仕事道を極める

仕事道を極める

多くの人が、多くの時間を費やすのが仕事。単なる作業ではなく、極めたい道として仕事をとらえていきたい。



 

ただ、目の前のことをやる。

 

これ、案外と難しいのではないか?と思う。

 

只管打坐という言葉がある。

 

ただ、坐りなさいという。

 

では、坐る。すると、余計な事を考えだす。

 

なぜ、自分は坐っているのか?あの仕事の案件はどうなるだろう?足がしびれてきて痛いななどなど。

 

でも、それは余計なことでもなんでもない。

 

自ずと生じる観念なのだから、掴まずに放っておけばいい。

 

それをどうこうしようと思うと、ただ坐る状態ではなくなる。

 

お茶室に稽古に行く。

 

なぜ、稽古に行くのか?それは上達するためと反射的に思うだろう。

 

しかし、それは本当だろうか?

 

ただ、稽古に行き、お茶を点て、お茶を飲む。

 

上達も評価も関係なく、ただそれをするだけ。

 

余計なことを考えずに点てる、飲むを繰り返す。

 

坐るにしても、お茶を点てるにしても同じ。

 

日常でも仕事でも同じ。

 

どんなに喧騒の場にいようが、やることは同じ。

 

逆にどんなに静寂な場にいようが、やることは同じ。

 

禅とは、ただ飯を食い、食器を洗うことで、特別なことをやることではない。

 

ただ在る。ただそれを為す。

 

整えようとしないことで整いに自ずとつながる。

米国とイスラエルがイランに対して軍事行動に踏み切り、中東は再び混乱の只中にある。

 

イランは世界経済にとって重要な要衝を背景に対抗し、米国とイスラエルは力によって秩序を取り戻そうとする。

 

一方で、ウクライナとロシアの戦争は長期化し、東アジアでは台湾をめぐる緊張が続く。中国もまた、その動向を静かにうかがっている。

 

こうした状況を見て、ある人は「国際秩序は崩壊し、帝国主義に逆戻りしている」と指摘する。

 

確かに、力によって現状を変更しようとする動きが目立つ今、その見方には一定の説得力がある。

 

しかし、本当にそれだけで説明できるのだろうか。

 

かつての帝国主義の時代と現在とでは、前提となる構造が大きく異なる。経済は相互に深く結びつき、情報は瞬時に世界を駆け巡る。単純に力で支配すれば物事が収まるような世界では、もはやなくなっている。

 

実際、新興国の台頭により、かつて植民地であった地域も力をつけてきている。資本もまた、より成長余地のある地域へと流れている。

 

そのような中で、大国が力に任せて他国を押さえ込もうとすれば、それはむしろ自らの経済的な負担となり、長期的には不利に働く可能性すらある。

 

ではなぜ、それでもなお覇権を争うような動きが見られるのか。

 

自分は、その背景にあるのは「恐怖」ではないかと考えている。

 

安全保障への不安、体制維持への不安、そして自国の影響力が低下していくことへの不安。

 

そうした恐怖が、結果として各国をより攻撃的な行動へと駆り立てているのではないか。

 

本来、自由と民主主義を掲げるはずの国家でさえ、内部分断が進むことで理性を失い、外部に対して強硬な姿勢をとる場面も見られる。

 

それは、強さの表れというよりも、むしろ不安の裏返しのようにも映る。

 

力があるから強いのではない。

 

恐怖に支配されないことこそが、本当の意味での強さなのではないだろうか。

以前は、努力をすればするほどいい、命を燃え立たせて行動し、常に問いを立てて考え続けることが重要だと捉えていた。

 

最近は、こうしたことへのズレを感じている。

 

休めるときに休めないと行動も思考も、その質が上がらない。

 

燃えるような生き方よりも、消えない灯火を内にそっと持ち続けるほうが、持続性がある。

 

考え続けるよりも、時間の余白、心の余白があるほうが、逆に脳も心も活性化する。

 

