行政書士お~ちゃんの心学日記

行政書士お~ちゃんの心学日記

心を磨けば、食うに困らず

 


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政治や宗教について公に語ることは、タブーとされる。

 

職場でも、学校でもそうだった。

 

利害を異にし、主義主張が異なれば、トラブルになりかねないから。

 

そうした点が、その理由の一つなのかもしれない。

 

しかし、こういうことについて思考をめぐらさなければ、将来に禍根を残してしまう気がしてならないのだ。

 

誰がタブーとしたのか?

 

深く考える民族になってしまっては、都合が悪いと考えた人たちによるのだろうか?

 

お恥ずかしい話、ちょっと前までの自分の頭の中はこうだった。

 

宗教=危険

 

政治=難しくてよくわからないから政治家まかせ、期待しても無駄

 

自分自身の今までの思考停止が、今の世の中や風潮をつくっていないとも言えない・・・。

 

タブーとされるほど、世の中への無関心、平和ボケがますます進行していくのではなかろうか?


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人を喜ばせる。

 

大切なことだ。そして、商売をしていく上で不可欠な要素でもある。

 

しかし、実際はどうだろう?

 

自分の仕事についていえば、業務の只中にある時は、人を喜ばせる心の余裕なんてものはない。

 

それよりも、プレッシャーのもとでなんとか無事に諸手続きを切り抜けたいという思いが先行している。

 

ある人が次のように言っていた。

 

「営業というのは、物やサービスを売ることではなく、目の前の人の問題を解決することだ。」

 

そこにある問題とは、ことに自分の仕事に関して言えば、切羽詰まったものであり、期限が命のものであり、社運を賭けたものでもある。

 

人様の抱えている諸問題をどれだけ自分事としてとらえられるかどうか?

 

だからこそ、負を抱え、情に深い人間になれなければ、いい仕事などできるものではないと考えている。

 

苦や悲が、いい仕事、社会貢献の前提となっている。

 

近頃は、仕事が好き、仕事を楽しむということが、かなりクローズアップされている。

 

しかし、日々の現場に向き合う自分にとっては、とても違和感をおぼえる。

 

下手をすれば、お客さんに大損害を与えかねない仕事をしていればこそ、仕事とはそもそも大変なものであり、嫌なこと、苦手なことも多分に含まれると深く感じているからだ。

 

だからこそ、逃げずにやればやるほど奥深さを知り、生きがいを感じられるようになるのではないだろうか?

 

通り一辺倒な理想論、苦の観念もなき楽観論に堕するようなお勉強など不要だ。


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中学生の頃だっただろうか?

 

某新聞の社説にこう書かれていたのを今でも覚えている。

 

「戦争に向かう社会を批判するこなく、むしろ(当社が)戦争を煽った過去の過ちを繰り返してはならない。」

 

そして、今の自分には、疑問に思うことがある。

 

なぜ、占領下でGHQにおもねる記事を書き続けた過去の過ちを繰り返してはならないという社説に出くわさないのだろうか?と。

 

さて・・・。

 

自分は、このように某新聞社のあり方を大上段に構えて批判できるのだろうか?

 

その当時は、食っていくため、生きていくためにやむなし・・・だったのかもしれないから。

 

果たして命という首根っこを掴まれてもなお、自分は信念を貫けるのだろうか?

 

「魂とは、肉体を拒絶する何ものかである。」

 

魂で生きるとは、厳しい道を選択しつづけることに他ならない。

 

同時にそのような火の海を渡る勇気が、自分にあるとは思えない。

 

なぜなら、常に「自分」というものを考えてしまうから。

 

しかし、本当に大事に当たった時、平常時では考えられないほどの勇気を発揮できる。

 

それも人間の、そして日本人の本当の姿、本来の姿だと自分は信じたい。

 

臆病な自分を省みて改めて思う。

 

自分も義という背骨を失いつつある。

 

だからこそ、こうも思う。

 

ここからが始まりなんだ。


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人は、人間として生まれ、人物に育っていく。

 

というより、一本筋の通った人物として生きていきたいと根底で思う生き物じゃないか?と僕は思う。

 

もちろん、ここでいう人物とは、歴史上の偉人になることのみ指すのではない。

 

有名無名にかかわらず、価値のある生き方をしていくことだと自分は捉えている。

 

なぜ、仕事があるのか?

 

なぜ、家庭をもつのか?

 

なぜ、子育てをするのか?

 

なぜ、様々な人間関係の中で揉まれ、諸問題に直面するのか?

 

そして、なぜ、人は理不尽な形においても死を迎えなければいけないのか?

 

苦や悲しみや憎しみ、絶望といった砥石が、人を磨き、本当の愛とは何かを問いかけてくれる。

 

そして、楽しさや明るさ、希望が、人に生きるエネルギーを与えてくれる。

 

どちらもなくてはならない一つのものであり、その向かわせるベクトルはまさに人間を人物たらしめんところだと自分は思う。

 

現代は、どちらかといえば自分の欲望を中心に考えてしまう傾向が強いし、それに対して何の疑いも抱かせないほど情報が巧妙でもある。

 

結果、宇宙や神仏、世代を超えた社会建設、志といった、自分よりも大きなものの存在について考えることに乏しくなる。

 

それは、自分の今までの心のあり様や、生き方を省みてつくづく感じられることだ。

 

不毛な悩みに堕するのは、過剰な自意識や欲望に心が囚われてしまうからだ。

 

肉体や命よりも大切なことが、確かにある。

 

そして、人間は肉体や命よりも大切な何かのために生きようとしたとき、己を超克し、そこから人物になっていくのではないのか?

