一松書院のブログ -71ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 京城帝国大学衛生調査部編『土幕民の生活・衛生』(岩波書店 1942)という本がある。1940年の春、京城帝国大学医学部4年生田中正四まさしを中心とする20名の医学部学生が「土幕民」の実態調査を行い、1940年10月から翌年6月にかけて『朝鮮総督府調査月報』に京城帝大特殊細民硏究会の名前で4回にわたって掲載した。その2年後、これをまとめて岩波書店から単行本として出版されたものである。

 

国会図書館デジタルコレクションでも読める。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276767

 

 土幕民調査の当初のメンバーは、内地人学生10名と朝鮮人学生3名、その後7名の朝鮮人学生が加わった。朝鮮人学生は、1937年の入学時には全員が朝鮮名であったが、多くは卒業時までに創氏改名(1939年制令19号および20号で定められた朝鮮に本籍地のある者に対する措置)で日本式の氏名に変わり、調査に加わった朝鮮人学生で、書籍出版時にも朝鮮名であったのは玄寅燮と朴大均の二人だけであった。田中正四のあとがきでは、( )内に朝鮮名を付記してある。そうでもしないと誰が誰だかわからなくなるから。

 日中戦争開戦後の戦時体制のもとで日本の朝鮮植民地支配が大きく変質した時期に、この土幕民の調査は行われた。

 

 「土幕」というのは、1920年代後半に作られた造語とされている。『土幕民の生活・衛生』では、「土幕」とは「零細民が雨露をしのぐための粗末な居住のための構築物」をさすもの、幕(막)には「風雨をしのぐ仮小屋、あばら家」という意味があり(주막・원두막)、それに土壁といった意味で土を冠した造語だろうと推測している。

 一方、朝鮮総督府の嘱託として朝鮮の経済や人口、それに生活状態などについて調査した善生ぜんしょう永助は、1932年の「特殊部落と土幕部落」(『朝鮮』209号 1932年10月)で、1930年の調査に基づいて「土幕部落」をレポートし、その中で、「土幕」は「掘建小屋又は蒲鉾小屋」、「土幕よりも一層粗末な穴居」は「土窟」と呼んで両者を区別している。試しに、NAVER Newslibraryで検索してみると、「土窟」は1920年前後からが使われているのに対し、「土幕」は1930年前後から多くなっている。ただ、これは京城などの都市貧民だけの記事ではないので、単なる傾向にすぎないが。

 この用語の変化は、実際の居住形態の変化を反映したものと考えられる。すなわち、1910年代後半から20年代には斜面の穴などを住居としていた貧民が、次第に廃材などを利用した小屋を建てて住むことが多くなり、これを「土幕」と称すことになったと考えられる。

 

 1924年3月に赤間騎風が『大地を見ろ』を出版して、ここで京城の貧民、下層民を描いている。

 赤間騎風は本名赤間長太郎、福岡県筑紫郡警弥郷けやごうの出身で、黒龍会系の人脈があって京城では週刊の『京城新聞』の主筆をつとめた。その後、京城の苑南洞195番地で出版・著述業を営むと同時にここを拠点に中国東北部の「馬賊」との連携を計ったり、大興安嶺の踏査を行ったりしていた。潜入取材とドキュメンタリーを得意としていたが、1928年に39歳で死去している。

東京経済大学学術機関リポジトリ

http://repository.tku.ac.jp/dspace/handle/11150/2742

 

 その中に、光煕門外で取り壊された城壁の穴に暮らす蛇とりと盲目の女乞食の住まいについて次のような描写がある。

穴小屋の角の、蝋燭を立てゝあった石油箱は、蝮の入れてある箱だつたのだ。此小屋には、乞食母子と、尹を始め、蛇捕りの土蜘蛛共を合して十三名ゐる。間口一間、奥行二間の穴の中に、十三の頭が暮してゆかれるのは奇蹟である。

(九 蛇捕りと女乞食)

 まさに「土窟」に暮らしていたのである。廃材などが入手できなかったのであろう、住居のない貧民は穴に住まざるを得なかった。

 赤間騎風は、「山窩」という項目でこのように記述している。

 山窩といふのは、まだ内地にもゐるかも知れない。私が少年の時分、東京に近い道灌山にも、居たのを、知つてゐる。道灌山のは、岡の中腹に横穴を掘つて、穴の入口に『コモ』が、吊るしてあつた。

