1920年前後から、京城の墓地や城壁・城壁跡などの空間を占有して土幕が造られるようになり、漢江の河川敷での土幕集落の形成も始まったと推測される。『土幕民の生活・衛生』では、京城の土幕民が社会問題化した最初の例として、1925年の漢江の洪水に際して起きた問題を挙げている。
この年7月12日に漢江が氾濫、18日に再度大増水して沿江一帯が広範囲にわたって浸水する大洪水になった。
この洪水で川沿いの家屋の多くが流され、漢江大橋の中之島(現在の노들섬)付近に相当数あった土幕は全部流された。京城府は、漢江の対岸の本洞町(現本洞)に買収した5,354坪に、被災民300戸を移住させることにした。借地の貸与で、坪当たり年7銭5厘を徴収するものであった。『土幕民の生活・衛生』ではこれを京城府による最初の土幕民整理事業としているが、移住対象となった300戸が土幕民であったかは疑わしい。この水害で被害を受けた二村町の土窟民が見舞金を求めて府庁に押しかけたが、府側は「税金を納めていない」という理由で支給を拒絶している。
そうした土幕民・土窟民のために京城府が代替地を用意するとは考えにくいし、地代を払う借地に土幕民が移動するとは考えにくいのだが…。
ちょうどこの1925年には、漢江河川敷以外でも土幕をめぐる問題が起きていた。
その一つは、京城運動場(解放後のソウル運動場・現在は東大門歴史文化公園)の建設を巡っての問題である。京城運動場は訓練院の跡地、東大門から光煕門にかけての城壁を取り壊したところに予定された。予定地(黄金町7丁目)周辺には土窟や土幕に暮らす人々が住んでおり、彼らから救済を求める陳情が京城府になされた。
これらの陳情に京城府が何らかの救済策を講じたとの記事は今のところ見当たらない。
いま一つは、古市町10番地の土幕である。善生永助は次のように書いている。
◎京畿道京城府古市町十番地
古市町十番地にて南山寄りの高臺に位置す。部落名なし、私有地なり。
大正十四年(1925)頃朝鮮神宮裏参道道筋に散在し居りたりしを、神域なるの故を以て、彼等に退去を命じたる處、現在地に轉住し、最初は約十五六戸に過ぎざりしが、年々增加して現在數に達せり。
所帯数五八戸 人口二六五
朝鮮神宮の参道周辺から追われて、1930年までに京城駅から吉野町・三坂通(厚岩洞)に上がったところの南廟の北側の高台(現ヒルトンホテル敷地)に土幕民の集落が形成されていたのである。
土幕とは書かれていないが、普光町の朝鮮人基督教会に出向いた日本人牧師秋月致のこのような回想録もある。
一体此の普光町と言うところは龍山に練兵場が設けられる時、ここの岡に移された農民たちから成りたち、貧しき人々が多いのだそうだが、私は此の夜の集会を、非常にめぐまれたものと感じた。
『秋月致随筆集』
すなわち、朝鮮総督府や日本軍、それに京城府の主導する「京城の建設・開発」にともなって、朝鮮人のが土幕民化したり、土幕民が追い払われたりしていったことがわかる。
上述の1925年の大洪水で、朝鮮総督府と京城府は漢江の治水対策を迫られることになった。河川調査と治水計画案立案、予算の確保などに手間取り、1930年秋になって堤防建設に着手された。

しかし、1925年の大洪水からの5年間で、漢江の北岸二村洞には再び土幕・土窟の集落ができていた。『土幕民の生活・衛生』には治水工事と土幕民に関して次のような記述がある。
昭和五年新龍山鐡道工場南方河岸に居住していた西部二村洞の土幕民は漢江治水計畫の結果、堤防外となったため騒擾したので、當局は桃花町に一萬三千七百四十五坪を買収して、之に宅地造成を行ひ、住民二百八十戸を移轉せしめることに決し、第一期六十五戸は豫定の通り移轉せしめたけれども、その後のものは大半は土地代の交付を受けて流離し、實際に移轉したのは約半分に過ぎず、桃花町の殘餘の地は他から流入した雑分子に占められる有様になった。
