仕事道を極める

仕事道を極める

多くの人が、多くの時間を費やすのが仕事。単なる作業ではなく、極めたい道として仕事をとらえていきたい。



 

今度の衆議院議員選挙。

 

今後の日本の行く末を左右する非常に重要な選挙と言われている。

 

が、その選挙の重要性を論じられるほど、僕の中にある違和感が顔を出す。

 

その違和感とは何か?

 

すべての政党、政策に100%賛成、あるいは100%反対にならない。

 

そうした中でどこかの政党、誰かを選ばなければいけない矛盾。

 

識者やマスコミはこぞって選挙や民主主義の重要性を語る。

 

しかし、その選挙や民主主義に内包された矛盾、限界について語られることはほとんどない。

 

権威主義にくらべ、民主主義は金もかかる、意思決定も遅い。また、単純化されたスローガンにややもすると飛びついてしまう危険性もある。

 

今の時代、権威主義と民主主義が分断されている。

 

だから一層、民主主義というシステムの脆弱さ、非効率性、限界がクローズアップされて見える時代になっていると思う。

 

そして、ここに自分たちが陥りやすい罠がある。

 

権威主義か?民主主義か?右派か?左派か?

 

思想を単純化する二元論の中にある弊害。

 

二元論はわかりやすく便利であるがゆえに、思考が単純化されるリスクがある。

 

今回の選挙も同様に、重要か?重要でないか?選挙に行くか?行かないのか?

 

そんな視点で思考が単純される。危機感や不安感の煽り、争点の単純化で自分たちの思考も単純化される危険性も孕む。

 

だからこそ、もう一度その根底にある思想、歴史的背景を自分の中に落とし込むことが求められるように思う。

 

今回の選挙ではその重要性よりも、己の見識をさらに磨く重要性をより一層感じている。

 

世間の喧騒とは一線を画し、矛盾を抱えたまま独り静かに思考を手放さない庶民。

 

このようにひっそりと、しかし力強く在り続ける庶民が本当の民主主義を支える時代になると僕は感じている。

 

ターニングポイントは外野ではなく、常に己の中にある。

 

 

影響力を持ち、周囲の人々を動かし、世の中を良い方向へ導く人物になる。

 

そんな言葉を、よく耳にする。

 

それ自体を否定するつもりはない。


ただ、最近どうしても疑問が残る。

 

果たして、それで本当に世の中は良くなるのだろうか。

 

影響力を持つことに意識を向けるほど、いつの間にか「周りをどう動かすか」に心が奪われ、「自分がどう在るのか」という問いが後回しになってはいないだろうか。

 

それよりも今、私たち一人ひとりに求められているのは、世の中に影響を与えることよりも、世の中の影響を受けにくい存在になることなのではないかと思う。

 

流されない軸を持つこと。


頭脳の正しさよりも、肚の確かさを拠り所にすること。

 

分断された後の事象について賛成か反対かを急ぐよりも、その根にある不安や恐怖、構造にまで遡り、静かに考え続けること。

 

派手さはない。
目立ちもしない。
成果が数字で見えるわけでもない。

 

それでも、自分の在り方に嘘をつかず、誠実に目を向けている人が増えていくほど、国も、社会も、実は静かに、しかし確かに強くなっていくのではないか。

 

そんなことを、最近よく考えている。

 

現実をどうするか?

 

それよりも

 

この現実が起きている意味は何か?

 

この意味を深く問うていくことが、生きていく上でずっと意義があると感じている。

 

なぜか?

 

その問いの中に足るを知る、執着から解放された自由の境地が垣間見えるからだ。

 

あれこれやっても現実は動かない。

 

なぜ現実は動かないのか?

 

努力不足?想像力が足りない?才能がないから?

 

そのようなところに原因を置きがち。

 

しかし、そのように考えてしまうことが、さらに執着あるいは誤解からくるあきらめにつながりかねない。

 

大切なことは目の前の現実を変えることではなく、目の前の現実の意味を深く知ることにある。

 

すると足りないことなど何一つないことに気づかされる。

 

なぜなら、その静かな境地に本来の自己とつながる源泉があるからだ。

 

自己の源泉は、偉人の言葉や偉業にもないし、師の言動の中にもない。

 

吉田松陰をいくら尊敬していても、その通りの人生は歩めない。

 

巷で評判の大経営者をいくら尊敬しても、その通りの人生は歩めない。

 

偉人、尊敬している人物と異なるから、ダメなのではない。

 

異なるところに価値がある。

 

それは、自己の外にはなく、内にある。

 

逆説的になるが、現実をどうするか?

