仕事道を極める

仕事道を極める

多くの人が、多くの時間を費やすのが仕事。単なる作業ではなく、極めたい道として仕事をとらえていきたい。



 

よく言われる「思考停止」という言葉。

 

少し掘り下げれば、そもそも思考停止に気づけないことこそが思考停止ではないか、と感じる。

 

あふれる情報や本、動画の中で、自分たちは選択権を持っているつもりだが、実際はどうだろう。

 

納得感が強いほど、発信者や著者に深く同意してしまい、その納得が時に思考停止のきっかけになるように思う。

 

結果として、自ら選択肢の幅を狭めてしまう危険もある。

 

強い納得感は、その意見が自分の中から出たものだと錯覚させ、自分で考えているような感覚を生む。

 

しかし同調と思考は別物だと感じている。

 

大切なのは納得感よりも違和感。

 

この違和感やズレがあってこそ、本来の自分の思想が動き出す。

 

人は納得で止まり、違和感で進むと言ってもいい。

 

異なる道を歩んできた者同士、思想が完全に一致することはまずない。

 

一致しないからこそ、時に衝突しながらも理解しようとする姿勢が生まれる。

 

本を読む、動画を観る。

 

その中で「ん?」と思う瞬間こそ、立ち止まり、自分だけの思想を育てるきっかけになる。。

やりたいことや好きなことをやる。

 

大切なことなのだろうが、では、どう大切なのだろう?

 

これはあくまで経験上の話。

 

好きな映画を観たり、読みたい本を読む。

 

あるいは行きたい場所に旅行する。

 

自分が好きなことであり、やりたいことでもある。

 

そうした要素を日常の中に少しずつでも取り入れることで、やるべきことの立ち位置が変わってくる。

 

どう変わるかといえば、やるべきことを遊べる余白が生まれる。

 

やりたいこと、好きなことをしている時の脳、心の回路がやるべきことの中で同じように働いてくるからだ。

 

映画鑑賞、読書、旅。

 

この3つは、立ち止まって味わう、立ち止まって思考する機会ともいえる。

 

立ち止まれば、今まで気づかなかった視点、面白いと思える事象、興味が湧いてくる新たな対象が生まれる。

 

この面白さ、興味、新たな視点が仕事や日常の中で自然と生かされてくる。

 

やるべきことを遊べるようになり、やりたいこととやるべきことの境界線が無くなる。

 

やりたいこととやるべきことに分けられた世界。

 

しかし、それは人為的に分けられた世界でもあり、大元は何か?

 

人には生来の探求心があるように思う。

 

その探求心や好奇心を自分なりのやり方で刺激していくことで1の世界に戻れるように思う。

 

深く掘り下げて考えていく愉しさ。

 

仕事でも映画でも読書でも、それは共通する。

 

好きとは、対象ではなく状態を指すのだろう。

今年に入って、本の読み方に変化が生じたと感じている。

 

以前は、本から何かを得て、試して、その要素を吸収しようと考えていた。

 

今は、むしろ著者と議論をしている感覚に近い。

 

本を読むと、自分の軸と著者の軸との交錯するところ、そして隔たっているところが必ず出る。

 

その確認作業をしているように思える。

 

著者の主張に対して自分はどのように思い、どのように感じているのか?

 

その言語化によって著者との対話、自己との対話をはかっている感覚。

 

単純な否定でもなく、単純な肯定でもない。

 

その間にある揺らぎに本の価値を見出している。

 

これは、仕事の場面でも同様かと思える。

 

仕事にも生きてくる感覚がある。

 

現実の人間の言動、そしてモノサシとして機能する法律。

 

これは、〇か✕かと単純に線引きし、簡単に分けられるものではない。

 

いわば明確な正解がないようなグレーゾーンの中、どのように舵を切るのか?

