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仕事道を極める

多くの人が、多くの時間を費やすのが仕事。単なる作業ではなく、極めたい道として仕事をとらえていきたい。

先日、とある金融機関の方から相談の電話があった。

 

いろいろとお答えしていくうちに(やっぱりな・・・)と思ったことがある。

 

それは、ビジネス臭。

 

要するにおいしい案件ならやります、おいしくなければお願いします。

 

みたいなね(笑)

 

金融機関という組織に属し、その組織の中での基準、常識に従えば妥当な結論なのだろう。

 

でも、僕はビジネスになるか?ならないか?なんて二の次。

 

もちろん、お金になるならないは、大事。

 

でも、人としてどうありたいのか?が、根底になければ信用が地に落ちてしまう。

 

そして、何より自分の仕事にも、自分にも誇りをもてなくなってしまう。

 

以前、ある中華料理店の前での話。

 

寒空の中、店の前で交通整理をしている警備員がいた。

 

中華料理店からおばちゃんが出てきて、アツアツのコーヒーを警備員の方に渡している光景を見たことがある。

 

うちでラーメン食べてくださいとか、宣伝のためとか、そんなことではない。

 

人としてしてあげたいことを素直に、純粋にしていたのだと思う。

 

だから、その光景が自分の心を打ったのだと思う。

 

そして、人として純粋に仕事をしていけば、こうした行動、態度になっていくようにも思う。

 

ビジネスなんて余計なことを考えないほうが、仕事で本質的に求められていることに行き着くのではないか?

 

ビジネスを仕掛けて得をするよりも、打算なく、純粋に徳を積むことで信用を築いていったほうが、ずっと仕事は愉しくなる。

 

自分自身を省みると、苦しい時は必ず欲望に流され、自分本位な考え方になっている。

 

そんなとき、波動の高い本を読むと、これじゃいけないよなと思う。

 

自分なんて、その繰り返しなんだよ。

 

でも、あの中華料理店のおばちゃんの姿を思い浮かべると、学べるんだよね。

 

自分もあのおばちゃんのように純粋な思いを大切に仕事をしていきたいなと。

 

ネット上でゴシップ、白黒を簡単につけている意見などを目にするたびに、どうだっていいことばかりが流されていると思う。

 

ここにSNS、ネットの問題点を指摘する方々が多い。

 

しかし、少し視点をズラして考えてみると別の考え方が生まれる。

 

どうでもいいことを目にするたび、自分にとってどうでもよくないことが浮き彫りになっていく点。

 

どうでもよくないこととは、仕事であり、家族、友人、取引先を含めた人間関係であり、所属する団体のことだったりする。

 

今の社会の問題点を認識、論じるのもよいかもしれないが、ではその理想とするところ、解決の目的にあたるものは何か?

 

そこを突き詰めて自分ゴトとして考えていくことに意義があるのではないか?と考える。

 

たとえば。

 

ゴシップなんて相手にしないほうが良いだろうし、他者の視点も必要かもしれないが、現実には最終的な自己判断が重要になってくる。

 

嫉妬や不満を自身の成長につなげていくことのほうが人間としてかっこいいし、建設的な方向での批判は良いが、それが単なる誹謗中傷になってしまっては意味がない。

 

浮遊している情報よりも自分が直接見たこと、聞いたことのほうが確かだ。

 

情報に流されるのではなく、自身の思考の根を太くすることが求められてくる。

 

このようにどうでもいいこととどうでもよくないこととは相互に依拠する関係にある。

 

そして、大切なのは、自分が善いと思ったことを足元からやっていくことだと思う。

 

さらに大切なことは、自分が善いと思ったことに磨きをかけていくことだとも思う。

 

今は最善であっても、その最善は永遠ではないのだから。

 

永遠ではないがために日々読書をし、自分という人間を磨いていく必要もある。

 

大切なのは、遠くのことよりも身近なこと、遠い存在よりも身近な存在にあるように思う。

 

あるトレーナーが、ダイエットについて次のように語っていた。

 

「ダイエットについては、いろいろな方法がある。

 

しかし、王道は栄養が偏らないように食事制限を行い、適切な運動を行い、十分な睡眠をとること。

 

これは、誰にでもできる。

 

でも、そんなことはみんなわかっている。

 

だから、このような理に適った情報よりも、トリッキーで珍しい手法が注目される。」

 

僕はこの後に次の言葉を続けたい。

 

トリッキーで珍しい手法は、目新しい分、すぐに飽きられる。

 

そして、次の目新しい手法へと注目度が変わっていく。

 

しかし、持続的でしっかりとした成果を出せる人は、手法を次々に変えていく人ではない。

 

理に適った王道を地道に歩む人である。

 

以上が、本当のところではないだろうか?