 

あちらこちらにぶつかりながら、自分で体得していくことでしか本来の自己とはつながらない。

 

そこで取っ組み合いながらも、そこで感じられる違和感。

 

これが、本来の自己、内奥からくるインスピレーションそのもの。

 

一人一人顔かたちが違うように人生のカタチも異なる。

 

だから、外の情報は参考であって指令書ではない。

 

どんなに正しそうに思えても、またどんなに立派なことであっても、その通りに生きる必要はない。

 

逆にそうすることで自分を一層苦しめてしまいかねない。

 

遠回りをし、回り道をし、無駄なことだと思えることをやる。

 

そうした中で徐々に本来の自己固有の願いに近づいていくのだと思う。

 

内なる自己とつながることが、本来自分が歩んでみたかった道だと気づく。

 

それは幼い頃からずっと願っていたこと、望んでいたことだと気づく。

 

世の中では、体に良い食べ物を以下に取り入れていくか?が重視されている。

 

一方、精神の栄養となり、躍動させる情報などに接する重要性についてはあまり触れられていない。

 

身体ももちろん大切。

 

だが、その根本にあるものがもっと大切。

 

心身を実質的にうまく機能させ、動かそうとする根源にある気の状態がどうなのか?

 

この点を深く考えていくことが、とても重要に思う。

 

世の中にはバイアスがかかっている情報がとても多い。

 

バイアスとは歪みと捉えられているが、自分なりに解釈するとこうなる。

 

正邪を分け、不安や恐怖を感じさせ、怒りなど人の感情を不用意に波立たせる情報。

 

こうした情報に不用意に朝から晩まで浸かっていると、どうなるのか?

 

エネルギーの漏電を起こし、本来の仕事、日常に力を安定的に発揮できなくなる。

 

自分の正しさを証明することに汲々とし、疲弊していく。

 

なぜかいつも心がざわつき、目の前のことを着実に、確実に処理することが困難になっていく。

 

簡単に言うと、今を生きられなくなる。

 

だから、情報の取捨選択が非常に重要になる。

 

個人的な意見かもしれないが、食べ物云々よりもずっと重要に思えてならない。

 

だから、大切な人との関わり、好きなこと、関心のあること、読書、音楽、映画などがとても重要になる。

 

心を満たすことをなおざりにするほど、心は疲弊していく。

 

それでもがんばらなければならないと、ひょっとしたら多くの人が思っているのかもしれない。

 

けれど、本当は全く逆なのだ。


人間は壊れるために生きているのではない。

 

日常も仕事も、自分という存在をすり減らすためにあるのではない。

 

むしろ、自分という人間を生かすためにある。

 

仕事に関係のないこととして分けていることが、実は仕事にも日常にも、非常に生きてくる。

 

自分が心から愉しいと思えることが、自分の周波数を整え、命を瑞々しくさせてくれる。

 

疲れたら休めばいい。

 

寝たければ寝ればいい。

 

焦りや不安、不足からスタートしたことは、どんな結果であろうとそこから人間を解放してくれない。

 

心を静め、まずは自分の周波数を整えよう。

 

すべては、ここからなのだから。

 

 

最近、やたらと潜在意識について考えている。

 

そこでふと浮かんだのが、
「想像力とは、そのまま創造力なのではないか」という感覚だ。

 

それは、頭脳で組み立てる想像ではなく、
肚の奥から湧き上がってくる想像である必要がある。

 

では、「肚から湧く」とはどういうことか。

それは、損得やテクニックを超えた、
魂からの発信なのだと思う。

 

人は物事を、外形的な尺度で測ろうとする。

 

どれだけの年収なのか。
どれだけの資産を持っているのか。
どれほどの規模の会社なのか。

 

そして、そうした外的なもの、
物質的なものを「憧れ」と勘違いし、
それを実現しようと努力する。

 

けれど、その努力の多くは、
やがて空しさに変わってしまうのではないだろうか。

 

たとえ実現できたとしても、
それは砂上の楼閣のようにもろい。

 

なぜなら、それは
本来の自己から発せられた願いでも、祈りでもないからだ。

 

願望と欲望は、似ているようで異なる。

 

願望とは、
「他者に対して、自分はどうありたいのか」
「他者と共に、どのような世界を生きたいのか」

その問いから生まれるものだと、私は感じている。

 

