80年代 映画館・国旗下降式・健全歌謡 | 一松書院のブログ

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 なぜ韓国の映画館で観客はエンドロールを見ることなく席を立つのか。確かにそうだ。韓国で映画をみてると、エンドロールの始まりと同時に我先にと席を立つ。

 

 なぜだろうと考えていたが、簡単にわかるはずもない。が、その過程でいろんなことを思い出した。

 

 1980年代は、映画館の前には練炭七輪でスルメを焼きながら売るアジュンマがいっぱいいた。鍾路3街や忠武路はスルメの匂いで満ち溢れていた。当時の画像を探したが見つからない。youtubeで見つけた1990年代の映像では、スルメの屋台が出ている(鍾路3街大韓劇場前)。これは80年代の後半、零細民の露天商が規制されて追い払われた後のものだろう。80年代前半は、まだこんなに整然としてはおらず、しゃがんでスルメを焼いていた。

https://youtu.be/G0slImu7haw?t=504

 80年代の映画観覧では、まず現地に行って入場券を入手する。ネットはもちろん、新聞などにも上映時間などはないので、窓口に行くしかない。大体どこにもダフ屋がいて、窓口では「満席」でもチケットは入手できた。近所で時間を潰した上で、劇場前のスルメを買って飲み物を買って映画館に入る。だが、みんなロビーにたむろしていて中の座席には着かない。すでに予告編とか大韓ニュースが始まっている。でも、入らない。

 すると、「愛国歌」の音声・映像が流される。ここでは、中に入っている観客は起立して右手を胸に当て、軍役にあるものは敬礼をしなければならない。

NHK特集 「素顔の韓国」 ―全斗煥体制下のくらし―1981年05月29日放送
文化広報部が取材に協力するよう指示していたのだろう、行儀が良すぎる😆

 

 手に持っているスルメとか飲み物をどこにどうするか、、、置き場がないので大変なことになる。中に入らずにロビーにいれば、愛国歌が漏れ聞こえても立たなくていい。飲み物もスルメもそのまま持っていればいい。

 で、愛国歌が終わりかけ、「…길이 보전하세」のあたりで、なだれをうって席に座る。そして映画が始まる。

 

 映画館で、映画本編の上映前に「愛国歌」を流すというのが始められたのは1971年3月。まだ維新体制(1972年10月)になる前である。

 ただ、最初からあんまり評判は良くなかったようだ。

 

 この映画館での愛国歌の上映がなくなるのは、1989年以降のこと。前年年末にこんな記事が出ている。

 文化公報部が愛国歌の映像作成の予算を計上しないことで、上映が行われなくなったのである。いうまでもなく、1987年の民主化宣言と、それ以降の韓国社会の変化を反映したものである。

 

 そういえば、韓国の映画館で、スクリーンを見ながら始まるのをワクワクとして待つというのはなかったように思う。映画が終わった後のことよりも、思い出すのは始まる前のことばかり。でも、1980年代から、エンドロールが始まる前にさっさと席を立っていたような気もする。

 

 1987年の民主化宣言以降、映画の前の愛国歌上映以外にもなくなったものがある。

 

 その一つは、街頭の国旗下降式である。夕方に官公庁や学校などで、昼間掲揚してあった国旗を降ろす国旗下降式自体は、早くから行われていた。ただ、当初は、それぞれが個別に行なっていた。

 1977年10月の『京郷新聞』に「高まる国旗への尊厳性」という記事で、中央庁の前を通りかかった通行人が立ち止まって国旗下降式に向かっている写真を掲載している。

 1977年といえば、維新憲法から5年。朴正煕政権の独裁体制が強化されつつあった時期である。どうもこの頃から、下降式に出くわしたら「立ち止まって街頭で祖国愛を示すべし」というのが始まったのではないかと思われる。つまり「自発的」な「愛国心」の発露である。統治者や権力者の側からすれば、「誰かが強制したわけではない」ということにできる。

