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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1968年7月16日に韓国ソウルの国都クット劇場で封切られた映画「憎くてももう一度(미워도 다시 한번)」。
 シングルマザーのヘヨンが、江原道カンウォンド墨湖ムッコで育てていた息子ヨンシンを、ヨンシンの実父シノに預けようとソウルに出てくる。ヨンシンは、母恋しさもあってソウルの実父の家を飛び出して墨湖ムッコに帰ろうとする。
 

 幼いヨンシンは、なぜか世宗路セジョンノのところをさまよったり、三角地サムガクチのロータリーでハラボジに道を尋ねたりする。「なんでそんなところにいるの…?」なんだけど、まぁ映画なので……。最後は、清涼里チョンニャンニの駅から実父一家に見送られてオンマと一緒に墨湖ムッコに帰る汽車に乗る。

 

 あらすじはこちらでどうぞ。


 いうまでもなく世宗路である。
  

 写真奥に見えるのが中央庁チュアンチョン。この当時は政府機関が使っていた。旧朝鮮総督府の建物である。この時は、まだ正面の光化門クァンファムンはできていなかった。復元工事の起工式が3月15日で、完成するのはこの映画の公開後、1968年12月のことである。

 はっきりは見えないが、門の場所に工事用の囲いがあるようにも見えるので、撮影時期は1968年の春なのか。


 ヨンシンの後ろに見えるのは市民会館シミンフェグァン。この市民会館は、この映画の4年後の1972年12月2日に火事で全焼。夜8時の公演中だったので死者52名を出す惨事となった。その後1978年4月になって現在の世宗文化会館セジョンムナフェグァンが開館した。

 

 ヨンシンが光化門交差点方向に歩き出すとこの建物が見える。現在の「大韓民国テハンミングッ歴史博物館ヨッサパンムルグァン」と「アメリカ大使館」の建物である。1968年の時点では、左側のビルは経済企画院キョンジェギフェウォン、右の建物はアメリカ大使館ではなく、USAIDユーセイド(駐韓アメリカ国際開発処)の建物であった。アメリカ大使館は、この時は半島ホテル前の旧三井物産ビル(現在はグレヴァンミュージアム:5月まで)にあった。

 この二つのビルは、ともにアメリカの対韓援助資金と韓国政府の出資で建てられ、1962年7月に完成したものである。建設時の協定では、2棟のビルの所有権は韓國政府が保有するが、1棟については、韓米相互協定が存続する間はアメリカの援助関連機関が免税・無料で無期限に使用するとなっているという。

 左側のビルは、その後、経済企画院から文化公報部ムナゴンボブになり、2012年に大韓民国歴史博物館として全面改装されてオープンした。

 一方、右側のUSAIDのビルには、1970年12月、アメリカ大使館のメイン機能が旧三井物産ビルからここに移され、ここがアメリカ大使館本館となり、旧三井物産ビルは、領事部と文化部の別館ということになった。その後ここがアメリカ文化院となる。

 1971年10月13日付の「京郷キョンヒャン新聞」が、この経緯を詳しく報じている。アメリカ大使館側が、USAIDは大使館傘下の機関だから大使館としてこの建物を利用することに問題なしとするアメリカ側に対して、「京郷新聞」は、建物建設時の協定のいう援助関連機関と大使館とは別物だと批判している。

 1953年5月の「半島ホテルと三井ビル移譲に関する協定」で、アメリカは半島ホテルを移譲し、韓国は旧三井ビルの所有権をアメリカに移譲することになったともあり、植民地支配下での敵産の処理や、朝鮮戦争後の対韓援助などの過程で、ソウルの中心地のど真ん中にアメリカ大使館が存在することになったというのは興味深い。

 

 ちなみに、1985年5月23日、光州クァンジュ事件でのアメリカの対応を批判する学生たちがこの文化院を占拠する事件も起きた。1990年に、この土地建物の所有権がアメリカからソウル市に移譲され、2013年まではソウル市庁の乙支路別館として使用されていた。その後、グレヴァンミュージアムに改装された。

 

 映画では、歴史博物館・アメリカ大使館からさらに南の方、光化門交差点方向を写し出している。

 1966年5月、光化門交差点の地下道が完成した。朴正煕パクチョンヒ大統領によってソウル市長に抜擢された金玄玉キムヒョノクの推進した開発工事の一つである。この時地下道完成時には、まだ李舜臣イスンシンの銅像はない。