(中略)

 山窩は、龍山、蓬莱町、御成町、光煕門外の四ヶ所を合して五十もあるがそれを一々書く必要もあるまい。光煕門城壁のも『蛇捕りと女乞食』の記事で、その生活の一片は知れた筈だ。私は茲に、御成町城壁下と、それから、蓬莱町の山窩を書かふとおもふ。

 蓬莱町四丁目、養正高等普通學校裏の共同墓地は、南に面した小高い山だ。そこに、二十二軒の山窩の住居は點々と建てられてゐるのだ。

 山窩といふが、此處のは穴倉式のは極めてすくなく、小さいながらも壁をつけ、形を備へた温突が多い。中には、新らしい紋紙で室内を張つたのも見かけられた。此處に住むのも勞働者が多く、車力、チゲクン、土方の類で、至極平和に暮してゐる。

(十六 山窩)

 1924年刊行の書物で、穴を住まいにする人々や掘っ立て小屋を建てて暮らす人々を赤間騎風は「山窩」と呼んでいる。「土窟」や「土幕」という用語は使っていない。しかし、ここでも「穴倉式の」土窟から「小さいながらも壁をつけ」「紋紙で室内を張つた」土幕へという変化が起きつつあったことが読み取れる。

 

 養正高等普通學校の裏側の南向きの斜面というと1936年の『大京城大観』だとこの辺りということになろう(黄マーク:赤マークが養正高等普通學校)。

 今はこの一帯には高層アパートが立ち並んでいる。

 

 養正高等普通學校は、ベルリンオリンピックマラソン金メダリスト孫基禎が通った学校である。平安北道新義州出身の孫基禎は1932年に19歳で陸上運動部にスカウトされるかたちで入学している。銅メダリスト南昇竜もこの学校に在籍していた。

 1988年に養正高等学校が木洞に移転し、現在はその跡地が孫基禎ソンキジョン体育公園となって当時の校舎旧館が孫基禎記念館となっている。

 蓬莱町四丁目の養正高等普通學校裏の「土幕」については、善生永助の記録もある。それについては後述。

 

 「土窟」のように穴で暮らす貧民については、村松武司の『遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』にも次のような叙述がある。1930年代に入ってからの記述である。

 仁丹山とよばれた、山ではない丘があった。「京城」の中心部、京城駅から十五分ばかり東へ歩いた山の手に屋敷が建ちはじめ、この丘の周囲が埋められていった。赤土の傾斜面はかなり急勾配で、三〇度ばかりあったろうか。

(中略)

 何日か経った。わたしは仁丹山に遊びに行った。その日はたくさんの友達がいて、時を忘れるほど遊んで、いつものように丘の斜面をすべり降りた。降りたところで、斜面のないふだん寄りつきもしなかった崖のほうを見た。薄い煙が上っていた。そうだ……あそこには穴があったな。獣のように人間が住んでいる穴があったな。なぜいままで近寄りもしなかったのだろうか……。わたしは籔を分けながら煙をあげているその場所に近寄った。穴の手前に、わたしくらいの子供が二人いた。穴から外へわずか数メートル。二坪ばかりの空地の縁まで出てきて、臆病そうにまた穴の中へひっこんだ。かわりに今度は熊のような巨きな人間が出てきた。赤い顔をしたあの黒服の男だった。彼は笑った。そして悪意のない表情で私を招いた。
 はじめてそのとき、なぜだろうか、わたしは悲しくなったのである。そして衝動的に逃げた。
(村松武司著・斎藤真理子編『増補 遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』2019年)

 仁丹山は当時の三坂通の西側にあった丘の通称であった。蓬莱町とは京城駅をはさんで反対側である。この丘にも朝鮮人の共同墓地があった。

 村松武司は1938年に三坂小学校を卒業してる。三坂小学校の同窓会誌『鉄石と千草』(1983年刊行)に、1921年卒の岡村新の文章と編集注があってこれに墓地の話が出てくる。

