二十四時間あきんどアタマ

二十四時間あきんどアタマ

行政書士から一歩引いた目線、商売、商人としての視点から感じたこと、気づいたこと、わかったことをつれづれに綴っていきます。



 

茶道で一杯の茶をいただく。

 

この中にどれほどの意味があるのだろう?

 

そんなことをふと考えることがある。

 

お茶をきちんと飲むことができれば、食事もきちんと済ますことができる。

 

礼儀正しく、美しくなんてことを意識せずとも、ただただ自然体で食事をする中で自ずから躾なるものが表現されていく。

 

ところで、自然体とは何だろう?

 

そのままでいいなんて言葉をよく聞くが、これは誤解を受けやすい。

 

自分が数十年にわたり心身に沁みこませてきた癖。

 

こうした癖を一つの形を通じて解きほぐし、本来の自己のあり様を表現する。

 

甘ったれた、ややもすると歪んだ自分を溶かし、本来の自己に目覚めていく。

 

これを自然体と自分は捉えている。

 

そして、これは、何十年もかかる地道なこと。

 

一生かかってもできないかもしれない。

 

なぜなら、このままでいいということは、このままではダメが前提になっているため。

 

自分たちは、心身の歪み、癖を抱えているため、本来は心地よくないことを心地よいと捉える傾向がある。

 

逆に心地悪いことが、本来的に心地よいものだとなかなか気づけない。

 

しかし、一度自然体というものに触れると、ある意味、世の中が逆に見えてくる。

 

本来の自己をついつい表現しているようなお辞儀、あいさつ、ふるまい。

 

にこやかで柔和な気持ちが、凝り固まった自己をときほぐしてくれる。

 

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禅語は、自分自身に何かを突きつけてくる。

 

自分が置かれている立場、今の状態。

 

その中で、その言葉をどう受け取るのか?

 

自分たちは、答えをつい見出そうとする。

 

その言葉の持つ意味は?といった一般論を導き出そうとする。

 

しかし、大切なことは、そこにはない。

 

その言葉が、自分自身にどう刺さっているのか?

 

解釈ではなく、何を感じ取れるのか?

 

不思善悪。

 

善し悪しを考えるな、と解釈できそうだ。

 

しかし、この世の中は善し悪しで成り立つ世界とするならば、それが出てくるのは自然なこと。

 

区別し、考えようとしないほど逆に善悪に囚われるようにも感じる。

 

それをそのままに流しておけばよい、ということになるのだろうか?

 

善し悪しでとどまらず、こだわらず、感情にとらわれず。

 

言葉にすれば、固着化してしまいそうだ。

 

自由自在という言葉が思い浮かぶ。

 

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ありがとうと言えば、有難いことに気づく。

 

幸せと言えば、目の前にある幸せに気づく。

 

学生だったら、これでいいのだろう。

 

でも、社会に出たら、これが逆になる。

 

ありがとうと思われなければ、仕事にならない。

 

幸せを感じさせられなければ、仕事は続かない。

 

お金を払う立場とお金をいただく立場。

 

仕事の現場は、大いに修行になる。

 

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本気で生きる。

 

これが、大切なことだと。

 

でも、本音で生きていなければ、本気にはなれない。

 

そして、自己を取り戻さなければ、本音は出ない。

 

 

小学3年生と年長組の息子二人を見ると、それぞれ得意分野も性格も好き嫌いも能力も異なる。

 

環境も遺伝子も同じなのに、不思議なくらい異なる。

 

そもそも、人は〇ではなく、凸凹。

 

そして、凸凹を無理に矯正して〇にしなくてもよいと自分は感じている。

 

杉の木はまっすぐに育つ。

 

一方で、松は曲がりくねる。

 

では、杉は正しく、松は間違っているのか?といえば、その質問自体が愚問になる。

 

杉がグレて曲がりくねればダメだと言い、松は杉のまっすぐな姿が正しいと思い込み、まっすぐになろうとする。

 

かつて、まっすぐ優秀だと思われていた人間が、社会に出たらそれほどでもなくなっていることがある。

 

一方、昔は無茶苦茶やっていて、泥水をすすって生きてきたような人間が、社会で大活躍をしていることもある。

 

それを見てどう思うか?

 

僕はそれでいいと思っている。

 

人生の価値を決めるのは他人ではなく、自分なのだから。

 

まっすぐでも、曲がっていても精いっぱい自分の人生を生きればいい。

 

どうせ正解なんて誰にもわかりゃあしないのだから。

 

活躍するしないの前に大切なことがある。

 

よくわからないけれども振られた役割、ふとやってみようと思ったこと。

 

与えられた環境の中で、それに全力を尽くしていければいい。

 

他人の価値基準で生きてはならない。

 

ある人の話。

 

喘息の発作で苦しんでいる男の子がいた。

 

その男の子は、徴兵で戦場に行くことになった。

 

兵舎で夜、寝ようとすると案の定、発作が出た。

 

そこで上官が、その子を思い切りビンタをしたら、それ以来、発作は止んだという話。

 

こういう話は、誤解を招くから不謹慎だという意見もあるかもしれない。

 

でも、そんなことはどうでもいい。

 

何を言いたいのか?といえば、善悪で簡単に片づけてはいけないということ。

 

なぜなら、そこから先の思考も人間も深まらないから。

 

喘息の発作が出れば、周りは心配する。

 

そうした思いやりは大切だけれども、それが果たして本人にとってどうだったのか?という疑問も湧く。

 

とんでもなく理不尽な上官のお陰(?)で発作が止まったとしたら、この理不尽は恩恵だったのでは?と思えなくもない。

 

病は気からという言葉が死語になりつつあるように感じている。

 

