仕事道を極める

仕事道を極める

多くの人が、多くの時間を費やすのが仕事。単なる作業ではなく、極めたい道として仕事をとらえていきたい。



 

評価の世界に自分たちは生きている。

 

その評価が下がればダメ、上がれば良いのだと。

 

ところが、これは非常に息苦しい。

 

というのも、何かを証明しつづけることにずっと振り回されるから。

 

学生時代では学業やスポーツでの成績。

 

社会人になれば仕事上での評価。

 

そうした比較の中にいれば、ナメられたくない、バカにされたくないと思うのも、ごく自然。

 

もちろん、学業、仕事といった現実に即して生きていくことも大事。

 

だが、ナメられても、バカにされても平然としていられることにより大きな価値があるように思う。

 

自分の人生は自分でしか描けない。

 

そこに本来は、評価も比較もないし、何かを外的に証明する必要もない。

 

ただ、自分自身を生きるのみ。

 

そうしたある意味、泰然とした立ち位置に自分を置こうとすれば、自ずと比較、評価の世界から降りられるのではないか?

 

もちろん、評価、比較から完全に自由になれるわけではない。

 

しかし、心の整理、静けさが根底にあれば、本来の自己の世界にまたすぐに戻れる。

 

脱比較ではなく、観比較。

 

脱評価ではなく、観評価。

 

比較している自分を責めずとも、ただそれを観ればいい。

 

評価に右往左往する自分を責めずとも、ただそれを観るだけでいい。

 

脱に向かえば苦しくなるが、観に向かえばいずれ静けさがやってくる。

人間というもの。

 

高貴さと同時に醜悪さを併せ持つ。

 

情と同時に冷酷さがある矛盾。

 

矛盾を己の中に文学を通じて見出す。

 

単なる登場人物、文学の中という特殊性で終わらせるのではなく、登場人物と自分とを重ね合わせて観る。

 

嫌な部分も高貴な部分も同じ人間として持ち合わせている実感。

 

そして、読み進めていくことで感じられる自分の中の重苦しさ。

 

ここに僕は文学を読む価値があると感じている。

 

人間、そう易々と理想的に生きられるわけではない。

 

時に弱さや脆さに苛まれながらも生きていく。

 

そして、そうした弱さ、脆さは克服すべき対象ではない。

 

むしろ、共存していくもの。

 

そしてただ、それらがあると観る。

 

そうしたことを文学をとおして身についていけるのではないかと感じている。

 

文学を読んだって幸せになれるわけでもなければ、成功できるわけでもない。

 

むしろ、自己の中にある観たくないものを剥き出しの状態で観ざるを得ない。

 

そんな苦しい思いをしながら読むもの。

 

人間は矛盾だらけ。それでも、そのままで生きていく運命がある。

 

そこに愛おしさを感じられる。

 

これが、文学の力だと思う。

 

寛容であろうとすれば、寛容にはなれない。

 

なぜなら、そこには自分と他人という断絶があるから。

 

嫌な部分を自分にも他人にも見出せれば、同じ人間なのだと理会が深まる。

 

文学は人間の断絶を埋め合わせてくれる。

以前、勤めていた会社での話。

 

ある人が転勤で自分が勤めていた支店に来るという。

 

その人はだいぶ曲者で、やたらと感情的で要注意人物だという噂でもちきりだった。

 

そんな問題児、こっちに来るなよ~みたいな意見が多数だったことを記憶している。

 

そして、転勤になった理由も、問題児だったからだろうという点で意見が一致してもいたようだ。

 

では、実際はどうだったか?

 

確かに感情的ではあったが、問題児というほどのことでは全くない。

 

仕事は真面目。真面目過ぎるがゆえに衝突することもある。

 

ただそれだけのことだった。

 

情報リテラシーという言葉がある。

 

その情報の真偽を見極めるという意味合いだろう。

 

では、情報の真偽はそれほど重要なことなのだろうか?

