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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 京城にあった三坂小学校の同窓会で「三坂会」という組織があった。
 私の母は1935年(昭和10)三坂小学校卒業。今年で96歳になる。敗戦の年1945年の3月に卒業した人たちが最後の卒業生となるが、今は80も半ばを越えているはずだ。「三坂会」はすでに活動を停止して久しい。
 

 三坂小学校は、京城の三坂通、現在の厚岩洞フアムドン三光サムグァン初等学校の場所にあった。植民地支配下の1922年の第二次朝鮮教育令で、「国語(日本語)を常用する者」と「常用しない者」の教育が分離された。「小学校」に通うのはほぼ全てが内地人であり、朝鮮人の初等教育は「普通学校」で行われた。三坂小学校も、教員は校長以下全て内地人で、児童は「日本語を常用する」と認定された極めて少数の朝鮮人児童を除き、ほぼ全てが内地人であった。


 1910年の「日韓併合」で、それまでの大韓帝国国民の国籍は「日本」となった。好むと好まざるとにかかわらず。しかし、同じ「日本」という国籍を有するとはいえ、旧大韓帝国内に本籍があるものと、いわゆる「内地」に本籍があるものとが、同一に扱われたわけではない。前者は「朝鮮人」(あるいは見下して「半島人」「鮮人」)と呼ばれ、後者はそれと区別する意味で「内地人」という呼称をしばしば用いた。1895年に日本に組み込まれた台湾でも同様である。「参政権」「教育」「徴兵」など社会生活の基幹部分で、「外地人」には「内地人」とは異なる制度が適用された。すなわち戸籍に書かれた本籍によって、どの種の「日本人」として管理されるかが決まるのである。さらに戦前の戸籍法では、本籍の変更は原則として認められなかった。それゆえ、どれだけ「親日」的であろうと、日本語を常用する生活を送っていようと、「朝鮮人」「台湾人」が「内地人」になることはなかった。


 三坂小学校は、内地人の教員と内地人の児童、そしてごく少数の朝鮮人児童の学校だった。それゆえ、日本の敗戦と同時に、教員や卒業生・在校生のほぼ全員が「引揚げ」というかたちで朝鮮から退去することになった。
 敗戦で日本に引揚げたその三坂小学校の卒業生の有志が1953年に集まって「三坂会」という同窓会が日本でできた。1983年に発足30周年を記念して『鉄石と千草 京城三坂小学校記念文集』を刊行した。「鉄石」「千草」というのは、三坂小学校の運動会の歌の歌詞に由来するものである。

 この『鉄石と千草』には、植民地統治下の京城についての貴重な様々な情報があちらこちらに載せられている。

 

 ここで取り上げるのは、1945年卒の五丹智子(現姓佐藤)が書いた「軍隊とともに育った私の三坂時代」の中の一節である。

私たち一家は、私が学齢に達した春に、全羅北道の小さな邑から京城に移住してきた。(中略)梨泰院の高台の家からは歩兵第二二・二三部隊が真下に見えた。

 五丹智子は、陸軍病院の前を通り、歩兵連隊・野砲隊の兵舎や官舎の間をぬって三坂小学校に通っていた。龍山駐屯地の第20師団の麾下にあったのは、実際には、歩兵第78連隊と歩兵第79連隊、それに野砲兵第26連隊で、「歩兵第22・23部隊」とあるのは五丹智子の記憶違いであろう。
 日本軍の射撃場も五丹智子の遊び場であった。現在、南山ナムサンの3号トンネルと2号トンネルの漢江側の出口の東側に梨泰院イテウォン住公ジュゴンアパートと南山テリムアパートがある。ここが再開発される1990年代初めまでは、韓国軍初の軍人グニンアパート(1964年建設)があり、ここが植民地時代に日本陸軍の射撃場であった場所である。
 五丹智子の住まいは現在の国軍管理団クックンクァルリダン後方の高台にあったのではなかろうか。

その頃になると、厩舎の軍馬も、柵越しに幼稚な手紙を喜こんで受け取つてくれた兵隊さん達も、とうに私の周囲から消えていた。
例の大路を四列縦隊になった捕虜のー隊が進んで行くのに出遇った。アメリカ兵は背が高く、引率の下士官が子供のように見え、一瞬“叛乱の構図”に目が眩むようであったが、たった二人の日本兵の監督の下に、隊は黙々と私達の前を行進して行ったのだった。
捕虜が道路わきに防空壕掘りをさせられると、片言のアメリカ兵にも低学年の子供達は忽ちにして打ちとけた。双方の会話はコンニチワサヨウナラから始ったらしいが、「コンナアナ ホッテモ ダメデス アメリカノ バクダン ツヨイヨ」などと言われると、慌てて敵愾心を湧かせてやり返していた。さすがに私達になると“生きて虜囚の辱めを受けず”という戦陣訓を知っており、捕虜達の陽気さが腑に落ちなかった。