 

つい注目をしてしまうことよりも大切なことがある。

 

しかし、それは地味であり、聞いていても新鮮味も面白味もないことだ。

 

ただ、ここに最も重要なことがある。

 

それは、王道は歩む人にとっては、その行為は非常に充実し、愉しさを味わえているという点だ。

 

たとえば、こうなる。

 

感謝しながら生きることが大切なんて言葉には、何の面白みもない。

 

でも、感謝しながら生きている人は、生きている今そのものがかけがえのないものになっている。

 

傍観者ではつまらない。

 

つまらないから、楽が出来て、面白そうな情報に飛びつく。

 

実践こそが、大変な分、本当に愉しい。

 

普通は、仕事でも何でもうまくいかせようとがんばる。

 

でも、うまくいかないことのほうが多い。

 

成功法則本がよく売れているにもかかわらず、成功者が少ない現実もそれを物語っているのか・・・(笑)

 

そうしたとき、自分は大したものでもないことに気づく。

 

でも、この視点はとても大事だと自分は考えている。

 

逆に、結果がともない、自分は優れていると思っている時こそ、ヤバい。

 

なぜなら、それは周りがつくってくれた偶然によることも多いからだ。

 

あるいは、コツコツ積み上げてきた結果が、そこで得られたに過ぎない。

 

うまくいかなくなったとき、本当のことに気づく。

 

大切なことは、今の自分にできる目の前のことをコツコツと積み上げていく以外にないと。

 

どうせやったってうまくいかない。

 

だから、思い切りやったらいい。

 

今日、近所のホームセンターに飲み水を買いに行った。

 

しかし、今日は在庫が無し。

 

お盆で売れたのか?と思ったが、さにあらず。

 

原因は南海トラフ大地震と台風接近による恐怖心からくる買い占めだと思った。

 

毎年のようにこの買い占めなるものが起きているような気がする。

 

そして、喉元過ぎれば・・・のように、しばらくすると忘れられる。

 

この繰り返し。

 

やはり、原因を考えてみると、教育にあるのだろうと。

 

日本は地震大国と言われる。

 

この国に生まれた以上、そしてここで暮らす以上、絶対に避けられない。

 

では、どうするか?

 

災害というものをより深く学び、日頃から備えるしかない。

 

そして、最も大切なことは、我々は災害などに怯えるために生きているわけではないという真実。

 

これを掴んでもらうために教育があるのではないのか?

 

算数も国語もいいけれども、何のために命があり、何のために命を使うのか?

 

命の根底にあるものを幼い頃から学ばせたほうが絶対にいい。

 

災害、病気、事故、戦争、老いなどなど、人の命を奪いかねない事象がいつだって、誰にだって起きる。

 

そして、人間の死ぬ確立は100%。

 

そう現実を前にしたときに、人としてどうあるのか?が、問われていくのではないか?

 

もっとも、エゴイズムに汚染されていれば、この問いさえ思い浮かばないのだろうが・・・

 

だからこそ、こうしたことの一つ一つを学問として体系化し、義務教育に組み込んだほうがいいのではないか?

 

そして、その目的を命の使い方に絞って教育をしていけば、肚のすわった人間が増えていくようにも思う。

 

恐怖心や不安をかきたてるだけのくだらない報道は、極端に減るはずだ。

 

恐怖心を煽られ、買占めに走るような恥ずかしい真似もできなくなるはずだ。

 

病気にならないための健康法、災害で生き延びるための方法なんて浅い問題にしては、全く意味がない。

 

これらは、何のために人間は生きているのか?を考えさせる良い素材にしてこそ意味がある。

 

そうすれば、不安や恐怖で人生を棒に振る人も激減するはず。

 

算数や国語で良い点を取り、良い会社に入って良い営業成績を上げることが良しとされる。

 

しかし、これは実におかしなことだ。

 

何のために学び、何のために仕事をするのか?

