土幕民(3)---和光教園と向上会館 | 一松書院のブログ

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 1942年出版の『土幕民の生活・衛生』には、京城の土幕民の分布図が掲載されている。

 この図の状況は1930年代末のデータによるものだろうが、自然発生的な土幕集落と同時に、桃花町の収容地やこれから述べる1930年代の囲い込み政策で収容された阿峴町、敦岩町、弘濟外里の収容地の土幕民も含まれている。

 

 1930年、京城府当局が二村町土幕民を桃花町に移転させたが、それ以降の土幕民の囲い込みは、民間の社会事業団体に委嘱される形で推進された。その受け皿になったのが、浄土宗の「和光教園」であり、真宗大谷派の「向上会館」である。

 『土幕民の生活・衛生』には、以下の3例が紹介されている。

 

(1)和光教園が阿峴町に開設した収容施設

京城府から淨土宗開教院の開設した社會事業團體和光教園に社會事業補助金を交附して、土幕収容事業に当たらせることとなつた。そこで和光教園は阿峴町七番地外三筆の土地、計一萬八千七百九十八坪を買収し、ここに道路を設け、一戸平均十二坪乃至十五坪の土地を貸與し、約千戸の土幕民を収容することになつた。現在の収容戸數は九百五十戸、人口七千六百三十人を數へ、貧弱ながらも學校、授産、託兒、施療、救護等の諸施設がある(収容戸數に比して人口數の著しく多いのは他の土地収容地においても同様であるが、これは主として一戸に二間以上の温突を有する時は一間の溫突を月貰四―七円程度で他人に貸す爲である。参考の爲に申し添えれば土幕民の一世帯あたりの家族數は四・七人である)。

(2)和光教園が敦岩町の国有地に1934年に開設した収容施設

和九1934年敦岩町(当時の貞陵里) の國有山林二萬四千七百九十坪を和光教園に貸與し、主に東部方面の土幕民を収容する計画を立て、一千戸の収容を目指してゐたが、土地が急峻なために意の如くならず、現在までに約五百戸、人口三千三十七人の収容を行つている。その他に、社會事業施設を附随せしめてゐることは他の主要地と同様である。

(3)向上会館が弘濟外里の国有地に1934年に開設した収容施設

昭和九年敦岩町の和光教園の収容地と同時に計畫されたもので、弘濟外里の二萬三千七百九十坪の國有林を眞宗大谷派の社會事業團体たる向上會館に貸下げ、龍山警察署及び西大門警察署管内の土幕民収容計畫を樹て、千戸収容を目標として行つて來たが、現在戸數約九百三十戸、人口五千五百八十人に及んで飽和狀態に達して、これ以上の収容力はない。

 浄土宗の「和光教園」と真宗大谷派の「向上会館」は、植民地朝鮮における日本仏教系団体による社会事業の中で代表的な組織とされている 注1


注1
尹晸郁『植民地朝鮮における社会事業政策』大阪経済法科大学出版部 1996
諸点淑「植民地朝鮮における日本仏教の社会事業に関する一考察 ― 真宗大谷派の「向上会館」を事例として ―」『立命館史學』28号 2007年11月
諸点淑「日本仏教の近代性と植民地朝鮮 ― 浄土宗の「和光教園」を事例として ―」『近代と仏教』巻41 2012年3月


 浄土宗は1893年から朝鮮での布教活動を始め、併合後の1913年には、京城府観水洞102番地に「開教院」を開いて、朝鮮人向けの教化活動の拠点とした。1919年の31独立運動が起きると、朝鮮総督府の意向を受けるかたちで、植民地支配の「安定」、すなわち表立った反抗を予防するための朝鮮人の懐柔に積極的に関与した。1920年12月に、鍾路三丁目27番地の総督府所有の土地・建物の無料貸与をうけて朝鮮人下層労働者のための宿泊事業に乗り出し、「和光教園」と称した。さらに、1924年には開教院に隣接する朝鮮軍司令部庁舎だった敷地の無料貸与、1926年にも総督府所有地の貸与や譲渡をうけるなど優遇された。

 一方、真宗大谷派は、江華島条約締結から間もない1878年に釜山に本願寺別院を置いて朝鮮での布教活動を開始した。そして、浄土宗の「和光教園」と同様、31独立運動の後、「鮮人ママ思想の善導」を掲げ、朝鮮総督府が目論んだ朝鮮人懐柔のための社会事業に乗り出した。1920年1月、開港期の漢城で日本が最初に公使館を置いた西大門外の天然洞の旧公使館跡地を朝鮮総督府から無償で借り受け、ここに向上会館を建設した。1924年からは、ここに女子技芸学校、実業や学校を開設して「教化」事業を行った。

