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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 日本の植民地統治下の京城では、日本資本の三越百貨店京城支店、三中井みなかい百貨店本店、丁子屋ちょうじや百貨店、平田百貨店、それに朝鮮資本の和信百貨店が5大百貨店とされていた。

 

 その百貨店の食堂のことを書こうと思う。

 まずは、京城の百貨店の概観と、植民地支配が終わったその後のことから。

 

◆三越百貨店

 三越は、1906年10月に本町一丁目(現在の忠武路チュンムロ1街23 サボイホテルの敷地)に木造2階建ての三越呉服店韓国京城出張員詰所を開設した。1904年に「デパートメントストア宣言」をした三越呉服店を誘致することで、朝鮮での日本イメージ向上を目論んだ伊藤博文の勧めに、専務取締役の日比翁助が応じて実現したという。1916年および25年に店舗を増築し、さらには、1929年に本町一丁目52番地の京城府庁舎跡地を購入して新店舗の建設を始めた。翌30年10月25日に三越百貨店京城店がオープンした。これが現在の新世界シンセゲ百貨店旧館である。

 1930年10月24日『京城日報』

 植民地支配が終わると、東和トンファ百貨店となり、1961年に東方生命トンバンセンミョンに経営権が移った。翌年東方生命が三星サムソングループの傘下に入ると同時に東和百貨店は新世界シシンセゲ百貨店と名前を変え、今日に至っている。

 

三中井みなかい百貨店
 三中井の創業者中江勝治郎は、1905年に韓国に渡り、大邱に三中井呉服店を開業した。その後1911年に京城に進出してこの京城店を本店とした。中江勝治郎は1924年のアメリカ視察を通して呉服店から百貨店への転換を決断し、1933年と1937年に増改築を行って6階建てのルネッサンス様式の百貨店店舗を完成させた。現在の地下鉄4号線明洞駅5・6番出口を上がったところミリオレビルの場所がその敷地の一部である。

 解放後の1946年秋、この三中井の建物に海岸警備隊本部が置かれ、その後韓国海軍本部に引き継がれて1958年まで使用された。さらに、1960年の4・19学生革命後、参議院国会議事堂として使われた。翌年5・16クーデターが起きると、ここに国家再建最高会議が置かれ、最高会議が世宗路に移ったあとは、援護庁庁舎として使用された。その後、1970年の退渓路拡幅工事に伴って旧三中井百貨店の建物は撤去され、敷地の半分は道路用地とされ、残りの部分は駐車場として利用されていた。1997年、駐車場部分に明洞ミリオレビルが建てられることになり、2000年5月に竣工した。 

 軍事援護庁時代の建物

 

『大京城寫眞帖』中央情報鮮溝支社(京城)1937年

三中井は1933年の新築部分のみが写っている。

 

◆丁子屋百貨店

 丁子屋の小林源六は、三重の津で洋装製造販売をしていたが、日露戦争開戦で軍服の製造・販売をあて込んで1904年4月に釜山に支店を出した。9月に京城に店を出して業績を伸ばした。1921年に株式会社化するとともに本店を京城に移した。1934・5年に南大門路の店舗を増築をし、1939年には12,540㎡という朝鮮最大の売り場面積の店舗ビル(現在のロッテ百貨店ヤングプラザ)を完成させた。

 

1939年9月22日『京城日報』

 解放後、丁子屋はそのままの「丁子屋チョンジャオッ」の商号が引き継がれ、朝鮮戦争以後は、米軍のPXとして使用されていたが、1955年に名称を美都波ミドパに変更、貿易協会ムヨッヒョペに経営権が移された。さらに1969年に大韓農産テハンノンサングループ(大農)が美都波百貨店として経営を引き継ぐことになった。

 2002年、ロッテが美都波の経営に参画し、2003年からはロッテ美都波と名前を変えて営業されたが、2013年にロッテショッピングに吸収されて美都波は消滅し、建物は改装されてロッテショッピングヤング館になった。

 

◆平田百貨店

 平田百貨店の創業者平田智恵人は1908年に京城に渡って、本町一丁目に和洋雑貨と家具の店を出した。1915年と1922年に店舗を拡張し、1926年には本町通りに面した木造2階建ての店舗に改装した。売り場面積は他の百貨店に比べると1/3〜1/4程度と規模は小さかったが、本町の入り口に位置して入りやすさが売り物で、日用雑貨や食料品の大量仕入れで安値を売り物にする今日のスーパーに近い商店として繁盛した。

 

『大京城寫眞帖』中央情報鮮溝支社(京城)1937年

 丁子屋は、旧店舗ビルが掲載されている

 

 解放の翌年2月、平田百貨店は萬物廛マンムルジョンという名前で営業を再開した。ところが1947年3月、火災が起きて旧平田百貨店の建物は全焼した。その後朝鮮戦争後の混乱の中で、この跡地で高美波コミパというキャバレーが営業するようになった。ところが、この建物も1959年1月に火事で消失した。1960年には舞鶴聲ムハクソンキャバレーができたが、1967年に極東建設がこの敷地を買い取って大然閣ビル建設に着手、1969年4月30日に大然閣ホテルがオープンした。

 1971年12月25日、大然閣ホテルの1階コーヒーショップから出火、22階建てのビルが炎上して犠牲者157名、そのうち39名が墜落死という大惨事となった。

 

 現在は、高麗コリョ大然閣テヨンガクタワーというオフィスビルになっている。

 

◆和信百貨店

 和信の創業者は朴興植パクフンシクである。日本資本の百貨店が日本人(内地人)の街である本町とその周辺にあったのに対し、和信は朝鮮人の街、鍾路の二丁目、現在の鍾閣の北向かいにあった。和信百貨店は1935年1月に火災で全焼したが、9月には東館での営業を再開、1937年11月に朴吉龍パクギルヨンの設計による地上6階地下1階の新館をオープンさせた。

