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仕事道を極める

多くの人が、多くの時間を費やすのが仕事。単なる作業ではなく、極めたい道として仕事をとらえていきたい。

欲望が満たされないことから不平不満が起きる。

 

そして、その不平や不満は、その欲望が満たされれば解消されると「思い込む」。

 

では、欲が満たされることなく抑え込まれた不平、不満はどのようになるのか?

 

嫉妬やエゴイズムといった内面にある嫌なものから目を背けるため、そして、自己の怒りを正当化するために巧妙な理屈を考えだす。

 

そして、それは必ず知識を武器にする特徴がある。

 

しかし、武器を手にする以上、修羅道へまっしぐらに進む。

 

これをこの世の地獄と僕は呼びたい。

 

本来、人は知識によってではなく、仏心という智慧によって生きることが求められる。

 

しかし、欲望の対象を目の前にすると、その智慧はすっかり忘れられてしまう。

 

そして、問題は自分の内部ではなく、外部にあると考えてしまう。

 

以上、これは相続という分野の仕事でいさかいになっている現場で常々思うことだ。

 

相続ではタダで資産が手に入り、資産が豊富にあれば、実においしい制度だと考えられがちだ。

 

しかし、その実は、異なる。

 

不満に始まれば、不満の内に終わる世界。

 

そして、不平不満が争いを引き起こす。

 

お金という物質を重視するあまり、今までの人間関係が破綻し、断絶が生じる。

 

だから、自分は常々考える。

 

お金、資産は、正業によって得るものであり、相続で得よう、あるいは働かずに得ようなんて虫のいい考えではダメだと。

 

例外なく人は自分に都合よく物事をとらえがちだ。

 

それが、相続という現場で如実に表れる。

 

よそ見をすることなく、正業を全うしていくことで自分を鍛えなければという思いを強く持つ。

 

正業という道をしっかりと歩んでいきたい。

 

 

コミュ力なんて言葉がある。

 

誰とでもそつなく接する能力、話題が豊富で柔軟性のある人なんて意味なのだろう。

 

でも、それは言葉のきれっぱしに過ぎないようにも思う。

 

たとえば、要領がよく、お客さんともすぐに打ち解けられるような人が営業に向いていると思われる。

 

しかし、これはただのイメージに過ぎない。

 

現実にはそうした性質をもつ人だけが営業に向いているわけではない。

 

たどたどしい言葉でしか喋れなくても、そこに誠実さを見出すお客さんもいるだろう。

 

所謂コミュ力が高くなくても、やることを早めにしっかりやってくれる人を好む場合もあるに違いない。

 

むしろ、営業に向いていないと思い悩んでいる人のほうが、素晴らしい資質をもっていることだってありうる。

 

コミュ力が高く、営業に向いていると思いこんでいる人のほうが、単に嫌味な奴に成り下がる恐れもある。

 

ふわふわと漂うような理想のイメージに自分を合わせよう、あるいは合わないからと落胆する必要は全くない。

 

むしろ、地に足をつけてしっかり仕事をやっていこうとする姿勢が、根本的に大事だし、これは誰にでもできる。

 

また、そこに魅力を感じ、支持をする人だって大勢いるに違いない。

 

コミュ力を高めようとするよりも、現場での仕事の実力を蓄えたほうがずっと意義がある。

 

世間的な〇が、自分にとっての〇だとは限らない。

 

元々△の自分が無理して〇になる必要もない。

 

世間的な〇なんてものは、時代とともに変わっていくような案外いいかげんなもの。

 

きゅうりはきゅうりであって、ナスにはなれない。

 

でも、きゅうりであるからこその持ち味がある。

 

自分の特性を最大限に発揮できるのが仕事の現場。

 

隣の芝生の青さを見るより、自分の足元にある芝生の青さに磨きをかけよう。

よく聞く言葉。

 

社会や会社の歯車になりたくない。

 

でも、自分は歯車になりたい。

 