 この交差点に李舜臣像が建てられ、除幕式が行われたのは1968年4月27日であった。

 

 この場面の南方向を見てみると、台座のようなものが確認できる。その上に黒い影も見えるようなので、銅像はすでに建てられてたとも思える。いずれにせよはっきりと写ってはいないが、この映画が封切られた7月には、多くの人がこの場面で李舜臣の銅像、また交差点地下道を思い浮かべたに違いない。

 

 もう一つ開発に絡む場面が出てくる。 

 これは三角地サムガクチの高架ロータリーである。都心からソウル駅前を漢江路ハンガンノ沿いに下っていくと、南営ナミョンを過ぎてしばらくして道が「く」の字になった交差点がある。この交差点を右に曲がると、孝昌ヒョチャン公園の丘の麓を通って孔徳コンドクにいく白凡路ペクボムノ。左に曲がると米軍基地の間を抜けて梨泰院イテウォンに抜ける梨泰院路。今は米軍から韓国側に返還されて戦争記念館が左手にできているあの交差点である。

 1967年12月27日この三角地の高架道路の開通式が行われた。

 

写真の右上の茶色い建物が祥明サンミョン女子中高の校舎。まっすぐ上に伸びているのが白凡路。手前が梨泰院方面。右手に行くとソウル駅前。左奥が漢江大橋方向となる。

 


 映画は、祥明女子中高側の歩道橋部分で撮られている。

 この高架ロータリーは、地下鉄6号線の建設過程で1994年に撤去されることになりその年のうちに撤去された。
 

 それにしても、ヨンシンが右も左もわからない子供だとしても、世宗路から三角地の高架道路に来て、そこでハラボジに、江原路の墨湖ムッコに行くにはどうすればいいかと尋ねるという設定はかなり無理がある。これも、朴正煕ー金玄玉の都市開発の成果をヨイショする場面挿入と考えると、納得できるような気がする。

 

 最後は、特に開発に絡むわけでもないし、江原道方面への列車なので、当然清涼里の駅から出ている。

 以前の駅舎はこんな感じで、窓の上下の部分の色が違うが形状は同じである。

 走る列車が面白いなぁと思って。1968年の列車はこんなだったのか。それ以外に、特段のコメントはない。

 

 この「미워도 다시 한번」は、この映画の評判がよかったこともあって、これ以降何回か映画になっている。2001年には「미워도 다시 한번 2002」が作られ、2009年にはテレビドラマが放映されている。

 植民地支配下の朝鮮と日本のダダイストとを描いた吉川凪『京城のダダ、東京のダダ』(平凡社 2014)に、李鳳九イボングの『明洞』(ソウル三中堂 1967)の一節を引用した部分がある(原文は韓国語:著者訳)。

 こんなある日、つまり解放の四年前だったか。日本のダダイスト詩人高橋新吉が満州の大同石仏を見に行く途中にソウルに立ち寄り、呉章煥の案内で明洞に現れた。

 すり切れたコートに古びたキャップをかぶり、荷物と言えぱ、列車の時刻表が入つた、肩にかけたバスケット一つだけだった。

 明洞の名物であるバーグランのコース料理、カネボウの洋食、川長の鰻丼、江戸川のすき焼き、そして白龍、ノアノア、黄昏、オアシス、羅典区など、個性豊かなグリルとテイールームを見物した高橋は、夜になると鍾路の食道園で妓生と神仙炉に酔い、年若い花嫁のように顔を赤らめた。

 独身で一人で暮らしている日本の代表的ダダイスト詩人が明洞の街で豪遊したわけだ。費用は南蛮書店という風変わりな本屋を経営する呉章煥が、日本にいた時に親交があつた高橋のためにおごったのである。

 こうして明洞の仲間数人は明洞を出て食道園という料理屋で妓生の長鼓の音を聴きながら久しぶりに素晴らしい夜を過ごした。

 1941年、京城を訪れた高橋新吉が、李鳳九や呉章煥たちとどこでどんなものを食べたのかがわかる。高橋新吉は1901年生まれで、40歳。迎えた京城の李鳳九は1916生まれで当時24〜5歳。吳章煥は1918年生まれの22〜3歳であった。京城のダダは若かった。