 

その舵を切るという思考と決断は、本を通じた対話が土台になるのかと思う。

 

決断は、選択というよりも創造になる。

 

本は読む対象というよりも、共に生きる存在になりつつある。

 

そんな気がしている。

最近、結論を急がない耐性の重要性を強く感じている。

 

耐性とは、さまざまな見解や情報を自分の中で蓄積し、熟成させていくこと。

 

例えば、いまだに話題になっているかもしれないオールドメディア不要論や信用できない論。

 

特に社会的影響力の大きな人物がこうした主張をすると、不思議な説得力が生まれる。

 

しかし、それはあくまでその人個人の意見であり、社会的影響力=正解ではない。

 

そもそもバイアスのない個人の見解などほとんど存在しないと考えている。

 

逆にいえば、どんなに筋道立った自分の考えでも、必ず歪みや不足、盲点があるという認識だ。

 

この認識に立つと、安易な結論や断言は難しくなる。

 

このスッキリしない感覚こそが思考を深めるのではないか。

 

結論を急げば判断は粗くなり、単純化に結びつきやすい。

 

脳をあえて不快な状態に置くことで、多面的で多層的な視点や思考が鍛えられる気がする。

 

改めて自分に問いかける──今の脳と心のモヤモヤは、本当に解消すべきものなのだろうか。

読書にしても、学習にしても、得ることに重点を置きがちだ。

 

でも、本当は得るよりも大事なのは放すことのように思える。

 

とかく自分が得たと感じられたものには愛着が湧く。

 

物質的なものはもとより、自分の意見、自分の見解というように。

 

時にその愛着が強いが故に執着に変わることもある。

 

そもそも考えるとは、どういうことを指すのだろう?

 

それは、単に自分の意見をもつことと捉えられがちだが、むしろ自分の意見を壊しつづけていくことと捉えることもできる。

 

壊すというよりも、流すといったほうが適切かもしれない。

 

自分の意見、見解と異なる意見などに出くわす。

 

その際、時に自分を否定されたような気になることもある。

 

が、ここで感情のみを発動させると思考が止まる。

 

逆に言えば、感情に囚われなければ、むしろ思考を発動させる絶妙な機会と言えなくもない。

 

固着は停滞、腐敗を生むが、流れる水は腐らない。

 

思考は正解を見つけることよりも、その正解を手放すことから生まれるように思える。

 

つまり、苦しくても矛盾や問いを抱き続けていくこと。

 

今は、とかく思考を急かせ、結論を即時に導き出そうとする。

 

即反応を求められている。

 

言い換えれば、脳に余白をもちにくい時代と言える。

 

余白がもてなければ脳も心も疲弊してしまう。

 

すると、結論、反応に精いっぱいで、考えるどころではなくなっていく。

 

だから、時に何も考えずにぼ~っとすることが、思いのほかとても重要になったりする。

 

余白とは、一見無駄であり、場合によってはとてもくだらないと思われることだったりもする。

 

しかし、くだらないことを笑えてしまう、あるいは夢中になってしまうことが、思考への第一歩だったりするのではないか?

今、世界中で話題になっているトランプ大統領の言動。個人的には、あまり好きな人物ではない。


ただ、その好悪の感情にとらわれ過ぎると、本当のところが見えなくなる。


だからこそ、まずその自分自身を警戒しておきたいと思う。

 

国内外でさまざまな批判がある。


しかし、視点を少しずらしてみると、別の見え方も浮かび上がってくる。

 

たとえば、ベネズエラやイランをめぐる一連の動き。


報じられている事実だけを見れば個別の、ただの好戦的で狂っているような出来事に見えるが、そこに一つの仮説を置いてみる。

 

これは、ある大国の覇権拡大を抑える動きではないか。

 

そう仮定すると、点と点だったものが、線としてつながり始める。

 

南米における影響力の変化。


ベネズエラとの関係性。


そして、一帯一路の要所に位置するイラン。

 

それぞれ単体で見ると断片的だが、全体として見ると、ある程度の一貫性が見えてくるようにも思える。

 

もちろん、公式には語られない(もしくは語れない)部分も多い。


核施設への対応といった説明がなされていたとしても、そこにどこまでが表の理由で、どこからが本音なのかは分からない。

 

また、次はキューバだという発言も、単なる強硬姿勢として見るのか、それとも別の戦略的文脈の中で捉えるのかによって意味が変わってくる。

 

ただし、ここで重要なのは、この見方自体もまた「一つの仮説に過ぎない」ということだ。

 

間違っているかもしれないし、一部は当たっているかもしれない。

 