絶対に換えのきかない、無くてはならない歯車になるためにより良い仕事をしていきたい。

 

現実には、自分という歯車がしっかりと機能していかなければ、お客である会社も困るし、家庭も困る。

 

今、負っている役割こそが天命。

 

それを歯車と名付けようが何と比喩しようが、その姿勢に価値が生じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

以前、テレビで見た話。

 

数十年連れ添ってきた老夫婦の取材。

 

旦那さんが酒をのみながら、涙ながらに妻に感謝の言葉を伝えていた。

 

最初は、なんじゃこりゃ?と思いつつ、画面を通じて表現される本音に迂闊にも胸を打たれる。

 

なぜ、胸を打たれたのか?

 

それは、旦那さんがつい本音をポロリと漏らすかのように感謝の言葉を口にしていたからだと思う。

 

数十年間の夫婦生活の中で初めて発した言葉だったからだろう。

 

よく言われるのは、近しい関係だからこそ感謝を伝えることが大事だと。

 

もちろん、それに異論はない。

 

しかし、本当に思っていることは、なかなか口にしないという点も真実ではないか?

 

例えば、俺たちは親友だといつも言っている友人同士がいるとする。

 

本当に親友同士なのだろうか?

 

という疑問を持つ自分は、かなりひねくれ者かもしれない。

 

でも、自分であれば、本当に友情を感じていれば、そうした言葉は逆に言わない。

 

言葉よりも大切なことがあると感じているし、本当の親友同士なら、そんなこといちいち言う必要もないと考えているから。

 

沈黙の中に真実があり、美しい言葉の中に嘘がある。

 

現実の中でそんなこともありうるのではないか?

 

現実の世界とは、どのような世界か?

 

泥の中にいるかのようなろくでもない現実を生きている、と自分は捉えている。

 

善思想、徳といったものではまったく太刀打ちできないような現象にも出くわす。

 

夫婦同士であっても、時に対立、喧嘩をし、理想の夫婦とはほど遠いような関係に陥ることだってありうる。

 

人生、平坦な道を歩むがごとくいくようにはなっていないようにも思う。

 

だからこそ、愛や感謝、恩といった概念が成り立つのだろうし、それらは泥中だからこそ咲く蓮の華のような美しさを放つのだろう。

 

滅多に咲かないからこそ、美しさも際立つのだ。

 

それを無理やりに咲かせるがごとく、周りに聞かせんばかりの美辞麗句を安易に口に出したくないという本音。

 

それがひねくれた僕の中にある。

 

美しい言葉を並べるほどウワベで終わってしまうような感覚ををもっているからだ。

 

泥の中で喘いで、悩み苦しんでこそ、心の中でようやく咲き始めていく蓮の華。

 

安易に言葉にしてしまうと、この華が枯れてしまうような感覚を僕はもっている。

 

都知事選。

 

良い意味でも悪い意味でも注目を浴びた。

 

〇〇さんが、知事になれば何かが変わるのでは?

 

そんな期待を胸に投票に行った人も多くいらっしゃったのでは?

 

でも、僕はそうは思わない。

 

自分自身から変わらなければ、何かを変えることはできない。

 

政治が変わることを多くの人は望む。

 

でも、僕は自分自身が変わろう(成長しよう)としない限り、政治も経済も変わらないと考える。

 

改革は外に求めるものではない。

 

内なる卑小な自己に対して求めるものだ。

 

茶道で一杯の茶をいただく。

 

この中にどれほどの意味があるのだろう?

 

そんなことをふと考えることがある。

 

お茶をきちんと飲むことができれば、食事もきちんと済ますことができる。

 

礼儀正しく、美しくなんてことを意識せずとも、ただただ自然体で食事をする中で自ずから躾なるものが表現されていく。

 

ところで、自然体とは何だろう?

