この世の中でなぜ差別があるのか?
そして、その差別はなぜ無くならないのか?
いくら差別はいけない、平等が良いといっても、解決するはずはないと考える。
なぜなら、僕たちは鏡に映っている仮の姿を現実としてとらえ、差別だ平等だと騒いでいるだけだから。
仮の姿を現実の姿だとつい認識してしまっているから。
片方を無くし、あるいは排除すれば問題は解決するものではない。
そして、これは理屈をこねくり回して解決できるような問題でもない。
なぜ、差別は平等に依り、平等は差別に依り相互に存在しているのか?を考えなければならない。
少し視点を変えて考えてみる。
なぜ、このような仮の姿が善悪問わず実在という鏡に映るのか?
仮の姿を通して鏡は何を伝えようとしているのか?
平等と差別という対立を昇華させると何になるのか?
それは、涙であり、情でもある。
差別はダメだと言っている本人の中にも差別心がある。
同時に差別をしている本人の中にも平等を欲する心がある。
お互いに声高に主張し合っているだけでは対立は昇華せず、解決にはいたらない。
理屈や感情論では解消できないようになっている。
つらく、苦しい思いからあふれる涙が、本来の人間の心のあり様を映し出してくれる。
涙や情は、言葉にならない。
また、言葉にしなくてもいい。
本当に大切なことは、言葉にはできない。
言葉にする必要もない。