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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 1935年に和光教園が貞陵里、そして向上會館が弘濟外里に土幕民の収容施設を設置することになった。「土幕民(3)---和光教園と向上会館」に書いたように、それは社会事業のようにみえるが、実は「大京城」計画がきっかけで実施されたもので、新たに京城府に組み入れられる地域の土幕が「整理」の対象となり、京城の「美化」のために土幕民が「府内」から追いやられることになった排除の色合いの強いものであった。

 

 都市の周辺に暮らすことでかろうじて生きている貧しい人々にとって、中心部に隣接する場所から排除されるということはまさに死活問題であった。


 1930年代後半の貧しい朝鮮人の生活の一端を描いた回想がある。土幕民や土窟民が早くから住みかとしていた三坂通の三坂小学校に、1935年に入学した山田卓良の回想である。

(龍山の)陸軍官舎に住んでいたころ家の前の道端で、毎日、牛車に積んだ大樽の兵営残飯にむらがる朝鮮人の姿である。二銭、三銭支払ってはパカチの容器一杯の残飯を買っている。残飯には、麦飯の中に魚の骨などの残菜も混入していた。腐ってはいないのだろうが、すえたような臭いがして真黒にはえがたかっていた。その残飯は家畜に与えるものではなく、彼等の常食に供するものだった。

京城三坂小学校記念文集『鉄石と千草』(1983)

戦後、1970年代になって山田が韓国を訪れた際、ある韓国人との会話をきっかけに思い出した記憶の中の風景だという。

 1930年代の京城で、すえた臭いのするハエのたかった残飯を求めて暮らす人々もいたのを内地人の子供は目にしていた。しかし、それは長いあいだ朝鮮の記憶の奥底に追いやられていたのである。

 土幕に暮らす人々は、京城の中心部に近接する場所にいれば軍の駐屯地の残飯にありついたり、京城駅・龍山駅のような人と物資の集散する場所などで、生き延びるためのわずかな日銭を稼ぐこともできた。

 内地人や一部の朝鮮人が見たくない「貧しさ」を見えないところに遠ざけること、それが「大京城」を「美化」する方策の一つだった。それが「土幕整理」だった。

 ただ、貧しい人々は市街を離れては食えない。和光教園や向上会館が貞陵里や弘済外里に収容施設を造成して多少なりとも改善された居住環境を準備したといっても、その日暮らしの土幕民はそこには移れなかったのである。

 この「土幕整理事業」の問題点を報じる1936年7月の『東亜日報』の記事がある。

土幕民移住失敗は朝三暮四ちょうさんぼしの政策
今年内1500戸移住計画も事実上実現は困難
 京城府で去る昭和9年度から同12年度まで4ヵ年計画で府内に散在する土幕民2000戸を府外弘済外里と貞陵里に集団収容し、弘済外里は橋南町にある向上会館に、貞陵里は観水町の和光教園に委任してその事業を進めさせてすでに3年目に入ったが、実際の成果は弘済外里で約140戸ほど収容しただけである。
これに思うところがあったのか、数日前に土幕民整理委員会を開会してこれについての善後策を講究し、今年中にその4分の1にあたる1カ所につき750戸ずつを収容する方針を立てたという。
 しかし、これまで土幕民集団収容政策の成果が芳しくない原因は、府当局の土幕民整理方針が途中で変更されたところにある。最初は土幕民の生活状況を考慮して家屋建築材料を供給することになっていたが、予算の関係で部落の道路・水道・下水設備だけを行い、その外は全て土幕民が負担して家屋も自分で建てることになった。
 土幕民はまさにその日暮らしで、悲惨な生活を送っており、到底その重い負担に耐えられない。また収容所近くには労働市場がないために生活を脅かされるため、二ヶ所の収容施設に行きたがらない。従って、今年中に1500戸を二ヶ所に収容するという方針は実現困難である。府ではどのように対処するつもりなのであろうか。

 4カ年計画で2000戸を移す計画の3年目に入ろうとしている時点で、収容地に移ったのは弘済外里で約140戸のみに過ぎなかった。頓挫している原因は、当初京城府の予算で確保するとされた建築材料が全て土幕民の自己負担になった上、弘済外里と貞陵里の近くに「労働市場がない」という立地条件にあったと書かれている。

