑みが浮かんでおりその表情でなければ中々のいい男なのに、などと思ってしまう。
「本当?」
「ああ、本当さ」
私が相手の頬をするりと撫でた。すると男はその腕をとって一気に私を引き寄せる。そして唇が触れるか触れないかぐらいの距離まで近づけばくすりと笑って私の胸に顔を沈める。
「貴方なら…教えて差し上げてもいいわ。」
本当かい?男はそう言って私を見上げる。濁った緑色が私を見つめる。
「私の名前はね、フィロメーラって言うのよ」
「夜歌鳥か…、君にぴったりだね」
「そうかしら?」
うふふ、と口元に手をあてて上品に笑って見せれば男はやはりにやりとした笑みを浮かべて私の腰に腕をまわして抱きついてくる。
「なら君は僕にどんな歌を届けてくれるんだい?聖譚曲(オラトリオ)?それとも子守歌(ベルスーズ)かな?」
私は男の言葉に今度は私がにやりとした笑みを浮かべる。
「子守歌(ベルスーズ)でもいいわね。でも、私が届けるのは…」
私はすっと腕を上げる。きらり、と月の光に反射して光ったのは小型のナイフ。
「鎮魂歌(レクイエム)よ」
「え?」
男が顔をあげた瞬間に一気に私はそれを男の背中へと指す。もちろんその位置は心臓と同じ位置。男は目を見開いて血を噴き出した。私はナイフを抜いて血で真っ赤に染まったナイフをひと舐めし、相手を見下ろす。
「それも、極上のね」
そう言えば私は既に動かなくなった男の体をどけてベットを降りる。私は徐に月を見上げ瞳を閉じると再び開けて視線を外しシャワー室へと向かった。
「今回も随分うまくやったなぁ…」
適当に洗い流し、シャワールームを出るとは見慣れた男が、私が殺した男を笑みを浮かべながら見ていた。
「何しに来たの、フガドール」
私は男の前だということを気にせずバスタオルを脱いで、衣服を着始める。それでも一応相手に背は向けて着替えるのだった。すると名前を呼ばれた男、フガドールはわざとらしく大きく息を吐いて私に近寄ってくる。
「おいおい親愛なる上司にその反応はないだろう?せっかく来てやったのに」
「馬鹿みたいなことしないで。質問の答えになってないわ。何しに来たの?」
私は高価な真っ赤なドレスを適当に着れば振り返って相手を睨みつける。
「そう怖い顔するなよな。せっかく動きにくいだろうと思って着替え持ってきてやったのに」
フガドールはそういって少し大きめの袋をヒラヒラと見せた。しかもにやけた笑みを浮かべて言ってきたので私はそれをふんだくるようにして取り、いそいそと着替え始める。
「招集がかかったよ」
私が一緒に入っていたブーツを履いていると頭上でフガドールが静かに言う。私は一瞬紐を結んでいた手を止めたが、そう、とだけ言って再び動かし始めた。
「おや?随分つれないね。もっと喜ぶかと思った」
フガドールは少し残念そうに、でもどこか楽しそうにそういった。私は紐が結び終わるのと同時に袋を持って起きあがる。
「どうして?別に喜ぶ理由なんてないわ」
そう言ってスタスタと歩き出す。そして床に転がる血のついたナイフを拾い上げ袋の中に投げ入れる。
「そうかい?てっきり君はキングに会えると喜ぶかと思ったよ」
「………。」
赤黒くなった血を一瞥すれば私はカーテンを閉め部屋の出口へと向かった。部屋を出るとき、一言アーメンと男の方を見て小さく言ってやり部屋を出た。
「それで情報はつかめたのかい?」
「当然よ。直ぐに吐いたわ」
フガドールはそうかい、と言うとくつくつと喉の奥をならしたような声で笑う。私たちが路地に出るとそこには馬車があり、私たちはそれに乗る。
「キングが君を待っているよ。さぁ、行こう」
私は鼻を鳴らして相手を少しにらみつける。それと同時に馬車が動き出した。町の中はガス灯の光だけが道を照らしていて、何とも不気味な雰囲気であった。
「さてね。顔出しもあるんじゃない?なんせ、半年ぶりの招集だからね」
フガドールはやはり笑みを浮かべたままそう言う。私はその言葉を聞くと一つ小さく息を吐いた。
私たちは殺し屋である。組織名は「Kingdom」。その世界では知らない者などいない、巨大な組織だ。私たちは中流から上流貴族専門の殺し屋で、実際先ほど私が殺した男も何とかという中流貴族の男である。殺す、といってもいろいろな種類がある。暗殺や自殺に見せかけた殺し、政治面での権利の剥奪などいろいろあるが、私が受け持つのは組織内でも今のところ私一人しかいない、体を使っての殺しである。ただ、私は命令されるがままに殺すのではなく情報の収集という役目を請け負っている。他にも諜報部員はいるのだが、夜の体を使っての諜報部員は私一人である。このフガドールは諜報部の隊長である。隊長を任せられるだけあって、結構なやり手で仕事に失敗をしたところは見たことがない。ついた先は大きな屋敷、ここが私たちの本部だ。中に入って廊下を歩いてゆくと、大きな扉が現れた。その前には門番らしき人物がいる。