行動や努力も肩に力が入っていては質が高まらない。

 

そんな自分の型に気づいたからだ。

 

本にはとても納得のいく、素晴らしい言葉の力がある。

 

が、力があるが故に陥ってしまう罠も同時に存在すると自分は考えている。

 

そこに自分にとっての理想的な正解、目指すべき方向があるような錯覚を感じてしまう罠。

 

考えることによって逆に人間には雑音が入り込んでしまうこともあるかと思う。

 

特に今のような情報過多な時代はそうだ。

 

雑音が入り込むことで外部に答え、あるいは自分が目指したい方向性があるかのような錯覚にとらわれてしまうこともある。

 

しかし、自分の内側の型を把握する軸をもたない限り、延々と外側に目を向けてしまいがちになる。

 

自分が思う大切なことは、こうだ。

 

一日の中で何もしない静かな時間があってもいい。というよりもあったほうがいい。

 

花の美しさに見惚れる時間も、笑い合う時間も、好きな映画を観る時間も同じ。

 

そうした一見無駄に思える時間が、自分の心に余白を生む。

 

余白があれば、自分の本当の奥底からの願いが何か?本来はどうありたいのか?が奥底から伝わってくることがある。

 

余白は、心を静め、整理し、本来のあり様を浮き彫りにしてくれる。

 

本来はどうありたいのか?がわかってくれば、ナニモノかになる必要などなくなる。

 

それは、世間の評価、比較、競争といった場から降りることを意味する。

 

努力は大事だが、それだけでは歪む。

 

思考も大事だが、過剰になると濁る。

 

情報は役立つが、方向も狂わせる。

 

そして、余白は本来の自己に戻してくれる。

アイルランド首相が、トランプ大統領に対して丁重でありながらも毅然と、イラン空爆への反対意見を伝えた姿が印象に残った。

 

また、トランプ大統領が英国を非難した場面でも、安易に同調することなく、冷静に英国の立場を尊重する発言をしていた点も見逃せない。

 

この一連の対応は何を意味しているのだろう。

 

まず感じたのは、あの発言や態度が単なる個人の見解ではなく、議会、そしてその根底にある国民の意思を反映したものであるという点である。

 

さらに重要なのは、過去の歴史的関係に引きずられることなく、現在の国際情勢を踏まえたうえで、自国としての立場を冷静に示したことである。

 

丁重でありながら、迎合しない。


対立を煽ることなく、しかし言うべきことは言う。

 

この姿勢には、国家としての品性のようなものを感じた。

 

一方で、現在の国際社会に目を向けると、力によって現状を変えようとする動きが目立っている。

 

しかし、本当に軍事力だけで秩序が保たれるのだろうか。

 

ウクライナや中東の状況を見れば、力の行使が新たな混乱や分断を生み出している側面も否定できない。

 

自分は、今の国際社会は新たな秩序へ向かう過渡期にあるのではないかと感じている。

 

歴史を振り返れば、国際秩序は、安定 → 揺らぎ → 混乱 → 再編という流れを繰り返してきた。

 

現在は、その「混乱」の段階にあるのかもしれない。

 

だからこそ大切なのは、現実のリスクを直視しながらも、不安や恐怖に過度に引きずられないことだと思う。

 

刺激的な情報や過激な言説に流されれば、知らず知らずのうちに分断や混乱に加担してしまう可能性もある。

 

特に日本においては、「民意」というよりも「空気」が大きな影響力を持つことがある。

 

だからこそ、一人ひとりが冷静に考え、判断することが重要になってくる。

 

今は、世界の揺れに同調するのではなく、自分自身の中にしっかりと根を張る時期なのかもしれない。

 

国際社会と個人は、一見すると無関係のように見える。

 

しかし、アイルランド首相のように、個人の考えや姿勢が積み重なり、最終的には国家のあり方として現れてくる。

 

そう考えると、自分がどう考え、どう振る舞うかもまた、この時代の一部を形づくっているのだと思う。

 