 ためしに、KakaoMapで弘済外里から京城駅まで徒歩ルートを検索すると1時間半かかる。阿峴の和光教園の望月郷からだと京城駅まで20分程度。桃花町から龍山駅も25分程度である。

 

 1940年の京城帝大医学部生による調査では、敦岩里(旧貞陵里)の和光教園の収容地に約500戸、3037人、弘済外里の向上会館の収容地に930戸、5580人と当初の計画を下回ってはいるが36年よりはだいぶ増加している。ただ、実際の入居者は、京城府が対象者としていた府内の土幕民よりも、権利の転売などで格安住居を手に入れた勤労民が居住するケースが半数以上だったとされる。向上台の下には不動産屋、高利貸し、質屋などがあり、中腹までは勤労階層、上部が貧民の居住区といった区分けが出来上がっていた。

その理由の一つとして考へられることは向上台が都心地から離れすぎてゐて、交通費がかさみ、婦女子など僅少な賃金では市内に働きに出ても得るところが少ないためかとも考えられる。
将来に於ても市内各所に散財する土幕民を整理する場合は、この向上台に於けると等しく、或ひはより遠距離に追出されることと思わはれるが、彼等の大部分は都市に出て職を求めるものであり、また彼等の職業は多く早朝から、日没後に至るまでの長時間の就業を余儀なくせしめられるものであり、しかも労銀に比較して交通費の占める割合はすこぶる大きいのであるから、これらの諸点について考えただけでも、その対策は容易ならざるものがある。

『土幕民の生活・衛生』第1編第5章第2節

 こうしたこともあってのことだろう。1938年になって、京城府は府内の新設町・安岩町など清渓川に流れ込む龍頭川河原周辺の公有地5000坪を開放して、土幕をここに誘導することにしている。

 

 1938年10月29日と30日の『京城日報』には、京城府の工営部長の長郷衛二が「朝鮮都市に於る特殊細民に就いて(一)、(二)」を掲載し、主として内地人向けに「土幕民対策」について解説記事を書いている。

 長郷の記事では、土幕民を3分類し、最下層の貧民層(第1種)はその一部に過ぎず、そこそこの収入がありながら格安の借家として土幕に住む階層(第2種)や、土幕収容地や土幕の貸借などで利益を得ている階層(第3種)もあるとしている。すなわち、向上台を例にとれば、最上部に第1種の人々、中腹に第2種、そして麓部分に第3種の人々が陣取るといったかたちである。

 そして、その記事の最後に次のような今後の方針を示している。

以上二つ共細民地區設定には都市計畫案として指定し、其収容地は山頂山腹をさけ平地で都市の風致を損せざる地点に且つ勞働市場に近く分散的に設定する、これには國有地の拂下げによるか或區畫整理事業に伴ひ減歩により捻出すべき事が可能性がある。

すなわち、京城府街の傾斜地で、かつ働く場が近くにないという収容施設の立地条件の悪さを認めた上で、新たな措置として、府内のはずれの土幕の多い河原などの公有地・国有地を指定して、ここに各所に散らばっている土幕を集中させるという方針を立てた。

 

 

 戦時体制が強化される中、京城の土幕民はますます増えていった。1940年7月初め、大雨のため龍頭川の堤防が決壊して一帯の土幕民が被災した。この時、たまたま朝鮮北部の咸鏡北道と平安北道から「石炭運搬人夫200戸1000人」を送ってほしいとの依頼があった。これを報じる『京城日報』には、4万人の土幕民をみんな送ってしまえといわんばかりの記事が掲載された。

 この朝鮮北部への土幕民送り出しは、京城府の社会課が土幕民の多い地区の出張所に係員を派遣して土幕民を集めようとしているとされているが、それ以上の具体的な内容については資料が見つけられない。

 ただ、この時期以降、再び「土幕民整理」の動きが強まっていく。

 この5月10日の記事から2ヶ月後の7月には、東京城、多分新堂町、安岩町、竜頭町の指定地以外の土幕が強制撤去され(『毎日新報』1941年7月18日)、漢江沿江の土幕民も排除されている(『毎日新報』1941年8月28日)。

