THOUSAND WINDS -153ページ目

分かると言う事について

人が分かると考えるのは
それがこれまで自分が確信してきた概念、信条にぴったりと
合致して、ああやっぱりそうだったんだなと
裏付けが取れて良かったみたいな、
安堵から来る感覚ではないかと。
全く思いがけもしない、これまで保って来た知識に合致しない、
いくら現象としてそれは起こり、
方程式を何度いじくっても
そう考えざるを得ないような事は、
分かったりしない、分かろうとしない、分かりたがらない。
だから事前に理論を先に立てて、それに反する実験結果が出たとしても、
その事実を信じられない。
どこか実験に間違いがあったんじゃないのか、
誤差の範囲内だと納得しようとする。
現実はこれでもかと人間の知能の限界へと逃げ去ってしまうのに、
我々はもう世界のあらゆる事が分かったみたいな気になっている。
これが果たして一億年たち、その頃まだゴキブリ並みに人類が生き残っていれば、
彼らはその一億年の年月の間に、
我々よりどれだけ賢くなって、
神に近づけてるだろうか。
馬鹿馬鹿しい話

ごみ箱に捨てられし文化

テレビ見てたら出光のCMで、
あのゲド戦記の手嶌葵さんの歌が懐かしく聞こえて来た。
他にもあえて目をつぶってテレビから流れ出すBGMに耳を傾けると、
短時間に一杯感動する音楽がたれ流されている。
どこまで皆そんな音楽に耳を傾けているかどうか。
広告の内容の方しか気を取られてないんじゃないか。
それか早く番組が始まって欲しい、こんなCMなんかいらないと思ってるのかも知れない。
街角で聞こえて来る音楽もいちいち観賞して行く人もいない。
それでいながら三条京阪の下の河原じゃ、決して上手いとも言えない、
例え上手くとも聞きたくないような、
ハードロックの歌が大音量で聞こえて来る。
少年ジャンプにしても、マンガ家が連日締め切りに終われ、
寝るのも惜しんで描いているのに、
電車の中で読み切ったらそれを早速ごみ箱に捨てる。
しかもちゃんとした身なりの人が、わざわざその捨てた雑誌を、ごみ箱に手を入れて拾っている。
何かおかしいと感じるのは私だけなのか。
私がおかしいからそう感じるのか、
感じていても別に気にしないし、
あえて言うべきでもないと思ってるのか。
あまりに貴重な文化を無駄づかいして、
用がなければ捨てて行ってはいまいか。
そんな事普段の生活送る忙しさから、
どうだっていいものなのか。

元祖灰皿猫ですぅ~

かつてそんなマンガあったな。
知る人ぞ知るみたいな、
とある貧乏路線の駅舎に住み込んだ、突然変異した
人の言葉の分かる(ただししゃべれず、筆談!)
青い毛並みの不思議猫、
しかも吸い殻入れの中に住居を構え、
吸い殻から卦を出して占いの出来る猫。
かつて最初におっ始めていたこのアメーバブログで、
しばらくこのキャラクタが私のプロフィールだった。
今では別の人に委譲しましたけど。
こないだまで占いに熱心で、他のブログでもさんざん占いネタ書いて来たのだが、
やはり自分の事ばかり占っていてもしょうがない。
それでちょびっとは神様の気持ちが分かるみたいな、
自分の分身を作って、また仮想の相談客もこさえて、
占い題材にした小説を書こう。
この主人公も灰皿猫にあやかって、どこかの駅に住み込んで、
占いを天職にしてるみたいにする。
しかもあからさまにただの猫じゃつまらないから、
猫耳少女にしよう、本人は男の子だと思い込んでる、
しかも悲惨な位双ヶ丘が小さい(w)。
そうやって出来た物語、さんざん引っ張って書いてるうちに、
主人公が代わり、学園物っぽくなって、SF仕立てになり、
現在の鳴滝ミオ編になる(変になる?)
占いどこに行った?猫娘はどこ?いつしか当初のコンセプト忘れ、
暴走しまくって、現在休載中。
これまた違う形で再開させるのも
案外大変そうな、
案外適当に始められそうな
微妙な気分につき。
そもそも私が女の子の役やる時点で、
間違いがあるみたいな、
しかも妹だし。

自画自賛ですにゃ

私が自分で書いた物で涙を流したからとて、それは結局自慰行為に過ぎないんじゃないかと、たまに思う。

朝泣き

いきさつは知らないのだが、
昨日サンパウロ書店で、
電動車イスに乗せられ、
口に酸素注入器をはめられ、
両親らに連れて来られて、
たぶんロザリオを買いに来ているみたいなんだが、
そうまでしなくてもと
つい思ってしまう。
そのシーンを思い出すだけで
今また涙が流せるのはなぜ。
そこまでして一体ロザリオなんぞに、
またそれを用いる宗教に、
何を期待しているんだろうか。
かつてルルドの泉みたいな、
別の奇跡があったとされる泉の
写真が載っていて、
そこに向かう街道に、
延々と車イスを押す巡礼者の列が上から撮影されていて、
また当の泉の周りを、取り囲むように、
何重にもなった車イスの一団。
あの写真のシーン思い出すだけで、
再び涙が出て来てしまうのはなぜ。
私にはこの宗教なんか、全く無力であり、
例えば天使にお願いしようとも、
まあ取り次ぎはしようけども、
あてにされても困る、おっと、
だから無駄とは言わんまでも
医者に見放されて、
最後にすがる場所にしては
あまりにお粗末な宗教ではないかと思われるだけに
不憫でならない。
だからと言って他にどうしようもないのではあるが、
そんなお粗末な教義のとある宗教でも
人の最後の希望となりうるのならば。