「その頃」というのは1943〜4年であろう。龍山の第20師団は、1943年1月に東部ニューギニア戦線に投入された。第20師団の歩兵78連隊と79連隊それに野砲兵26連隊が中部ニューギニアのウェーワクに上陸したのは1月19日から2月上旬にかけてのことであった。1943年年初から、龍山の「兵隊さん達」は姿を消していた。ちなみに、第20師団は、翌1944年1月に、食糧・装備のない中で3000メートル級のフィニステール山脈を山越えで島の反対側に退却するという無謀な逃避行軍を敢行し、3500名以上の将兵がここで命を落とした。

 野砲兵26連隊の衛生伍長だった私の伯父も、フィニステール山脈から下りてくることができなかった。1942年12月、恵化町の家で2度目の召集令状を受け取り、年明け早々龍山からニューギニアに行き、昭和19年1月20日に「戦死」したことになっている。


 まさにその頃、京城の街中にアメリカ軍の捕虜がいて、その捕虜と日本語で会話したと五丹智子が書きのこしているわけである。
 

 手近な新聞データベースを調べてみると、1942年8月23日付の「毎日新報」に次のような記事が出てきた。確かに、京城に連合軍の捕虜収容所があったのだ。「京城日報」にも同じ記事が出ている。

 

 また、1943年2月15日の「毎日新報」にイギリス軍捕虜の記事が出ていて、「京城日報」に「在鮮英俘虜にきく」という座談会記事が掲載されている。

 

 さらに、こんな映画も上映されていたらしいこともわかった。この宣伝の右部分、3月8日封切りの大本営検閲済・安夕影編「朝鮮に来た俘虜」という映画がそれである。安夕影は「沈清伝」の脚本・監督などで朝鮮映画界でも著名な映画人だったが、この時期には日本の国策映画を制作せざるをえなくなっていた。


 

 国会図書館のデジタルデータを検索したら「GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section=連合国最高司令官総司令部国際検察局文書」の中に、朝鮮の捕虜収容所関係の資料があった。


 1942年2月28日に朝鮮軍参謀長が陸軍省次官に送った電文には次のようにある。

半島人ノ英米崇敬観念ヲ一掃シテ必勝ノ信念ヲ確立セシムル為頗ル有効ニシテ総督府及軍共ニ熱望シアルニ付英米俘虜各一千名ヲ朝鮮ニ収容セラレ度特ニ配慮ヲ乞フ

 これに対する陸軍省次官からの回電案(1942年3月5日)には、

俘虜収容ノ件白人約一千名ヲ釜山ニ送附セラルル筈時機其ノ他細部ニ関シテハ後報

朝鮮ニ俘虜収容ノ件
 

 この段階で、朝鮮に連合軍捕虜を移送することが決定した。「半島人ノ英米崇敬観念ヲ一掃」するため、すなわち白人の捕虜を朝鮮人の目にさらすことによって、朝鮮の人々に「日本民族」の優越性を印象づける宣伝に利用しようとしたのである。こうしたことは明らかに国際条約に抵触する。1929年7月27日にジュネーブで調印された「俘虜ノ待遇ニ關スル條約」について、日本は署名はしたものの軍部の反対によって批准は見送られた。ただし、日本は俘虜待遇条約を「準用」するとは明言していた。しかし、当時の軍部だけでなく日本全体で国際法を守るという意識は希薄であった。

 この時移送されることになった捕虜は、この年2月のシンガポールをめぐる戦闘で日本軍に投降したイギリス軍とオーストラリア軍の約8万人の捕虜と、それ以前のマレー半島で捕虜になった将兵の一部であった。それゆえ、上述のシンガポール「陥落」一周年の記事に捕虜が登場させられた座談会記事などが掲載されたのである。