 すでにこの時期には、『朝鮮日報』『東亜日報』は廃刊になっており、朝鮮語の新聞媒体は総督府の機関紙『朝鮮新報』(旧朝鮮申報)のみとなっており、『東亜日報』の記事のように土幕民への対応に懐疑的な視点が垣間見られるような記事はなくなっていた。

 

 そしてその翌年には、土幕民を「労力報告運動」という形で戦時の労働力として動員するという方向が打ち出されている。

 

 それが具体化したものが、土幕民の北海道への移送である。

 1942年2月26日の『毎日新報』に、「土幕民蘇生 産業戦士として北海道に」という記事がある。西大門、龍山、城東、東大門などの各警察署管内の570名ほどを北海道の鉄道土木工事場に「斡旋派遣」するとなっており、すでに2月13日に50名、14日に83名、23日に85名、24日に85名が送り出されたとなっている。そして、最後に「이들토막민들의 자최를 업새이게할터이라고 한다.(これら土幕民の痕跡をなくしてしまうという)」と結んでいる。

 3月12日には、続報として3月29日までに590名が送り出されるとしている。

 

 さらに、6月には追加の1000名を送り出すという記事が出ている。

かなり具体的な内容が書かれている。

一億国民の心と誠を捧げ大東共栄圏建設に突進するこの時、都市の細民層である土幕民を動員して鉄道工事と一般土木工事に建設戦士として参加させ、彼らに凛々しい気迫を備えさせる一方で生活安定を確保させるという意味で、京畿道社会課では昨年冬に前後三回に渡って北海道に送ったが、その成績が大変よいことから、また今回1100名の土幕民を、北海道鉄道工業株式会社、地崎組の雨龍電力株式会社に送ることに決定し、来たる19日午後2時から道庁第二会議室で野田社会課課長、佐野高等課課長と京城府の府内各職業紹介所長、各警察署高等係主任と、その他係員30名あまりが出席して、各警察署を単位とした斡旋人員と出発日時その他具体的方策を討議決定することになっている。大体において城東、龍山、東大門各署は150名、本町、鍾路署は各50名、永登浦署は100名、それ以外は職業紹介所で直接斡旋がなされる。

「官斡旋」といわれるものだが、その実態は、京城府庁社会課や府内の職業紹介所だけでなく、各警察署の高等係主任がそれぞれの管内の人数を決定して、その人員を北海道に送り出すものであった。

 

 これ以降、どの程度の人員が送り出されたのか、その全体像を示す資料はまだ見いだせていない。

 

 土幕民が送られた雨竜発電所についてはこのように書かれている。

現地は北海道でも特に豪雪、酷寒の地域であること、計画規模が非常に大きく技術的諸問題が山積していたこと、さらには戦時下における建設資材、労務者の不足などの理由により建設工事の労苦は筆舌に尽しがたいものがあった。

機械の普及していなかった当時としては人力が主体であり、人間の全労力を投入して所謂人海戦術をもって建設に立ち向かったのである。

そのため各請負人は土工夫の獲得にあらゆる手段、方法を用い、昭和16年太平洋戦争に突入してからは工事に一層の拍車がかかり、募集の手を朝鮮にまで延ばし多数の朝鮮人を強制連行して工事に従事させた。

当初工事を請負った建設業者は、戦争による資材と賃金の騰貴で途中で工事を放棄したため、雨竜電力は準直営工事に切替え、戦時下の電力増強に対する国家の要請もありこれにこたえるため工事を強行し、この大事業を完成させたのである。

雨竜第1ダム右岸の小高い丘に慰霊塔が湖を見おろすように立っている。表面には「殉職者慰霊塔、雨竜電力株式会社社長足立正書」と書かれている。この工事の犠牲者は175人といわれているが、その数が実数と一致するのか日本人と朝鮮人の区分ができるのか全く不明である。

シリーズ ―日本の発電所― 北海道電力雨竜発電所

北海道電力(株)発変電課長 田原迫孝一

1991年2月

 

(おわり)

 1942年出版の『土幕民の生活・衛生』には、京城の土幕民の分布図が掲載されている。

 この図の状況は1930年代末のデータによるものだろうが、自然発生的な土幕集落と同時に、桃花町の収容地やこれから述べる1930年代の囲い込み政策で収容された阿峴町、敦岩町、弘濟外里の収容地の土幕民も含まれている。

 

