以前、テレビで見た話。
数十年連れ添ってきた老夫婦の取材。
旦那さんが酒をのみながら、涙ながらに妻に感謝の言葉を伝えていた。
最初は、なんじゃこりゃ?と思いつつ、画面を通じて表現される本音に迂闊にも胸を打たれる。
なぜ、胸を打たれたのか?
それは、旦那さんがつい本音をポロリと漏らすかのように感謝の言葉を口にしていたからだと思う。
数十年間の夫婦生活の中で初めて発した言葉だったからだろう。
よく言われるのは、近しい関係だからこそ感謝を伝えることが大事だと。
もちろん、それに異論はない。
しかし、本当に思っていることは、なかなか口にしないという点も真実ではないか?
例えば、俺たちは親友だといつも言っている友人同士がいるとする。
本当に親友同士なのだろうか?
という疑問を持つ自分は、かなりひねくれ者かもしれない。
でも、自分であれば、本当に友情を感じていれば、そうした言葉は逆に言わない。
言葉よりも大切なことがあると感じているし、本当の親友同士なら、そんなこといちいち言う必要もないと考えているから。
沈黙の中に真実があり、美しい言葉の中に嘘がある。
現実の中でそんなこともありうるのではないか?
現実の世界とは、どのような世界か?
泥の中にいるかのようなろくでもない現実を生きている、と自分は捉えている。
善思想、徳といったものではまったく太刀打ちできないような現象にも出くわす。
夫婦同士であっても、時に対立、喧嘩をし、理想の夫婦とはほど遠いような関係に陥ることだってありうる。
人生、平坦な道を歩むがごとくいくようにはなっていないようにも思う。
だからこそ、愛や感謝、恩といった概念が成り立つのだろうし、それらは泥中だからこそ咲く蓮の華のような美しさを放つのだろう。
滅多に咲かないからこそ、美しさも際立つのだ。
それを無理やりに咲かせるがごとく、周りに聞かせんばかりの美辞麗句を安易に口に出したくないという本音。
それがひねくれた僕の中にある。
美しい言葉を並べるほどウワベで終わってしまうような感覚ををもっているからだ。
泥の中で喘いで、悩み苦しんでこそ、心の中でようやく咲き始めていく蓮の華。
安易に言葉にしてしまうと、この華が枯れてしまうような感覚を僕はもっている。