わが家から吉野町に出る道は、部落と部落の間を這うように走っている細い道を通って大きな墓地山(編集部注:仁丹山)を越えていく道のりであった。何百とある土まんじゅうの中からは、崩れて人間の黒髪が出ていたこともあった。この墓地山が崩されて階段状の大住宅地ができたのは、大正の末年(編集部注:仁丹山、仁丹の広告塔があったのに由来。しかし、一部の人は“人体山”と読んでいた。それは、この墓地群のあったことから)。

 土窟も土幕も、墓地が利用されることが多かった。墓地は居住者がいないため空間が確保でき、普段は人が寄り付かないので気づかれにくい。それに、風水の陰宅では南向きの排水のよいところが選ばれるので、庶民の共同墓地も、最良の場所とはいかないまでも、そこそこの環境の場所にあったのであろう。

 

 他方、京城の東側の光煕門周辺も墓地が多かった。善生永助は「特殊部落と土幕部落」で、光煕門外新堂町の土幕民について次のように書いている。

◎京畿道高陽郡漢芝面新堂里
位置:京畿道高陽郡漢芝面新堂里一圓内舊墓地竝堤防等にして、俗に東正洞墓山洞、蛇取洞大峴と稱し、何れも官有地なり。
沿革:大正七年(1918)頃傳染病等に罹りたるものが家主又は雇主より追出され、前記場所に土幕を建てたるを初めとし、其の後各方面より生活難に追はれたるもの等、看守の手薄を奇貨とし、土幕土窟を築造するもの増加するに至れり。
戸数・人口:所帯数一一二戸 人口三〇三人

 赤間騎風の蛇とりの話の場所と近いと思われるが、俗に「蛇取洞大峴」といわれるとあるのが興味深い。

 光煕門は別名を「屍口門」といい、葬列はこの門を通って城外に出て死者を墓地に葬ったとされる。京城に日本人が増えると日本人のための火葬場が必要となった。京城在住日本人の居留民会が火葬場を建てたのもこの光煕門の南側であった。

 さらに、漢城を取りまいていた城壁を利用して小屋掛をしたり、京城運動場建設のために城壁が取り壊されるとその跡地に土幕が作られて集落が形成されていくということもあった。

 

光煕門外の城壁を利用した土幕

 

 一方、西の方では、遺体は西小門から運び出され阿峴里周辺ににあった共同墓地に埋葬された。現在、地下鉄5号線に애오개エオゲという駅がある。西小門のあった場所に近い忠正路チュンジョンノ駅と孔徳コンドク駅の間で、西小門から運び出された子供の遺体がここに埋葬されたことで子供(애)を葬ったことに由来するという伝承がある。

 この阿峴にも日本人の居留民会が火葬場を建てている。

 

 善生永助の「特殊部落と土幕部落」に次のような記載がある。

◎京畿道高陽郡延禧面阿峴北里
位置:高陽郡延禧面阿峴北里の、北側山の中腹にして、京城学校組合の所有地なり、京城府蓬萊町四丁目山一番地(俗称삼태우물)付近一帯の高地にして、緩傾斜を爲し官有地なり。
沿革:詳細判明せざれども、各地方より京城府内に就職口を求むべく來城したる勞働者が、遂に職を求めること能はざるため、一時假住所として土幕を設けたると、龍山其の他各署管内の土幕生活者が追放せられたる爲め、漸次増加せしめるものと認める。
戸数・人口:蓬莱町四丁目山一番地    世帯数三一戸    人口一五四人    阿峴北里 世帯数二八戸 人口九三人
生業:擔軍及び乞食とす。

 この蓬萊町四丁目の土幕集落が、赤間騎風が「山窩」の中で言及していたものである。

 現在でもこの場所には삼태우물サムテウムル(サムテギの形をした井戸)の伝承が残っており、昔そこが共同墓地であり、植民地時代には多くの貧民が住んでいたこと、そして80年代まで「山7番地サンチルボンジ」と呼ばれていたことも伝えられている。아현동 : 네이버 블로그

サムテギ⇒

 

 京城場内に近接していながら利用空間を確保できる墓地や城壁・城壁跡を利用して土窟や土幕が作られるケースが多かったものと思われる。

 

