禅語は、自分自身に何かを突きつけてくる。
自分が置かれている立場、今の状態。
その中で、その言葉をどう受け取るのか?
自分たちは、答えをつい見出そうとする。
その言葉の持つ意味は?といった一般論を導き出そうとする。
しかし、大切なことは、そこにはない。
その言葉が、自分自身にどう刺さっているのか?
解釈ではなく、何を感じ取れるのか?
不思善悪。
善し悪しを考えるな、と解釈できそうだ。
しかし、この世の中は善し悪しで成り立つ世界とするならば、それが出てくるのは自然なこと。
区別し、考えようとしないほど逆に善悪に囚われるようにも感じる。
それをそのままに流しておけばよい、ということになるのだろうか?
善し悪しでとどまらず、こだわらず、感情にとらわれず。
言葉にすれば、固着化してしまいそうだ。
自由自在という言葉が思い浮かぶ。