でも、これは時代を超えた言葉ではないのか?と思う。

 

特に現代のように何でもストレスのせいにするような時代では、より一層、必要な考え方ではないのかなとも。

 

そして、思いやりのある温かい環境が良く、厳しく理不尽な環境が悪いなどと単純な区分けもできないとも思う。

 

ハラスメントの一言で善悪を単純に区別するほど、人間はストレスに弱くなる。

 

宇宙は人間に惰弱を求めてはいない。

 

あるパートのおばちゃんが、レジに並んでいた爺さんに怒鳴られていた。

 

その内容たるや、まさに今、世間で注目されているカスハラって奴だ。

 

でも、そのおばちゃんは偉かった。

 

所謂、老害と言われるような爺さんを一切、相手にせず、淡々とレジの作業を行い、礼儀を失することなく会計をしていた。

 

絶対積極とは、まさにこのことだなと。

 

心の中で大拍手の一幕だった。

 

理不尽や逆境が、その人の尊さ、誇りを表現してくれる。

 

忙しい状況や緊張感を持たざるを得ない仕事の最中。

 

結構、感情が先走りがちで冷静でいようと思っていても、冷静ではなくなる場面がよくある。

 

そんなときこそ、日常から離れ、静寂の中に身をおく。

 

すると、自分の間違い、本来的な人としてのあり様といった点が、次々に思い浮かぶ。

 

そのまま自分の立場や正しさを貫こうとしていたら、気づけなかった点が多々でてくる。

 

それは、往々にして非日常の静寂の中で気づかされる。

 

それは、自分にとっては読書であったり、お茶の稽古であったり、家族や友人との交流であったりもする。

 

最近、あまり笑っていなかったこと、当たり前を当たり前としてのみ受け取っていたこと、自分の立場、考えだけに囚われていたこと。

 

心がほぐれていくことによって本来の自己の願望に気づいていく。

 

願望というと、とても世俗的なことに受け取られがちだが、そうしたエゴイスティックなものではない。

 

本来は慈悲に密接に結びついている。

 

静寂の中で落ち着き、わかってくることがある。

 

人としてどうなのか?

 

そんな問いかけを静寂の中で受け取っているような気がする。

 

日常と非日常という螺旋階段を一歩一歩。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本を読み、仕事に励む。

 

もちろん、稼ぎも利益も重要だ。

 

でも、本当の目的は、そこではない。

 

人間力を鍛え上げる。

 

誰もが意気消沈し、誰もが絶望を感じ、誰もが荒ぶる感情や悲嘆に囚われる状況。

 

そんな土壇場で立ち上がり、前進する人間になれなければ、読書の蓄積も仕事の蓄積も全く意味をなさない。

 

道とは何かを探求することが、仕事であり、読書でもある。

 

人の本質は光だというセリフをどこかで聞いたことがある。

 

でも、それは、土壇場でなければ放たれないようにも思う。

 

怒り×愛=情熱

 

怒りだけでは道を踏み誤る。

 

愛だけでは弱い。

 

人の本質は光であり、火でもある。

 

 

業績が良い会社の社長には、ある共通点がある。

 

それは、スピード感というリズム。

 

士業は手足。

 

これは、ある司法書士の言葉。

 

なるほどなと思う。

 

社長は頭脳であり、自分のような士業は手足。

 

そして、大切なのは頭脳と手足との調和とリズム。

 

これができると重宝される士業になっていくはず。

 

では、単に仕事が早ければ良いのか?といえば、そうでもない。

 

仕事の出来上がり、精度はもちろん大事。

 

でも、その仕事に対する姿勢がもっと重要だと自分は考えている。

 

スピードよりも姿勢。

 

そして、至誠という丁寧な仕事。

 

もちろん、時間をかければ良いわけではない。

 

限られた時間内で自分が業務上必要だと思うことはすべてやろうとする誠意。

 

この姿勢は、直に社長に伝わる。

 

そして、この積み重ねがなければ、本当の意味でのスピード感、良いリズムと調和はつくれない。

 

自分で自分を誇らしいと思える仕事をしていけば、より良い仕事上の関係ができていく。

 

世の中は、良し悪しで成り立っている。

 

一方、その良し悪しを超えた世界もある。

 

このようなことをある方がおっしゃっていた。

 

良し悪しを判別する、ややもすると対立する世界から、良し悪しを超えた和合の世界に向かうこと

 

これが、人間に求められるような気がしている。

 

こんなエピソードをある社長から聞いた。

 

高校時代の教師が、不良に言う。

 

「おい、おまえタバコ持ってんだろ?1本くれよ。」

 

不良は、とまどいながら教師にタバコをあげる。

 

隣で教師はうまそうにタバコを吸う。

 

「おまえ、俺たち教師の前では吸うなよ。」

 

これは、現実に高校時代にあった一コマ。

 

この不良にとって、これはとても良い思い出であり、心に残る面白い教師だったはず。

 

おそらくここに出てくる不良とは、この社長のことだろう。くっくっく。

 

まあ、今では考えられない。

 

教師は、聖職という言葉がある。

 

しかし、自分を教師という枠の中に閉じ込める前に、人間を晒したほうが、より良い教育者になれるような気もする。

 

教師と生徒という分断した関係だけで終わらせてはならないようにも思う。

 

これは、仕事上の上司と部下の関係にも当てはまるだろう。

 

上司と部下という垣根が取れたとき、あるいは事業者とお客さんという垣根が取れたとき、きっと素晴らしくも愉しい関係が築けるはず。

 

そして、良い仕事とはそこから生まれてくるようにも思う。

 

分断の世界の中だからこそ和合が生きる。