 五丹智子の「アメリカ兵」というのは誤解で、言葉を交わしたのはイギリス軍かオーストラリア軍の捕虜だったのであろう。

 当初の朝鮮軍からの電文では、捕虜収容施設の候補として京城の神学校と平壌の外国人学校などをあげていた。しかし、陸軍次官からの電文で「予定建物ハ俘虜ノ取扱上優遇ニ過ギザルヤ別ニ研究ノ上案ヲ具シ報告セラレ度」と難色を示されたため、京城での収容施設は「元岩村製糸倉庫ヲ増改築ス」と変更され、ここに500名、さらに仁川に第二収容所を設けてこちらに500名を収容するものとした。

 上述のように、陸軍省の捕虜収容所設置の発表は1942年8月22日で、その翌日付の新聞で報じられているが、官報で「俘虜収容所設置」が告示されたのは同年11月4日付である。ここに収容所の住所が掲載されている。



京城府青葉町三丁目百番地は、1936年の『京城精密地図』では赤マルの場所である。



 もともと、この地番の場所には、製糸業を営む可部商会が1927年に本店・工場を置いた。しかし、1932年に可部商会は倒産し、競売にかけられた工場を三井物産が落札して傘下の東洋製絲が引き継いだ。だが、生糸業界の不況もあって1932年6月以降休業状態が続き、女子労働者の争議も起こった。1934年に岩村製絲所がここでの操業を再開したが、岩村製絲所は1940年に工場施設を全面的に江原道春川に移し、そこで工場財団の登記をしている。そのため、1940年以降は、青葉町の岩村製糸場跡地は使われなくなっていた。『大京城府大観』では「岩村製絲場」となっているこの施設を改修して捕虜収容所としたのである。

 

 現在、その場所(서울시 용산구 청파동 3가100)は信光シングァン女子高校の校地になっている。


 1942年8月16日にイギリス軍とオーストラリア軍の捕虜約1000名が福海丸に乗船、9月24日朝に釜山港に到着した。そのうち500名は翌9月25日午後0時半に龍山駅に到着。龍山駅から三角地・京町を経て龍山警察署の前から元町一丁目の順路で、多くの内地人・朝鮮人が沿道に人垣を作る中を青葉町の収容所まで1時間徒歩行進をされられた。残り500名の捕虜は、永登浦駅で分離されて仁川に向かい、仁川駅前から朝鮮部収容所分所まで衆人環視の中での行進を強いられた。

 

 当時の「京城日報」は、連合軍捕虜の釜山到着と京城での収容所までの移動の模様を次のように伝えている。

 

 ここは、朝鮮人よりも内地人が居住する地域である。朝鮮人だけでなく、内地人にも、白人軍人への優越的意識を持たせたいという意図もあったのではなかろうか。

 

 イギリス軍やオーストラリア軍の将兵は、捕虜になった当初から数ヶ月間、号令その他は全て日本語でやらされており、言語の応用力の高い将兵は、朝鮮に到着した時点ですでに簡単な日常会話はできるレベルに達していたのであろう。

 

 五丹智子が白人兵士と片言の日本語で会話したというのも、これで充分納得できるのである。

 

つづく

部屋の整理をしていたら韓国の携帯電話機が出てきた。
 これは、2003年くらいから国内のレンタル業者から借りっぱなしにして韓国に行くたびに開通してもらっていたもの。空港で安く借りられるようになったその数年後に返却しようと業者に連絡したら、「もういらない」ってことで手元に残った。
 1998年製のLGP-1500Fである。ムンチャ(文字メッセージ)はできなかったと思う。

 

 この機材を使わなくなってからは空港で携帯電話をレンタルするようになった。今は、SIM Freeの端末にSIMカードを挿して使っているので、自分で使っていたにも関わらず、この機材には博物館の展示品のような古めかしさを感じる。 


 LGP-1500Fという携帯電話機が製造された1998年というのはちょうどピッピ(삐삐)から携帯電話(ヒュデチョナ 휴대전화)に主役が入れ替わる時期であった。旅行客へのレンタルが始まったのもこの頃。例えば、ソニーファイナンスでは韓国用として1000円/1日、通話料は発信・着信ともに200円/分というレンタルを始めていた。2001年には、国際空港ターミナルのカウンターで借りられるSKテレコムの携帯レンタルサービスができた。料金は、8,000ウォン/日、通話料金は108~156ウォン/分。これを使ったこともあった。
 結構割高だったので、日本国内で割安レンタルを始めた業者がいくつか出てきた。法的には問題のある営業だったのかもしれない。そのうちの一つが、この携帯電話機をくれた業者。数年後にはこんな古い機種はいらなくなって廃棄したというわけである。
 ちなみに、私がWiFiルーターレンタルを利用するようになったのは 2013年から。一番最初のWiFiレンタルはolleh roaming centerで1日8000ウォンだった。

