善悪、優劣、貧富。
こうして二分すると非常に概念が明確になる「気がする」。
でも、現実に自分たちが生きている世の中は、このように明快に分けられるものではないように思える。
白か?黒か?というよりも、グラデーション。
混ざりあい、矛盾し合う中での判断が求められているのではないか?
以前、大いに注目されたコロナ騒動。
ワクチンの是非、コロナ対応の是非が激しく論じられたのは記憶に新しい。
これも、実は善し悪しを完全に二分できない問題だったはず。
その中でどのように判断するのか?が、問われていたのだと考えられる。
そもそもが曖昧で白黒はっきりつけられない問題。
このような問題の判断をする際、善悪、是非の二分が妥当とする考え方が、そもそも見当違いだった可能性もある。
では、今振り返って自分はどのような判断をしたほうが良かったのだろう?
それは、問題の深掘りと判断の保留、思考の熟成。
恥ずかしながら、当時の自分は問題に右往左往させられ、問題も深堀も、思考の熟成もしていなかったように思う。
むしろその逆をやっていたようだ。
つまり、流れてくる情報で是非を論じ、深掘りすることなく、そして思考の熟成よりも感情寄りの判断をしていたように思える。
結果、浅くなり、単純な思考に陥っていたことは否めない。
脳は楽をする。
楽をするというのは、二分した即時の結論ですっきり明確にしておきたい衝動に等しい。
そして、楽をしたがる脳の働きよりも感情の力のほうがかなり強い。
場合によっては、感情が脳の判断力を阻害することも大いにありうる。
これからも世の中を大いに分断するような諸問題が起きるだろう。
そんなとき、ただ独り静かに考える時間が、何より重要になってくると自分は思う。
この時間がなければ、過去から学ぶことなく、同じような対応を繰り返しかねない。
問題と一定の距離を保ち、判断を保留、結論を急がない慎重さが、緊急事態時こそ求められるのではないだろうか?
科学技術面の進歩ではなく、人としての進化が人間に求められているのだとしたら、思考の熟成は不可欠だと考える。