 1930年、京城府当局が二村町土幕民を桃花町に移転させたが、それ以降の土幕民の囲い込みは、民間の社会事業団体に委嘱される形で推進された。その受け皿になったのが、浄土宗の「和光教園」であり、真宗大谷派の「向上会館」である。

 『土幕民の生活・衛生』には、以下の3例が紹介されている。

 

(1)和光教園が阿峴町に開設した収容施設

京城府から淨土宗開教院の開設した社會事業團體和光教園に社會事業補助金を交附して、土幕収容事業に当たらせることとなつた。そこで和光教園は阿峴町七番地外三筆の土地、計一萬八千七百九十八坪を買収し、ここに道路を設け、一戸平均十二坪乃至十五坪の土地を貸與し、約千戸の土幕民を収容することになつた。現在の収容戸數は九百五十戸、人口七千六百三十人を數へ、貧弱ながらも學校、授産、託兒、施療、救護等の諸施設がある(収容戸數に比して人口數の著しく多いのは他の土地収容地においても同様であるが、これは主として一戸に二間以上の温突を有する時は一間の溫突を月貰四―七円程度で他人に貸す爲である。参考の爲に申し添えれば土幕民の一世帯あたりの家族數は四・七人である)。

(2)和光教園が敦岩町の国有地に1934年に開設した収容施設

和九1934年敦岩町(当時の貞陵里) の國有山林二萬四千七百九十坪を和光教園に貸與し、主に東部方面の土幕民を収容する計画を立て、一千戸の収容を目指してゐたが、土地が急峻なために意の如くならず、現在までに約五百戸、人口三千三十七人の収容を行つている。その他に、社會事業施設を附随せしめてゐることは他の主要地と同様である。

(3)向上会館が弘濟外里の国有地に1934年に開設した収容施設

昭和九年敦岩町の和光教園の収容地と同時に計畫されたもので、弘濟外里の二萬三千七百九十坪の國有林を眞宗大谷派の社會事業團体たる向上會館に貸下げ、龍山警察署及び西大門警察署管内の土幕民収容計畫を樹て、千戸収容を目標として行つて來たが、現在戸數約九百三十戸、人口五千五百八十人に及んで飽和狀態に達して、これ以上の収容力はない。

 浄土宗の「和光教園」と真宗大谷派の「向上会館」は、植民地朝鮮における日本仏教系団体による社会事業の中で代表的な組織とされている 注1


注1
尹晸郁『植民地朝鮮における社会事業政策』大阪経済法科大学出版部 1996
諸点淑「植民地朝鮮における日本仏教の社会事業に関する一考察 ― 真宗大谷派の「向上会館」を事例として ―」『立命館史學』28号 2007年11月
諸点淑「日本仏教の近代性と植民地朝鮮 ― 浄土宗の「和光教園」を事例として ―」『近代と仏教』巻41 2012年3月


 浄土宗は1893年から朝鮮での布教活動を始め、併合後の1913年には、京城府観水洞102番地に「開教院」を開いて、朝鮮人向けの教化活動の拠点とした。1919年の31独立運動が起きると、朝鮮総督府の意向を受けるかたちで、植民地支配の「安定」、すなわち表立った反抗を予防するための朝鮮人の懐柔に積極的に関与した。1920年12月に、鍾路三丁目27番地の総督府所有の土地・建物の無料貸与をうけて朝鮮人下層労働者のための宿泊事業に乗り出し、「和光教園」と称した。さらに、1924年には開教院に隣接する朝鮮軍司令部庁舎だった敷地の無料貸与、1926年にも総督府所有地の貸与や譲渡をうけるなど優遇された。

 一方、真宗大谷派は、江華島条約締結から間もない1878年に釜山に本願寺別院を置いて朝鮮での布教活動を開始した。そして、浄土宗の「和光教園」と同様、31独立運動の後、「鮮人ママ思想の善導」を掲げ、朝鮮総督府が目論んだ朝鮮人懐柔のための社会事業に乗り出した。1920年1月、開港期の漢城で日本が最初に公使館を置いた西大門外の天然洞の旧公使館跡地を朝鮮総督府から無償で借り受け、ここに向上会館を建設した。1924年からは、ここに女子技芸学校、実業や学校を開設して「教化」事業を行った。