 

 ところで、電話といえば、1970年代に当時数少ない韓国研究者の大御所の雑談を片隅で聞いて「韓国は電話で何でもすましてしまう」といっていたのが思い出される。その割には実際の韓国は公衆電話も少なく、電話がそんなに活用されているのかと疑問に思っていたのだが、1980年代、ソウルに住みはじめてすぐに韓国人の電話好きに気付かされた。確かに、なんでも電話でやる。それに店とか食堂などでも「チョナ チョム スプシダァ!」というのがよく聞かれた。普通に電話は「みんなのもの」として使われていた。

 先日公開された映画「タクシー運転手」。1980年5月の光州事件を描いたものだが、その中の一場面。電話が遮断された光州から抜け出した運転手マンソプがソウルの娘に電話をする場面がこれである。

 

 そういえば、1960年代、日本の一般家庭に電話が普及し始めたころ、電話は日本でも「みんなのもの」だった。「お隣の××さん、お願いします」と電話がかかってきたし、電話は「あるところでかけさせてもらう」ものだった。しかし、日本の電話はいつしか「みんなで使うもの」ではなくなった。

 

 1969年10月に公衆電話が3分制になり、1972年に家庭の電話も3分ごとに10円という料金体系になった。日本の電話文化が変わったのは、この頃ではなかろうか。電話は「私たちのもの」「ご近所みんなのもの」ではなくなった。「うちの電話」がなけりゃ公衆電話を使う。だから日本では公衆電話がせっせと設置された。

 

 

 

 1987年に、5年以上住んでた韓国から日本に帰ってきて、300bpsのモデムで電話回線につないでパソコン通信をやり始めた。300bpsのモデムだと、大体ディスプレーに表示される文字を目で追っていける程度の速度。今では考えられないくらいの遅さ。それもあって、えらく高い電話料金を請求されたと感じた。韓国では家庭や職場の電話は、市内通話が一律料金だったからだ。

 

 ただ、韓国の公衆電話については日本と時期を同じくして1970年に3分制になっていた。

 そして1981年には、公衆電話は10ウォンから20ウォンに値上げされた。一気に2倍である。まぁ10ウォンコインを一つから二つにするという値上げなので、2倍も仕方がないといえばそうなのだろうが。とはいっても、当時の韓国の公衆電話は台数も少なく、電話機もちゃちだった。

 

1000人あたりの公衆電話台数

   日本  韓国
1980  7.5  1.5
1985  7.5  2.9
1990  6.7  5.5

(韓国の社会指標2000などによる)

 その後、1983年には、100ウォンコインも使える新型の公衆電話が出て、市内・市外通話に対応するようになった。

 

 ところが、この電話機はお釣りが出ない。100ウォン入れて20ウォン分市内電話かけて受話器をフックに戻すと100ウォンコインをそのまま電話機が飲み込んでしまう。つまり80ウォンが無駄になる。しかし、この公衆電話機には「재발신(再発信)」というボタンがあって、受話器をフックに戻さずに「再発信」のボタンを押すと、残った80ウォン分の通話ができる。

 それがだんだんと広まった結果、まだ通話できる場合は受話器をフックに戻さず電話機の上にのせて置くという習慣が広まった。上に置かれた受話器を取って「再発信」を押せば次の人がタダで電話がかけられる。これも、「チョナ チョム スプシダァ!」精神の発露。まさに「民衆の知恵」である。

 1986年にはカード式の公衆電話が導入された。しかし、カード式は故障が多いうえ設置してある場所が限定されていてカードを使おうにも使えない。逆に、空港にはカード式公衆電話しかないのでカードがないと電話がかけられない。まだ、コンビニなどない時代なので、テレホンカードを入手するのにえらく苦労した。日本のテレカが黒い磁気部分を下にして入れるのに、韓国のはこれが上面にくる。そのため、よく日本人が間違えて入れて、カードが吐き出せなくなって電話をぶっ壊していた(^^)。

 

 一方、市内電話は同一料金だった家庭電話は、1988年12月に時分制になって3分で25ウォンになった。とはいっても、日本と比べると格段に安かった。タクシー、バス、地下鉄などの公共交通機関の安さはよく言われていたが、日本に帰ってから改めて実感したのはこの電話通信料金の安さだった。