(つづく)

 5月15日は、韓国では「스승의 날ススンエナル」。「先生の日」と訳される。一昔前まで日本の学校の卒業式で歌われた「仰げば尊し我が師の恩♪♪♪」、この「師」が「스승의 날ススンエナル」の「ススン」に近いだろう。ただ「師の日」ではわかりにくいし、「恩師の日」というのも今の時代には馴染まない。「学校の先生の日」ということだが、とりあえず「스승의 날ススンエナル」で話を進める。

 

 今年も5月15日には、韓国人の卒業生から電話やメッセージが来た。韓国人は律儀である。

 

 1982年の5月15日、私は高麗大の大学院生だった。この年の5月15日は土曜日で授業はなかった。翌週の月曜日の授業時に話題になった。結構歳の行った院生が「先生の日」でなんだかんだと楽しげに話すのは何でだろうと思った記憶がある。これが韓国なのか…などと思ったが、実は、この年に「스승의 날ススンエナル」が復活したという事情もあってのことだったらしい。

 

 「스승의 날ススンエナル」という呼びかたが始まったのは1964年のこと。ただこの年は5月26日で、5月15日に定められたのはその翌年。朝鮮王朝の世宗が誕生したと記録されている陰暦の太祖6年4月10日を現行の太陽暦に換算したのが5月15日なので、世宗の誕生日にちなんでこの日が「스승의 날ススンエナル」とされたのである。

 さらに起源をたどると、1958年、忠清南道の江景カンギョンの江景女子高校のノ・チャンシルという女子高生が、青少年赤十字団の活動として病床にある教師を見舞う活動を始め、これがきっかけとなって退職教員などを訪問して慰問する活動にまで広がった。これが、1963年になって「은사의 날ウンサエナル(恩師の日)」の行事となり、赤十字社のバックアップもあって忠清南道を中心に行われた。その成果を、その年の青少年赤十字団の全国大会で報告したところ、これが全国規模に拡散し、翌1964年から「스승의 날ススンエナル」として行事が行われるようになった。そして1965年に、赤十字社が大韓教育連合会(教連)や青少年倫理委員会などと協議した上で、5月15日を「스승의 날ススンエナル」と定めて、全国規模で生徒たちが参加する行事にするよう呼びかけ、これがこの行事の始まりだとされている。

 江景女子高校は、現在は江景高校となっているが、その学校ウェブサイトには「先生の日」の始まった学校であることが二番目の項目としてメニューに挙げられている。

http://ganggyeong.cnehs.kr/main.do

 

 ただ、「스승의 날ススンエナル」という名を冠した行事は、それ以前にも散発的には行われていたようで、例えば、1948年4月の『江原日報』には春川の女子中学で「스승의 날」の行事が行われたことが報じられている。

 

 江景女子高の行事が赤十字社の活動の一環として行われ、赤十字社のネットワークで広がり、それを大韓教連などの後押しで一気に全国規模となったことから「스승의 날ススンエナル」の起源とされているが、実際には同じような活動はそれぞれの地域や学校でも個別に行われていたと思われる。

 大韓ニュースの未放映動画の中に1968年の「스승의 날ススンエナル」の場面がある。この時も看板には大韓赤十字社のロゴが入っており、赤十字社の旗が掲げられている。

 

 ところが、この「스승의 날ススンエナル」は「オリンピックの日」「学生の日」などとともに1973年に廃止されてしまった。当時の朴正煕政権は、1972年12月27日に維新憲法を公布して独裁体制を強めていた。この維新憲法は大統領直接選挙制を廃止し、大統領に緊急措置権を与え、立法や司法の権限まで大統領に集中させ、再任制限を無くして終身大統領を可能にするといった独裁色丸出しの憲法であった。こうした中で、社会生活や家庭生活についても様々な制約が加えられた。国旗下降式や映画館での国旗・国歌上映、レコードに健全歌謡が収録されていたことなども、その流れと無関係ではない(→拙ブログ参照)。