 和信百貨店については、こちらの記事(和信百貨店と京城の街並み)を参照いただきたい。

 

 さていよいよ本題の百貨店の食堂である。

 平野隆は、「戦前期における日本百貨店の植民地進出」(『法學研究』2004)で次のように書いている。

平田以外の四店には、いずれも大食堂があった。食堂を備えることによって、百貨店は家族連れがそこで一日を過ごせる行楽の場となった。日本系の三店は、ここでも日本式の食堂メニューをそのまま導入していた。三越の大食堂(座席数300席)は東京更科本店からわざわざ呼んだ職人による「三越そば」を、三中井(同100席)は「ちゃんぽん」と「浅草來々軒式の焼売」、丁子屋(同400席)は「支邦ランチ、お寿司、洋食ランチ」をそれぞれ売り物にしていた。食堂を訪れる客数は、三越では日曜で2800人、丁子屋も2000人近くに上ったという。これに対して、和信の大食堂(同100席)では、軽洋食もあったが朝鮮食をおもに提供していた。

一方、林廣茂の「京城の五大百貨店の隆盛と、それを支えた大衆消費社会の検証(『日韓歴史共同研究報告書. 第3分科篇 上巻』2005)には次のような図が挿入されている。

林廣茂「京城の五大百貨店の隆盛と、それを支えた大衆消費社会の検証 -主として昭和初期から同15年前後まで-」(『日韓歴史共同研究報告書. 第3分科篇 上巻』2005)より

 

 ところで、雑誌『朝鮮及満洲』の1934年4月号に、「三越・丁子屋・三中井 食堂合戦記」という記事がある。

苺ミルクが茶館の飾窓に—チューリップが花売娘の籠に—春はもう温室から街頭に泳ぎ出た。御婦人の裾にも白絹の肩にも陽炎が絡んで、御覧んなさい紅色の光線が抱擁つてフォックス・トロットにパソドブレを踊つてゐます。
 (中略)
 そこでは食欲が恐ろしい勢ひで昂進する。正午のサイレンが吠へれば官庁会社のサラリーメンがダッシュ!ダッシュ!

という書き出しで始まるこの記事には、具体的な百貨店食堂の実態が記されている。

 

 それにしても、この「本誌記者」氏は、出だし部分からやたらカタカナを多用している…。

 

まず、食堂の位置と席数、客数は、

・三越

 4階東側で、テーブル28 椅子130 補助椅子20

 平日 900〜1000人 2500〜2600食
 日祭日 1700〜2000人 3500〜3600食

・三中井(新館が完成した直後)
 6階東側 3方が窓で京城の東側が展望できる
 テーブル30 椅子180 補助椅子20以上 

 平日 900〜1000人
 日祭日は 平日の倍

・丁子屋(まだ新館になる前)
 テーブル30  椅子185
 平日 800〜1300人
 日祭日 2000人


 どこもそんなに大きくは違わない。この記事の時点では三中井が新館が出来たばかりであった。平野隆の論文の記載とは座席数の数値が合わないが、時期的なズレがあるのかもしれない。

 従業員数やその待遇は、

・三越

 ホールの従業員は15歳から18歳の女性

 内地人15名 朝鮮人5名 日給60銭〜80銭
 調理場 35名

・三中井
 ホールの従業員は18歳までの女性40名 うち30名が9時から18時と18時から21時半のシフト制。
 内地人38名 朝鮮人2名 女学校卒が2人 日給80銭から1円20から30銭
 調理場 35名

・丁子屋
 ホールの従業員は18歳まで
 内地人9名 朝鮮人6名 女学校・女高普中退 日給50銭から85銭

 調理人20名

 

3店どこもがサーブする女性従業員は18歳までで、年齢を越えると別の売り場に配置転換になる。三中井の食堂では、夜9時半までのシフト勤務があったということは、8時半か9時までは食堂が営業していたということなのだろう。エレベーターで6階まで上がっていたのか。。。

 では、料理はどうだったのか。

・三越

 洋食および飲料は直営で調理
 和食・麺類 南山町の喜久屋
 中華・天ぷら・うなぎ 旭町の川長
 寿司 明治町の寿司久
 和食・麺25% 寿司10% 中華・天ぷら20% 洋食・飲料30%
 食品サンプル 40種 メニューは1ヶ月に1回入れ替え

・三中井
 和食・洋食・寿司・丼物 花月支店
 中華・麺類 旭町更科
 三越よりも中華と寿司が多く出ていた
 食品サンプル 50種 メニューは2ヶ月に1回入れ替え

・丁子屋
 料理は個人の請負で、ほぼ直営に近い形
 和食40% 中華20% 洋食20% 麺類その他20%
 果物にこだわってメニュー化していた

 

 平野隆の書いている「三越そば」、三中井の「ちゃんぽん」「浅草來々軒式の焼売」、丁子屋の「支邦ランチ、お寿司、洋食ランチ」には、この記事では触れられていないが、丁子屋を除いて京城で有名だった店の請負で料理を提供して、それぞれの店には特徴があったようである。
 と同時に気づくのは、3店とも「朝鮮料理」というジャンルがないことである。朝鮮料理は全くメニュー化されていなかったと思われる。

 思い返せば、1980年代の日本ですら、焼肉屋はあっても、韓国料理とか朝鮮料理という看板をかけている店はなかった。1930年代の京城では、朝鮮料理は「自分たちのテリトリー」で出てくるものではなく、「食道園」「東明館」「明月館」あるいは「和信百貨店の食堂」などで出されるものであったのであろうか。