 

つまり、何のために人間は生きているのか?

 

この大前提が、教育ですっぽ抜けている。

 

だから、報道内容がますます幼稚になるし、そんな些末な情報に右往左往することになる。

 

毎日の暑さにやられ、南海トラフ大地震やコロナに怯え、将来の保障に不安を感じる。

 

しかし、そんなことで人生を棒に振るほど人間は弱くない。

 

何のために生きるのか?

 

誰のために生きているのか?

 

その自問自答の繰り返しが、本来の命のあり方を呼び覚ましてくれる。

 

力の結晶として生き切ることで、その人の人生に独自のかけがえのない価値が生まれる。

 

その根底には、やはり教育がある。

 

 

表層は笑顔で礼儀正しい対応。

 

しかし、いざコトが起きれば、規則に従い、重鎮、上司の意見に従う。

 

組織とは、そのようなものなのかもしれない。

 

しかし、組織に首根っこを捕らえられ、生きることは何を意味するのか?

 

自分自身の意見は、どこにいったのか?

 

大切なのは、人間的態度を取り戻すことであり、自分自身の本音で生きること。

 

僕は、独立をしてそのことを痛切に感じている。

 

仕事でのトラブルのような土壇場になって問われるのは、規則に合っているのか?よりも、己の本音はどこにあるのか?だからだ。

 

ただし、自分自身の本音とは、欲望や保身ではない。

 

そうした垢を取り除いた、奥に潜む人間としての本心。

 

だから、自分の感覚を磨き続けていかなければ、その本心たるものがわからない。

 

自分の感覚を信じるに値するものとするために本を読み、日常、仕事の中で失敗、悔悟を繰り返していく。

 

肝心要のところで、人間的態度をいかに取り戻すのか?

 

市民的不服従をこのように解釈したい。

 

知よりも勇が、現実には問われている。

 

自分に合った仕事、職種。

 

もしかしたら、AIがそれを探し当ててくれる未来があるのかもしれない。

 

しかし、そのような時代が到来したら、どうなるのだろうか?

 

まさに人類の家畜化がはじまるように思えてならない。

 

自分に合った職業に就くことが、最善のように思われるが、現実はそうではない。

 

一見、合わないように思える仕事に自分を合わせようとすることで人は成長できるものだからだ。

 

仕事のみならず、人間関係、読書、自分に振られた役割などなど、縁を通じてやってきたものが、最善だと自分は考える。

 

自分は、〇〇な性格だ。(だから、あの上司とは合わない)

 

自分は、●●なタイプの人間だ。(だから、こんな仕事は向いていない)

 

このように固着化した自分にしがみつこうとするから、エゴイスティックな悩みに煩わされる。

 

そんなありもしない自分など相手にせず、いかようにも変化できる柔らかさが大切だと自分は認識している。

 

たとえば、トイレ掃除を任されれば、こんなことは自分のやるこっちゃないと拗ねるのか?

 

逆に天命と思い込んで本気で取り組めば、運命の扉は次々に開かれていくものと確信している。

 

だから、自分を周りの環境、境遇にどう合わせていくのか?を僕は選択し続けたい。

 

縁には、人智を超えた何かが潜む。

 

では、その超えたものとは何か?

 

頭で考えるような理屈では決してわかることはない。

 

しかし、天命としてそれに向き合った時、その意味がわかってくるような気がしている。

 

自分が人生に何を求めるのか?ではない。

 

天が自分に何を求めて(命じて)いるのか?

 

松下幸之助は、これを素直と表現し、出光佐三は、黄金の奴隷たるなかれと表現した。

 

命に生きる覚悟が求められる。

 

ある予備校講師の話。

 

ある一流大学の合格発表日に講師室にいたところ、その大学に受かった浪人生が喜び勇んで報告にやってきた。

 

「先生、〇〇大学に合格しました!」と大声で報告した。

 

ところが、その先生は「バカ野郎!!」と大声で怒鳴ったそうだ。

 

なぜか?

