2021年の目標が「仲間を作る」、

2022年の目標が「全身全霊」だった。

 

 

 

深く意識していなかったが、

結果的にはおおよそ達成できたと考えている。

 

仲間を作って彼らをモチベートし、

自分では想像できなかったところに到達する。

これこそまさにやりたかったことだ。

 

一方で課題も残っている。

会員サービスに関しては、

コミュニティ化が良い方向に進んでいると感じるものの、

肝心の投資実績がついてきていない。

今年の実績はマイナスだ。

 

もっとも、パフォーマンスを意識してろくなことにはなっていない。

ただし、結果はさておき戦略的に実行できていることが大事だ。

そのためには、そもそもこれに時間を割かなければならない。

 

組織が大きくなってきて、やることが増えてきた。

しかし、それ自体が目的化してはいけない。

あくまで目標とすべきは、それぞれの「幸せ」だ。

自分、家族、社員、会員、その他会員外。

これらが一致することで、良い成果が得られる。

そのための方法論としては、「相互依存」が必要だ。

 

今年の年賀状に目標を「Work Hard」と書いた。

直接的には、ワールドカップでの前田大然に感動したからだ。

では誰のため動きなのか?

そう考えると、会員であり、社員であり、家族である。

ただし、自分を捨てるという意味ではない。

彼らと相互依存の状態になることで、より良い状態を作るためだ。

 

自分の時間は限られている。

自分にしかできないこともまだあるが、

そうでない部分に関しては徐々に移譲していかなければならない。

しかし、単に「任せた」では済まないところがある。

彼らが自ら動ける状態を作るために、ハードにワークするのだ。

 

前田大然は、ハードワークの結果、「三笘の1ミリ」を生み

自らもクロアチア戦でゴールを決めた。

結果だけ見ればそれだけだが、大事なのはその裏にある動きである。

Kさんとの契約を終わらせようとした。

なぜそうしようと考えたのか。考えるきっかけになったのは、Kaさんの下で働くMさんの給与の件からだ。

Mさんは、かなり安い給与で働いているという。

だったらうちに来たら良いのではないか?

そう考えると、そもそもKaさんもうちに来たほうが良いのではないかと考えるようになった。

 

Kaさんは、そもそもうちの仕事がしたいと思って帰ってきた。

しかし、S社に戻ると他の仕事もしなければならなくなっている。

これは本人も余り望んでいないようだったし、こちらとしても関わる人は一体感を持ってやっていきたい、同じ目標に向かって動きたいという意図があった。

また、かつてはKさんのアドバイスがあったからこそ契約の意味があったが、いまやその指示というのも見込めなくなっている。

どうせ自分が指示しなければならないのなら、中に入れてしまったほうが得だと思った。

 

「得」という考えからすると、払っているお金も高い。

指示が見込めないのなら、それだけの金額を払う意味はないように思えた。

 

結局の不満はこの「高い」というところにあったように思う。

要は、やってもらっていること、特に指示の部分について物足りなく感じていたのだ。

まして、今の感じだと、Kaさんも徐々に離れていく方向性に感じて、こちらとしても危機感があった。

 

一方で、契約を終了してKaさんだけ連れて行くというのは、たしかに信義則上疑問が残る。

できれば、そういうことはしないほうが、今後の人生のためにも良いだろう。

 

これらを踏まえて、落とし所が決まった。

S社としては、Kaさんをこちらの専属にしてもらう(コミットメント)。

そして、Kaさんが「指示」の部分までしっかりやってもらう。

 

 

うちは、これまで通りの契約を続ける。

S社としても、利益は出ているので、契約は続けられたほうが良い。

契約終了リスクを減らすには、当社ビジネスへのコミットメントが重要になる。

 

これで、両者の利害が一致するはずだ。

 

もちろん、結局一番のポイントは、KaさんやS社が対価に見合うだけのものを提供してくれるかどうかだ。

当社としても、高いお金を払っている以上、それを最大限活用しなければならない。

任せるのではなく、いかにモチベートして良い方向へ導くか。

それが、今の僕に与えられた使命だと感じる。

真面目と余暇。


目の前のことに愚直に取り組み、煩悩を取り除くことに取り組んでみた。頭では納得できるが、実際にやってみるとさまざまな煩悩が湧いてくる。何より、これをやっていて自分の人生は楽しいのかと言う疑問が生じる。


もし、真面目に自分の仕事に取り組み続けたらどうなるか。おそらく、それなりの規模の会社ができ、多くの社員や会員に囲まれて称賛されるだろう。もちろん、それは目的ではなく結果にすぎない。名声を得ようとして行動しても、それが報われない苦しみを味わうだけだ。


しかし、それなら普段は何を感じて生きれば良いだろう。仕事に取り組んでいると、ふと自分の人生が自分のものでないように感じる。


ここで気がついた。自分の人生にとって重要なのは、自分の歩く道を自分で決めることである。


果たして今の自分は自分の道を歩いているか。確かに、会社を作り、人を雇うことは自分が決めたことだ。ただ、人を雇ったが故に、彼らに自分の時間を奪われている感覚がある。これこそが不満の根源であるように思う。