 それぞれの客層はというと、

・三越
 1933年に三中井が新築されて、右肩上がりだった客足が伸びなくなったものの、一番の知名度と一定の固定客で安定した客を確保。客層は、官庁や企業の勤め人からお上りさんまで多様であり、花街に近いこともあり食通を気取った芸者・ホステスの客も多かった。

・三中井

京城市内が展望できることもあり、営業時間が長かったせいか令嬢や家族連れに加えて、芸者やカップルの利用が多かった。ボックス席があるということもあったのであろう。ただ、エレベーターでの客の輸送がスムーズにできず、地下の食堂に客が流れていたという。

・丁子屋

 官庁・企業の勤め人が客の中心であったが、この3店の中では比較的朝鮮人の利用が多く、15人のフロア従業員のうちの6名が朝鮮人であった。三越や三中井よりも、朝鮮人居住区に多少近い南大門路にあったロケーションも関係しているのかもしれない。

 

 朝鮮人の客が比較的多いという丁子屋の食堂は朝鮮人従業員比率が高い。1934年であれば、朝鮮人の大半は朝鮮語で日常生活を送っていた。食堂でも朝鮮語で注文のやりとりなどしていたのだろうか。

 和信百貨店のブログでも触れたが、1936年制作の映画「迷夢(미몽)」のデパートシーンでは洋服を買うのに朝鮮語でやりとりしている。これは、朝鮮資本の和信だけでのことなのか、あるいは内地系の百貨店でも朝鮮語での客対応をしていたのだろうか。このあたりはなかなか確認できない。

 この映画の6分25秒あたりからビールを飲む場面があって、これは和信の食堂かとも思ったのだが、蝶ネクタイの男性従業員がキリンビールを持ってきている。18歳以下の女性従業員がサーブする上述の三つの内地系の百貨店の食堂とはかなり違う感じもする。これが和信の食堂だったら貴重な映像なのだが、確定できない。

 

 そして、この「三越・丁子屋・三中井 食堂合戦記」はこう締めくくられている。

ランチタイムの描きだすデパートの食堂色模様は仲々粋なものもある。折角の食欲本能の時間を、然も尚彼女アミーをステイクしてゐる者など豪華版だ。

デパートの食堂はかくして競争時代へ、大衆は一途に利用奉仕を—その相互関係は兎角均衡を破つてともすればデパートも亦ストルーム・ウンド・ドランクの悲喜双曲線を描いていくのである。市中の食堂業者は近代高層建築の影に圧されて、しばらくは配所の月を眺める(?)であらう。

 うーん、、、、Amyなのかな? Sturm und Drangか? うーん、わからん。意味不明。百貨店の食堂のことはある程度わかったのだが、この「本誌記者」氏はどんな人だったんだろう。その点も気がかりであるのだが。

 朝鮮に設置された朝鮮俘虜収容所。京城の収容所は青葉町3丁目の旧岩村製糸倉庫跡に置かれた(ブログ参照)。仁川にも朝鮮俘虜収容所の第一分所があり、仁川俘虜収容所とも呼ばれた。さらに1943年に咸鏡南道興南の日本窒素工場内に第一派遣所が置かれ、のちに第二分所と改称された。仁川収容所が設置された場所について、軍の書類には「廠舎」とある。廠舎とは、演習などで宿泊に供する簡易用の兵舎である。
 戦時中日本に駐在していた赤十字国際委員会代表パラヴイチニが、1942年12月に京城と仁川の捕虜収容所を視察し、その報告書をジュネーブに送っている。仁川収容所については「仁川港ヘノ道路ニ添ヒ海岸ヨリ五米ノ健康地 …(中略)… 一九四一年建設陸軍標準型廠舎五棟」とある。すなわち、日本軍が前年建てた廠舎を捕虜収容所に流用したものと考えられる。
赤十字國際委員會代表パラヴイチニ朝鮮俘虜収容所(京城及仁川)及抑留者収容所視察報告
 連合軍が1944年に撮影したとされる航空写真(出所不明)に、「JINSEN (INCH'ON) POW CAMPの場所がマークされているものがある。


しかし、韓国のサイトでは、これを誤りとしている。
 オーストラリア軍一等兵で仁川収容所にいたDouglas Rickettsが収容所の見取り図を描いている(Macquarie University - POWs in Japan and Korea)。

 この見取り図と上記の航空写真を見比べると、すぐ下の東西に伸びる道路(京仁産業道路)の南側に細長い建物があり(米穀倉庫)、その東側、1936年の『大京城大観』「仁川府」には何も描かれてないところ、この部分が見取り図に近い配置の建造物が見える(赤丸印部分)。韓国のサイトではここだと推測している。この一帯は花町の埋立地で、1940年以降さらに沖合に埋め立てが行われている。京仁産業道路の南側(杉野精米の向かい側?)に1941年に陸軍廠舎が建設された可能性はある。現在は仁川新光初等学校の校地である。

 しかし、仁川収容所の場所については、「仁川府花町の仁川被服工業株式会社と朝鮮マッチ株式会社に設けられた」(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』1964)という記述もある。仁川被服工業は、仁川府宮町7番地で宮町公園のすぐ横である。ただ朝鮮マッチは仁川北部の松林里にあったので花町からはかなり距離がある。当初の廠舎から仁川被服工業の工場に移ったとも考えられる。

 

 この仁川収容所に勤務した一人の軍医が、戦後の極東軍事裁判で捕虜虐待で絞首刑の判決を受けている。陸軍少尉水口安俊。1949年2月11日、巣鴨プリズンで死刑が執行された。