 1973年3月には、「家庭の儀式に関する法律」で、虚礼・虚飾の廃止という名目で、結婚式や祭祀、それに還暦祝いなどが厳しく制約されるようになった。各所に建てられた礼式場で簡素な結婚式を行い、終わった後は隣接する大食堂でククスやカルビッタンをかきこんで焼酎を飲むという結婚式が定番になったのはこれ以降のことである。

 この時に「스승의 날ススンエナル」も廃止された。教師への贈り物を競う風潮が問題視され始めていたし、全体的に「〜の日」というのもやたら多くなっていたことも事実である。

 

 「스승의 날ススンエナル」が復活したのは、1982年。この年の5月15日、9年ぶりに様々な行事が行われるようになり、「師道憲章」なるものも出された。

 京郷新聞では4コマ漫画でも取り上げている。

 

 全斗煥政権は、朴正煕大統領暗殺の後の「ソウルの春」を、粛軍クーデターや光州事件を通じて押しつぶし、独裁権力を継承していくが、それが故に、執権当初は「緩和策」で同じ独裁でも朴正煕時代との違いをアピールしようとしていた。夜間通行禁止の解除(1982年1月5日)とか中学・高校の制服の廃止(1983年)などが行われた。映画『サニー』(2011)でイム・ナミが私服で学校に通うのは、それが1980年代だからなのだ。

 「緩和」を装うその流れの中で、「스승의 날ススンエナル」も復活されたのである。

 1983年当時の大学院生が、あーだ、こーだといっていたのは、独裁の継続の弥縫策であることはわかっていながらも、自分たちが小・中学校の時にやっていた「스승의 날ススンエナル」が戻ってきたという、ある種複雑な気持ちからだったのかもしれない。

 

 そして、1987年の民主化宣言以降、再び状況が変わってくる。

 政府の主管する行事ではなくなっていくのだが、それ以外の様々な局面で注目を浴びるようになっていく。特に、初等・中等教育の現場での成績評価をめぐって、保護者の贈り物競争が過激になっていくのである。親が現金や商品券など、いわゆる付け届けをすることが社会問題化していった。

 1990年代の後半になるとますますエスカレートして、ついには「스승의 날ススンエナル」にソウル市内の全ての小学校を休校にして、児童が教師に贈り物を持って来られないようにするという措置まで取られた。

 

 この背景には、韓国のおける大学入試制度の変化もある。

 現在の大学修学能力試験、いわゆる「修能スヌン」が導入されるのが1994年度である。それまでは「予備考査イェビゴサ」で大学進学が決定されていた。いわば一発勝負的に進学が決まっていたものが、高校までの成績評価、内申評価などへ比重が移り始めたのである。

 親は敏感に反応する。その結果、初等・中等教育の現場で教師への付け届け競争になり、스승의 날ススンエナル」が、その最前線となってしまったのがこの時期であった。


 現在は、2016年 9月28日に施行された「不正請託と金品などの授受の禁止に関する法律(請託禁止法:金英蘭キムヨンナン法とも言われる)」で、公務員や公共機関の職員などとともに学校教職員が一定額以上の食事や贈り物、慶弔費を受け取ると、職務上の利害関係がなくても処罰されることになった。ところが、この法律の解釈をめぐって、昨年の5月に国民権益委員会の委員長が「(生徒・児童の代表でなく)一人一人の生徒・児童がカーネーションを一輪でもプレゼントすれば、それは原則として請託禁止法に違反する」と述べたことから、感謝の気持ちすら受け取れないような「스승의 날ススンエナル」などないほうがマシという意見も教師の間から出てきている。

 今年の「스승의 날ススンエナル」も、全国の小中高校の5.8%、約700校で休校措置が取られたと報じられている。何かと物議をかもす日でもあるのだ。

 

 韓国では、「結果の公平性」よりも、「競争の公正な環境・公正なプロセス」が重視される。みんなが「よくできました」「頑張りました」などという公平性は求められない。自分の子供の内申成績をよくすることを目的にして高額なプレゼントをすることがないわけではないが、それと同時に公正な内申評価をしてもらう公正な環境・プロセスを実現するという理屈も持ち出される。他の子たちが高額なものを贈っているとすれば、公正な競争環境のために自分の子にも持たせる必要がある。こうなると自分たちで贈り物をやめるというのはとても難しい。他からの力でやめることしかできなくなる。それが「休校措置」であり「金英蘭キムヨンナン法」ということになるのであろう。