 

そのままでいいなんて言葉をよく聞くが、これは誤解を受けやすい。

 

自分が数十年にわたり心身に沁みこませてきた癖。

 

こうした癖を一つの形を通じて解きほぐし、本来の自己のあり様を表現する。

 

甘ったれた、ややもすると歪んだ自分を溶かし、本来の自己に目覚めていく。

 

これを自然体と自分は捉えている。

 

そして、これは、何十年もかかる地道なこと。

 

一生かかってもできないかもしれない。

 

なぜなら、このままでいいということは、このままではダメが前提になっているため。

 

自分たちは、心身の歪み、癖を抱えているため、本来は心地よくないことを心地よいと捉える傾向がある。

 

逆に心地悪いことが、本来的に心地よいものだとなかなか気づけない。

 

しかし、一度自然体というものに触れると、ある意味、世の中が逆に見えてくる。

 

本来の自己をついつい表現しているようなお辞儀、あいさつ、ふるまい。

 

にこやかで柔和な気持ちが、凝り固まった自己をときほぐしてくれる。

 

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禅語は、自分自身に何かを突きつけてくる。

 

自分が置かれている立場、今の状態。

 

その中で、その言葉をどう受け取るのか?

 

自分たちは、答えをつい見出そうとする。

 

その言葉の持つ意味は?といった一般論を導き出そうとする。

 

しかし、大切なことは、そこにはない。

 

その言葉が、自分自身にどう刺さっているのか?

 

解釈ではなく、何を感じ取れるのか?

 

不思善悪。

 

善し悪しを考えるな、と解釈できそうだ。

 

しかし、この世の中は善し悪しで成り立つ世界とするならば、それが出てくるのは自然なこと。

 

区別し、考えようとしないほど逆に善悪に囚われるようにも感じる。

 

それをそのままに流しておけばよい、ということになるのだろうか?

 

善し悪しでとどまらず、こだわらず、感情にとらわれず。

 

言葉にすれば、固着化してしまいそうだ。

 

自由自在という言葉が思い浮かぶ。

 

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ありがとうと言えば、有難いことに気づく。

 

幸せと言えば、目の前にある幸せに気づく。

 

学生だったら、これでいいのだろう。

 

でも、社会に出たら、これが逆になる。

 

ありがとうと思われなければ、仕事にならない。

 

幸せを感じさせられなければ、仕事は続かない。

 

お金を払う立場とお金をいただく立場。

 

仕事の現場は、大いに修行になる。

 

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本気で生きる。

 

これが、大切なことだと。

 

でも、本音で生きていなければ、本気にはなれない。

 

そして、自己を取り戻さなければ、本音は出ない。

 

 

小学3年生と年長組の息子二人を見ると、それぞれ得意分野も性格も好き嫌いも能力も異なる。

 

環境も遺伝子も同じなのに、不思議なくらい異なる。

 

そもそも、人は〇ではなく、凸凹。

 

そして、凸凹を無理に矯正して〇にしなくてもよいと自分は感じている。

 

杉の木はまっすぐに育つ。

 

一方で、松は曲がりくねる。

 

では、杉は正しく、松は間違っているのか?といえば、その質問自体が愚問になる。

 

杉がグレて曲がりくねればダメだと言い、松は杉のまっすぐな姿が正しいと思い込み、まっすぐになろうとする。

 

かつて、まっすぐ優秀だと思われていた人間が、社会に出たらそれほどでもなくなっていることがある。

 

一方、昔は無茶苦茶やっていて、泥水をすすって生きてきたような人間が、社会で大活躍をしていることもある。

 

それを見てどう思うか?

 

僕はそれでいいと思っている。

 

人生の価値を決めるのは他人ではなく、自分なのだから。

 

まっすぐでも、曲がっていても精いっぱい自分の人生を生きればいい。

 

どうせ正解なんて誰にもわかりゃあしないのだから。

 

活躍するしないの前に大切なことがある。

 

よくわからないけれども振られた役割、ふとやってみようと思ったこと。

 

与えられた環境の中で、それに全力を尽くしていければいい。

 

他人の価値基準で生きてはならない。