日本の最初の活動拠点はここ(西大門外天然洞)だった。

 

 この二つの団体だけが朝鮮総督府の懐柔策に迎合していたというわけではない。当時は1919年の31独立運動が侵略への抵抗運動であるという本質を理解できず、朝鮮人の「教化」不足、朝鮮の若者の就学・就労の不満のあらわれといった見方が一般的であった。そのため、和光教園や向上会館以外でも、31運動を契機に「社会事業」「就労教育」に乗り出した例があった。

 これは、他のことを調べていてたまたま出てきた資料なのだが、日本基督教会ではこのような広告記事を出している。

 申し込みの窓口になっている牧師秋月致は、実は私の祖父なのだが、当時内地人会員がほとんどだった日本基督教会京城教会の牧師で、井口弥寿男はその前任牧師。秋月致は水原提岩里事件のあと『福音新報』に「生命尊重の希望 」という日本の憲兵・警察による虐殺を知らしめる記事を書いている。井口は、牧師でありながら1920年に『日鮮辞典 : 実用本位』という辞書を編纂・出版している。受け入れ先の五反田の牟田鋳工の牟田易太郎は、日本の鋳物業界の有力者で早稲田大の鋳物研究所の設立にも関わっている。熱心なクリスチャンで朝鮮青年の引き受け先となった。この広告を見つけた時には、唐突な「鋳物工徒弟募集」で、すぐには趣旨が理解できなかったのだが、和光教園や向上会館の設立経緯に照らすと、時代の流れとこの募集広告の目的がよくわかる。やはり、日本による侵略と、その侵略への抵抗としての31運動の本質が理解できていなかったと言わざるを得ない。

 

 さて、和光教園が阿峴町に作った土幕民収容施設については、雑誌の『朝鮮及満洲』の1934年3月号に取材記事が掲載されている。タイトルは「人間のどん底生活をして居る 京城の土幕民収容地 和光ヶ丘・望月郷を訪ねて」で、いくつかの具体的な情報が書かれている。

 この施設を開設することになった発端の一つは、1931年に決定された京城測候所の松月洞移転である(京城測候所についてはこちらのブログを参照)。松月洞の測候所は城壁を取り壊した跡地に建てられる計画だったが、城壁の外側の空間には多くの土幕が作られており、これを撤去しなければならなかった。

むやみに排除するのでは混乱を招きかねないが、当局が前面に出て救済しては示しがつかない。京城府では、和光教園に補助金を出して土幕民の代替地を用意させることにした。和光教園では、まず阿峴町7番地を中心に2000坪を入手して松月洞の130戸の土幕民をここに移動させた。この収容地は、雑誌『朝鮮及満洲』の記事では、和光ヶ丘「望月郷」となっているが、浄土宗内では「法然村」と通称されていたようである(塚本善隆編『己卯訪華録』 1939)。

 和光教園では、さらに1933年春までにその後背地を買収した。その後区画内の墓の改葬などを行い、その秋から京城府周辺の土幕民の収容を始めた。1戸平均10坪程度を1年間無料貸付というかたちだったが、実際には期限はないに等しかった。親切なのではない。そこから出さないためである。雑誌『朝鮮及満洲』の取材をした1934年初めの時点で、新堂里81戸、蓬莱町59戸、桃花洞47戸、錦町37戸、阿峴北里30戸、竹添町26戸、峴底洞19戸、阿峴里203戸などかなり広い範囲からここに移動させられており、松月洞からの移動者も合わせて、678戸、3543人が収容されていた。そのほぼ6年後の1940年、京城帝大医学部の田中正四らの調査では、950戸、7630人と記録されてる。特に居住者数の増加が大きい。1戸平均5.2人だったのが、1戸に8人と多くなっている。これはオンドル部屋が2間ある場合、その1間を貸して複数所帯になっているためだと『土幕民の生活・衛生』では解説されている。月貰ウォルセなのだろう。土幕民の増加だけでなく、借地権や土幕住居が利権化して貸借や転売が行われるようになっていたと見られる。

