1968年世宗路・三角地・清涼里駅 미워도 다시 한번より | 一松書院のブログ

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 1968年7月16日に韓国ソウルの国都クット劇場で封切られた映画「憎くてももう一度(미워도 다시 한번)」。
 シングルマザーのヘヨンが、江原道カンウォンド墨湖ムッコで育てていた息子ヨンシンを、ヨンシンの実父シノに預けようとソウルに出てくる。ヨンシンは、母恋しさもあってソウルの実父の家を飛び出して墨湖ムッコに帰ろうとする。
 

 幼いヨンシンは、なぜか世宗路セジョンノのところをさまよったり、三角地サムガクチのロータリーでハラボジに道を尋ねたりする。「なんでそんなところにいるの…?」なんだけど、まぁ映画なので……。最後は、清涼里チョンニャンニの駅から実父一家に見送られてオンマと一緒に墨湖ムッコに帰る汽車に乗る。

 

 あらすじはこちらでどうぞ。


 いうまでもなく世宗路である。
  

 写真奥に見えるのが中央庁チュアンチョン。この当時は政府機関が使っていた。旧朝鮮総督府の建物である。この時は、まだ正面の光化門クァンファムンはできていなかった。復元工事の起工式が3月15日で、完成するのはこの映画の公開後、1968年12月のことである。

 はっきりは見えないが、門の場所に工事用の囲いがあるようにも見えるので、撮影時期は1968年の春なのか。


 ヨンシンの後ろに見えるのは市民会館シミンフェグァン。この市民会館は、この映画の4年後の1972年12月2日に火事で全焼。夜8時の公演中だったので死者52名を出す惨事となった。その後1978年4月になって現在の世宗文化会館セジョンムナフェグァンが開館した。

 

 ヨンシンが光化門交差点方向に歩き出すとこの建物が見える。現在の「大韓民国テハンミングッ歴史博物館ヨッサパンムルグァン」と「アメリカ大使館」の建物である。1968年の時点では、左側のビルは経済企画院キョンジェギフェウォン、右の建物はアメリカ大使館ではなく、USAIDユーセイド(駐韓アメリカ国際開発処)の建物であった。アメリカ大使館は、この時は半島ホテル前の旧三井物産ビル(現在はグレヴァンミュージアム:5月まで)にあった。

 この二つのビルは、ともにアメリカの対韓援助資金と韓国政府の出資で建てられ、1962年7月に完成したものである。建設時の協定では、2棟のビルの所有権は韓國政府が保有するが、1棟については、韓米相互協定が存続する間はアメリカの援助関連機関が免税・無料で無期限に使用するとなっているという。

 左側のビルは、その後、経済企画院から文化公報部ムナゴンボブになり、2012年に大韓民国歴史博物館として全面改装されてオープンした。

 一方、右側のUSAIDのビルには、1970年12月、アメリカ大使館のメイン機能が旧三井物産ビルからここに移され、ここがアメリカ大使館本館となり、旧三井物産ビルは、領事部と文化部の別館ということになった。その後ここがアメリカ文化院となる。

 1971年10月13日付の「京郷キョンヒャン新聞」が、この経緯を詳しく報じている。アメリカ大使館側が、USAIDは大使館傘下の機関だから大使館としてこの建物を利用することに問題なしとするアメリカ側に対して、「京郷新聞」は、建物建設時の協定のいう援助関連機関と大使館とは別物だと批判している。

 1953年5月の「半島ホテルと三井ビル移譲に関する協定」で、アメリカは半島ホテルを移譲し、韓国は旧三井ビルの所有権をアメリカに移譲することになったともあり、植民地支配下での敵産の処理や、朝鮮戦争後の対韓援助などの過程で、ソウルの中心地のど真ん中にアメリカ大使館が存在することになったというのは興味深い。

 

 ちなみに、1985年5月23日、光州クァンジュ事件でのアメリカの対応を批判する学生たちがこの文化院を占拠する事件も起きた。1990年に、この土地建物の所有権がアメリカからソウル市に移譲され、2013年まではソウル市庁の乙支路別館として使用されていた。その後、グレヴァンミュージアムに改装された。

 

 映画では、歴史博物館・アメリカ大使館からさらに南の方、光化門交差点方向を写し出している。

 1966年5月、光化門交差点の地下道が完成した。朴正煕パクチョンヒ大統領によってソウル市長に抜擢された金玄玉キムヒョノクの推進した開発工事の一つである。この時地下道完成時には、まだ李舜臣イスンシンの銅像はない。

 この交差点に李舜臣像が建てられ、除幕式が行われたのは1968年4月27日であった。

 

 この場面の南方向を見てみると、台座のようなものが確認できる。その上に黒い影も見えるようなので、銅像はすでに建てられてたとも思える。いずれにせよはっきりと写ってはいないが、この映画が封切られた7月には、多くの人がこの場面で李舜臣の銅像、また交差点地下道を思い浮かべたに違いない。

 

 もう一つ開発に絡む場面が出てくる。 

 これは三角地サムガクチの高架ロータリーである。都心からソウル駅前を漢江路ハンガンノ沿いに下っていくと、南営ナミョンを過ぎてしばらくして道が「く」の字になった交差点がある。この交差点を右に曲がると、孝昌ヒョチャン公園の丘の麓を通って孔徳コンドクにいく白凡路ペクボムノ。左に曲がると米軍基地の間を抜けて梨泰院イテウォンに抜ける梨泰院路。今は米軍から韓国側に返還されて戦争記念館が左手にできているあの交差点である。

 1967年12月27日この三角地の高架道路の開通式が行われた。

 

写真の右上の茶色い建物が祥明サンミョン女子中高の校舎。まっすぐ上に伸びているのが白凡路。手前が梨泰院方面。右手に行くとソウル駅前。左奥が漢江大橋方向となる。

 


 映画は、祥明女子中高側の歩道橋部分で撮られている。

 この高架ロータリーは、地下鉄6号線の建設過程で1994年に撤去されることになりその年のうちに撤去された。
 

 それにしても、ヨンシンが右も左もわからない子供だとしても、世宗路から三角地の高架道路に来て、そこでハラボジに、江原路の墨湖ムッコに行くにはどうすればいいかと尋ねるという設定はかなり無理がある。これも、朴正煕ー金玄玉の都市開発の成果をヨイショする場面挿入と考えると、納得できるような気がする。

 

 最後は、特に開発に絡むわけでもないし、江原道方面への列車なので、当然清涼里の駅から出ている。

 以前の駅舎はこんな感じで、窓の上下の部分の色が違うが形状は同じである。

 走る列車が面白いなぁと思って。1968年の列車はこんなだったのか。それ以外に、特段のコメントはない。

 

 この「미워도 다시 한번」は、この映画の評判がよかったこともあって、これ以降何回か映画になっている。2001年には「미워도 다시 한번 2002」が作られ、2009年にはテレビドラマが放映されている。