 

そこには、希望通りにその大学に受からず、落胆しながらも報告にやってくる生徒もたくさんいたからだ。

 

そういう人たちの気持ちも考えずに(オレは〇〇大学に受かった!)という自慢するような態度が、腹立たしかったのだ。

 

僕は、この話を聞いて、この講師は本当の教育者だと感じた。

 

勉強ができるとかできないとか、仕事の能力があるとかないとか、そんなことよりもずっと大切なことがある。

 

そうしたシンプルで大切なことすら忘れ、オレが、オレがで生きる態度は、めちゃくちゃかっこ悪いんだよ。

 

仕事仲間の様子がいつもと違う。

 

そうしたことを察知して、さりげなく話しかけたり、飲みに誘ったり。

 

そのようなことを自然とやれる人間が、めちゃくちゃかっこいい。

 

なぜなら、普段から本当に優しく人に接していなければ、できることじゃないから。

 

人は深く傷つけば、もっと優しく、強くなれる。

 

失敗、挫折を経験すれば、自省の念から人の気持ちがより深く理会できるようになる。

 

そうした経験は、まっとうな人間として生きていくためにも大切なことだと思う。

 

自分がいかに真人間として生きていけるのか?

 

そのために仕事も学問もある。

 

金を稼ぐため、偉くなるための手段では決してない。

 

 

 

この世の中でなぜ差別があるのか?

 

そして、その差別はなぜ無くならないのか?

 

いくら差別はいけない、平等が良いといっても、解決するはずはないと考える。

 

なぜなら、僕たちは鏡に映っている仮の姿を現実としてとらえ、差別だ平等だと騒いでいるだけだから。

 

仮の姿を現実の姿だとつい認識してしまっているから。

 

片方を無くし、あるいは排除すれば問題は解決するものではない。

 

そして、これは理屈をこねくり回して解決できるような問題でもない。

 

なぜ、差別は平等に依り、平等は差別に依り相互に存在しているのか?を考えなければならない。

 

少し視点を変えて考えてみる。

 

なぜ、このような仮の姿が善悪問わず実在という鏡に映るのか?

 

仮の姿を通して鏡は何を伝えようとしているのか?

 

平等と差別という対立を昇華させると何になるのか?

 

それは、涙であり、情でもある。

 

差別はダメだと言っている本人の中にも差別心がある。

 

同時に差別をしている本人の中にも平等を欲する心がある。

 

お互いに声高に主張し合っているだけでは対立は昇華せず、解決にはいたらない。

 

理屈や感情論では解消できないようになっている。

 

つらく、苦しい思いからあふれる涙が、本来の人間の心のあり様を映し出してくれる。

 

涙や情は、言葉にならない。

 

また、言葉にしなくてもいい。

 

本当に大切なことは、言葉にはできない。

 

言葉にする必要もない。

 

昔々の大学受験生時代。

 

ある予備校講師が次のように言っていた。

 

「私の授業は、無駄もやります。無理もやります。でも、それくらいやらなければ受かりません。だから、やるんです。」

 

その頃から、試験に絶対に出る分野とか、いかに効率的な学習をするか?が、重視されていたと思う。

 

そのような中でのこの発言。

 

僕は大いに共感する。

 

以前のブログにも書いたかもしれないが、平均台の上を突っ走るのは怖くてできないが、絨毯の上に引いたライン上であれば、全力で駆けることができる。

 

絨毯は落ちてけがをするリスクがないと思うから、当然だ。

 

無駄を省いたものが平均台であり、ライン以外の絨毯という余白が必要な無駄というもの。

 

つき合いで参加したようなお金を払うだけでおしまいの飲み会。

 

無報酬の地元の活動、会合。

 

時間の無駄遣いにしか思えなかった会議などなど。

 

こんなことやっても意味がない。

 

若い頃は、常々思っていたことだ。

 

しかし、そんな意味がないと思っていたことが、年齢を重ねるにつれて無駄ではないと気づかされていく。

 

一般的に人間の脳は、ほんの数パーセントしか活動していないと言われる。

 

では、残りの9割以上の部分は無駄なのだろうか?

 

残りの9割以上の無駄に思える部分が、その数パーセントのために存在しているのではないか?

 

無駄に思えるというのは、自分の見識がまだまだ浅いからなのかもしれないと思った。

 

無駄なことをやってみなければ、その必要性は永久にわからないのかもしれない。

 

人間は観念ではなく、行動で生きているのだから。