京城帝国大学衛生調査部編『土幕民の生活・衛生』(岩波書店 1942)という本がある。1940年の春、京城帝国大学医学部4年生田中正四を中心とする20名の医学部学生が「土幕民」の実態調査を行い、1940年10月から翌年6月にかけて『朝鮮総督府調査月報』に京城帝大特殊細民硏究会の名前で4回にわたって掲載した。その2年後、これをまとめて岩波書店から単行本として出版されたものである。
国会図書館デジタルコレクションでも読める。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276767
土幕民調査の当初のメンバーは、内地人学生10名と朝鮮人学生3名、その後7名の朝鮮人学生が加わった。朝鮮人学生は、1937年の入学時には全員が朝鮮名であったが、多くは卒業時までに創氏改名(1939年制令19号および20号で定められた朝鮮に本籍地のある者に対する措置)で日本式の氏名に変わり、調査に加わった朝鮮人学生で、書籍出版時にも朝鮮名であったのは玄寅燮と朴大均の二人だけであった。田中正四のあとがきでは、( )内に朝鮮名を付記してある。そうでもしないと誰が誰だかわからなくなるから。
日中戦争開戦後の戦時体制のもとで日本の朝鮮植民地支配が大きく変質した時期に、この土幕民の調査は行われた。

「土幕」というのは、1920年代後半に作られた造語とされている。『土幕民の生活・衛生』では、「土幕」とは「零細民が雨露をしのぐための粗末な居住のための構築物」をさすもの、幕(막)には「風雨をしのぐ仮小屋、あばら家」という意味があり(주막・원두막)、それに土壁といった意味で土を冠した造語だろうと推測している。
一方、朝鮮総督府の嘱託として朝鮮の経済や人口、それに生活状態などについて調査した善生永助は、1932年の「特殊部落と土幕部落」(『朝鮮』209号 1932年10月)で、1930年の調査に基づいて「土幕部落」をレポートし、その中で、「土幕」は「掘建小屋又は蒲鉾小屋」、「土幕よりも一層粗末な穴居」は「土窟」と呼んで両者を区別している。試しに、NAVER Newslibraryで検索してみると、「土窟」は1920年前後からが使われているのに対し、「土幕」は1930年前後から多くなっている。ただ、これは京城などの都市貧民だけの記事ではないので、単なる傾向にすぎないが。
この用語の変化は、実際の居住形態の変化を反映したものと考えられる。すなわち、1910年代後半から20年代には斜面の穴などを住居としていた貧民が、次第に廃材などを利用した小屋を建てて住むことが多くなり、これを「土幕」と称すことになったと考えられる。
1924年3月に赤間騎風が『大地を見ろ』を出版して、ここで京城の貧民、下層民を描いている。
赤間騎風は本名赤間長太郎、福岡県筑紫郡警弥郷の出身で、黒龍会系の人脈があって京城では週刊の『京城新聞』の主筆をつとめた。その後、京城の苑南洞195番地で出版・著述業を営むと同時にここを拠点に中国東北部の「馬賊」との連携を計ったり、大興安嶺の踏査を行ったりしていた。潜入取材とドキュメンタリーを得意としていたが、1928年に39歳で死去している。
東京経済大学学術機関リポジトリ
http://repository.tku.ac.jp/dspace/handle/11150/2742
その中に、光煕門外で取り壊された城壁の穴に暮らす蛇とりと盲目の女乞食の住まいについて次のような描写がある。
穴小屋の角の、蝋燭を立てゝあった石油箱は、蝮の入れてある箱だつたのだ。此小屋には、乞食母子と、尹を始め、蛇捕りの土蜘蛛共を合して十三名ゐる。間口一間、奥行二間の穴の中に、十三の頭が暮してゆかれるのは奇蹟である。
(九 蛇捕りと女乞食)
まさに「土窟」に暮らしていたのである。廃材などが入手できなかったのであろう、住居のない貧民は穴に住まざるを得なかった。