「土地代の交付を受けて」とあるので、立ち退きに当たってなにがしかの補償があったのであろうか。さらに、二村洞の土幕民には桃花町の移転先での割り当てがあり、この割り当てが転売されて「他から流入した雑分子」が土幕を建てることになったケースが結構あったのであろう。
土幕民への配慮に溢れた施策に思えるが、京城府側は漢江橋と鉄道橋から見えるところの土幕を一掃することを目論んでいたのである。これに関して、善生永助「特殊部落と土幕部落」に「京城府桃花洞山八、九番地」の土幕集落について次のような説明がある。
部落は桃花洞山八、九番地にて、西は山手町を隔て、漢江に面する府有地なり。
部落民は昭和四年七月迄京城府二村洞(東、西)に土幕土窟を建設し生活し居たるものなるが、該所は京城府の玄関口にして市街地美を損すること甚だしきを以て、五年七月の大洪水を期として京城府に於て移轉せしめたるものにして府有地なり。
土幕世帯数三〇七戸 人口一一三三人 土窟世帯数 三戸 人口九人
となっている。善生永助の記事には「資料は昭和五年中の調査」と書かれているから、まさに移転させた当時の情報である。『土幕民の生活・衛生』は1940年の調査報告で、10年後の聞き取りなどによるものである。
京城の表玄関ともいうべき漢江の鉄道橋と漢江橋の周辺に貧相なあばら屋の集落があってはまずいし、堤防工事の邪魔にもなるというので、京城府で桃花町に移転させる計画を立てた。それが1929年7月頃ではなかろうか。漢江辺のスラム街は、美観上の問題という以上に、植民地統治政策の失政を京城来訪者の目に晒すものである。植民地統治者としては、土幕民を出来るだけ人目につかないところに追いやると同時に、治安・管理を口実に多少のアメを与えてでも囲い込むことにしたのである。
もともと桃花町には、すでに土幕集落があった。善生永助の記録に、
◎京城府桃花洞山一、二番地
京城府桃花洞山一、二番地にして、彌生町遊郭北方山上にあり、北方に急傾斜し府有地なり。
部落民の大部分は地方農村より移住し來たるものにして、管理廰の管理不行き届きに乘じ該地に集團し、土幕土窟を建設したるものなり。
土幕世帯数七二戸 人口三一三人 土窟世帯数五戸 人口二〇人
主として日稼労働者なるも、中には雑業者並に小商人あり。
とあるのがそれである。
1921年修正測図の1万分の1地図ではこの辺りになろう(下の地図参照)。桃花洞山八、九番地ではないかと思われるところには、墓地記号が見える。「當局は桃花町に一萬三千七百四十五坪を買収」とあるが、農地でも宅地でもなかった山林や墓地であるから個人が所有していたとは考えられない。買収したのが事実だとしても、土地調査事業で国有地として組み込まれた場所を京城府が買い取る形をとったのではなかろうか。
1万分の1地図
さらに、1933年にも龍山の総督官邸前の漢江側にあった土幕を桃花町の収容地に追いやっている。
昭和8年、龍山總督官邸前に散在する土幕民に府有地である桃花町の一角を分割提供して、彼らに貸し付けて移轉せしめた。
この龍山の総督官邸は、1908年に着工して翌年竣工した統監官邸で、併合以降は総督官邸として引き継がれた。しかし、京城の中心部から距離がありすぎるということで、日常的には使われないままになっていた。漢江の沿江地帯でもあり、堤防や線路の外側よりも人目につきにくいこのあたりに土幕民が居住することになったのであろう。
龍山総督官邸 朝鮮戦争の時に消失した。
現在の国立博物館の北東側、米軍基地の中に位置する。
(つづく)