渡部昇一さんといえば、高名な学者という印象を持たれる方もいらっしゃるだろう。

 

でも、僕はこの本を読んで、高名な学者というのは単なる結果であり、渡部さん本人を表していないと思えた。

 

純粋な好奇心に従って生きた結果、高名な学者になられた方。

 

おまけのほうが世の中で重視されがちだが、実際には純粋な好奇心に沿って生きることが、人間の根本と自分は捉えている。

 

今の世の中、どれだけ有利になるか?が重要視される。

 

それはそれでいい。

 

でも、そればかりを追求していると自分が何者なのか?がさっぱりわからなくなる。

 

というのも、心の中が雑音だらけになるからだ。

 

ただ、心がおもむくままに読みたい本を読み、観たい映画を観る。

 

すると、思ってもみなかったような豊かさが味わえる。

 

これは面白い!と思えるものがどれだけあるのか?

 

自分は至福感、豊かさとはその思いがどれだけ満たされるか?で決まってくるように思える。

 

こうした好奇心を純粋に追いかけていった結果、渡部さんは高名な学者になった。

 

ところが、結果を目的にして生きたら、高名な学者である渡部さんは誕生しなかったはず。

 

自分の場合、読書も映画も旅行も外食も純粋に存分に愉しむ。

 

愉しんだ結果として仕事の役に立つ。

 

でも、損得でそれらをしていたら、どこかつまらなくなってしまうように思う。

 

損得や欲という雑音で本心は閉ざされてしまう。

 

脱力することで本心は開かれていく。

 

さて、今日も読書と映画を愉しもう。

脳を夢、目標の実現のために活用する。

 

脳をうまく活用し、潜在意識に落とし込み、行動していけばいつかは叶う。

 

ただ、ここで最も重要と考えるのは、その目標や夢は自分の本心に適っているのかどうか?

 

脳は騙せても、魂に近い本心は騙せない、錯覚させられない。

 

そこに齟齬があれば生きることが苦しくなってしまうのでは?

 

たとえば、自分は来月の売り上げ目標、あるいは年間の売り上げ目標なんて一切立てていない。

 

なぜなら、売上を上げることが僕の本心が求めていることではないからだ。

 

自分の本心は、信用の蓄積というごく抽象的なものであり、数字は結果に過ぎない。

 

たしかに売上といった数字に落とし込むことは可能だが、自分の本心はそこに落とし込み、イメージすることまで望んでいない。

 

もっと、人間、世の中を探求し、より役立てるような自分でありたい。

 

いつまでにどうこうしようなんて考えは毛頭ない。

 

むしろ、今死んだとしてもそれで良しという生き方を切望しているのが、自分の本心ではないか?

 

何度も書いているかもしれないが、本当に大切なのは心をいかに使うか?よりもいかに整え、静めていくか?

 

これは、効率志向、成果を重視する現代社会にはあまり重視されていない考え方かもしれない。

 

心を整え、静めることは、容易ではないし、時間もかかれば、とても非効率的だ。

 

しかし、ここを通らずして自分の場合は本心に出会うことはなかった。

 

では、本心とは何か?

 

これは幼い頃より自分の心の奥にずっとあったもの。

 

社会に出れば、忘れ去られてしまうもの。

 

でも、社会から与えられる目標、数字、夢なんてものに対峙したとき、違和感という形で本来の立ち位置を教えてくれるものと考えている。

 

それはいわば人それぞれの個別の貴重な人生になっていく素地。

 

だから、本心を錯覚させることも騙すこともできない。

 

自分が生来望む生き方がそこに詰まっているのだから。

 

心を整え、静めなければ、魂に直結した本心は発動しない。

人生は燃えて生きていくもの。

 

情熱をもってなんぼ。

 

こうした暗黙の了解のようなものが、正解とされる理由。

 