 

 「스승의 날ススンエナル」には私も何かとやってもらった。高額な商品券とか現金はなかったが(^^)

 ということで、初めて調べてみたのだが、結構奥が深いと改めて思った次第。

 

 なぜ韓国の映画館で観客はエンドロールを見ることなく席を立つのか。確かにそうだ。韓国で映画をみてると、エンドロールの始まりと同時に我先にと席を立つ。

 

 なぜだろうと考えていたが、簡単にわかるはずもない。が、その過程でいろんなことを思い出した。

 

 1980年代は、映画館の前には練炭七輪でスルメを焼きながら売るアジュンマがいっぱいいた。鍾路3街や忠武路はスルメの匂いで満ち溢れていた。当時の画像を探したが見つからない。youtubeで見つけた1990年代の映像では、スルメの屋台が出ている(鍾路3街大韓劇場前)。これは80年代の後半、零細民の露天商が規制されて追い払われた後のものだろう。80年代前半は、まだこんなに整然としてはおらず、しゃがんでスルメを焼いていた。

https://youtu.be/G0slImu7haw?t=504

 80年代の映画観覧では、まず現地に行って入場券を入手する。ネットはもちろん、新聞などにも上映時間などはないので、窓口に行くしかない。大体どこにもダフ屋がいて、窓口では「満席」でもチケットは入手できた。近所で時間を潰した上で、劇場前のスルメを買って飲み物を買って映画館に入る。だが、みんなロビーにたむろしていて中の座席には着かない。すでに予告編とか大韓ニュースが始まっている。でも、入らない。

 すると、「愛国歌」の音声・映像が流される。ここでは、中に入っている観客は起立して右手を胸に当て、軍役にあるものは敬礼をしなければならない。

NHK特集 「素顔の韓国」 ―全斗煥体制下のくらし―1981年05月29日放送
文化広報部が取材に協力するよう指示していたのだろう、行儀が良すぎる😆

 

 手に持っているスルメとか飲み物をどこにどうするか、、、置き場がないので大変なことになる。中に入らずにロビーにいれば、愛国歌が漏れ聞こえても立たなくていい。飲み物もスルメもそのまま持っていればいい。

 で、愛国歌が終わりかけ、「…길이 보전하세」のあたりで、なだれをうって席に座る。そして映画が始まる。

 

 映画館で、映画本編の上映前に「愛国歌」を流すというのが始められたのは1971年3月。まだ維新体制(1972年10月)になる前である。

 ただ、最初からあんまり評判は良くなかったようだ。

 

 この映画館での愛国歌の上映がなくなるのは、1989年以降のこと。前年年末にこんな記事が出ている。

 文化公報部が愛国歌の映像作成の予算を計上しないことで、上映が行われなくなったのである。いうまでもなく、1987年の民主化宣言と、それ以降の韓国社会の変化を反映したものである。

 

 そういえば、韓国の映画館で、スクリーンを見ながら始まるのをワクワクとして待つというのはなかったように思う。映画が終わった後のことよりも、思い出すのは始まる前のことばかり。でも、1980年代から、エンドロールが始まる前にさっさと席を立っていたような気もする。

 

 1987年の民主化宣言以降、映画の前の愛国歌上映以外にもなくなったものがある。

 

 その一つは、街頭の国旗下降式である。夕方に官公庁や学校などで、昼間掲揚してあった国旗を降ろす国旗下降式自体は、早くから行われていた。ただ、当初は、それぞれが個別に行なっていた。

 1977年10月の『京郷新聞』に「高まる国旗への尊厳性」という記事で、中央庁の前を通りかかった通行人が立ち止まって国旗下降式に向かっている写真を掲載している。

 1977年といえば、維新憲法から5年。朴正煕政権の独裁体制が強化されつつあった時期である。どうもこの頃から、下降式に出くわしたら「立ち止まって街頭で祖国愛を示すべし」というのが始まったのではないかと思われる。つまり「自発的」な「愛国心」の発露である。統治者や権力者の側からすれば、「誰かが強制したわけではない」ということにできる。