 

 バーグラン、カネボウ、川長、江戸川、そして食道園。
 京城の善隣商業の13回卒の竹崎達夫が作成した1937〜8年の本町復元地図(
尾崎新二『もう僕は京城っ子には戻れない』世界日報社 1995 所載)がある。これでチェックしてみると下のようになる。残念ながら、白龍、ノアノアなどのティールームまでは探せないが。

竹崎達夫作成の1937・38年くらいの本町復元地図
 

 まず、「バーグラン」。これは、韓国語表記とその翻訳の問題かもしれないが、当時の店名は正しくは「ボア・グラン」。

 1935年。8月7日の『京城日報』と『朝鮮新聞』(いずれも日本語の日刊紙)に開店の広告が出ている。

京城日報

朝鮮新聞

 日本語の新聞だけでなく、朝鮮語の日刊紙『東亜日報』『毎日申報』にも朝鮮語の広告を掲載している。内容は同じだが、デザインが違う。『毎日申報』の広告ではわざわざ「ボアグラン보아그랑」とルビまでふってある。

東亜日報

毎日申報

 この頃、三越百貨店の西隣りで貯蓄銀行の新築工事が行われ、建物はすでに竣工していた。現在も新世界シンセゲ南大門市場ナムデムンシジャンの間に残る第一銀行チェイルウネンの旧本店がその建物である。この銀行の建物の裏側にあった「旭ビルヂング」に、8月7日に新たに「ボア・グラン」が開店するという告知広告。初の冷房完備の食堂で、和食と洋食の両方が食べられるというレストランである。

 

 実は、「ボア・グラン」は、この店より前に、朝鮮人街である鍾路2丁目に店を出している。旭ビル店開店の半年前、1935年1月24日の『東亜日報』と『毎日申報』に広告がある。

東亜日報

毎日申報

 この「ボア・グラン」の所在地は鍾路2丁目82永保ビルとなっている。「京城精密地図(東京経済大学リポジトリーで公開)」で見るとキリスト教青年会館(YMCA)の斜め向かいあたりになる。「千代田グリルの姉妹館」と銘打っているが、その「千代田グリル」とは、南大門通2丁目の千代田生命ビル(今のロッテショッピングの真向かい)にあった洋食店で、解放後も「首都スドグリル」として営業された有名洋食レストランであった。

 鍾路の「ボア・グラン」では、昼食で1円から1円50銭、夕食で1円50銭から2円、それにサービス料10%。解放後に茶洞タドンに出店する「美荘ミジャングリル」のオーナー李重一イジュンイルの回想では、1930年代前半の朝鮮人の給料は通常40〜50円程度で、「外地手当」が出たりする内地人に比べると収入は少なかった。その当時で、ソルロンタンが15銭、カレーライスが30銭、和定食で1円くらい、京城駅の食堂の洋食が2〜3円からということなので、朝鮮人街のど真ん中のボア・グランの食事代も結構な値段だったといえよう。

 この鍾路「ボア・グラン」の広告は、日本語の日刊紙『京城日報』『朝鮮新聞』には見当たらない。朝鮮紙読者をターゲットにしていたのであろうか。そうしたこともあって、「ボア・グラン」は朝鮮資本の食堂かとも思ったが、総督府官報の登記では取締役や監査役は全て内地人である。役員の一部が「千代田グリル」と重なっており、提携があったのかも知れない。朝鮮人客を取り込むための事業戦略といったものがあったとも考えられる。いまひとつはっきりしない。同時に、「彼女는 進出했다」「彼女는 進水하다」というのが何を意味するものなのかよくわからない。


 1939年に会社名を「ボアグラン」から「萬鼎」に変更し、1941年には株式会社萬鼎の本店は京城から東京に移されている。社名変更や本社移転の理由は不明である。

 1941年に、高橋新吉が京城のダダたちとともに食事をしたのは、鍾路ではなく「旭ビルヂング」の「ボア・グラン」。ここでフランス料理のコースを食べた。この時には、店名はそのまま「ボア・グラン」であった。

 