日本の最初の活動拠点はここ(西大門外天然洞)だった。

 

 この二つの団体だけが朝鮮総督府の懐柔策に迎合していたというわけではない。当時は1919年の31独立運動が侵略への抵抗運動であるという本質を理解できず、朝鮮人の「教化」不足、朝鮮の若者の就学・就労の不満のあらわれといった見方が一般的であった。そのため、和光教園や向上会館以外でも、31運動を契機に「社会事業」「就労教育」に乗り出した例があった。

 これは、他のことを調べていてたまたま出てきた資料なのだが、日本基督教会ではこのような広告記事を出している。

 申し込みの窓口になっている牧師秋月致は、実は私の祖父なのだが、当時内地人会員がほとんどだった日本基督教会京城教会の牧師で、井口弥寿男はその前任牧師。秋月致は水原提岩里事件のあと『福音新報』に「生命尊重の希望 」という日本の憲兵・警察による虐殺を知らしめる記事を書いている。井口は、牧師でありながら1920年に『日鮮辞典 : 実用本位』という辞書を編纂・出版している。受け入れ先の五反田の牟田鋳工の牟田易太郎は、日本の鋳物業界の有力者で早稲田大の鋳物研究所の設立にも関わっている。熱心なクリスチャンで朝鮮青年の引き受け先となった。この広告を見つけた時には、唐突な「鋳物工徒弟募集」で、すぐには趣旨が理解できなかったのだが、和光教園や向上会館の設立経緯に照らすと、時代の流れとこの募集広告の目的がよくわかる。やはり、日本による侵略と、その侵略への抵抗としての31運動の本質が理解できていなかったと言わざるを得ない。

 

 さて、和光教園が阿峴町に作った土幕民収容施設については、雑誌の『朝鮮及満洲』の1934年3月号に取材記事が掲載されている。タイトルは「人間のどん底生活をして居る 京城の土幕民収容地 和光ヶ丘・望月郷を訪ねて」で、いくつかの具体的な情報が書かれている。

 この施設を開設することになった発端の一つは、1931年に決定された京城測候所の松月洞移転である(京城測候所についてはこちらのブログを参照)。松月洞の測候所は城壁を取り壊した跡地に建てられる計画だったが、城壁の外側の空間には多くの土幕が作られており、これを撤去しなければならなかった。

むやみに排除するのでは混乱を招きかねないが、当局が前面に出て救済しては示しがつかない。京城府では、和光教園に補助金を出して土幕民の代替地を用意させることにした。和光教園では、まず阿峴町7番地を中心に2000坪を入手して松月洞の130戸の土幕民をここに移動させた。この収容地は、雑誌『朝鮮及満洲』の記事では、和光ヶ丘「望月郷」となっているが、浄土宗内では「法然村」と通称されていたようである(塚本善隆編『己卯訪華録』 1939)。

 和光教園では、さらに1933年春までにその後背地を買収した。その後区画内の墓の改葬などを行い、その秋から京城府周辺の土幕民の収容を始めた。1戸平均10坪程度を1年間無料貸付というかたちだったが、実際には期限はないに等しかった。親切なのではない。そこから出さないためである。雑誌『朝鮮及満洲』の取材をした1934年初めの時点で、新堂里81戸、蓬莱町59戸、桃花洞47戸、錦町37戸、阿峴北里30戸、竹添町26戸、峴底洞19戸、阿峴里203戸などかなり広い範囲からここに移動させられており、松月洞からの移動者も合わせて、678戸、3543人が収容されていた。そのほぼ6年後の1940年、京城帝大医学部の田中正四らの調査では、950戸、7630人と記録されてる。特に居住者数の増加が大きい。1戸平均5.2人だったのが、1戸に8人と多くなっている。これはオンドル部屋が2間ある場合、その1間を貸して複数所帯になっているためだと『土幕民の生活・衛生』では解説されている。月貰ウォルセなのだろう。土幕民の増加だけでなく、借地権や土幕住居が利権化して貸借や転売が行われるようになっていたと見られる。

 区割りされた土地は借用できても住まいは自力で建てるしかなかった。結局、住居自体は、依然として土幕あるいは不良住宅と呼ばれる粗末なものであった。ただ、土地の無断占有ではない点、十分ではないが11ヶ所井戸が掘られていた点などで、従来の個別の土幕集落と異なっていた。赤間騎風が「府よ、お前達よ、あの垂れ流しだけは、やめてくれ、やめさせてくれ」(『大地を見ろ』)と書いた糞尿の処理などはどうだったのか。これには触れられていないが共同の便所などがあったとされる。行政組織も絡んでいるので、汲み取りなどもなされてはいたのだろうが、1940年の調査時には、「汲み取りが間に合わず溢れている」となっている。