 区割りされた土地は借用できても住まいは自力で建てるしかなかった。結局、住居自体は、依然として土幕あるいは不良住宅と呼ばれる粗末なものであった。ただ、土地の無断占有ではない点、十分ではないが11ヶ所井戸が掘られていた点などで、従来の個別の土幕集落と異なっていた。赤間騎風が「府よ、お前達よ、あの垂れ流しだけは、やめてくれ、やめさせてくれ」(『大地を見ろ』)と書いた糞尿の処理などはどうだったのか。これには触れられていないが共同の便所などがあったとされる。行政組織も絡んでいるので、汲み取りなどもなされてはいたのだろうが、1940年の調査時には、「汲み取りが間に合わず溢れている」となっている。

 そうした生活インフラ部分以外にも、就学支援や職業指導なども行われることになっており、『朝鮮及満洲』の取材時にはすでにいくつかの事業に着手していた。この望月郷の居住者の中には、一山越えた京城駅周辺での運搬人夫や、行商人、配達夫や職人などの職を持つものもいたが、失業者、物乞いなども少なくなかった。そのため、カマス作りや裁縫の内職、練炭製造などの内職兼職業訓練を試みており、未就学児童のための講習所の開設も計画された。ただ、6年後の調査を見る限り依然として劣悪な状況に置かれたままであり、大きな効果を挙げたとは言いがたい。


 さらに和光教園は1934年に貞陵里の国有地にも収容敷地を開設している。開設当時は貞陵里だったが、1940年には敦岩町に組み入れられていた。1925年に修正測図された「朝鮮5万分の1地図」(下図左側)と1940年の「地番入大京城精密図」(下図右側)とで比較すると、このあたり(赤丸部分)ではないかと推測される。ソウル軽電鉄牛耳新設線の誠信女大ソンシンヨデ駅から貞陵チョンヌン駅の間の高台ではなかろうか。

 

 一方、同時期に設置された弘済外里の向上会館が管理する収容施設については、『土幕民の生活・衛生』に「向上台」という写真が口絵として掲載されている。

 1万分の1の地図で勝手な推測でそれらしいところを探すと、この辺り(赤丸部分)かなとも思う。いまの地下鉄3号線の弘済ホンジェ駅から碌磻ノッポン駅に向かう路線の上の道路で南部循環道路を越えた右側に見えるオリニ公園のある山かもしれない。火葬場入り口から向上台中腹の学校が遠望できるとあるので、だいたいこの位置であろう。火葬場は、1929年6月に弘済内面に火葬場を新設されていた。

 

 この2カ所の施設については、1935年10月20日の『毎日申報』(朝鮮総督府の朝鮮語による機関紙)に次のような記事が掲載されている。

・細窮民が年々増え、一般民の住宅不足も影響して住居がなくて困っている。

・数年前に阿峴里に1000戸、老姑山に300戸収容して和光教園に管理させてきた。

・しかし、ますます露宿者(ホームレス)が増えている。

・このため、京城府では貞陵里と弘済外里に国有地を確保して3カ年計画で6000戸を建てて収容することを計画、京畿道に建設計画を提出し今月末には許可される見通し。

・とりあえず、二ヶ所に2000戸ずつの土幕を建てて冬前に収容する。

・貞陵里は和光教園、弘済外里は向上会館がそれぞれ管理する。

・府内の不良住宅居住者もここに移動させる。

という内容である。

 一方、同じく朝鮮総督府の機関紙で日本語で出されていた『京城日報』にも記事が出ている。両者を比べると記事のニュアンスが異なっている。朝鮮語の『毎日申報』が具体的内容を盛り込んで「貧民救済策」とも取れなくもないのに対し、日本語の記事には「厄介者」の排除という視点が露骨に出ている。弘済外里の収容地は「楽天地」だと書いてあるが、実は、後述の『東亜日報』の記事にあるように、多くの土幕民にとって弘済外里の移住は生存すら脅かしかねないものだったのである。いま風に言えば、『京城日報』の記事は読者への「印象操作」である。

 

 

 1935年にこのような土幕民の新たな囲い込みが始まったきっかけは、京城府が近隣の郡部を府に組み込む「大京城」の計画が建てられたことにあった。1934年10月9日に行政区画の拡大のための首脳部の会議が開かれ、以後この計画が推進された。1936年4月1日、高陽郡、始興郡、金浦郡の一部が京城府に編入され、京城府の府域は約4倍になった。
 これは単なる行政区画の変更というだけではなく、「大京城建設」というスローガンのもと、道路の舗装、緑地帯・公園・散策道の整備、そして土幕民を新たな「府内」から追いやる「美化」が推進されることになったのである。