 

本当の幸福は、そこにあるような気がする。

 

一歩一歩、亀の歩みの如く。

 

その一歩は、どのベクトルに進むのか?

 

それが、大事だと思う。


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困ったことが起こらないように大人は、子どもに教育を施すが、困ったことの渦中にこそ学びはあるのではないのかな?

 

教育に打算が入れば、学びの奥にある真の豊かさは味わえない。

 

何の意味もなく、何の目的もなく、ただただ学びたいから学ぶ。

 

これだけでいいんじゃないのか?

 


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「私は、何者か?」と「何が、私なのか?」

 

この言葉の意味は、最初はなんだかよくわからなかった。

 

恥ずかしながら、今でもあまりよく理会できていない。

 

ただ、なんとなくこんなことなのかな?ということを述べてみたい。

 

まず、仕事と自分の関係について考えてみた。

 

自分に最適な仕事とは、何か?

 

これとは逆に

 

どんな仕事が、自分に(天命として)課されているのか?

 

仕事を自分よりも上位のものと捉えるか?自分よりも下位のものと捉えるか?の違いになってくる。

 

要は、自分を中心に据えるのか?、反対に、自分ではなく別の中心点を軸に自分が回っているのか?の違いとなる。

 

いわば、天動説と地動説の違いとなってくる。

 

現代のように個が肥大化してくれば、私というものがどうしても上位にきてしまう。

 

となれば、どうしても心の病に罹りやすくなってしまうと自分には思えてくるのだ。

 

なぜなら、仕事に自分を没入することができないから。

 

古臭い表現で恐縮だが、滅私奉公の滅私を実践しようとしなければ、堂々巡りの悩みという苦がやってくることになるからだ。

 

これは、仕事ではなく家族と捉えることもできるし、ボランティアや会社の役職というものでも捉えることができる。

 

人は自己重要感を満たされたい存在。

 

この欲求は、生まれた頃からあるもので、とても根が深い。

 

だからこそ、自分が中心でいたい、注目されたいという欲も根が深いということになる。

 

ところが、人間の魂に課せられているのは、そうした個人的な欲求を満たすことではない。

 

公という中心軸があってこその私となる。

 

もっと端的に言えば。

 

まず、人を喜ばせてみようということになる。


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相続をもじって争族。

 

これは、自分達の業界でよく使われる。

 

その原因は?といえば、一言で言えば、権利意識。

 

己が得をしたいという貪りの心とも言える。

 

理屈とかそういうものを手段として己の権利を主張するほど、争族になってしまう。

 

ところが、権利の利を理に変換するとどうだろう?

 

昔の偉い人が使っていた権理という言葉。

 

俗な自分は、ついハッとさせられる。

 

大切なのは自分の利を主張することではない。

 

物事の理(ことわり)を熟慮することだと改めて気づかされる。

 

利を主張するほどに大切なことが失われていく。

 

それは、日本人としての品格と自分は捉えている。

 

たとえ適法であったとしても、気分の良くない事象が世の中にある。

 

たとえその事象が適法であったとしても、貪る心は罪になる。

 

ややもすると、理よりも利に走りがちな己の貪りの心。

 

そんな自分を静かに見つめられる機会としたい。


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地元の役所のある課長の話。

 

僕が町会議員だった頃、その課長の答弁は、いつも歯切れが良く、聞いていて気持ちがよかった。

 

ある日の議会中のことだ。

 

とある議員が、役所の職員を侮辱したとも受け取れる発言をした。

 

おそらく、勢い余ってのことだろう。

 

そこで、その課長が、毅然として言い放った。

 

「その発言は、職員を侮辱する発言です。今すぐ撤回して下さい。」

 

その発言は撤回され、議事録に記載されることもなくなった。

 

自分は、この時のエピソードが、今でも忘れられない。

 

役所の職員の方々は、議員を前にするとややもすると構えてしまい、緊張もしてしまうのかもしれない。

 

住民の代表が議員でもあるわけだから、いろいろと気も使うだろう。

 

まったくもってとんちんかんな発言をする見識不足、勉強不足な議員もおり、さぞや気苦労も絶えないことだろう。

 

しかし、それでも仕事の上ではあくまで対等。

 

言うべきことを言う姿勢を貫いた課長を僕は好きだった。

 

役所の執行部も議員も、お互いにその地域を善くしたいという思いは同じ。

 

そんなことを改めて感じさせてくれる。

 

だからこそ、ぶつかりもするし、時に白熱した議論にも発展することがある。

 

ぶつかることを恐れずに、言うべきことを言い続けたその課長に改めてこのブログで敬意を表した。

 

残念ながら、その課長は故人となってしまった。

 

しかし、その人の為したこと、残した言葉は、心の中で生き続けている。

 

合掌。

 

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