 

フェイクニュースという言葉がかなり普及しているように、確かに嘘か本当かを見極めるのは大事に思える。

 

が、僕はそう単純には受け取れない側面もあると考える。

 

というのも、情報の真偽よりも自分の情報の受け取り方がそもそも問題の可能性があるから。

 

ちょうど転勤してきた人を問題児として情報から即断してしまったように。

 

即断・・・というより、問題児というレッテルをはった空気感に吞まれてしまったように。

 

自分の受け取り方に問題があれば、その情報が事実とさらに乖離してしまうこともありうるのではないか?

 

偏見や歪み、固定観念は誰にでもある。

 

誰にでもあるものを無いものとして捉えるほうが、問題になりうるのでは?と自分は感じている。

 

自分は正しい。しかし、自分だけが正しいわけではない。

 

さらに人それぞれ立場、思想も異なる。

 

異なる立場、思想ごとに物事の見え方も変わるはず。

 

では、そんな多様な思想、在り方があふれる世界で自分は何をしたら良いのだろう??

 

一言で言えば、視座を深める。

 

言葉になる前の沈黙を大切にしていくことが何より大事ではないか?と考えている。

 

言葉にすることは、実はとても重いことなのだろう。

世の中は万能を求めてくる。

 

性格もよく、能力も高く、家庭も仕事も両立させ、財力も、見識も高い。

 

そんな人物が理想だと、どこかで思わされているのでは?と感じることがある。

 

しかし、現実にはどうだろう?

 

性格も能力も凸凹であり、ゆえに家庭でも仕事でも問題が生じる。

 

時に金銭が足りずにあくせくし、見識不足を思い知らされる場面も多々あったりもする。

 

理想はアタマでできたもの。

 

しかし、生きることはアタマだけでは成り立たない。

 

アタマを含めて生命としての存在全てをかけて生きていくことが、人間の根本のところで求められているのではないか?

 

自分はそんな気がしてならない。

 

一杯の茶を飲む。一杯の茶を点てる。

 

これは、アタマだけでは成り立たない。

 

自分の存在全てをもって行う行為。

 

上手か?下手か?上達したのかどうか?手順がわかっているのかどうか?

 

そんなアタマの中の世界に人はついとらわれがちになる。

 

理想的に飲める、点てられることに価値を置きがちだが、さにあらず。

 

実際にはそのようなアタマだけでは、成り立たない世界。

 

それが、生活そのものであり、生きることそのものなのではないだろうか?

 

凸凹のほうが味わいがあり、問題があればこそ視野も深さも備わっていく。

 

まずは、一服。

 

その一服と同様に目の前のことにこそ、己の生命が試されていく。

 

アタマの中の理想より、失敗、つまづき、喜びの生の生命体験。

 

現実を生きられる人間は優しくなれる。

善悪、優劣、貧富。

 

こうして二分すると非常に概念が明確になる「気がする」。

 

でも、現実に自分たちが生きている世の中は、このように明快に分けられるものではないように思える。

 

白か?黒か?というよりも、グラデーション。

 

混ざりあい、矛盾し合う中での判断が求められているのではないか?

 

以前、大いに注目されたコロナ騒動。

 

ワクチンの是非、コロナ対応の是非が激しく論じられたのは記憶に新しい。

 

これも、実は善し悪しを完全に二分できない問題だったはず。

 

その中でどのように判断するのか?が、問われていたのだと考えられる。

 

そもそもが曖昧で白黒はっきりつけられない問題。

 

このような問題の判断をする際、善悪、是非の二分が妥当とする考え方が、そもそも見当違いだった可能性もある。

 

では、今振り返って自分はどのような判断をしたほうが良かったのだろう?