それは、自己の内面から素直に立ち上がる憧れであり、
嘘やごまかしのない、純度の高い感覚だ。

 

そのような願いと自己が一致したとき、
本当の“想像”がはじまる。

 

そしてその想像は、言葉となり、映像として心に描かれたとき、
静かな喜びを伴って、さらに進化していく。

 

本来の自己は、いま、何を願っているのだろうか。

 

静けさに心を委ねたとき、
かすかな感覚として届いてくるインスピレーション。

 

たとえそれが、
一見すると脈絡のないものだったとしても、
後になって、驚くほど理にかなっていたと
気づかされることがある。

 

人は、想像の中で遊ぶとき、
すでに「未来を、いま、生きている」。

それが現実化するかどうか以上に、
人はその瞬間、
豊かさと喜びを、すでに味わっている。

 

想像の中で、
自分はもう創造している。

 

何度も、何度も、愉しめる。

 

現実との境目が溶けていくほどの、
リアルなワクワク感。

それらは、
静かな喜びとともに、
自分の深奥から伝わってくる。

 

本来の自己を取り戻したとき、
他の“ナニモノか”になる必要はなくなる。

 

正しさも、評価も、
いつの間にか手放している自分に気づく。

 

 

今読んでいる『サラとソロモン』という本の中に、こんな場面がある。

 

主人公のサラは、「地面を歩くのは嫌だから、空を飛びたい」と言う。

 

それに対して、鳥のソロモンは問い返す。


「なぜ、空を飛びたいの?」

 

サラは、「歩くのは時間がかかるし、面倒だし、嫌だから」と答える。

 

しかし、ソロモンはこの答えを待っていたわけではなかった。


彼が知りたかったのは、“本当の理由”だったのだ。

 

このやりとりを読んだとき、
サラは顕在意識、ソロモンは潜在意識のように思えてならなかった。

 

サラは願望を口にしているつもりでも、その言葉は、ソロモンには届いていない。

 

サラが本当に望んでいるのは、
空を飛んだときの快適さであり、視界の広さであり、世界が開ける感覚なのだと思う。

 

ところが、彼女の口から出てきたのは、
「歩くのが面倒」「嫌だから」という、“回避”から始まる願望だった。

 

この構造は、かつて話題になった「老後2000万円問題」とも、とてもよく似ている。

 

老後が不安だから、貯蓄が必要。
お金がなければ食べていけない――
そんな危機感や恐怖から生まれる願い。

 

けれど、恐れから生まれた望みは、
人を本当に幸福にも、豊かにもしてくれないのではないか。

 

ソロモンが伝えたかったことは、
「本当の願いを、自分自身に問いなさい」ということだったのだと思う。

 

どんな老後を過ごしたいのか。
自分が本当に望んでいるものは何なのか。

 

問題は、2000万円の有無ではない。

 

日々いただく食事のおいしさに、素直に感謝できること。
孫と出会い、同じ時間を共有できること。
映画を観て、心が震える瞬間。
ひとりで本を読み、物語を味わえる感覚。
散歩の途中で、ふと目に入った花の美しさ。

 

こうした瞬間に囲まれ、
それを「豊かだ」と味わえる老後こそが、本当の意味での“豊かさ”なのではないかと思う。

 

私たちは物質文明の中で生きている。
だからこそ、主導権を「お金の有無」「環境の良し悪し」に委ねてしまいがちだ。

 

けれど、本当の主人は、いつも自分の内側にいる。

 

本や映画、自然や出会いは、
その“内なる主人”に気づかせてくれる、


とても大切な機会なのだと、私は感じている。

 

 

 

成功法則には、よく次のように書かれている。

 

「理想の姿を具体的にイメージし、潜在意識に落とし込む。ワクワクした感情と共にイメージせよ。」

 

長い間、僕は疑問だった。

 

何が疑問だったかと言えば具体的イメージしようにも仕切れない。

 

仮にイメージしたとしても、本音からのワクワク感が感じられない。

 

それもそのはずで、ただ頭でイメージしたものを猿真似しようとしてもうまくいかないはずなのだ。

 

頭ではなく、肚から自ずと湧いてくるイメージ。

 

そこにあるのは、本来の自己に根差した源泉につながるもの。

 

喧騒の中ではかすかで聞き取れにくい自分の内なる声がある。

 

その声に耳を澄ませたとき、ナニモノかになろうとしていた作為的な自分に気づく。

 