旭ビルと鐘紡

 もう一つ「カネボウ」の店でも洋食を食べている。

 竹崎達夫の地図で「カネボウ展示ホール」となっているところ、そして上の「大京城大観」の地図に「鐘紡」と記されているところ、ここの建物にレストランがあった。

 1939年11月1日付朝鮮総督府官報に、「飲食店カネボウ」の商号が公示されている。本町1丁目32番地、平賀三男が「商号の使用者」となっている。1935年に京城の本町にあった鐘紡サービスステーション(地図の展示ホールと同じ場所)の店長として赴任したのが平賀三男だった。当時、鐘紡は紡績だけでなく様々な業種で手広く商売を展開しており、そのショールームを本町に作っていた。店長となった平賀三男は、ここに洋食のレストランを併設したのである。

 残念ながらメニューまではわからない。

 

 次は「川長の鰻丼」である。

 韓国の国立中央図書館で公開されているデジタルデータに『大京城寫眞帖』という資料がある。1937年に中央情報鮮滿支社編で出版されたものでインターネットでのアクセスが可能である。

 1923年創業で、東京から呼び寄せた板前の純東京式の天ぷら・鰻料理が自慢だという。ただ、場所は「旭町1-165」で、今日の明洞ミョンドンエリアからははずれている。

 南大門小学校の卒業生植木文之助の回想地図では、ボア・グランのところから南山に上がっていったところに「料亭川長」というのが描かれている。

 一方、先述の竹崎達夫の地図には、

という記載がある。位置としては今の中華人民共和国大使館の前、レートのいい外貨交換店の並ぶあの角のところに、もう一つの「川長」があったのだと思われる。

 多分、「料亭川長」の支店か、のれん分けされた店なのではなかろうか。髙橋新吉たちが鰻丼を食べたのはこの店であろう。

 

 次は、「江戸川」のすき焼き。

 「江戸川」も『大京城寫眞帖』に記載されている。

本町1ノ30の「江戸川」は、32番地の「カネボウ」のすぐ近くだった。

 この「江戸川」ですき焼きを食べたのだが、実は「江戸川」も鰻で有名な店だと紹介されている。1938年に『東亜日報』に連載されていた金末峯の連載小説『密林 後篇』にも、 

「어떠십니가. 저녁밥때도 되어오고하니 우리「우나기」먹으로 에도가와(江戸川)로 갑시다네? 어떠십니까…」

「전「우나기」먹을줄몰라요 감사합니다」

と江戸川が出てくる。まぁ、鰻は「川長」で食べたので、「江戸川」ではすき焼きということになったのかも知れない。この「江戸川」は、解放後の新聞にも登場する。1946年6月19日の『東亜日報トンアイルボ』に同志社の同窓会告知が出て、その会場が「本町南宮荘ボンジョンナムグンジャン」となっている。そして「전江戸川」と注記されている。

 「江戸川」の経営者城台一六は内地に引揚げたのであろうが、朝鮮人の板前などが引き継いで営業したのであろうか。2年後の1948年の『京郷新聞キョンヒャンシンムン』にも日本音楽校の同窓会が「南宮荘」で開かれるとの告知記事が見られる。

 

 ただ、旧本町、明治町、黄金町一帯は、朝鮮戦争の時、アメリカ軍の空爆によって破壊された。1951年7月に国連軍の取材許可を得て解放後初めて韓国に取材で入った朝日新聞鈴川特派員の当時の街の様子を伝えた記事がある。もちろんアメリカ軍の空襲については触れられていない。

 明洞・忠武路あたりの日本式家屋の食堂や店舗の多くはこの時に消失したのではないかと思われる。

 

 さて、内地人のダダ髙橋新吉を内地人の街で洋食や和食でもてなしたあとは、やはり朝鮮の料亭「食道園」で締めることになる。

 上述の『大京城寫眞帖』では次のように紹介されている。

 食道園は「朝鮮料理店の開祖」とされている。これ以外にも、東明館、朝鮮館、明月館といったところが名店とされていた。

 食道園の場所は、南大門通1丁目16 番地、南大門通の漢城銀行と商銀支店の間にあって、飲食だけでなく踊りや芸を鑑賞する場でもあった。国際日本文化研究センター(日文研)の朝鮮写真絵はがきデータベースにその一端を垣間見ることができる。

 