 水口安俊の父水口為治は、秋田出身で単身上京して築地工手学校(現在の工学院大学の前身)電工科で学び、その後併合前の朝鮮に渡った(上坂冬子『巣鴨プリズン13号鉄扉』)。1906年11月に統監府電信工手、1912年には朝鮮総督府の逓信技手として平壌郵便局勤務という記録がある。
 安俊は、水口為治の三男として1915年5月12日に平壌で生まれた。姉が一人いたが、長男・次男は生後すぐに亡くなって安俊が一番上の男児となった。為治は1925年まで平壌郵便局に勤務した後、大邱郵便局に異動となり、1929年からは京城の中央電話局勤務となった。1931年5月には京城中央電話局龍山分局長に任ぜられている。
 安俊は、平壌と大邱で小学校に通い、中学は父の京城転勤もあって龍山中学に入学した。
 1932年2月に為治は分局長を依願退職、平壌郵便局管内の平安北道前川郵便所長となり、単身で赴任した。安俊と姉、妹と三人の弟は、母とともに京城の自宅に残った。安俊は、1933年に京城帝大予科に入学したが、予科1年で留年し、1937年になって京城帝大医学部に入学した。

 

 水口安俊の同期の医学部入学生は71名。その中に予科からの同期だった田中正四がいる。安俊は、巣鴨プリズンで田中正四に遺書を遺しており、処刑直前に書いた父為治に宛てたた遺書の中でも、

同窓生として旧友の田中正四君がおります。此の人にもよろしく父上から一言お願いします。

と書き記している。

 田中正四は、医学部3年在学中に、同期の玉城仁、住友平三郎、中村進、渡邊磐、李軫鍾、孔寅浩など12名とともに「特殊細民調査会」を組織し、1940年に京城の「土幕民」調査を行った。途中からさらに7名の朝鮮人学生がこの調査に加わった。その調査結果は、1942年に岩波書店から『土幕民の生活・衛生』として出版されており(国会図書館デジタルコレクション)、植民地統治の実態調査として今日の韓国でも注目されている貴重な資料である。この『土幕民の生活・衛生』のあとがきに、この土幕民調査に関わった医学生の名前が挙げられている。


 1937年には日中戦争が始まり、翌年国家総動員法が施行されて戦時色が強まっていた。同時に、朝鮮人への皇民化政策が一層推し進められた時代でもあった。1937年春に京城帝大医学部に入学した71名のうち21名は朝鮮名である。しかし、1941年に卒業した69人の中で朝鮮名は6名のみ。創氏改名で名前が変わったため、「あとがき」では、名前の後に( )で朝鮮名が付記されている。こんな時代に水口安俊は学生時代を送った。

 

 田中正四らの「土幕民」調査には水口安俊は加わっていない。新聞データベースを検索すると、田中正四が調査計画を練っていた1940年初の『東亜日報』に、「城大学生課水口安俊」が朝鮮学生フィギュアスケート大会の申し込み窓口として掲載されている。水口安俊は城大学友会の学生委員をやっていたものと推測される。それだけでなく、城大音楽部マンドリン倶楽部でも活動していた。水口安俊は、田中正四とは違ったかたちではあるが、積極的で活動的な学生生活を送っており、後述するように、社会問題についても強い関心を持っていたのである。

 城大医学部3年の水口安俊(一番右)
 妹と弟三人とともに。中央が父為治

 1939年7月24日京城の自宅にて

 

 1941年に京城帝大医学部を卒業した水口安俊は、朝鮮総督府の医官補として全羅南道癩療養所小鹿島更生園に眼科医として赴任した。


 更生園の前身である小鹿島慈恵医院は、ハンセン病患者の収容を目的として1916年に開設された。小鹿島は、全羅南道高興郡鹿洞の沖合500メートルにある島である。慈恵医院の当初の定員は100名に過ぎなかったが、1932年に総督府警務局内に「朝鮮癩予防協会」が設置されると、小鹿島に3000人収容のハンセン病療養所を置くことが決定された。小鹿島の全島を買収して健常者の住民を島外に移住させ、1934年に朝鮮総督府癩療養所小鹿島更生園が発足した。園長は周防正季であった。翌年にはこの施設内に刑務所も併設され、ハンセン病の受刑者がここに収監された。その後も施設の拡張工事が進められたが、その一方で世界大恐慌以来の景気下降によって予算が削減され、戦時体制へ移行する中で、入所者に過酷な労働が強いられるようになっていった。もともと厳しかった監視や統制が、日増しに強化されていき、警察や憲兵出身の看護長たちが厳しく患者たちを「監督」した。とくに首席看護長で、周防院長の養子だった佐藤三代治は、患者たちを酷使したことで有名だった。暴行や懲罰が日常的に行われ、療養施設であるにも関わらず医療体制は不十分であった(ハンセン病問題に関する検証会議「最終報告書」日弁連法務研究財団 2005年3月)。滝尾英二は「朝鮮総督府のハンセン病政策の本質は絶対的隔離の強化、および断種による癩患者の撲滅であった。日本統治下での強制隔離による被害は過酷を極めた。植民地においてよりストレートに遂行された」と述べている(滝尾英二『朝鮮ハンセン病史―日本植民地下の小鹿島』未来社 2001)。

 

 水口安俊は、京城帝大在学中にマンドリン倶楽部の活動で自ら指揮者となって各地の病院などを慰問しており、卒業間際に更生園を訪れたという。それが癩療養所での勤務を希望する契機になったという。帝大医学部出のエリートらしくない任官だと話題になったと、安俊の妹頼子は回想している(「兄安俊のこと」上坂冬子編『巣鴨・戦犯絞首刑』ミネルヴァ書房 1981)。