 1980年代に入ると、春、夏、秋には午後6時、冬には午後5時に、官公庁や企業 の前に掲げられていた国旗を降納する国旗下降式が行われ、備え付けられているスピーカーから愛国歌が流されるようになっていた。そのあいだ、人々はその場に立ち止まり胸に手をあてて直立しなければならなかった。

 ただ、国旗が見えないところや、愛国歌が聞こえないところでは、特に立ち止まる必要はなかった。だから、このような場面が出てくる(映画「써니」(2011)より)。

 

 「統治者からの強制」ではなく、愛国心をネタにした啓蒙という名の「強制」、そして「民衆の相互監視による強制」なので、こんな描かれ方もする(映画「국제시장」(2014)」より)。

 

 映画館での愛国歌上映が文公部の機関決定という行政のトップダウンで行われ、それゆえに、ある時点で「やらない」という決定が報じられたのとは違い、国旗下降式で街ゆく人々が静止直立すべきという規制がいつからなくなったかを報じる資料は見つからない。国旗の下降式自体がなくなったわけではない。スピーカーで流して通行人が立ち止まるという風景がいつの間にかなくなったということであろう。

 

 1991年8月14日の『毎日経済新聞』には、第6共和國、すなわち盧泰愚政権の発足以降見られなくなったと書かれているだけである。

 

 

 

 もう一つ無くなったもの。それは健全歌謡である。

 1970年代、80年代のレコードやカセットテープを買うと、最後の曲として、場違いな「健全歌謡」が必ず入っていた。

 1984年のシムスボンの「심수봉 신곡1집」のカセットB面の最後はこんな感じ。

 1985年のイドンウォンのアルバム「이동원2」のB面の最後のところはこうである。

 

 かなり、投げやりに入れたんじゃないかと思うほどの場違い感がある。

 公式に販売されているレコードやカセットは、例外なく全部がこうであった。

 

 1970年に文化公報部で「音盤法」、すなわちレコードに関する法律の改定を進めた。不正行為の横行や、退廃・低俗音楽の追放ということで推進されたものだったが、この時の条文には、「健全歌謡」を挿入しなければならないといった条項はない。

 その後も、「健全歌謡」挿入の規定はないのだが、その一方で、この直後から健全歌謡の推進キャンペーンが進められている。

 

 その結果何が起きたのか。音楽業界、特にレコード会社は事前・事後の審査を通すために、「健全歌謡」を必ず挿入することになった。いわば自主規制として始まり、この検閲をスムーズに通すための健全歌謡の挿入が全斗煥時代にも続けられることになった。

 

 1982年に、チョンスラが健全歌謡として歌った「ああ!大韓民国」がヒットして話題になった。この曲はチョンスラとチャンジェヒョンのデュエット曲である。

 これで、健全歌謡が認められることになったわけではない。『京郷新聞』の記事にもあるように、「健全歌謡でもヒットすることがある」という驚きであり、「そんなはずがない!」という気持ちのあらわれである。つまり、「あー大韓民国」以後も、依然として健全歌謡は邪魔者であったのだ。シムスボンやイドンウォンの例を見れば明らかである。

 

 この「健全歌謡の挿入」も「自主規制」であって独裁的権力者の「強要」「強制」というかたちをとっていなかったので、いつから「やらなくてよい」ということになったかについては明確な資料がない。民主化宣言と盧泰愚大統領の第6共和國の成立とともに、いつの間にか無くなっていき、「こんな時代があったんだよ」という年寄りの思い出話として語られるようになった。 

 

 こうやって整理しながら書くと、韓国の「独裁」というのは、上からの強権からだけではなく、自分たちの自己規制で社会を動かしていたという部分もあったことがわかる。まさに、今の日本社会でよく使われるようになった「ソンタク」である。「ソンタク」という言葉を使うことでわかった気になって、納得してしまっているが、実は「ソンタク」こそが「独裁」を許しているのではないだろうか。

 

 映画館でなぜエンドロールの前で席を立つのかというところから、いろんなものを探し始めたのだが、以前の「韓国の独裁社会」をのぞいていたら、思いは自然に今の日本の「ソンタク社会」まで来てしまった。