 髙橋は袖の取れてしまったワイシャツを着て、空が見える、穴の開いた靴を引きずっていた。

 「大同石仏を見れば、いい詩が浮かぶかも知れん」

と笑みを浮かべてから、

 「サヨナラ! サヨナラ!」

を何度も言いながら、満州行きの列車に乗り込んだ。

 この時高橋新吉にご馳走した20歳を少し越えたばかりの吳章煥オジャンファンは、明治大学専門部を中退した若き詩人。李庸岳イヨンアク徐廷柱ソジョンジュとともに三大天才と呼ばれた。解放後、38度線を超えて北に行き、朝鮮戦争中の1951年に北朝鮮で死亡したとされる。

 이용민監督の1956年制作の韓国映画 「ソウルの休日(서울의 휴일)」というのが한국고전영화 Korean Classic Filmで公開されている。

https://youtu.be/s01M3YGI8MY

 映画の内容については「yohnishi's blog」がまとまっている。ご参照いただきたい。

 ストーリー展開やシチュエーションがよくわからない。街の景色や店の名前にばかり気を取られているせいかとも思ったが、どうもそればかりではないような…

 

 それはさておき。

 産婦人科医院を開業している女医のナム・ヒウォン(ヤン・ミヒ)は、朝鮮日報の記者である夫ソン・ジェグァン(ノ・ヌンゴル)との久しぶりの休日を最大限楽しもうと、一日のスケジュールをバッチリ立てていた。

 それがこれ!

10時20分 出発準備完了

10時30分 新新シンシン百貨店に向かう

 ネクタイ(夫の)とパラソル(自分の)を買う

12時 雅叙園アソウォンで昼食(高級中国料理)

13時30分 漢江ハンガン到着

 観光ボート(picket boat)と水上スキー

15時30分 徳寿宮トクスグン散策

16時30分 映画観覧

18時30分 美荘ミジャングリルで夕食

19時30分 野外コンサート

 ロサンジェルス交響楽団

 

 ヒウォンのプランでは、まず新新百貨店に買い物に行く。

 この新新百貨店は、1955年11月に、植民地時代からあった和信ファシン百貨店の西向かいにオープンした。

 私の手元にある1975年の日本交通公社発行のガイドブック『韓国』の地図には、新新と和信が向かい合って記載されている。

 和信百貨店は、他の4大百貨店(三越・三中井・丁子屋・平田)が内地人資本で日本の敗戦とともに営業を停止せざるを得なかったのに対し、朝鮮資本の百貨店として経営は継続された。とはいえ、植民地支配者側との関係が問題になり、創業者の朴興植パクフンシクが反民族行為処罰法で拘束されるなど紆余曲折もあった。

 朝鮮戦争が勃発すると、店舗は戦火で内部が全焼し、改修工事に手間取った上、会社経営陣の内部対立などもあって、営業が再開できたのは1956年10月15日になってのことであった。その間、和信が1955年11月に和信百貨店の向かいに開店させたのが2階建てのこの新新百貨店であった。

 映画「ソウルの休日」の撮影当時、東和百貨店(旧三越百貨店)や美都波百貨店(旧丁子屋百貨店)も営業していたが、この新たに登場した新新百貨店が、いわば「最新のショッピングモール」で、休日のお出かけの最初の目的地とされたのだろう。

 ちなみに、和信百貨店は1980年10月に巨額の不渡りを出し、和信と新新の土地建物はともに売却処分された。新新百貨店は第一チェイル銀行に売却され、現在は第一銀行(SC제일은행)の本店ビルが建っている。和信百貨店は1983年に韓宝ハンボグループの手に渡ったが、その後紆余曲折を経て1987年3月に取り壊され、現在は跡地に鍾路チョンノタワー(1999年竣工)が建っている。

 

雅叙園アソウォン

 昼食の中華料理の店雅叙園は、華僑の徐廣彬(号が鴻洲で、徐鴻洲と呼ぶ)が1907年に開いた食堂である。徐鴻洲は、1899年に朝鮮に渡って京城で元手を稼ぎ、知人20名の共同出資で雅叙園を開店した。共同出資だが、店の経営は最大の出資者だった徐鴻洲が取り仕切っていた。雅敍園という店名は徐鴻洲の祖父と父の名に由来するとされている(이용재「재벌과 국가권력에 의한 화교 희생의 한 사례 연구」)。