 1980年代に入ると、春、夏、秋には午後6時、冬には午後5時に、官公庁や企業 の前に掲げられていた国旗を降納する国旗下降式が行われ、備え付けられているスピーカーから愛国歌が流されるようになっていた。そのあいだ、人々はその場に立ち止まり胸に手をあてて直立しなければならなかった。

 ただ、国旗が見えないところや、愛国歌が聞こえないところでは、特に立ち止まる必要はなかった。だから、このような場面が出てくる(映画「써니」(2011)より)。

 

 「統治者からの強制」ではなく、愛国心をネタにした啓蒙という名の「強制」、そして「民衆の相互監視による強制」なので、こんな描かれ方もする(映画「국제시장」(2014)」より)。

 

 映画館での愛国歌上映が文公部の機関決定という行政のトップダウンで行われ、それゆえに、ある時点で「やらない」という決定が報じられたのとは違い、国旗下降式で街ゆく人々が静止直立すべきという規制がいつからなくなったかを報じる資料は見つからない。国旗の下降式自体がなくなったわけではない。スピーカーで流して通行人が立ち止まるという風景がいつの間にかなくなったということであろう。

 

 1991年8月14日の『毎日経済新聞』には、第6共和國、すなわち盧泰愚政権の発足以降見られなくなったと書かれているだけである。

 

 

 

 もう一つ無くなったもの。それは健全歌謡である。

 1970年代、80年代のレコードやカセットテープを買うと、最後の曲として、場違いな「健全歌謡」が必ず入っていた。

 1984年のシムスボンの「심수봉 신곡1집」のカセットB面の最後はこんな感じ。

 1985年のイドンウォンのアルバム「이동원2」のB面の最後のところはこうである。

 

 かなり、投げやりに入れたんじゃないかと思うほどの場違い感がある。

 公式に販売されているレコードやカセットは、例外なく全部がこうであった。

 

 1970年に文化公報部で「音盤法」、すなわちレコードに関する法律の改定を進めた。不正行為の横行や、退廃・低俗音楽の追放ということで推進されたものだったが、この時の条文には、「健全歌謡」を挿入しなければならないといった条項はない。

 その後も、「健全歌謡」挿入の規定はないのだが、その一方で、この直後から健全歌謡の推進キャンペーンが進められている。

 

 その結果何が起きたのか。音楽業界、特にレコード会社は事前・事後の審査を通すために、「健全歌謡」を必ず挿入することになった。いわば自主規制として始まり、この検閲をスムーズに通すための健全歌謡の挿入が全斗煥時代にも続けられることになった。

 

 1982年に、チョンスラが健全歌謡として歌った「ああ!大韓民国」がヒットして話題になった。この曲はチョンスラとチャンジェヒョンのデュエット曲である。

 これで、健全歌謡が認められることになったわけではない。『京郷新聞』の記事にもあるように、「健全歌謡でもヒットすることがある」という驚きであり、「そんなはずがない!」という気持ちのあらわれである。つまり、「あー大韓民国」以後も、依然として健全歌謡は邪魔者であったのだ。シムスボンやイドンウォンの例を見れば明らかである。

 

 この「健全歌謡の挿入」も「自主規制」であって独裁的権力者の「強要」「強制」というかたちをとっていなかったので、いつから「やらなくてよい」ということになったかについては明確な資料がない。民主化宣言と盧泰愚大統領の第6共和國の成立とともに、いつの間にか無くなっていき、「こんな時代があったんだよ」という年寄りの思い出話として語られるようになった。 

 

 こうやって整理しながら書くと、韓国の「独裁」というのは、上からの強権からだけではなく、自分たちの自己規制で社会を動かしていたという部分もあったことがわかる。まさに、今の日本社会でよく使われるようになった「ソンタク」である。「ソンタク」という言葉を使うことでわかった気になって、納得してしまっているが、実は「ソンタク」こそが「独裁」を許しているのではないだろうか。

 

 映画館でなぜエンドロールの前で席を立つのかというところから、いろんなものを探し始めたのだが、以前の「韓国の独裁社会」をのぞいていたら、思いは自然に今の日本の「ソンタク社会」まで来てしまった。