仏教にはまっている。ここではあくまで私の中での理解を書くから間違っているかもしれないが、そもそも宗教とは自分の中にあるものなので、正しいかどうかは自分が決めることだ。

私が理解する限り、仏教のスタート地点は「人生は苦である」と捉えることからはじまる。「老病死」は誰しも避けることができないし、何かといえば悩みが降りかかる。この苦に対する仏教の答えは、究極的には「諦め」であるように思う。

そもそも、なぜ苦が生じるのか。それは何かに執着しているからだ。生に執着するから死が苦になるし、健康が当たり前だと思うから病気が嫌になる。若さにこだわると、老いるのが嫌になる。まずはこの執着を捨てることが出発点となる。

では執着とは何なのか。砕いた言葉で言えば、何かにこだわることである。こだわるのは誰かと言えば、自分である。すなわち、自分を強く持ちすぎるからこそ、執着が生まれる。他の人と比べて、嫉妬が生まれる。

自分とは何なのか。仏教的に言えば、彼我の違いは紙一重だ。何が自分で何が他人か、明確に分かるものは無い。また、昨日の自分と今日の自分はまた別物である。あらゆるものはは「因縁」によって生まれるのであり、「無我」「諸行無常」とはここから生まれる。

自分が因縁によって生まれることを考えれば、苦は至って相対的なものとなる。あくまで自然の中での一現象に過ぎない。そして、私たちが生きているのは因縁に支えられているからであって、全ての人に感謝すべきである。

因縁の世界でどうやって生きていけば良いのか。まさに「因縁」ということで、自分がやったことは自分に返ってくる。「自業自得」である。心安らかに過ごすには、正しい行いを続けることか大切だ。それが「八正道」や「六波羅蜜」だったりする。

さて、これを株式投資にあてはめてみよう。株式投資は非常に「欲」の世界である。もっと儲けようと思うとキリがない。それでは永遠に幸せになることはできない。一方で、何もやらないというのは知恵がない。

やるべきことはまさに「正しい行い」を続けることにあると思う。この正しい行いとは、誰かを出し抜くことであってはいけない。全ての人が幸せになれるような方法を考えるべきである。つまり、付加価値を追求することである。

付加価値を生む努力をしている企業を買って持ち続ける。これこそが株式投資における「正道」ではないだろうか。

投資に限らず、仏教の教えは自分がやるべきことを導いてくれる。そして、これを他の人にも伝えることもまた、正しい行いである。

株式投資で一人でも多くの人を幸せにする。これこそ「大乗仏教」的な考え方であり、自分の信念にマッチするように思う。