 

 

 日本でポケベルは1995年がピークだったが、『韓国の社会指標』によると、

と、韓国では日本よりやや遅れて1997年がピッピ(삐삐)のピークになっている。日本では。この時期にポケベルからピッチ(PHS)への移行があったからである。

 

 韓国の移動電話の始まりは、1983年に売り出された自動車電話である。無線呼出受信機(ポケベル:ピッピ삐삐)も同時期に使えるようになったが、どちらも料金の高さから契約者数は伸びなかった。自動車電話は特権階級のものということで、それらしいアンテナを車につけておくと交通違反で捕まらない、見逃してもらえるという噂で、私が日本に一時帰国するときに「ダミーのアンテナを買ってきてくれ」という依頼を受けたことがある。実際にアンテナ効果が確認できたわけではない。しかし、1974年の文世光事件のときに、文世光が最上級のホテルタクシーで国立劇場に乗り付けたら会場に入れたという話を聞いたとき、ダミーでもアンテナさえ立っていたら…という話が理解できるような気がした。

 ポケベルは、ムソンホチュルギ(無線呼出機)」というのだが、ピッピ(삐삐)という呼び方が早くから定着していた。自動車電話よりは速いペースで普及したが、一般の人が使うようになるのは1990年代に入ってからのこと。1980年代後半には、韓国在住の豊かな日本人社会でも、企業の駐在員やプレス関係者、大使館でも総括公使などが持っているという程度であった。

 

 ピッピから携帯電話へと流れが一気に傾くのが1998年である。ピッピの契約数が下降に転じて、携帯電話の契約数が急激に伸びていく。

 ただ、1998年12月に封切られた映画「美術館横の動物園(미술관 옆 동물원)」では、ピッピも携帯電話も出てこなくて、固定電話と留守録が主役になっている。

 

 2001年9月11日。その翌日に日本に帰国するというので、私は夕方からの宴会で飲みすぎて泥酔して11時すぎには宿舎の部屋で眠っていた。ところが夜中に同行していた学生たちに叩き起こされた。テレビをつけるとKBSやMBCがニューヨークから世界貿易センタービルの惨状を生中継していた。翌9月12日早朝、金浦空港に行ってアシアナ航空の便が飛ぶことを確認したものの、日本に連絡が取れないまま帰国することになった。このことがあってから、それ以降の海外渡航では多少高くても携帯電話のレンタルをすることにした。

 2000年代に入ってから、韓国社会は急速に携帯電話がないと暮らせない社会に移行していった。2001年3月に封切られた映画「ラスト・プレゼント(선물)」。ここでは、いかにも詐欺師の使いそうな小道具として携帯電話が出てくる。この着信音は懐かしい。

 とはいえ、まだ中高生はピッピと公衆電話を使っていた。2002年に封切られた映画「オアシス」ではこんな場面がある。

 

 2003年1月封切りの映画「マドレーヌ」では、ヘンドゥポンを使いこなせていない大学生が登場する。

 

 これ以降、急速に携帯電話が普及していった。さらに、通話という機能だけではなく、ネットの申請とか色々な手続きで携帯電話の番号が求められるようになった。ネットで何かしようとすると住民登録番号を求められる。それが次第に携帯電話番号に変わってきた。国外に住む外国人はどちらも手が出せない。また、当時高額紙幣がない韓国では「자기앞수표」という10万とか50万とかの小切手が使われていた。

 ちなみに、50000ウォン札が出たのは2009年。それまでは紙幣は10000ウォン札が最高額紙幣だった。旅行者として韓国に滞在する場合も、色々な事情でこの小切手で決済することになる。で、これを使おうとすると携帯電話番号を裏書きするように求められる。ところが、こっちは旅行者だから携帯電話はない。あってもレンタルだし…。そんな経験をしながら、「ああ、韓国社会は携帯電話が単なる通信機器ではないのだ!」と思った。

 そして、2007年にiPhoneが発売され、2010年にはサムソンのGALAXY Sが発売されて、スマホ時代に突入していくのである。

 

 日本の首都圏では、「携帯電話の通話はお控えいただき…」というアナウンスが流れるようになって久しい。その一方で、仁川空港や金浦空港に着いて市内に向かう電車に乗ると、「おー、なんでぇ、、、あらっそぉ、、、くんでぇ、、、」と普通に電話をしている。