だとしたらどうすべきか。そもそもなぜ彼らを雇ったのか考えるべきである。彼らを雇ったのは、自分でやりたいことをやるために、自分の力だけでは不十分と感じたからだ。まず自分の仕事の一部を担ってもらい、自分では思いつかないことをやってもらう。まさに相互依存の関係である。


つまり、自分は彼らにもっと頼らなければならない。彼らを信頼すべきである。そうして、また自分の時間を取り戻すこと。これが今の自分にやるべきことである。


彼らを育てることは大切た。しかし、そのために自分が彼らや仕事の奴隷になってはいけない。自分の精神はあくまで自由であるべきである。

夏休みの旅行として函館に行ってきた。

 

函館を選んだ理由は、長女が「はやぶさに乗りたい」「北海道に行きたい」と言ったからだ。函館自体に目的があるわけではないが、避暑も兼ねて楽しめれば良いと考えた。

 

しかし、予想外に自分自身も楽しめた。函館という街は意外に奥が深かった。

 

何より、「はこだてみらい館」は最高だった。最新の映像で体を動かしながら楽しむ(映像の動物と競争する)など、小学校低学年の娘にはちょど良い遊び場だった。さらに、室内の遊具施設も網に登るなどからだを目一杯動かせるものだった。これが公共施設としてあるのだからすばらしい。推測するには、北海道は外で遊べない期間が長いから室内という発想になるのかもしれない。しかし、暑さで外で遊んでいる場合ではない関東でも同じ流れになるだろう。

 

おもてなしも感じることができた。泊まったホテルは、施設は古いがおもてなしが素晴らしいと評判のところ。実際に、宅配便を指定時間外に送らせてもらえるか頼んだら、スタッフさんが協力して叶えてくれた。それ以外にも、常に笑顔で案内してくれ、部屋には手書きのお手紙も添えられていた。なかなか自分にはできない芸当である。おもてなしの心は学ばなければならないと痛感した。

 

素晴らしいビジネスにも巡り会えた。ラッキーピエロだ。函館市内「だけ」に展開しているハンバーガー屋さんだが、ハンバーガーだけでなくオムライスやカレーなど、大盛り系のメニューが盛沢山だった。しかも、おかしやおつまみ、果てはTシャツに至るまで、様々なグッズを展開していた。まさに地元密着型の企業だ。店内の様子も独特で、壁に宗教画のようなものがかかっていたり、天井に天使が飛んでいたりした。オーナーはキリスト教系か。「我が道を行く」が強く感じられた。

 

総じて、大変良い旅行になった。その他、バター作り体験なども新鮮で良い時間となった。タクシーで移動したが、運転手さんのおもてなしの違い(格差)も強く感じ、おもてなしについては改めて考えさせられる機会となった。

 

やっぱり旅行は良いものだ。

仏教にはまっている。ここではあくまで私の中での理解を書くから間違っているかもしれないが、そもそも宗教とは自分の中にあるものなので、正しいかどうかは自分が決めることだ。

私が理解する限り、仏教のスタート地点は「人生は苦である」と捉えることからはじまる。「老病死」は誰しも避けることができないし、何かといえば悩みが降りかかる。この苦に対する仏教の答えは、究極的には「諦め」であるように思う。

そもそも、なぜ苦が生じるのか。それは何かに執着しているからだ。生に執着するから死が苦になるし、健康が当たり前だと思うから病気が嫌になる。若さにこだわると、老いるのが嫌になる。まずはこの執着を捨てることが出発点となる。

では執着とは何なのか。砕いた言葉で言えば、何かにこだわることである。こだわるのは誰かと言えば、自分である。すなわち、自分を強く持ちすぎるからこそ、執着が生まれる。他の人と比べて、嫉妬が生まれる。

自分とは何なのか。仏教的に言えば、彼我の違いは紙一重だ。何が自分で何が他人か、明確に分かるものは無い。また、昨日の自分と今日の自分はまた別物である。あらゆるものはは「因縁」によって生まれるのであり、「無我」「諸行無常」とはここから生まれる。

自分が因縁によって生まれることを考えれば、苦は至って相対的なものとなる。あくまで自然の中での一現象に過ぎない。そして、私たちが生きているのは因縁に支えられているからであって、全ての人に感謝すべきである。

因縁の世界でどうやって生きていけば良いのか。まさに「因縁」ということで、自分がやったことは自分に返ってくる。「自業自得」である。心安らかに過ごすには、正しい行いを続けることか大切だ。それが「八正道」や「六波羅蜜」だったりする。

さて、これを株式投資にあてはめてみよう。株式投資は非常に「欲」の世界である。もっと儲けようと思うとキリがない。それでは永遠に幸せになることはできない。一方で、何もやらないというのは知恵がない。

やるべきことはまさに「正しい行い」を続けることにあると思う。この正しい行いとは、誰かを出し抜くことであってはいけない。全ての人が幸せになれるような方法を考えるべきである。つまり、付加価値を追求することである。

付加価値を生む努力をしている企業を買って持ち続ける。これこそが株式投資における「正道」ではないだろうか。

投資に限らず、仏教の教えは自分がやるべきことを導いてくれる。そして、これを他の人にも伝えることもまた、正しい行いである。

株式投資で一人でも多くの人を幸せにする。これこそ「大乗仏教」的な考え方であり、自分の信念にマッチするように思う。