 

それは、問題の深掘りと判断の保留、思考の熟成。

 

恥ずかしながら、当時の自分は問題に右往左往させられ、問題も深堀も、思考の熟成もしていなかったように思う。

 

むしろその逆をやっていたようだ。

 

つまり、流れてくる情報で是非を論じ、深掘りすることなく、そして思考の熟成よりも感情寄りの判断をしていたように思える。

 

結果、浅くなり、単純な思考に陥っていたことは否めない。

 

脳は楽をする。

 

楽をするというのは、二分した即時の結論ですっきり明確にしておきたい衝動に等しい。

 

そして、楽をしたがる脳の働きよりも感情の力のほうがかなり強い。

 

場合によっては、感情が脳の判断力を阻害することも大いにありうる。

 

これからも世の中を大いに分断するような諸問題が起きるだろう。

 

そんなとき、ただ独り静かに考える時間が、何より重要になってくると自分は思う。

 

この時間がなければ、過去から学ぶことなく、同じような対応を繰り返しかねない。

 

問題と一定の距離を保ち、判断を保留、結論を急がない慎重さが、緊急事態時こそ求められるのではないだろうか?

 

科学技術面の進歩ではなく、人としての進化が人間に求められているのだとしたら、思考の熟成は不可欠だと考える。

習慣は、人を変える。 習慣は、最終的に人格にまで昇華される。

 

 だから、良い習慣をつけることは重要。 

 

しかし、自分はこうも思う。 

 

習慣をつけても変わらない核になるものが自分の内側にある。

 

 人格の向上のためだけに習慣があるのではない。 

 

むしろ昔から変わらない自身の核を改めて発見、確認するために習慣をうまく活用することが大事ではないか?と。

 

 かつて怠慢だった自分。 職務にもそれほど熱量をこめることもなく、テキトーにその日を暮らしていた日々。 

 

ところが、徐々に内側から湧く声が大きくなっていく。 

 

そのままでいいのだろうか? 

 

徐々に。本当に徐々にではあるが、日常を整え、仕事に向かう姿勢について良い習慣を身につけていきはじめた。 

 

当然、最初はうまくいかない。

 

が、失敗しながらも、修正しながらも習慣を少しずつ身につけていった。

 

 結果、どうなったのか? 生き方への納得感が生じはじめた。

 

 そして、自分自身では欠点としてしか見えていなかった怠慢さ、テキトーさの見え方が変わってきたのだ。 

 

むかしから、自分は無理をしないし、無駄で意味のない行動を嫌っていた。 

 

だから、徹夜で何日も仕事をしたり、あるいは外的ノルマに懸命になって働ける人々を凄いと思っていた。 

 

それに対して自分は怠慢なのだと。 

 

が、それは一方的な見方でしかない。 

 

無理をすれば、後で必ず歪がくる。 

 

外的なものよりも内的な、内側から湧いてくる意味を非常に大事にする。

 

 怠慢の裏側にあったものが、これだったと気づかされた。

 

 改めて思う。 理想なり何なり、外側にある価値あるものを追いかけてみてもいいし、良い習慣で人格の向上を目指すのもいい。

 

 しかし、大事なのはその過程で感られる違和感。 

 

これは、本来の自己から離れようとしなければ、自分の場合、感じられることはなかった。 

 

その違和感の正体とは、自分を自分たらしめている核の部分。

 

 昔から変わらず、ずっとありつづける自己。 

 

他人とは異なる固有の道を歩みたがっている自己。 

 

外側にある答えらしきものを追求しなければ、自分の本心、内なる声には気づけなかったのかもしれない。

よく言われる「思考停止」という言葉。

 

少し掘り下げれば、そもそも思考停止に気づけないことこそが思考停止ではないか、と感じる。

 

あふれる情報や本、動画の中で、自分たちは選択権を持っているつもりだが、実際はどうだろう。

 

納得感が強いほど、発信者や著者に深く同意してしまい、その納得が時に思考停止のきっかけになるように思う。

 

結果として、自ら選択肢の幅を狭めてしまう危険もある。

 

強い納得感は、その意見が自分の中から出たものだと錯覚させ、自分で考えているような感覚を生む。

 

しかし同調と思考は別物だと感じている。

 

大切なのは納得感よりも違和感。

 

この違和感やズレがあってこそ、本来の自分の思想が動き出す。

 

人は納得で止まり、違和感で進むと言ってもいい。

 

異なる道を歩んできた者同士、思想が完全に一致することはまずない。

 

一致しないからこそ、時に衝突しながらも理解しようとする姿勢が生まれる。

 

本を読む、動画を観る。

 

その中で「ん?」と思う瞬間こそ、立ち止まり、自分だけの思想を育てるきっかけになる。。

やりたいことや好きなことをやる。

 

大切なことなのだろうが、では、どう大切なのだろう?