 日本にも1928年に芝浦に雅叙園が開業し、これが1931年に目黒に移って目黒雅叙園となるが、この京城の雅叙園とは全く無関係である。

 徐鴻洲が最初に店を出したのは、黄金町一丁目の通りに面したところで、建坪50坪余りの2階建ての建物であった。現在プレジデントホテルがある場所である。京城の中華料理というと、この雅叙園と、大観園、泰和館が代表格であった。大観園は観水洞144番地、泰和館は仁寺洞8番地—ちなみに、1919年3月1日の独立宣言はこの泰和館2階で読み上げられた—、この二つの店はいずれも朝鮮人街側に位置していて庶民層の客が多かった。これに対し、雅叙園には妓生キーセンもいて、高位高官や財界人の利用が多く、夕暮れになると人力車や車で乗り付ける客で黄金町の通りが渋滞するほどだったという。

 

 1934年、鴨緑江の水豊ダムや興南での朝鮮窒素経営など朝鮮で手広く事業を進めていた日本窒素の野口したがうが京城での半島ホテル建設に乗り出した。一説では、汚れた作業着で朝鮮ホテルに入ろうとして追い返された野口遵が、朝鮮ホテルを見返してやろうとホテル建設に乗り出したのが発端だともいう。半島ホテルが営業を開始するのは1938年4月で、1936年刊行の『大京城府大観』には、「朝鮮窒素用地」とだけ記されている。この朝鮮窒素による土地取得の過程で、黄金町通り沿いの雅叙園の土地が買収され、代替地として朝鮮ホテルとの間の黄金町一丁目180-4・5番地が提供された。

 雅叙園は、この新しい敷地に銀行から2万円を借り入れて400余坪の3階建レンガ造りの建物を新築し、1936年に新規開店した。これが、解放後も高級中華料理店として名を馳せた雅叙園である。1950年には4階建に増築されている。

 1944年に、創業者徐鴻洲は中国で客死した。実子は娘の徐培継だけだったが、兄の子供徐敬修を養子にしており、雅叙園の営業はそのまま引き継がれた。1945年に日本の植民地支配が終わった後も、帰国した李承晩や金九などをはじめ、のちの政財界の大物人士がこの雅叙園を利用した。

 朝鮮戦争の勃発で一時期休業をしたが、国連軍側がソウルを奪還した後に営業を再開。以前にもまして繁盛していった。

 女医ナム・ヒウォンの休日プランでは、この雅叙園で高級中華の昼食をとるはずであった。映画の中では昼食には行けなくなってしまうので、残念ながら雅叙園の場面はない。記録では、1階が10〜15人規模のオンドル部屋、2階にはオンドル部屋とホールがあった。3・4階は大ホールや宴会場にがあって結婚披露宴や親睦会などに使われたとなっている。

 

 この雅叙園は、1970年に閉店することになる。その前年、創業者の一人娘徐培継が雅叙園の土地と建物を売却したのである。不動産は徐培継名義で登記されていた。買い取ったのは辛春浩シンチュンホ。ロッテの創業者辛格浩シンキョッホ(重光武雄)の実弟で、辛ラーメンで有名な農心ノンシンの創業者である。ロッテは、半島ホテルの場所にホテル建設を計画しており、その用地確保に乗り出していた。しかし、雅叙園の経営陣(社長は養子の息子徐道敏)は、建物は共同所有であるとして、この売却を無効だとする訴訟を起こした。約5年間にわたる民事裁判の結果、最終的にロッテ側が勝訴することになる。その訴訟騒動の中で、雅叙園は幕を閉じることになったのである。

 

美荘ミジャングリル

 ナム・ヒウォンの夕食のプランは、美荘グリル。美荘グリルは、植民地支配が終わった1945年11月に、李重一イジュンイル茶洞タドンに開店した洋食レストランであった。李重一は、1928年、16歳で京城駅構内食堂の従業員となった。京城駅の2階にあった食堂は、当時は高級レストランだった。
当時の京城駅食堂