しかし、結論を急いで断定することよりも、こうした複数の視点を持つことのほうが、自分にとっては重要に思える。

 

なぜなら、国際情勢は、各国の思惑、国益、経済、そして安全保障といった要素が複雑に絡み合って成り立っているからだ。

 

単純な善悪や二元論では、とても捉えきれない。

 

むしろ、一つの情報や視点だけで判断しようとすると、感情論や極端な見方、場合によっては陰謀論に引き寄せられやすくなる。

 

もちろん、二元的な見方そのものを否定するわけではない


ただ、それだけに留まらず、三元、四元と視点を増やしていくことで、より立体的に物事を捉えられるようになるのではないかと思う。

 

世の中は、複雑で、矛盾も多い。

 

だからこそ、安易に結論を出さず、一つの見方に固定せず、時間をかけて考えを熟成させていく。

 

その過程自体にこそ、意味があるのではないかと感じている。

不自由とは何か?

 

それは外側に条件を求めていくことではないか?と思う。

 

たとえば、目標をもって何かをする。

 

大学受験なり、資格試験なり、あるいは売上なり、なんでもいい。

 

もちろん、それはそれでいいことだ。

 

ただ、問題なのは、こうした行為を無意識のうちに、疑いもなくすべて肯定してしまうことにあると思う。

 

大学受験時代には、日本史を選択した。

 

真面目に勉強したが、面白かったか?といえば、実際はそうでもなかったように感じる。

 

もちろん、そこで得られた知識は大事だと思うし、そうした努力も必要だったはず。

 

だが、大学受験に縛られたが故にどこか不自由な感覚をもっていたのかもしれない。

 

不自由な感覚とは、希望する大学に受からなければ意味がないとか、報われないとか、そういう感覚。

 

また、受験に関係ない分野だからやっても意味がないとかね。

 

他方、受験なんて関係なく今のように純粋に楽しんで歴史を学んでいると、そうした制約がなくなる。

 

結果、かなり自由に愉しく学べる。

 

受験だけじゃない。

 

仕事でも同じだと思う。

 

成果を求めて仕事をする。もちろん、必要だろうし、大事だろう。

 

が、成果にばかり縛られているとつまらなくなる。

 

仕事そのものを探求し、愉しんでいくほうが、息が長いようにも思える。

 

最近は、自分の興味のある本、映画、アニメなどを時間の許す限り読んだり、観たりしている。

 

では、その先に何があるか?といえば、何もない。

 

仕事に生かそうとか、お金を得ようとか、教養を高めようとか、そうした類の制約を一切もたず、純粋な興味の向くままに。

 

本来の自由を味わえるのは、この瞬間のような気がしている。

 

そして、こうも言える。

 

やるべき仕事があればこそ、やりたいことも生かされていくと。

 

自由と不自由という間にある揺らぎをいかに愉しめるのか?

 

ここに大きな価値を自分は見出している。

 

自由か?不自由か?

 

こうした概念に縛られてしまうと自由が味わえなくなってしまう。

ただ、目の前のことをやる。

 

これ、案外と難しいのではないか?と思う。

 

只管打坐という言葉がある。

 

ただ、坐りなさいという。

 

では、坐る。すると、余計な事を考えだす。

 

なぜ、自分は坐っているのか?あの仕事の案件はどうなるだろう?足がしびれてきて痛いななどなど。

 

でも、それは余計なことでもなんでもない。

 

自ずと生じる観念なのだから、掴まずに放っておけばいい。

 

それをどうこうしようと思うと、ただ坐る状態ではなくなる。

 

お茶室に稽古に行く。

 

なぜ、稽古に行くのか?それは上達するためと反射的に思うだろう。

 

しかし、それは本当だろうか?