「フガドールだ」
「フィロメーラよ」
中に入ると既に広間いっぱいに人が集まっていた。所々にテーブルがあり、その上には豪華な料理がのせられていた。いる人々の手にも高価そうなシャンパンがある。だが、忘れてはいけない。ここにいる全員、殺し屋である。
「相変わらず豪華だねぇ…。まぁそれだけキングは僕たちを大切にしてくれている証拠なんだろうけど。」
そう言って私たちは別れた
あれから何時間たっただろうか。私は同じ隊の人と数人と話した後、大広間を出た。私はあの空気がどうにも好きになれない。息苦しくなるのだ。それは人が多いからではない。彼らの目だ。私に向けるその視線はまるで汚いものを見るようで、私があそこにいることを許していないような気がした。
私が一つため息を吐いて俯いて廊下の壁に寄りかかったときだった。私の隣から声がした。
「疲れたのかい?」
はっとして顔をあげればそこには穏やかな笑みを浮かべたキングがいた。
この者こそ、その名の通り、この殺し屋「Kingdom」のトップである。本名はアレス・エルフォード公爵。名家、エルフォード家の現当主で貴族界で今最も発言力のある人物だと言われており、裏の世界でも彼ほど有名な人物はいない。だがそれは殺し屋のトップでだからではない。彼の奇抜な発想、政治スタイルなどからによるものである。
「そう言えば今日も仕事だったようだね」
キングは悲しい顔をして言った。私はどうしていいかわからずとまどった。するとキングは少し視線を下にして
「そろそろ…いいのかもしれないね」
キングが呟くように言った。私はえ?と聞き返そうとする。だが、それはかなわなかった。キングの唇が私の唇をふさいだからだ。私はそれがキスだということに暫く時間がかかった。視界いっぱいのキングの顔。私が目を見開くとキングはゆっくりと唇を離す。
「フィロメーラ…」
私は名前を呼ばれたが私は何が何だかさっぱりわからなかった。キングは私を見つめているが私は目を合わせられなかった。一体何が起こったというのだろう、私はそれすらもわからないほど困惑していた。そんな私を見たキングが私の手を握る。
「おいで」
そう言うとキングが私の手を引っ張って近くの部屋に入った。中は真っ暗で、月明かりだけが部屋の中を照らす。私は、この景色を十分すぎるくらい知っているはずなのに、私の心はまるで初めてこの景色を見たような感覚に陥っていた。私は未だにキングのしたことも、やりたいこともわからなかった。
「君をね、あの役職につけたのは他でもない僕だ。それは、君にあんなことをさせたいためじゃない。いや、させたいわけがない」
キングは静かに私に言う。私はドクンドクンという心臓の音ともにその言葉をゆっくり聞き入れた。
「僕が君を何の遠慮もなく抱けるからだよ」
私は彼の言っている意味がさっぱりわからなかった。今目の前にいる人物は一体何を言っているのだろう。わからない。ただ私か彼を見つめることしかできなかった。キングが私の顎に手を添えて持ち上げる。
「愛しているよ」
私が目を見開いたと同時に彼は私に口づけた。最初は軽かったがどんどん深くなってゆく。私は体に力が入らなくなって、思わず倒れそうになる。それをキングは素早く支えて更に深く口づけた。そのまま後ろのベッドに運ばれ、押し倒された。
「フィロメーラ…」
キングはもう一度囁くように私の名を呼ぶ。私はもう、自分をどうすることもできなくなっていた。歯止めがきかない。紅潮している顔で彼を見つめる。
「キ…」
私が彼を呼ぼうとするとまたもや唇でふさがれる。
「僕の名前はアレスだ」
耳元でいつもより低い声でそう囁くと彼は私を見た。私はその頬にゆっくりと手を添える
「アレス…」
「そう、いい子だ」
彼はそう言って先ほどのような満足そうな笑みを浮かべる。私たちはそのまま快楽に落ちていった。
気がつくと私は彼の手の中にいた。あのまま気を失ってしまったのだろう。急な彼の間近な顔に少々驚きつつも私は彼としたことを思い出す。ゆっくりと彼の穏やかな寝顔に手を添えてもう一度呟く。
「アレス…」