 このギャップ、面白いなぁと思う。そんなことも考えながら、古い韓国の携帯電話機が出てきたのをきっかけに、日本と韓国の電話のことを書き残しておこうと思った次第。

 

 1392年に開城ケソンで王に即位した朝鮮王朝の開祖李成桂イソンゲ(廟号:太祖)は、無学ムハク大師の風水観相に基づいて漢陽ハニャンで都城の建設を進め、2年後に現在のソウルに遷都した。正宮の景福宮キョンボックンを中心として城門と総延長18.3kmの城壁が築かれた。都城の周囲は、北に北漢山プッカンサン北岳山プガクサン、東には駱山ナクサン、西に仁旺山イナンサンが位置し、南には南山ナムサン、そして漢江ハンガンが流れている。景福宮の位置が地脈の「気」が集まる「穴」にあたり、北岳山が主山、北漢山が祖宗山、東方の駱山が青龍で西方の仁旺山が白虎、そして南山が案山となり、明堂内に清渓川チョンゲチョンが東流し、南山の南側を漢江が西流する。

 というわけで、ソウルの旧市街の周囲はあまり高くはないものの山がちである。特に旧市街から南に行くためには南山を迂回せざるをえず、迂回して南に下るとその先には漢江という大きな川が立ちはだかる。

 現在、南山にはトンネルが3本、漢江には鉄道橋を含め28本の橋がかけられている。1900年に鉄道用の漢江鉄橋が架けられ、1917年に漢江大橋(人道橋)、1937年に広津橋が架けられた。解放後、60年代に2つ(揚花ヤンファ大橋・漢南ハンナム大橋)、70年代には8つの橋が架けられた。

 トンネルは、いずれも1970年代に開通した。

 このように、「風水都市」ソウルにとって山と川は都市計画の中で「克服すべき障害物」とされてきた。

 

 実は、日本の植民地支配下でも、南山のトンネル計画が立てられたことがあった。

 1939年3月に、昭和14年度の京城府の予算案を京城府会で採択された。この時の京城府の予算案には、南山のトンネル計画と南大門の移転計画の予算が計上されており、これに対して府会議員姜昌煕が「言語道断の妄想」との批判演説をしたと『東亜日報』で報じられている。姜昌煕は、朝鮮運輸株式会社や朝鮮運送株式会社の取締役で、朝鮮總督府鐵道局の運輸委員もつとめていた運輸関係の有力人士らしいが、なぜ反対したのか詳細は不明である。3月31日付の朝鮮語の『東亜日報』には姜昌煕の発言内容が報じられているのだが、同じ予算の採決について報じた日本語の『京城日報』には、姜昌煕が南山トンネル計画と南大門の移転計画について言及したことは全く触れられていない。


 この年の6月初め、「大京城計画案」が完成して、新たに召集された京城府会に上程されている。ここでも、『京城日報』は「住居」「産業」「工業」「未指定」の地域指定を簡略に伝えただけなのに対して、『東亜日報』街路の変更まで含めた内容を詳細に報じている。

 

 これが『東亜日報」に報じられたこの当時のトンネル計画案である。岡崎町から野砲隊、三坂町から旭町に抜けるトンネルの道路を新設するというものである。1936年に製作された鳥瞰図「大京城府大観」でルートを想定すると下図のようになる。

 1939年段階でこの南山トンネルを含む新しい道路の計画が確定したのだが、1945年8月の敗戦まで実際に着工にまで至ることはなかった。

 

 その後、アメリカ軍の軍政時代、1948年8月15日の大韓民国の樹立、そして1950年6月25日に朝鮮戦争勃発、ソウル市内でも市街戦が繰り広げられ1953年に休戦を迎えた。そこから戦後復興と新たな都市開発が始まった。1958年、『東亜日報トンアイルボ』に「ソウル都市計画大幅変更」という記事が報じられている。

 

この図の⑤がトンネル案に関するものであろう。

 記事では、会賢洞フェヒョンドン2街から南山下のトンネルを経て龍山ヨンサン中学から青坡洞チョンパドンに至る計画道路のトンネル部分は計画中止となっている。会賢洞2街は旧旭町2丁目、青坡洞は旧岡崎町の鉄道線路を越えた向かい側である。ということは、植民地時代の1939年に立案された「大京城計画案」の南山トンネル計画は、植民地解放を挟んでこの時までほぼ20年間生きていたのである。確かに、1953年の「ソウル都市計画街路網図」には、この南山トンネルと思われるルートが描かれている。