 

ただ、稽古に行き、お茶を点て、お茶を飲む。

 

上達も評価も関係なく、ただそれをするだけ。

 

余計なことを考えずに点てる、飲むを繰り返す。

 

坐るにしても、お茶を点てるにしても同じ。

 

日常でも仕事でも同じ。

 

どんなに喧騒の場にいようが、やることは同じ。

 

逆にどんなに静寂な場にいようが、やることは同じ。

 

禅とは、ただ飯を食い、食器を洗うことで、特別なことをやることではない。

 

ただ在る。ただそれを為す。

 

整えようとしないことで整いに自ずとつながる。

米国とイスラエルがイランに対して軍事行動に踏み切り、中東は再び混乱の只中にある。

 

イランは世界経済にとって重要な要衝を背景に対抗し、米国とイスラエルは力によって秩序を取り戻そうとする。

 

一方で、ウクライナとロシアの戦争は長期化し、東アジアでは台湾をめぐる緊張が続く。中国もまた、その動向を静かにうかがっている。

 

こうした状況を見て、ある人は「国際秩序は崩壊し、帝国主義に逆戻りしている」と指摘する。

 

確かに、力によって現状を変更しようとする動きが目立つ今、その見方には一定の説得力がある。

 

しかし、本当にそれだけで説明できるのだろうか。

 

かつての帝国主義の時代と現在とでは、前提となる構造が大きく異なる。経済は相互に深く結びつき、情報は瞬時に世界を駆け巡る。単純に力で支配すれば物事が収まるような世界では、もはやなくなっている。

 

実際、新興国の台頭により、かつて植民地であった地域も力をつけてきている。資本もまた、より成長余地のある地域へと流れている。

 

そのような中で、大国が力に任せて他国を押さえ込もうとすれば、それはむしろ自らの経済的な負担となり、長期的には不利に働く可能性すらある。

 

ではなぜ、それでもなお覇権を争うような動きが見られるのか。

 

自分は、その背景にあるのは「恐怖」ではないかと考えている。

 

安全保障への不安、体制維持への不安、そして自国の影響力が低下していくことへの不安。

 

そうした恐怖が、結果として各国をより攻撃的な行動へと駆り立てているのではないか。

 

本来、自由と民主主義を掲げるはずの国家でさえ、内部分断が進むことで理性を失い、外部に対して強硬な姿勢をとる場面も見られる。

 

それは、強さの表れというよりも、むしろ不安の裏返しのようにも映る。

 

力があるから強いのではない。

 

恐怖に支配されないことこそが、本当の意味での強さなのではないだろうか。

以前は、努力をすればするほどいい、命を燃え立たせて行動し、常に問いを立てて考え続けることが重要だと捉えていた。

 

最近は、こうしたことへのズレを感じている。

 

休めるときに休めないと行動も思考も、その質が上がらない。

 

燃えるような生き方よりも、消えない灯火を内にそっと持ち続けるほうが、持続性がある。

 

考え続けるよりも、時間の余白、心の余白があるほうが、逆に脳も心も活性化する。

 

行動や努力も肩に力が入っていては質が高まらない。

 

そんな自分の型に気づいたからだ。

 

本にはとても納得のいく、素晴らしい言葉の力がある。

 

が、力があるが故に陥ってしまう罠も同時に存在すると自分は考えている。

 

そこに自分にとっての理想的な正解、目指すべき方向があるような錯覚を感じてしまう罠。

 

考えることによって逆に人間には雑音が入り込んでしまうこともあるかと思う。

 

特に今のような情報過多な時代はそうだ。

 

雑音が入り込むことで外部に答え、あるいは自分が目指したい方向性があるかのような錯覚にとらわれてしまうこともある。

 

しかし、自分の内側の型を把握する軸をもたない限り、延々と外側に目を向けてしまいがちになる。

 

自分が思う大切なことは、こうだ。

 

一日の中で何もしない静かな時間があってもいい。というよりもあったほうがいい。

 

花の美しさに見惚れる時間も、笑い合う時間も、好きな映画を観る時間も同じ。

 

そうした一見無駄に思える時間が、自分の心に余白を生む。

 

余白があれば、自分の本当の奥底からの願いが何か?本来はどうありたいのか?が奥底から伝わってくることがある。

 

余白は、心を静め、整理し、本来のあり様を浮き彫りにしてくれる。

 

本来はどうありたいのか?がわかってくれば、ナニモノかになる必要などなくなる。

 

それは、世間の評価、比較、競争といった場から降りることを意味する。

 

努力は大事だが、それだけでは歪む。

 

思考も大事だが、過剰になると濁る。

 

情報は役立つが、方向も狂わせる。

 

そして、余白は本来の自己に戻してくれる。