 そうした生活インフラ部分以外にも、就学支援や職業指導なども行われることになっており、『朝鮮及満洲』の取材時にはすでにいくつかの事業に着手していた。この望月郷の居住者の中には、一山越えた京城駅周辺での運搬人夫や、行商人、配達夫や職人などの職を持つものもいたが、失業者、物乞いなども少なくなかった。そのため、カマス作りや裁縫の内職、練炭製造などの内職兼職業訓練を試みており、未就学児童のための講習所の開設も計画された。ただ、6年後の調査を見る限り依然として劣悪な状況に置かれたままであり、大きな効果を挙げたとは言いがたい。


 さらに和光教園は1934年に貞陵里の国有地にも収容敷地を開設している。開設当時は貞陵里だったが、1940年には敦岩町に組み入れられていた。1925年に修正測図された「朝鮮5万分の1地図」(下図左側)と1940年の「地番入大京城精密図」(下図右側)とで比較すると、このあたり(赤丸部分)ではないかと推測される。ソウル軽電鉄牛耳新設線の誠信女大ソンシンヨデ駅から貞陵チョンヌン駅の間の高台ではなかろうか。

 

 一方、同時期に設置された弘済外里の向上会館が管理する収容施設については、『土幕民の生活・衛生』に「向上台」という写真が口絵として掲載されている。

 1万分の1の地図で勝手な推測でそれらしいところを探すと、この辺り(赤丸部分)かなとも思う。いまの地下鉄3号線の弘済ホンジェ駅から碌磻ノッポン駅に向かう路線の上の道路で南部循環道路を越えた右側に見えるオリニ公園のある山かもしれない。火葬場入り口から向上台中腹の学校が遠望できるとあるので、だいたいこの位置であろう。火葬場は、1929年6月に弘済内面に火葬場を新設されていた。

 

 この2カ所の施設については、1935年10月20日の『毎日申報』(朝鮮総督府の朝鮮語による機関紙)に次のような記事が掲載されている。

・細窮民が年々増え、一般民の住宅不足も影響して住居がなくて困っている。

・数年前に阿峴里に1000戸、老姑山に300戸収容して和光教園に管理させてきた。

・しかし、ますます露宿者(ホームレス)が増えている。

・このため、京城府では貞陵里と弘済外里に国有地を確保して3カ年計画で6000戸を建てて収容することを計画、京畿道に建設計画を提出し今月末には許可される見通し。

・とりあえず、二ヶ所に2000戸ずつの土幕を建てて冬前に収容する。

・貞陵里は和光教園、弘済外里は向上会館がそれぞれ管理する。

・府内の不良住宅居住者もここに移動させる。

という内容である。

 一方、同じく朝鮮総督府の機関紙で日本語で出されていた『京城日報』にも記事が出ている。両者を比べると記事のニュアンスが異なっている。朝鮮語の『毎日申報』が具体的内容を盛り込んで「貧民救済策」とも取れなくもないのに対し、日本語の記事には「厄介者」の排除という視点が露骨に出ている。弘済外里の収容地は「楽天地」だと書いてあるが、実は、後述の『東亜日報』の記事にあるように、多くの土幕民にとって弘済外里の移住は生存すら脅かしかねないものだったのである。いま風に言えば、『京城日報』の記事は読者への「印象操作」である。

 

 

 1935年にこのような土幕民の新たな囲い込みが始まったきっかけは、京城府が近隣の郡部を府に組み込む「大京城」の計画が建てられたことにあった。1934年10月9日に行政区画の拡大のための首脳部の会議が開かれ、以後この計画が推進された。1936年4月1日、高陽郡、始興郡、金浦郡の一部が京城府に編入され、京城府の府域は約4倍になった。
 これは単なる行政区画の変更というだけではなく、「大京城建設」というスローガンのもと、道路の舗装、緑地帯・公園・散策道の整備、そして土幕民を新たな「府内」から追いやる「美化」が推進されることになったのである。

 

 すなわち、京城府の「大京城」推進のポイントの一つは、「土幕民の整理」、すなわち、新たに京城府に組み入れられる地区から土幕民を駆逐して「美しい大京城」を実現するところにあった。貧窮朝鮮人の救済に目的があったのではなかった。和光教園や向上会館は、社会事業という名目で、その「京城美化事業」の片棒を担がされていたということになる。

 

(つづく)