赤間騎風は、「山窩」という項目でこのように記述している。
山窩といふのは、まだ内地にもゐるかも知れない。私が少年の時分、東京に近い道灌山にも、居たのを、知つてゐる。道灌山のは、岡の中腹に横穴を掘つて、穴の入口に『コモ』が、吊るしてあつた。
(中略)
山窩は、龍山、蓬莱町、御成町、光煕門外の四ヶ所を合して五十もあるがそれを一々書く必要もあるまい。光煕門城壁のも『蛇捕りと女乞食』の記事で、その生活の一片は知れた筈だ。私は茲に、御成町城壁下と、それから、蓬莱町の山窩を書かふとおもふ。
蓬莱町四丁目、養正高等普通學校裏の共同墓地は、南に面した小高い山だ。そこに、二十二軒の山窩の住居は點々と建てられてゐるのだ。
山窩といふが、此處のは穴倉式のは極めてすくなく、小さいながらも壁をつけ、形を備へた温突が多い。中には、新らしい紋紙で室内を張つたのも見かけられた。此處に住むのも勞働者が多く、車力、チゲクン、土方の類で、至極平和に暮してゐる。
(十六 山窩)
1924年刊行の書物で、穴を住まいにする人々や掘っ立て小屋を建てて暮らす人々を赤間騎風は「山窩」と呼んでいる。「土窟」や「土幕」という用語は使っていない。しかし、ここでも「穴倉式の」土窟から「小さいながらも壁をつけ」「紋紙で室内を張つた」土幕へという変化が起きつつあったことが読み取れる。
養正高等普通學校の裏側の南向きの斜面というと1936年の『大京城大観』だとこの辺りということになろう(黄マーク:赤マークが養正高等普通學校)。
今はこの一帯には高層アパートが立ち並んでいる。
養正高等普通學校は、ベルリンオリンピックマラソン金メダリスト孫基禎が通った学校である。平安北道新義州出身の孫基禎は1932年に19歳で陸上運動部にスカウトされるかたちで入学している。銅メダリスト南昇竜もこの学校に在籍していた。
1988年に養正高等学校が木洞に移転し、現在はその跡地が孫基禎体育公園となって当時の校舎旧館が孫基禎記念館となっている。
蓬莱町四丁目の養正高等普通學校裏の「土幕」については、善生永助の記録もある。それについては後述。
「土窟」のように穴で暮らす貧民については、村松武司の『遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』にも次のような叙述がある。1930年代に入ってからの記述である。
仁丹山とよばれた、山ではない丘があった。「京城」の中心部、京城駅から十五分ばかり東へ歩いた山の手に屋敷が建ちはじめ、この丘の周囲が埋められていった。赤土の傾斜面はかなり急勾配で、三〇度ばかりあったろうか。
(中略)
何日か経った。わたしは仁丹山に遊びに行った。その日はたくさんの友達がいて、時を忘れるほど遊んで、いつものように丘の斜面をすべり降りた。降りたところで、斜面のないふだん寄りつきもしなかった崖のほうを見た。薄い煙が上っていた。そうだ……あそこには穴があったな。獣のように人間が住んでいる穴があったな。なぜいままで近寄りもしなかったのだろうか……。わたしは籔を分けながら煙をあげているその場所に近寄った。穴の手前に、わたしくらいの子供が二人いた。穴から外へわずか数メートル。二坪ばかりの空地の縁まで出てきて、臆病そうにまた穴の中へひっこんだ。かわりに今度は熊のような巨きな人間が出てきた。赤い顔をしたあの黒服の男だった。彼は笑った。そして悪意のない表情で私を招いた。
はじめてそのとき、なぜだろうか、わたしは悲しくなったのである。そして衝動的に逃げた。
(村松武司著・斎藤真理子編『増補 遥かなる故郷 ライと朝鮮の文学』2019年)
仁丹山は当時の三坂通の西側にあった丘の通称であった。蓬莱町とは京城駅をはさんで反対側である。この丘にも朝鮮人の共同墓地があった。
村松武司は1938年に三坂小学校を卒業してる。三坂小学校の同窓会誌『鉄石と千草』(1983年刊行)に、1921年卒の岡村新の文章と編集注があってこれに墓地の話が出てくる。