 水口安俊がどのような志を持って小鹿島癩療養所更生園の医官になったのか、また、当時どのような勤務をしていたのか、それを本人が書き残した資料は残されていない。

 当時の更生園について触れた沈田黄の回想録「小鹿島半世紀」には、

医務系の職員と事務系の職員の軋轢があり、小鹿島の一つのガンであった。周防園長の強制労働時代も医師たちは医師の立場から患者を診断して安静を要する患者や手術を要する患者を選び出して、治療をしようとしたが、反医務系の佐藤などは頑として聞き入れず,すべての患者に作業を強制した。医師系はいつも負けていた。

『セピッ(新しい光)』1971年 訳・文責 山口進一郎

とある。「反医務系の佐藤」とあるのは、上述の佐藤三代治のことである。この回想録に医務系の医師として名前が挙がっているのは石四鶴、京城医専に1936年入学し、水口安俊より1年早く任官していた朝鮮人医師である。後日、1945年8月の日本の敗戦直後、医務系と看護系の朝鮮人職員の間で園の運営を巡って主導権争いが起こり、80名を越える収容患者が殺される事件が起きた。このとき石四鶴は医務系のリーダーであった。

 1941年に赴任した水口安俊も、石四鶴などとともに「医師の立場」に立とうとしていたのであろう。とはいっても、更生園の内実は、朝鮮人ハンセン病患者を力で抑えこむ暴力が支配する施設であり、そこで抑圧する側に身を置いていたこともまた事実である。しかも、着任直後には患者顧問の朴順同が患者李吉龍に刺殺される事件が起き(1941年6月)、その1年後には園長の周防正季が李春相によって刺殺されるという事件が起きている。新卒医官水口安俊は、こうした暴力が支配する環境下で何を思い、どのように行動していたのだろうか。

 

 1943年2月3日付で水口安俊ば医官補から更生園医官に昇任した。その後、軍医予備員として志願し、教育召集を受けた。

 

 軍医予備員は、日中戦争以降の軍医不足に対応するため導入された制度であった。軍医予備員として志願すると、入隊と同時に陸軍衛生上等兵の階級が与えられる。歩兵連隊で1ヵ月教育されたのち陸軍衛生伍長に任官する。その後、3ヵ月間陸軍病院で教育を受けて陸軍衛生軍曹になる。そして再召集されると、ただちに軍医見習士官として任官することになる。軍医予備員に志願しなければ、医師といえども初年兵の新兵として扱われ、下士官の衛生兵程度にしかなれなかった。そのため、医師は軍医予備員を志願するのが通例であった。

 水口安俊は、軍医予備員から尉官級の軍医として仁川収容所に配属された。

 日本側で終戦時に作成したと思われる朝鮮俘虜収容所要員の英文の名簿が残されている(Center for Research Allied POWs under the Japanese)。京城・仁川・興南の収容所所属将兵のリストと、収容所以外の部隊から派遣された将兵のリストからなる名簿である。それによると水口安俊は、派遣将兵のリストに掲載されており、仁川捕虜収容所に陸軍少尉として1944年6月10日から1945年7月5日まで在勤、原隊はCHO7440と記録されている。CHO7440とあるのは朝鮮第7440部隊で、この部隊は航空情報隊として1943年に京城で編成され、群山で教育を受けて鎮南浦で送受信施設の建設・維持にあたった。水口安俊は軍医として7440部隊から仁川収容所に派遣されていたことになる。

 

 京城と仁川の捕虜収容所は、1942年にシンガポールで投降したイギリス軍とオーストラリア軍将兵の捕虜を収容する施設として設置されたものであった(ブログ参照)。日本軍の優位を喧伝し、かつ対外的な広報にも利用するということで、無難に運用される捕虜収容所で、捕虜死亡率では他の収容施設よりも低かったとされる。それでも死亡した捕虜は26名に上っている。


 その仁川収容所に1945年5月に新たな捕虜が門司から移送されてきた。
 前年12月、兵員・民間人とともに、バターン半島攻略戦で捕虜になったアメリカ兵1600人が、マニラからで内地に向かう鴨緑丸に乗せられた。しかし2日後にアメリカ軍の攻撃を受けて鴨緑丸は沈没。軍人や民間人が乗船して物資も搭載していたため捕虜護送船を示す表示は出されていなかった。捕虜500名近くがここで死亡した。生き残った捕虜たちも、その後の日本軍による殺害や衰弱死、移送中の空襲などで多くが命を落としていった。1945年1月に、台湾経由で門司に到着したとき、捕虜はわずか580名になっていたという。生き残った捕虜も多くが衰弱しており、その後収容された九州内の収容所で死亡するものが多数に上ったという。
 その中の140名が仁川収容所に送られてきた。そのうち、50名ほどは傷病捕虜で、重篤な症状のものも少なからずいたという。仁川収容所の軍医は、水口安俊ただ一人であった。

 

 1945年7月末の時点で、仁川収容所に収容されていたのは169名となっている。内訳はアメリカ兵138名、イギリス兵27名、オーストラリア兵4名。当初仁川収容所にいたイギリス兵やオーストラリア兵の捕虜のうち興南の工場での労働に役立つ捕虜は興南(1943年9月開設)に移しており、水口安俊が着任した1944年6月には仁川収容所の捕虜数も少なくなっていたと思われる。この時期には仁川収容所での死者は出ていない。しかし、1945年4月のアメリカ軍捕虜の到着以降、状況は激変したものと考えられる。

 5月14日、アメリカ軍King, William Millage少尉が死亡した。水口安俊軍医が作成した死亡診断書では死因は心臓麻痺となっている。

 そして7月4日、アメリカ軍Brundrett, George Cook大尉が死亡した。この時も水口安俊が死亡診断書を作成している。死因は仁川に移送される前に発病した浮腫性脚気となっている。