過去の偉人、あるいは脚光を浴びる経営者などは割とこうした説得力ある成果があり、それが社会的評価につながっているため。

 

しかし、自分はこうした画一的な正解にどこか違和感を感じるようになっていった。

 

昔から自分はどこか冷めて物事を観ていたところがある。

 

一時、燃えずにいいのか?情熱がないのでは?と思い、迷っていた時期もあった。

 

ところが、ここ最近、あることに気づかされた。

 

それは、このどこか冷静である意味合理的なものの見方が、非常に今の仕事に役立っているのでは?と。

 

自分のような仕事のやり方、というよりあり方は目立ちもしなければ、注目されもしない。

 

しかしながら、目立つこと、注目されることに本当の価値は自分にとってあるのか?という疑問も出てきた。

 

本当の価値とは何か?

 

幼少期より備わっている、あるいは環境によって生成されてきた性分に従って生きていくこと。

 

世の中的な正解へ向けて自分を変えることが正しいとされているのかもしれない。

 

もちろん、それはそれで必要な時期もある。

 

なぜ必要かといえば、自分には合わないことを深く体得するため。

 

合っていればそのまま進めばいい。

 

紆余曲折を経て、変わろうともがいた末にたどりつく、変わらない本来の自己は、静かに存在している。

 

ただ、割合と多くの人が、合わないのに正解を握りしめようとしてしまうのではないか?と感じている。

 

影響力のある人物の言葉よりも、自分の内側からかすかに聞こえる小さな言葉。

 

時にその言葉に耳を傾けていくことが、時に非常に重要なターニングポイントにいたったりもする。

 

世間的には良しとされることが、自分にとっても良くはないことに気づくことの重要性。

 

評価や実績といった目に見えやすいものは、時に自分の心、思考を濁らせてしまうこともありうる。

 

だから、独り静かに、ただ静かに過ごす時間が、鍵となる。

 

そこで気づく。内に静かでも消えない灯火があることを。

教えるという言葉がある。

 

そもそも教えるとは何だろう?

 

いろいろな知識、技術は教えることは可能。

 

でも、人としてのあり方を教えることは、どうだろう?

 

人としてのあり方とは、知識や技術が生きる土台となるもの。

 

これがなければ、すべてが積み上がりにくい。つまり、知識も技術も生かされにくくなる。

 

その根本のところは、教えられるものではないと僕は考えている。

 

ただ、よく言われる「背中で語る」という言葉。

 

これも、どこか自分の中でズレた感覚を生む。

 

なぜか?それは、背中を人に見せる対象とするような作為を感じてしまうから。

 

そうではなく、ただ自分が純粋に生きたい方向へ生きていこうとすること。

 

善悪、道徳といった囚われ、制限なく純粋な自己を生きようとしたとき、そこにはじめて影響力、感化力が芽生えるのかもしれない。

 

黒澤明監督の映画「赤ひげ」

 

名医として世の中に影響させたい、弟子を育てたいなんてことは、これっぽっちも描かれていないように思えた。

 

そこには赤ひげという人間そのもののの純粋な在り方が描かれていた。

 

そこに周りの人々が勝手に感化されていくようにも思えた。

 

赤ひげにも何人か弟子がいる。

 

でも、そこに師匠と弟子といった世間の常識的な関係性は見られなかった。

 

赤ひげの善悪を超えた人間そのものの曝け出された姿があり、そこに心打たれていく人の姿があるだけだった。

 

弟子として囲い込もうとしない私心の無さ。

 

昔から弟子という言葉があまり好きではない自分は、とても共感した。

心の余白。

 

これ、凄く大事だと最近、思う。

 

人と人とが衝突する時。

 

その時、お互いに余白がない状態になっている。

 

仕事でも、家庭でも、自分にゆとりがなくなってしまえば、相手と衝突してしまう。

 

お前が悪い。お前の責任だ。お前の〇〇が悪いのだと。

 

でも、その瞬間。

 

他責につい向けてしまう事象の中にある真実を見つめようと。

 

そうする一呼吸があるとどうなるのか?