わが家から吉野町に出る道は、部落と部落の間を這うように走っている細い道を通って大きな墓地山(編集部注:仁丹山)を越えていく道のりであった。何百とある土まんじゅうの中からは、崩れて人間の黒髪が出ていたこともあった。この墓地山が崩されて階段状の大住宅地ができたのは、大正の末年(編集部注:仁丹山、仁丹の広告塔があったのに由来。しかし、一部の人は“人体山”と読んでいた。それは、この墓地群のあったことから)。
土窟も土幕も、墓地が利用されることが多かった。墓地は居住者がいないため空間が確保でき、普段は人が寄り付かないので気づかれにくい。それに、風水の陰宅では南向きの排水のよいところが選ばれるので、庶民の共同墓地も、最良の場所とはいかないまでも、そこそこの環境の場所にあったのであろう。
他方、京城の東側の光煕門周辺も墓地が多かった。善生永助は「特殊部落と土幕部落」で、光煕門外新堂町の土幕民について次のように書いている。
◎京畿道高陽郡漢芝面新堂里
位置:京畿道高陽郡漢芝面新堂里一圓内舊墓地竝堤防等にして、俗に東正洞墓山洞、蛇取洞大峴と稱し、何れも官有地なり。
沿革:大正七年(1918)頃傳染病等に罹りたるものが家主又は雇主より追出され、前記場所に土幕を建てたるを初めとし、其の後各方面より生活難に追はれたるもの等、看守の手薄を奇貨とし、土幕土窟を築造するもの増加するに至れり。
戸数・人口:所帯数一一二戸 人口三〇三人
赤間騎風の蛇とりの話の場所と近いと思われるが、俗に「蛇取洞大峴」といわれるとあるのが興味深い。
光煕門は別名を「屍口門」といい、葬列はこの門を通って城外に出て死者を墓地に葬ったとされる。京城に日本人が増えると日本人のための火葬場が必要となった。京城在住日本人の居留民会が火葬場を建てたのもこの光煕門の南側であった。
さらに、漢城を取りまいていた城壁を利用して小屋掛をしたり、京城運動場建設のために城壁が取り壊されるとその跡地に土幕が作られて集落が形成されていくということもあった。
光煕門外の城壁を利用した土幕
一方、西の方では、遺体は西小門から運び出され阿峴里周辺ににあった共同墓地に埋葬された。現在、地下鉄5号線に애오개という駅がある。西小門のあった場所に近い忠正路駅と孔徳駅の間で、西小門から運び出された子供の遺体がここに埋葬されたことで子供(애)を葬ったことに由来するという伝承がある。
この阿峴にも日本人の居留民会が火葬場を建てている。
善生永助の「特殊部落と土幕部落」に次のような記載がある。
◎京畿道高陽郡延禧面阿峴北里
位置:高陽郡延禧面阿峴北里の、北側山の中腹にして、京城学校組合の所有地なり、京城府蓬萊町四丁目山一番地(俗称삼태우물)付近一帯の高地にして、緩傾斜を爲し官有地なり。
沿革:詳細判明せざれども、各地方より京城府内に就職口を求むべく來城したる勞働者が、遂に職を求めること能はざるため、一時假住所として土幕を設けたると、龍山其の他各署管内の土幕生活者が追放せられたる爲め、漸次増加せしめるものと認める。
戸数・人口:蓬莱町四丁目山一番地 世帯数三一戸 人口一五四人 阿峴北里 世帯数二八戸 人口九三人
生業:擔軍及び乞食とす。
この蓬萊町四丁目の土幕集落が、赤間騎風が「山窩」の中で言及していたものである。
現在でもこの場所には삼태우물(サムテギの形をした井戸)の伝承が残っており、昔そこが共同墓地であり、植民地時代には多くの貧民が住んでいたこと、そして80年代まで「山7番地」と呼ばれていたことも伝えられている。아현동 : 네이버 블로그
京城場内に近接していながら利用空間を確保できる墓地や城壁・城壁跡を利用して土窟や土幕が作られるケースが多かったものと思われる。
(つづく)

