 

 Brundrett大尉の死亡診断書を作成した翌日7月5日、水口安俊少尉は仁川の収容所の勤務を離れた。鎮南浦の7440部隊に復帰したものと思われる。ただ、一人しかいない仁川収容所の軍医の原隊復帰、しかも捕虜が死亡した翌日に収容所を離れることについては疑問がある。所長の野口大佐、分所長の岡崎中佐、統括軍医の内田大尉などは司令部からの命令として容認せざるを得なかったのであろうか。あるいは、離任させる何らかの理由があったのであろうか。不可解である。

 

 仁川収容所の軍医として在任中の4月末、水口安俊は江原道春川で手広く事業を展開していた村上九八郎の娘雪子と結婚した。雪子は春川高女から津田塾を出た女性で、見合い結婚だった。ちょうど消耗したアメリカ軍捕虜140名が到着した中での結婚であった。結婚したとはいっても、この時は一緒には暮らしていない。城大医学部の同級生中村進の実家が仁川にあり、そこに水口安俊は下宿しており、時折雪子が中村家にやってきた。

 尉官級の軍医は、家族とともに駐屯地の官舎に暮らしていた。鎮南浦の7440部隊に戻ってから安俊とは雪子は官舎に新居を構えた。しかしその新婚生活もつかの間、日本の敗戦をむかえることになった。第7440部隊の将兵は、進駐してきたソ連軍によって三合里の軍廠舎に捕虜として収容された。しかし、具体的に語ってはいないが、水口安俊は部隊から離脱して妻雪子とともに38度線を越えて南下して内地に戻ったとものと思われる。10月以前に内地に引揚げているが、それを手記の中で「朝鮮よりの脱出行」と書いて通常の引揚げではなかったことをうかがわせる書き方をしている。

 引揚げ後、10月には妻の伝手を頼って大津市に落ち着き先を見つけ、隣町の高島郡(現高島市)の保健所に職を得た(上坂前掲書)。

 一方、日本敗戦の8月15日、朝鮮北部の前川にいた水口安俊の父為治のもとにはガンの手術をした妻が末息子と訪れていた。敗戦直前のソ連軍の侵攻にも末期癌の妻のため為治はそのまま踏みとどまったが、16歳の末息子洋三だけを南に避難させようとしたが、洋三は途中で行方不明となった。

 1945年の年末、高島郡保健所に10日ほど勤務したところで、水口安俊はGHQに呼び出され、取り調べの末12月30日に巣鴨プリズンに収監された。朝鮮捕虜収容所での捕虜への対応が戦争犯罪に当たるとされたのである。起訴状には、仁川収容所での勤務中、入手可能な薬品の入手・支給拒否、虚偽の死亡診断書への署名など14項目の罪状が挙げられていたが、その中に水口安俊が死亡診断書を作成した二人のアメリカ軍のジョージ・ブランドレッド大尉とウィリアム・キング少尉を「打擲ちょうちゃく」し「充分なる医薬品の支給や医療を差し控えて死亡に寄与し、故意かつ不法に虐待した」とされていた。

 収監からほぼ一ヶ月後の1月27日の日記には、こう書き記している。

収容所にさへ勤務してなかつたら今頃は高島郡の片田舎にすつこんで静かに憂世をよそに、保健所勤務と往診のかたはら正に晴耕雨読の三昧に浸るのだつたにと、世をはかなむことしばしばである。よりによつて、数拾数百万人に一人の割で私が戦犯容疑者にならうとは何の運命のいたずらであらうか。

 ところで、朝鮮俘虜収容所の関係者で戦犯容疑で拘束されたのは、水口安俊だけではなかった。敗戦時の収容所の佐官・尉官級の士官は仁川刑務所に収監されていた。

 1945年8月18日に汝矣島飛行場に米軍機が飛来し、捕虜収容所の場所を確認してドラム缶に入った救援物資を投下していった。9月7日には捕虜接収員が京城と仁川の収容所を訪れ、翌日には仁川港の病院船に捕虜を収容して帰還の途についた。さらに京城収容所の捕虜も仁川に移送され船で帰途についた。収容所の直属の士官らは捕虜引き渡しの事後処理をやっていた大田で拘束されて仁川刑務所に収監された。解放された捕虜からの聴取で、国際法違反の嫌疑がかけられたためである。

 1946年5月になって朝鮮俘虜収容所関係の15名は仁川刑務所から巣鴨プリズンに移送された。水口安俊の手記には、5月18日に朝鮮俘虜収容所長だった野口譲らが到着したことが記録されている。野口以外にも、京城収容所本所の軍医内田五郎(大尉)、寺田タカエ(大尉)、師富ヒロマサ(主計中尉)、仁川分所長の岡崎弘十郎(中佐)、磯部タカエ(大尉)、黒河与八(少尉)などの名前が出てくる。その中で、直属の上官だった岡崎仁川分所長に対してだけは、露骨な嫌悪感を書き記している。収容所在任中から二人の関係は悪く、「上官に恵まれなかった」と嘆いている。

 朝鮮俘虜収容所関係の裁判は、バターン死の行軍関連や、鴨緑丸事件関連の事案などとともにBC級戦犯を裁くための横浜法廷で審理が行われた。裁判がある時は、巣鴨から横浜まで護送用のバスに押し込められて移動した。横浜法廷の場所は、旧横浜地方裁判所本庁舎の中にあった陪審法廷である。旧本庁舎は取り壊されたが、法廷だけは桐蔭横浜大学に移設復元されている。