『朝鮮之風光』1927

復元されたソウル駅内部

 値段も高く内地人の客が多かったのだが、内地人に独占させてたまるかとばかりにレストランに来る朝鮮人名士もいた。尹致昊ユンチホ金奎植キムギュシク呂運亨ヨウニョンなど、それにセブランス病院の朝鮮人医師たちなどが食事にやってきた。内地人のウェイターが朝鮮人の客を嫌がるので李重一がサーブすることになり、目をかけれられるようになっていったという。

양식반세기전(2)|이중일 [중앙일보]

 その後、朝鮮鉄道の特急列車の食堂車ウェイターになり、そのチーフに昇格した。

 その間に、洋食に関する研鑽を積むと同時に、植民地から解放されたのちに各界で活躍することになる多くの有力人士との人脈を築くことになった。

 日本の植民地支配が終わった9月、李重一は、列車を降りて自分のレストランを開くことを決意した。そして11月に茶洞88番地に開いたのが「美荘グリル」である。

 現在の乙支路ウルチロを隔てたロッテホテルの向かいのブロック。地下鉄2号線乙支路入口の2番出口を出て、南大門路ナムデムンノをまっすぐ北に上って東亜トンアビルの手前の路地を左に入ったあたり。このあたりが茶洞88番地である。

 解放直後、朝鮮ホテルや半島ホテルは日本資産の「敵産」として米軍政庁に接収されていた。それもあって、ちゃんと営業できている洋食レストランは、首都スドグリル(京城時代の千代田グリル:南大門通2丁目10千代田生命ビル内)と、この新しく開店した美荘グリルくらいしかなかった。さらに、京城駅食堂や列車食堂の時の李重一の人脈もあって、美荘グリルを訪れる政財界の有名人士が増えていった。양식 반세기(8)|이중일[중앙일보] また、国連朝鮮委員会の歓迎夕食会や、李承晩イスンマン大統領就任1周年記念晩餐会、ダレス国務長官の歓迎宴なども開かれ、朝鮮戦争を挟んで、ソウル随一の洋食レストランになっていった。

 

 네이버  뉴스 라이브러리Naver ニュースライブラリで「미장그릴」を検索してみると、

1960年に突出している。美荘グリルは、李承晩時代の野党韓民党ハンミンダンの関係者が多く利用しており、1960年の419サーイルグ学生革命で李承晩が大統領の座を追われたことで、美荘グリルでの動きに注目が集まったためである。

 

 李重一は、1951年以来委託運営してきたソウル市庁食堂の契約が終了した1983年8月末に引退をすることとし、美荘グリルもここで幕を閉じることとなった。

 

◆朝鮮ホテルのカフェテラス

 映画では、女医のナム・ヒウォンは、夫ソン・ジェグァンと雅叙園で昼食を食べることもなく、美荘グリルで夕食を摂ることもないまま終わってしまう。

 ただ、夫ソン・ジェグァンの仕事仲間の新聞記者たちと一緒にビールを飲みに行く場面がある。

 右後ろの尖塔部分はソウル市庁(旧京城府庁)で、中央の建造物は、徳寿宮の北側に隣接する聖公会会堂の上部である。この角度でこの二つが見えるのは、朝鮮ホテルからである。さらに、半島ホテルや圜丘壇ファングダンの建物皇穹宇ファングンウが後ろに映っている。

 半島ホテルは、上述のように日本窒素の子会社朝鮮窒素が建てたホテルで、1938年に開業している。その手前には雅叙園があるはずなのだが、画面は映ってはいない。

 圜丘壇は、1897年に国号を大韓帝国としたときに、天を祀る施設として建造された。

 日本が大韓帝国を併合すると、1912年に上掲の写真の圜丘壇右側部分を破壊して、そこに鉄道ホテル(1914年開業:のち朝鮮ホテル)を建てた。

 

 敵産管理でアメリカ軍が所有していた朝鮮ホテルが民間に払い下げられたのは1961年になってからのことで、1956年の「ソウルの休日」撮影当時は、まだアメリカ軍がホテルを管理していた。1976年に旧朝鮮ホテルの建物は取り壊されて新しいホテルの建築が始まり、1970年に完成したのが現在のThe Westin Chosun Seoulのホテルである。

 

 映画では、圜丘壇の皇穹宇の屋根の角度から、ちょっと高い場所のようなので、下の写真(ちょうど裏側)の真ん中のテラスのところに屋外のカフェがあったのかとも思われる。