 

誰かのせいよりも、どうしたら解決できるのか?

 

今、打てる最善の手は何か?

 

ひょっとしたら自分にもどこか問題があるのか?

 

事態が緊迫したとき、余白がもたらしてくれる効果は大きい。

 

以前の自分がそうだったように忙しいのだから、こんなことやっていられない。

 

実は、その「こんなこと」の中に余白が潜む。

 

仕事の途中で寄り道をしてみる。そうしたとき、魅力的なお店が見つかり、ちょっと寄ってみる。

 

我を忘れるくらいの忙しさにあればこそ、子どもたちと少しの時間でもいいから一緒に過ごす。

 

帰宅したとき、少しの時間、美しい星、月を眺めてみる。

 

そんなとき、意図せず自分の心の余白が育っている。

 

日常の中で育まれた余白は、必ず生活の中に潤いを生む。

 

自分が放つ言葉、表情、しぐさ、まなざしに自ずと柔らかさが宿る。

 

正しさを証明する必要もなければ、何かを主張する必要もない。

 

そして、何者かにならなければならないわけでもない。

 

僕たちは、理想的な答えと効率化を求められる社会の中で生きている。

 

結果、重要なこととそうでないこととの区別をついつけてしまう。

 

しかし、そんな区別、ルールは一体誰が決めたのだろう?

 

区別をなくせば、余白が生まれる。

 

しかし、なくそうと思っていてもそれはなくせない。

 

純粋に自分の心のおもむくままに。

 

そうしたときに、その区別は自ずと溶けている。

 

本当に重要で大切なことは、そうなってみないとわからないのかもしれない。

プロ野球珍プレー好プレーなる番組がある。

 

子供の頃、この番組が好きでよく見ていた。

 

なぜ好きだったのだろう?そんなことをふと考えてみる。

 

プロとして研鑽され、一流の技術をもつ超人たち。

 

が、そんな超人でも時に失敗し、ドジを踏む。

 

そんなところに(ああ、同じ人間なんだな)という安心感と笑いを生んでくれる。

 

真剣であるほど、失敗が笑えるというね。

 

この番組、国会でも応用できないのか?と思ってみた。

 

国会の各委員会、閣議、議事堂の中で行われた珍プレー、好プレー。

 

税金で運営されているのに不謹慎だとか、バカにするなという声もあるだろう。

 

でも、僕はバカにできない考え方ではないか?と思う。

 

真剣なのは良い。でも、人間、深刻になるほど危険。

 

深刻とは、緊張、危機感、不安、恐怖によって心が占められている状態。

 

深刻さが支配すると、相手は議論の相手ではなく「敵」になる。

 

この状態では、善悪での断罪、意見の対立と分断、監視と管理といったものが正当性をもちやすい。

 

心の余白がない国家の運営は、国民にもよくない影響を与えるように思う。

 

笑いやユーモアは対立を時に溶かす。そして、心にゆとりと余白を生んでくれる。

 

笑いやユーモアは、時に同じ方向に視点を向けさせてくれる。勝ち負け、優劣といった違いを超えた同じ方向へ。

 

国会議員と言えど、僕らと同じ人間。

 

時にドジを踏み、失敗し、失言することだってある。

 

心が健全であれば、そんな隙をユーモアとゆとりをもって見られるのではないか?

 

是々非々で議論をするのも良い。

 

が、時に監視ではなくどこかゆとりをもったまなざしで国政を見てみるのも良いかもしれない。

 

深刻であるほど、危機感や恐怖に縛られ、ときに重大な判断ミスもしかねない。

 

日本は経済的にも政治的にも成熟していく時期に来ていると思う。

 

経済成長一辺倒ではなく、力を誇示するわけでもなく、そして感情によって振れない社会であることが求めらている国であると思う。

 

ユーモアや笑いの先に、自分は成熟した民主主義国家日本を観ている。