 1947年9月15日、この法廷で水口安俊に死刑判決がくだされた。朝鮮俘虜収容所長野口譲は重労働22年の刑、その他の関係者も重労働の有期刑で、死刑判決は水口安俊だけであった。

 水口安俊の減刑を求める嘆願書は26通提出された。田中正四も、10月6日付で英文の嘆願書をマッカーサー宛に送っている。

 

しかし、1948年12月29日の再審では、

被告が癩病院で不治の病の人々のためにその医師としての力を捧げることを志し、人類愛に富み、犠牲的精神の持ち主であったとことが盛んに述べられたが、このような過去の経歴は、二名の捕虜を死亡させ、多数の捕虜に苦痛を与えた責任を帳消しにするものではない。

として絞首刑が確定した(上坂前掲書)。

 

 上坂冬子の『『巣鴨プリズン13号鉄扉』では、朝鮮俘虜収容所の仁川分所に移送されてきた「鴨緑丸事件」で生き残った米軍捕虜の中から二名の死者が出たことで、水口安俊は「数拾数百万人に一人の割で私が戦犯容疑者」になるという「不運」に見舞われたと描いている。また、上坂は、『巣鴨・戦犯絞首刑』にも

私はいま、あの“時代の怒涛”にまきこまれ、三十数年前ひっそりと姿を消した一人の青年戦犯処刑者を、春の野辺ならぬ、平和のかげりの見えかくれする現代に連れ戻して、力一ぱい叫ばせたいと思った

と書いた。

 

 しかし、改めて水口安俊の資料を発掘して検証してみると、極東軍事裁判で戦勝国の報復の犠牲になった「好青年」という書きぶりでは納得できないものがあるように感じられる。

 捕虜虐待を肯定するかのような水口安俊の発言もある。九大生体解剖事件で一旦は死刑判決を受け、その後重労働25年に減刑された森良雄九大医学部講師は、一時期同じ死刑囚房にいて水口安俊と会話を交わしている。

なぜ朝鮮俘虜収容所で水口安俊一人だけが絞首刑なのかと問う森に対して、

 「私は殴りましたからね」

と答えたという(上坂前掲書)。

 上坂は、『巣鴨・戦犯絞首刑』の前書き部分で、

雅義氏(安俊の弟・通から改名した)が何気なく、

「兄の日記を見ると、捕虜を殴ったという一節がありますね」

と漏らしたとたんに主客を転倒し、徳田氏がキッとして、

「それが死刑に価する罪だというんでしょうか」

と言いかえされたのも、思えば奇異な問答である。

として、捕虜を殴ったことがあったとしても、それで死刑というのは「報復」だとしている。この一節で、水口安俊の捕虜への虐待そのものについては、それが事実か否かを含め封印をする形になっている。

 確かに、絞首刑という判決と、それが実際に執行されてしまったことへの違和感は拭えない。「過剰な量刑」という思い、それと同時に、刑死されられた水口安俊と残された人々の無念さは、水口安俊という人物を調べていく中で私も抱いている。

 しかしその一方で、医者である水口安俊が、捕虜に対して虐待行為を行なっていたことを匂わせる記述があることも気になる事実である。

過去の失敗として、一つは、京城帝大予科での留年、もう一つは「収容所に勤務してのいかげんな行状」の二つをあげている。「あまりにも敵がい心が強すぎて私の様なものは収容所が適しなかった事、それである。

学校を出て内地に就職を考へた事はなかつたろうか。又、軍医予備員の志願をする時、それを止めた人がおらなかつたらうか。

私は恐ろしい程までに二重人格だ。持つて生れた性格であれば如何ともしがたいと云へばそれまでだが、常に二重人格たるまいとして努力すべき事は肝心だ。過去に於る数多くの私の罪深きは、多く此の二重人格性より出てゐる。

キング中尉殴打の件が出てきたのにはいささか往生した。
「気狂い軍医」なんだ。あまり自分を高くみるのはやめるべし。

捕虜への投薬を拒否したことがあったことも匂わせている。

シュワルツ軍医(捕虜の軍医)は大佐だから薬物を拒絶した事はない、と私が云つても、それは通らないのだそうだ。止むを得ず拒絶した正当なる理由を云はなければならなくなり、私の対応作戦は変更せねばならなくなった。

そしてこうも書いている。

私は公判廷に私の身よりの人が来て貰ひたくない。従つて浩治には来て呉れるなと云つてやつた。恥かしい話だ。従つて友人にも私の人格証人として出て貰ひたくない。自分の行為が恥かしい。

 長い拘禁生活で自暴自棄になったり、自己嫌悪に陥っていたとしても、捕虜収容所で何らかの「恥ずべき行為」があったと彼自身が書き残しているのである。実際には何があったのであろうか。

 敗戦直後に更生園で多くの死者がでた衝突が起きたことを聞いた時、「私でさへ、あの場に居合わせたら半殺しになつてゐたかも知れない。冷や汗をかく思ひがする」と書いているのも気になる。立場が変わった時、報復されるような何かがあったのであろうか。


 多分、その答えを資料の中から見つけ出すのは困難であろう。

 植民地支配と戦争の時代を過ごして絞首刑台に上った水口安俊を通して、何を学ぶべきかを問い続けること。これが私の課題ではないかと思う。

 

 水口安俊 1949年2月11日絞首刑執行。享年33歳。

 

 冥福を祈ります。

 

※これは「その2」です。

京城の捕虜収容所 その1からお読みください。

 

 京城の青葉町3丁目100に置かれていた捕虜収容所については、そこに収容されていたオーストラリア軍兵士John D. Wilkinsonが、「Sketches of a P.O.W. in Korea」という書物を、帰国後の1945年にメルボルンで刊行している。その本は、現在NATIONAL LIBRARY OF AUSTRALIAのサイトでPDFファイルが公開されている。