 

 すなわち、京城府の「大京城」推進のポイントの一つは、「土幕民の整理」、すなわち、新たに京城府に組み入れられる地区から土幕民を駆逐して「美しい大京城」を実現するところにあった。貧窮朝鮮人の救済に目的があったのではなかった。和光教園や向上会館は、社会事業という名目で、その「京城美化事業」の片棒を担がされていたということになる。

 

(つづく)

 1920年前後から、京城の墓地や城壁・城壁跡などの空間を占有して土幕が造られるようになり、漢江の河川敷での土幕集落の形成も始まったと推測される。『土幕民の生活・衛生』では、京城の土幕民が社会問題化した最初の例として、1925年の漢江の洪水に際して起きた問題を挙げている。

 

 この年7月12日に漢江が氾濫、18日に再度大増水して沿江一帯が広範囲にわたって浸水する大洪水になった。

 この洪水で川沿いの家屋の多くが流され、漢江大橋の中之島(現在の노들섬ノドゥルソム)付近に相当数あった土幕は全部流された。京城府は、漢江の対岸の本洞町(現本洞ポンドン)に買収した5,354坪に、被災民300戸を移住させることにした。借地の貸与で、坪当たり年7銭5厘を徴収するものであった。『土幕民の生活・衛生』ではこれを京城府による最初の土幕民整理事業としているが、移住対象となった300戸が土幕民であったかは疑わしい。この水害で被害を受けた二村町の土窟民が見舞金を求めて府庁に押しかけたが、府側は「税金を納めていない」という理由で支給を拒絶している。

 そうした土幕民・土窟民のために京城府が代替地を用意するとは考えにくいし、地代を払う借地に土幕民が移動するとは考えにくいのだが…。

 

 ちょうどこの1925年には、漢江河川敷以外でも土幕をめぐる問題が起きていた。

 その一つは、京城運動場(解放後のソウル運動場・現在は東大門歴史文化公園トンデムンヨクサムナコンウォン)の建設を巡っての問題である。京城運動場は訓練院の跡地、東大門から光煕門にかけての城壁を取り壊したところに予定された。予定地(黄金町7丁目)周辺には土窟や土幕に暮らす人々が住んでおり、彼らから救済を求める陳情が京城府になされた。

 これらの陳情に京城府が何らかの救済策を講じたとの記事は今のところ見当たらない。

 

 いま一つは、古市町10番地の土幕である。善生永助は次のように書いている。

◎京畿道京城府古市町十番地

古市町十番地にて南山寄りの高臺に位置す。部落名なし、私有地なり。

大正十四年(1925)頃朝鮮神宮裏参道道筋に散在し居りたりしを、神域なるの故を以て、彼等に退去を命じたる處、現在地に轉住し、最初は約十五六戸に過ぎざりしが、年々增加して現在數に達せり。
所帯数五八戸 人口二六五

 朝鮮神宮の参道周辺から追われて、1930年までに京城駅から吉野町・三坂通(厚岩洞)に上がったところの南廟の北側の高台(現ヒルトンホテル敷地)に土幕民の集落が形成されていたのである。

 土幕とは書かれていないが、普光町の朝鮮人基督教会に出向いた日本人牧師秋月致のこのような回想録もある。

一体此の普光町と言うところは龍山に練兵場が設けられる時、ここの岡に移された農民たちから成りたち、貧しき人々が多いのだそうだが、私は此の夜の集会を、非常にめぐまれたものと感じた。

『秋月致随筆集』

 すなわち、朝鮮総督府や日本軍、それに京城府の主導する「京城の建設・開発」にともなって、朝鮮人のが土幕民化したり、土幕民が追い払われたりしていったことがわかる。

 

 上述の1925年の大洪水で、朝鮮総督府と京城府は漢江の治水対策を迫られることになった。河川調査と治水計画案立案、予算の確保などに手間取り、1930年秋になって堤防建設に着手された。

 しかし、1925年の大洪水からの5年間で、漢江の北岸二村洞には再び土幕・土窟の集落ができていた。『土幕民の生活・衛生』には治水工事と土幕民に関して次のような記述がある。