南山部分を拡大すると↓↓↓

 北側の入り口から西に曲がりながら旧朝鮮神宮の下をトンネルが貫通していて、会賢洞の新世界シンセゲデパート(旧三越)の裏手から厚岩洞フアムドンの龍山中学を経て漢江路のところまでのルートが表示されている。これが1939年に示された岡崎町ー野砲隊ー三坂町ー旭町という計画道路であろう。

 他方、1953年のこの地図には、東側にもう1本のトンネルが描かれている。筆洞ピルドンから漢南洞ハンナムドンに至るルート上のトンネルである。 これは、その後建設される南山1号トンネルとほぼ一致する。南山1号トンネルの原型がここに掲載されているのである。

 さらに、1968年の「新ソウル道路地番改良地区略図」になると、このトンネルが具体的な道路計画としてはっきり描かれている。

 この地図が作成されたのは、ちょうど金玄玉キムヒョノクが1966年にソウル市長に任命され、汝矣島ヨイドの開発、清渓川の高架道路建設、それに世運商街楽園商街の建設など、強引な手法で都市開発を進めていた時期である。この地図に記載されている道路網・都市開発案は、金玄玉が推進したプランに基づくものなのであろう。そのうちの一つが、三一路サミルロからつながって、芸場洞イェジャンドンから南山を貫通して漢南洞に出て、そこから新設予定の第三ジェサム漢江橋ハンガンギョを越えて南下するルートである。その先は、良才洞ヤンジェドン京釜キョンブ高速道路につながり、旧市街からつながる新たな幹線ルートとして想定されていたと考えられる。

 こうした中で、1968年1月21日、北朝鮮の武装ゲリラが侵入して、青瓦台チョンアデ北側の北岳山プガクサン山麓で銃撃戦が展開される事件(1・21事件)が起きた。この事件は韓国社会全体に大きなショックを与えた。映画「シルミド」のモデルになった北朝鮮攻撃秘密部隊が創設されたり、青瓦台が一般市民の近寄れない特別の場所になったのもこの事件が契機となっている。

 北朝鮮との緊張状態の中で、首都ソウルの防衛体制が為政者にも市民にも大きな関心事として浮上した。朴正煕パクチョンヒ政権と金玄玉市長は、非常事態の際、旧市街からの避難経路として南山トンネルの早期完成を目指すとし、さらにトンネルを活用する待避壕の建設を打ち出した。1950年の朝鮮戦争で、北朝鮮軍の南下に抗しきれず、開戦3日で韓国軍がソウルを放棄し、その際に漢江大橋と漢江鉄橋を爆破したため多くの市民が漢江の北側に取り残された。その記憶から、有事の際の漢江南側への避難ルート確保は一般市民の大きな関心事であった。また、為政者にとっては市民の歓心を買う施策として非常に有効であった。

 こうして芸場洞から漢南洞に至る1号トンネルが1969年3月13日に着工し、1970年8月15日には対面通行上下2車線のトンネルが開通した。この1号トンネル建設開始の1ヶ月後には、龍山ヨンサンの米軍基地に隣接する龍岩洞ヨンアムドン軍人アパート(旧日本軍射撃場跡)前から奨忠壇チャンチュンダン方面に通じる新たなトンネル、2号トンネルの建設工事も始まった。2号トンネルは1970年12月4日に開通した。

 当初の計画では、この2号トンネルは南山の地下で1号トンネルと交差し、その交差点を地下待避壕ともなる広場ロータリーにするということになっていた。

 

  クリックすると動画が見られます

 

 しかし、実際には2つのトンネルを地中で交差させて地下待避壕を造成する計画には無理があるとして断念し、2本の別々のトンネルとして完成させた。

 1号トンネル完工とソウル駅高架道路(動画)

 

 しかし、この2本のトンネルは、北朝鮮の軍事脅威への対応という名目で、非常に無理をして工期短縮を強いた突貫工事であったため、1号トンネルも2号トンネルも完成当初から様々な欠陥が指摘されていた。いく度も改修工事を繰り返したが、問題の抜本的な解決には至らなかった。特に、1号トンネルは通行量がもっとも多かったにも関わらず、片側1車線で常に渋滞が起きていた。そのため1983年からは朝の通勤時間帯には市内方向へのみ、退勤時間帯には漢南洞方面へのみとするなど通行方式を工夫したり通行量の抑制にも努めてきた