 

 その中に、旧岩村製絲を改修した収容所の配置図、外観と内部のスケッチが残されている。

また、イギリス軍の北ランカシャー連隊のAlfred Kirk伍長も京城の捕虜収容所のスケッチを残している。Alf Kirk's Wartime Story

 

 これらを『大京城府大観』の地図と比較するとレンガ建ての4階建ての建物をそのまま使っていたようである。

この岩村製絲の写真は、1937年に京城の中央情報鮮満支社が刊行した『大京城寫眞帖』(韓国中央図書館所蔵)75ページに「岩村組京城出張所」として掲載されている。

これには高い煙突が写っており、『大京城府大観』のイラストと一致する。製糸工場では、繭から糸を繰り出す工程で使う大量の湯をボイラーで沸かすが、その排煙で生糸が汚れないように非常に高い煙突が設置されていた。収容所に改修する際に、その煙突と周辺の繰糸場や乾燥場を撤去してグラウンドにしたものと考えられる。

 「京城日報」掲載の収容所到着時の写真

 

また、Center for Research Allied POWS Under the Japaneseのサイトには、京城の捕虜収容所に関する使用が掲載されている。

 

 

 ところで、1942年9月26日付の連合軍捕虜の龍山到着と収容所までの移動を伝える「京城日報」の記事の中に「半島出身俘虜監視員」というのが出てくる。

 

 1942年2月28日に朝鮮軍参謀長が「半島人ノ英米崇敬観念ヲ一掃シテ必勝ノ信念ヲ確立セシムル為」として陸軍省に朝鮮に連合軍捕虜の収容所を置こうとしたのと同時期に、朝鮮人を捕虜監視員とすることが画策され始めた。当時、朝鮮人、すなわち「旧大韓帝国内に本籍がある日本人」は徴兵の対象とはなっていなかった。しかし、戦局の悪化とともに、労働力・兵力の補充が間に合わなくなりつつあった。その結果、植民地支配機構を最大限利用した「募集」「官斡旋」「徴用」というかたちで朝鮮人労働力を動員した。

 「俘虜監視員」というのは、軍属として日本軍の末端で使役される人員で、朝鮮内の収容所だけでなく、東南アジア方面に広く展開する日本軍の捕虜収容所の監視業務に当たらせることが目的であった。

 1942年5月24日付の「毎日新報」に募集要件などが掲載された。また、日本語の「京城日報」にも同内容の記事が掲載された。

 

 「俘虜監視員」の採用対象としては、20歳から35歳までの小学校(国民学校)卒業者とし、2ヶ月程度の訓練ののち軍属の身分で現地に派遣する方針が示された。朝鮮軍倉茂報道部長は、「特に折角特別志願兵を志望しながら採用されなかった者や将来の飛躍を期して欧米人を研究しようとの熱意を持つ青年はこの絶好の機を逃さぬよう希望する」と書いている。さらに、6月2日付の「朝日新聞(中鮮版)」にはより詳細な募集要件がある。

  1. 年齢20歳以上35歳までの半島青年
  2. 身体強健、とっくに伝染病疾患なく勤務に耐えうるもの
  3. 国語常用者(国民学校4年修了以上のものを主とする)
  4. 在郷軍人(昭和13年度徴集の現役兵で本年の除隊のものを除く)、本年度志願兵第1次検査の合格者でないもの

    採用は総督府の指令で各府郡庁が行う

 この6月2日付の「京城日報」の記事では、「定員の10倍の応募者」とあり、京城では非常に多くの応募者があったと報じられている。

 実は、この同じ時期に、朝鮮人にも徴兵令が適用されるという閣議決定がなされ、それが「毎日新報」や「京城日報」で報じられていた。閣議決定は5月8日、各紙は5月10日付の社説でこれに言及している。

 

 実際に、朝鮮人の最初の徴兵検査が行われるのは、1944年4月1日なのだが、軍属で2年間勤務していれば徴兵を免れることができるという目算が作用したという可能性は高い。また、積極的に応募したもの以外に、地方では応募を面長に強制されたり、仕方なく応じたりしたものなど、その動機や応募形態は様々だったことが明らかになっている。自発的な応募もあったが、この時期からすでに強要や強制で動員されることになったケースもあったのである(内海愛子『キムはなぜ裁かれたか』朝日選書 2008)。

 

 このようにして集められた3016人の俘虜監視員は、6月16日から8月17日までの2ヶ月間、「釜山西面臨時教育隊」で教育されることになった。教育隊の隊長は野口譲大佐。のちの朝鮮俘虜収容所長である。

 ここでは、俘虜監視員はひたすら日本軍の初年兵教育と同じような訓練を受けた。無条件の服従と繰り返される体罰。捕虜に関する国際条約などには触れられることもなく、ひたすら鉄拳とビンタ。上官も「捕虜の処遇」というものについて全く無知であったであろう。

 そして彼らは軍属として朝鮮内の捕虜収容所に配置され、東南アジア一帯の捕虜収容所に送られていった。彼らの中には、日本の敗北後、捕虜虐待などを理由にBC級戦犯として死刑に処せられたり、懲役刑で服役することになったものも少なくない。しかし、その時点で、「日本人ではなくなった」という理由で、「家の方のことは心配ないよう充分考慮されることはもちろんだ」という倉茂報道部長の約束は、戦後の日本政府に忘れ去られたまま、今日に至るまで捨て去られている。

 
 朝鮮俘虜収容所長野口譲は、敗戦後、巣鴨プリズンに収監され、戦争犯罪で重労働22年の判決を受けた。その後8年間拘束されたのち釈放された。