 

これはあくまで経験上の話。

 

好きな映画を観たり、読みたい本を読む。

 

あるいは行きたい場所に旅行する。

 

自分が好きなことであり、やりたいことでもある。

 

そうした要素を日常の中に少しずつでも取り入れることで、やるべきことの立ち位置が変わってくる。

 

どう変わるかといえば、やるべきことを遊べる余白が生まれる。

 

やりたいこと、好きなことをしている時の脳、心の回路がやるべきことの中で同じように働いてくるからだ。

 

映画鑑賞、読書、旅。

 

この3つは、立ち止まって味わう、立ち止まって思考する機会ともいえる。

 

立ち止まれば、今まで気づかなかった視点、面白いと思える事象、興味が湧いてくる新たな対象が生まれる。

 

この面白さ、興味、新たな視点が仕事や日常の中で自然と生かされてくる。

 

やるべきことを遊べるようになり、やりたいこととやるべきことの境界線が無くなる。

 

やりたいこととやるべきことに分けられた世界。

 

しかし、それは人為的に分けられた世界でもあり、大元は何か?

 

人には生来の探求心があるように思う。

 

その探求心や好奇心を自分なりのやり方で刺激していくことで1の世界に戻れるように思う。

 

深く掘り下げて考えていく愉しさ。

 

仕事でも映画でも読書でも、それは共通する。

 

好きとは、対象ではなく状態を指すのだろう。

今年に入って、本の読み方に変化が生じたと感じている。

 

以前は、本から何かを得て、試して、その要素を吸収しようと考えていた。

 

今は、むしろ著者と議論をしている感覚に近い。

 

本を読むと、自分の軸と著者の軸との交錯するところ、そして隔たっているところが必ず出る。

 

その確認作業をしているように思える。

 

著者の主張に対して自分はどのように思い、どのように感じているのか?

 

その言語化によって著者との対話、自己との対話をはかっている感覚。

 

単純な否定でもなく、単純な肯定でもない。

 

その間にある揺らぎに本の価値を見出している。

 

これは、仕事の場面でも同様かと思える。

 

仕事にも生きてくる感覚がある。

 

現実の人間の言動、そしてモノサシとして機能する法律。

 

これは、〇か✕かと単純に線引きし、簡単に分けられるものではない。

 

いわば明確な正解がないようなグレーゾーンの中、どのように舵を切るのか?

 

その舵を切るという思考と決断は、本を通じた対話が土台になるのかと思う。

 

決断は、選択というよりも創造になる。

 

本は読む対象というよりも、共に生きる存在になりつつある。

 

そんな気がしている。

最近、結論を急がない耐性の重要性を強く感じている。

 

耐性とは、さまざまな見解や情報を自分の中で蓄積し、熟成させていくこと。

 

例えば、いまだに話題になっているかもしれないオールドメディア不要論や信用できない論。

 

特に社会的影響力の大きな人物がこうした主張をすると、不思議な説得力が生まれる。

 

しかし、それはあくまでその人個人の意見であり、社会的影響力=正解ではない。

 

そもそもバイアスのない個人の見解などほとんど存在しないと考えている。

 

逆にいえば、どんなに筋道立った自分の考えでも、必ず歪みや不足、盲点があるという認識だ。

 

この認識に立つと、安易な結論や断言は難しくなる。

 

このスッキリしない感覚こそが思考を深めるのではないか。

 

結論を急げば判断は粗くなり、単純化に結びつきやすい。

 

脳をあえて不快な状態に置くことで、多面的で多層的な視点や思考が鍛えられる気がする。

 

改めて自分に問いかける──今の脳と心のモヤモヤは、本当に解消すべきものなのだろうか。