昭和五年新龍山鐡道工場南方河岸に居住していた西部二村洞の土幕民は漢江治水計畫の結果、堤防外となったため騒擾したので、當局は桃花町に一萬三千七百四十五坪を買収して、之に宅地造成を行ひ、住民二百八十戸を移轉せしめることに決し、第一期六十五戸は豫定の通り移轉せしめたけれども、その後のものは大半は土地代の交付を受けて流離し、實際に移轉したのは約半分に過ぎず、桃花町の殘餘の地は他から流入した雑分子に占められる有様になった。

 「土地代の交付を受けて」とあるので、立ち退きに当たってなにがしかの補償があったのであろうか。さらに、二村洞の土幕民には桃花町の移転先での割り当てがあり、この割り当てが転売されて「他から流入した雑分子」が土幕を建てることになったケースが結構あったのであろう。

 土幕民への配慮に溢れた施策に思えるが、京城府側は漢江橋と鉄道橋から見えるところの土幕を一掃することを目論んでいたのである。これに関して、善生永助「特殊部落と土幕部落」に「京城府桃花洞山八、九番地」の土幕集落について次のような説明がある。

部落は桃花洞山八、九番地にて、西は山手町を隔て、漢江に面する府有地なり。

部落民は昭和四年七月迄京城府二村洞(東、西)に土幕土窟を建設し生活し居たるものなるが、該所は京城府の玄関口にして市街地美を損すること甚だしきを以て、五年七月の大洪水を期として京城府に於て移轉せしめたるものにして府有地なり。

土幕世帯数三〇七戸 人口一一三三人 土窟世帯数 三戸 人口九人

となっている。善生永助の記事には「資料は昭和五年中の調査」と書かれているから、まさに移転させた当時の情報である。『土幕民の生活・衛生』は1940年の調査報告で、10年後の聞き取りなどによるものである。

 京城の表玄関ともいうべき漢江の鉄道橋と漢江橋の周辺に貧相なあばら屋の集落があってはまずいし、堤防工事の邪魔にもなるというので、京城府で桃花町に移転させる計画を立てた。それが1929年7月頃ではなかろうか。漢江辺のスラム街は、美観上の問題という以上に、植民地統治政策の失政を京城来訪者の目に晒すものである。植民地統治者としては、土幕民を出来るだけ人目につかないところに追いやると同時に、治安・管理を口実に多少のアメを与えてでも囲い込むことにしたのである。

 もともと桃花町には、すでに土幕集落があった。善生永助の記録に、

◎京城府桃花洞山一、二番地

京城府桃花洞山一、二番地にして、彌生町遊郭北方山上にあり、北方に急傾斜し府有地なり。

部落民の大部分は地方農村より移住し來たるものにして、管理廰の管理不行き届きに乘じ該地に集團し、土幕土窟を建設したるものなり。

土幕世帯数七二戸 人口三一三人 土窟世帯数五戸 人口二〇人

主として日稼労働者なるも、中には雑業者並に小商人あり。

とあるのがそれである。

 1921年修正測図の1万分の1地図ではこの辺りになろう(下の地図参照)。桃花洞山八、九番地ではないかと思われるところには、墓地記号が見える。「當局は桃花町に一萬三千七百四十五坪を買収」とあるが、農地でも宅地でもなかった山林や墓地であるから個人が所有していたとは考えられない。買収したのが事実だとしても、土地調査事業で国有地として組み込まれた場所を京城府が買い取る形をとったのではなかろうか。

1万分の1地図

 

 さらに、1933年にも龍山の総督官邸前の漢江側にあった土幕を桃花町の収容地に追いやっている。

昭和8年、龍山總督官邸前に散在する土幕民に府有地である桃花町の一角を分割提供して、彼らに貸し付けて移轉せしめた。

 この龍山の総督官邸は、1908年に着工して翌年竣工した統監官邸で、併合以降は総督官邸として引き継がれた。しかし、京城の中心部から距離がありすぎるということで、日常的には使われないままになっていた。漢江の沿江地帯でもあり、堤防や線路の外側よりも人目につきにくいこのあたりに土幕民が居住することになったのであろう。

 

龍山総督官邸 朝鮮戦争の時に消失した。

現在の国立博物館の北東側、米軍基地の中に位置する。

 

(つづく)