彼の、私を呼ぶ声と、愛しているという言葉が脳裏に響く。私も何度彼の名前を呼んだだろうか、何度愛していると言っただろうか。
私がそんなことを思っていると彼が目をさます。私の手に手を添えておはよう、と言ってきた。私もおはよう、と言い返す。すると彼はゆっくりと起きあがって私を見下ろす。
「このままいつまでも君といたいんだけれどね、すまない。今日はクイーンとの約束があるんだ」
キングは眉を寄せて、残念そうに言うと名残惜しそうにベッドを離れ、洋服を着る。私はそれを見ながらクイーンという言葉を心の中で復唱する。
「今夜また会おう。二時に頃、僕の部屋に来るといい。誰かに見つかったら仕事だと言うんだよ?」
キングは私の前髪にふれてそう言い残せば部屋を出て行った。
クイーンとは彼の妻のことである。「Kingdom」を組織する人物の一人で、彼女もまたどこかの名家の娘であった。絶世の美女で、彼と並ぶと絵になる、という言葉しか出てこない。性格も穏やかでこの殺し屋の女たちの誰もがうらやむ、あこがれの的だった。
その夫と私は寝てしまったのだ。
急に冷や汗がたれる。私の中で急な焦りと不安が募った。クイーンにばれてしまったらどうしよう。いや、そんなときこそ仕事だと言えばいいのだろうか。そういうことなのだろうか。
私はギュッとシーツを握る。彼を愛する心と、彼女を慕う気持ちが私の中で渦をつくる。
私はベッドからでて洋服を着た。まずは、仕事をしなければ。私はそう決め込んで部屋を出て行った。
仕事とは恐ろしいもので私に一気に夜を持ってこさせた。今日は仕事があまりなく、雑務で終わったがそれでも大変な作業であった。私は一つ息を吐いて、今朝の彼の言葉を思い出す。飲みかけの紅茶をテーブルに置けばあの屋敷へと向かう。
屋敷に入るときもなるべく人に見つからぬよう、早足で彼の部屋に向かっていった。彼の部屋の近くまできたはいいが、約束の時間まで少々早い。私はまぁ、いいだろうと思って彼の部屋のドアの近くに向かう。ドアノブに手を掛けようとすると中から声が聞こえた。
「アイリス…アイリス…」
アイリスとはクイーンの名前である。その名前を何度も呼ぶキングの声。それに答えるように艶めかしい声が聞こえてきた。私の中の時が止まる。聞いてはいけないと思っていても体が動かない。するとキングの彼女を呼ぶ声が一層大きくなる。そして彼は言った
「愛しているよ」
目の前が、真っ暗になった。体が、突き落とされた気分になる。足場がない。わからない。聞いてはいけない。ここにいてはいけない。そう頭が、脳が、心が叫んでいる。私は中から聞こえたがたん、という言葉にはっとして一気にそこを駆けだした。屋敷を出て、路地を走り抜け、とにかく無我夢中で走った。気がついたときにはそこは家で、私は全身汗でびっしょりになっているのをそこで初めて気がついた。それとともにこみ上げてくるのは喪失感。先ほどの声が鮮明に私の中でよみがえる。
「う…あ…」
心が張り裂けそうになる。声にならない声が出る。この気持ちをなんと表現すればいい、この気持ちをどこにぶつけたら。私は昨日のことを思い出す。
「愛しているよ」
そう、彼はそう言ったのだ。他の誰でもない、私に向かって。確かに。私は一気に涙があふれてきた。行き場のない気持ちだけが涙と比例してあふれてくる。どうしようもない、でも、私は彼を愛している。それだけは違わない。そう、私は…彼を愛しているのだ。
それから、部屋でずっと窓の外を見ていた。朝、昼、そして夜。暗くなり始めると当時に私の中がめちゃくちゃになる。夢と現実が分からなくなる。ああ、すべてが壊れてしまえばいいのに。殺しなど知らなければよかったのに。貴方と出会わなければよかったのに。
絡みつく、長い指。
ガラスに映るのは満月と貴方
ああ此処は一体どこなの?何時なの?それすらもわからないわ
フガドールが何をしているんだ、と私に聞いたの
仕事よ。そう答えてやった。貴方に言われたように
白い胸 感じるのは貴方と熱い息
此を恋と呼ぶならば、私は恋という嘘に死んだわ
何故かしらね、血が貴方の味がするの
何故かしらね、貴方の屍が私の腕の中にいる夢をみたの
何故かしらね、大好きなクイーンが泣いている姿を見たの
なんておかしな話
ねぇ、お願い。もう一度だけ会いに来て 愛していると囁いて
狭い窓から見えるのは冷たい月。あなたも私を嘲笑うのね。涙すらもうでないわ
ああ、夜は
夜は私を孤独にする
抜け殻の私。孤独な私。思うことはただ一つ
貴方を、愛していたわ
終