 2号トンネルは、急遽造成が決まったこともあり、設計や位置選定に問題が多いまま完成した。1号トンネル以上に補修工事が繰り返されたが、危険度が高いとして米軍関係の車両は通行を禁止する内部指示が出されていた。また取り付け道路が整備されていなかったために通行に不便があると同時に、梨泰院イテウォン側と奨忠壇側とを結ぶ路線の需要がさほど多くなかったため、車両通行量も極端に少ないままであった。

 

 

 3号トンネルは1976年に着工され、3月までに取り付け道路用地となる新世界デーパート裏の会賢洞側268戸と南側の龍山洞側の104戸の住宅が撤去された。取り付け道路は35m幅で6車線、会賢洞側の距離は520mとなっていた。このルートは上述の「大京城計画案」の旭町ー岡崎町線のトンネル計画とほぼ重なるように思える。この計画線を西に曲げずにまっすぐ南に突き抜けるとこれが3号トンネルルートとなる。さらに、1号トンネルや2号トンネルと違って、交通路として本格的に設計された上下線がそれぞれ独立したトンネル設計になっていた。さらに、その先の漢江には、75年9月に着工した潜水橋チャムスギョ盤浦バンポ大橋)が完成間近で江南に直結する。潜水橋を渡った盤浦洞には高速バスターミナルが既に建設中で、1976年9月からは部分的にバスターミナルとしての運用が始まっていた。

 

 

大韓ニュース 南山3号トンネル着工

 このトンネルの起工式は、南山ケーブルカーの駅で行われているが、現在も運行中のこのケーブルカーは1962年5月に開業している。動画中の発破場面で右上に見えているのが、当時建設中だった国立中央図書館である。長谷川町にあった朝鮮総督府図書館を引き継いで解放後は国立中央図書館として運用されてきたが、1976年にロッテに売却して南山に新たに図書館建物の建設に取りかかっていた。動画の後半部分には、潜水橋(盤浦大橋)の工事現場が映し出されている。

 さらに、下の動画は、大韓ニュースの未公開動画だが、これには旧旭町2丁目の日本家屋と思われるものが写っている。北側に見える最上階に特徴のあるビルが1973年に完成した大韓テハン貿易ムヨック会館(1988年に江南三成洞サムソンドンに移転)で、その陰に見えるのが1971年に火災で多くの犠牲者を出した旧大然閣テヨンガクホテルのビル(現在の高麗大然閣タワー)である。後半は、反対側龍山洞側から南山タワーを見上げる構図で取られている。トンネル上部は現在の解放村ヘバンチョンの東側あたりであろう(龍岩初等学校あたりか)。

 ちなみに、南山タワーは1969年に着工して1975年7月30日に完成していた。ただ、この当時は一般開放されておらず、一般公開が始まるのは1980年10月になってからのことであった。



1978年5月1日に3号トンネルは開通した。開通式では、1974年に銃撃されて死去した陸英修夫人に代わって長女朴槿恵パククネが朴正煕大統領とともにテープカットをしている。

 南山3号トンネル開通式

 

 こうして南山に3本のトンネルが貫通した。

 

 1号トンネルと2号トンネルは、それぞれ問題を抱えたまま利用が続けられてきたが、1990年代に入って抜本的な対策が講じられた。1号トンネルは、交通量が激増して渋滞や排気ガス問題も深刻になったため、1989年5月から既存のトンネルの横に新たなトンネル建設に着手し、1993年12月にこれがが開通した。その上で旧トンネルを通行止にして1年半かけて再整備を行ない、1995年6月から新旧二つのトンネルで運用されるようになった。2号トンネルは1997年に2年間トンネルの通行を禁止した再整備事業を行なった。

 

余談:

 1980年代、トンネルを通る車の運転手はこのバケツのような機械に100ウォン硬貨を投げ込んでいた。バスでもタクシーでも用達車でも自家用車でも、トンネルを通る場合は必ず投げる。バスやタクシーの運転手の中には達人がいて、スピードを落とさないまま100ウォンを投げ込む。憂さ晴らしに投げているんじゃないかと思うほど乱暴に投げるドライバーも多かった。逆に、完全に停止して狙い定めて投げても入らないというドライバーもいたりした。入ると青ランプが点くし、入らないと赤ランプが点く。しかし、別にストップバーが下りるわけではないので、ラッシュ時以外はスムーズに流れていた。