そうではなくして、既にある本来の自己に戻る作業。

 

それが瞑想であり、静けさに心を置くということだと思う。

 

その時、ふつふつと、しかし確実に湧いてくるものがある。

 

それが情熱の正体。

 

情熱とは決して騒がしいものではなく、世間の注目を浴びようとするものでもない。

 

己の中で静かに、でも確実に内側から湧き上がってくる反応。

 

自分の内側と外側がしっくりこなければ、決して潜在意識もイメージも活用できない。

 

外的な情報ばかりに振り回されてしまえば、本質を見失ってしまう。

 

ここに成功法則の落とし穴があるように感じている。

 

個別の人生をどう生き切るか?

 

そこに意識を集中したとき、自ずから湧き上がるものがある。

 

その源泉を内側に見出すことが、何より重要なのだと思う。

 

 

 

多くの人は仕事とプライベートを分けているようだ。

 

でも、分けるほど苦しくなるように自分は感じている。

 

仕事=苦行、耐えるもの

 

プライベート=楽で待ち遠しいもの

 

一見、何の問題もないように思うが、このように分けてしまうと苦行を回避するためにプライベートがあり、多くの時間が苦しいものになってしまう。

 

仕事=人生そのもの、生き様そのもの

 

僕はこのように捉えて久しい。

 

すると、日常の中での経験も仕事に生きてくるし、仕事での経験も自分を磨く砥石となってくれる。

 

家族と利用した飲食店、旅行先、触れた芸術、読んだ本。

 

そのすべてが仕事で生かされてくるし、それが何より愉しくなる。

 

プライベートと仕事の境界線がなくなることで仕事そのものの価値も、人間性も磨かれていく循環に入る。

 

それは堅苦しいものでもなんでもなく、本来の自己を発揮し、自然体で人生愉しむ姿に重なる。

 

もちろん、様々な苦難も悲劇もある。

 

しかし、そのようなことすらもすべて必要であり、必然として起きてくるものであり、自分の人生にはかけがえのないもの。

 

仕事を通して生き様を磨き、その磨かれた生き様がさらに価値ある仕事を生むと僕は信じている。

 

そして、家族との時間、独りで過ごす読書の時間、芸術や自然に触れ、時に大いに遊ぶ時間。

 

そのすべてが大切な僕自身の人生の一部。

 

分けることなくすべてを大切なものとして受け取ったとき、自己の人生を生き切っているのだと思う。

 

物事は分けてしまえば、対立、争い、不満を生む。

 

しかし、元々のひとつである根源を掴もうとすれば、必ず和合という愉しさを掴める。

 

 

 

 

世界は、管理するものではない。

 

世界は、自分の内側の投影だ。

 

自分の内側をごまかし、理屈で説得し、外側に合わせる必要はない。

 

かつて、石田梅岩は卑屈で卑怯というレッテルを貼られた商人のあり方に疑問をもった。

 

武士に比べて劣ると言われる商人にも道がある。

 

それが、商人道だと。

 

それは内からなる思いを外側の世界に投影させようとしたことに当たる。

 

正直と倹約から品格が生まれ、それが信用の礎となる。

 

その礎の上に道が成る。

 

最近、力による平和という言葉に非常な違和感を持つ。

 

世界は力で管理、支配するものではない。

 

もしも、それをするならば所々に歪を生み、紛争が絶えない世界を生むだけだ。

 

恐怖や不安によって心が支配されると短絡的に物質的な力に頼る。

 

未来への不安、生存本能を脅かす恐怖は、それによって根本的に解決できない。

 

これではいつまで経っても問題は解決しない。

 

心を静かに整えなければ、それが投影された世界が見えることはない。

 

沈思黙考、孤独の中で生まれたインスピレーションが、商人道だったはず。

 

鏡を見る。

 

鏡の中の自分を笑顔にするにはどうするか?

 

鏡の中の自分をいじれば、笑顔になるのか?

 

そんなバカなことをする人はいない。

 

自分という本体が笑顔になれば、自ずと鏡の中の自分も笑顔になる。

 

鏡に映された自分は、本体ではない。

 

物質も、陰であるとされている。

 

本体はエネルギーであり、このエネルギーをどうするか?が、問われている。

 

でも、実際には陰である物質を現実と思い込み、なんとかしようと悪戦苦闘してしまう。

 

これでは、鏡の中をいじって自分を笑顔にするようなものじゃないか・・・。