1392年に開城で王に即位した朝鮮王朝の開祖李成桂(廟号:太祖)は、無学大師の風水観相に基づいて漢陽で都城の建設を進め、2年後に現在のソウルに遷都した。正宮の景福宮を中心として城門と総延長18.3kmの城壁が築かれた。都城の周囲は、北に北漢山と北岳山、東には駱山、西に仁旺山が位置し、南には南山、そして漢江が流れている。景福宮の位置が地脈の「気」が集まる「穴」にあたり、北岳山が主山、北漢山が祖宗山、東方の駱山が青龍で西方の仁旺山が白虎、そして南山が案山となり、明堂内に清渓川が東流し、南山の南側を漢江が西流する。
というわけで、ソウルの旧市街の周囲はあまり高くはないものの山がちである。特に旧市街から南に行くためには南山を迂回せざるをえず、迂回して南に下るとその先には漢江という大きな川が立ちはだかる。
現在、南山にはトンネルが3本、漢江には鉄道橋を含め28本の橋がかけられている。1900年に鉄道用の漢江鉄橋が架けられ、1917年に漢江大橋(人道橋)、1937年に広津橋が架けられた。解放後、60年代に2つ(揚花大橋・漢南大橋)、70年代には8つの橋が架けられた。
トンネルは、いずれも1970年代に開通した。
このように、「風水都市」ソウルにとって山と川は都市計画の中で「克服すべき障害物」とされてきた。
実は、日本の植民地支配下でも、南山のトンネル計画が立てられたことがあった。
1939年3月に、昭和14年度の京城府の予算案を京城府会で採択された。この時の京城府の予算案には、南山のトンネル計画と南大門の移転計画の予算が計上されており、これに対して府会議員姜昌煕が「言語道断の妄想」との批判演説をしたと『東亜日報』で報じられている。姜昌煕は、朝鮮運輸株式会社や朝鮮運送株式会社の取締役で、朝鮮總督府鐵道局の運輸委員もつとめていた運輸関係の有力人士らしいが、なぜ反対したのか詳細は不明である。3月31日付の朝鮮語の『東亜日報』には姜昌煕の発言内容が報じられているのだが、同じ予算の採決について報じた日本語の『京城日報』には、姜昌煕が南山トンネル計画と南大門の移転計画について言及したことは全く触れられていない。
この年の6月初め、「大京城計画案」が完成して、新たに召集された京城府会に上程されている。ここでも、『京城日報』は「住居」「産業」「工業」「未指定」の地域指定を簡略に伝えただけなのに対して、『東亜日報』街路の変更まで含めた内容を詳細に報じている。
これが『東亜日報」に報じられたこの当時のトンネル計画案である。岡崎町から野砲隊、三坂町から旭町に抜けるトンネルの道路を新設するというものである。1936年に製作された鳥瞰図「大京城府大観」でルートを想定すると下図のようになる。
1939年段階でこの南山トンネルを含む新しい道路の計画が確定したのだが、1945年8月の敗戦まで実際に着工にまで至ることはなかった。
その後、アメリカ軍の軍政時代、1948年8月15日の大韓民国の樹立、そして1950年6月25日に朝鮮戦争勃発、ソウル市内でも市街戦が繰り広げられ1953年に休戦を迎えた。そこから戦後復興と新たな都市開発が始まった。1958年、『東亜日報』に「ソウル都市計画大幅変更」という記事が報じられている。
この図の⑤がトンネル案に関するものであろう。
記事では、会賢洞2街から南山下のトンネルを経て龍山中学から青坡洞に至る計画道路のトンネル部分は計画中止となっている。会賢洞2街は旧旭町2丁目、青坡洞は旧岡崎町の鉄道線路を越えた向かい側である。ということは、植民地時代の1939年に立案された「大京城計画案」の南山トンネル計画は、植民地解放を挟んでこの時までほぼ20年間生きていたのである。確かに、1953年の「ソウル都市計画街路網図」には、この南山トンネルと思われるルートが描かれている。
南山部分を拡大すると↓↓↓
北側の入り口から西に曲がりながら旧朝鮮神宮の下をトンネルが貫通していて、会賢洞の新世界デパート(旧三越)の裏手から厚岩洞の龍山中学を経て漢江路のところまでのルートが表示されている。これが1939年に示された岡崎町ー野砲隊ー三坂町ー旭町という計画道路であろう。
他方、1953年のこの地図には、東側にもう1本のトンネルが描かれている。筆洞から漢南洞に至るルート上のトンネルである。 これは、その後建設される南山1号トンネルとほぼ一致する。南山1号トンネルの原型がここに掲載されているのである。
さらに、1968年の「新ソウル道路地番改良地区略図」になると、このトンネルが具体的な道路計画としてはっきり描かれている。
この地図が作成されたのは、ちょうど金玄玉が1966年にソウル市長に任命され、汝矣島の開発、清渓川の高架道路建設、それに世運商街、楽園商街の建設など、強引な手法で都市開発を進めていた時期である。この地図に記載されている道路網・都市開発案は、金玄玉が推進したプランに基づくものなのであろう。そのうちの一つが、三一路からつながって、芸場洞から南山を貫通して漢南洞に出て、そこから新設予定の第三漢江橋を越えて南下するルートである。その先は、良才洞で京釜高速道路につながり、旧市街からつながる新たな幹線ルートとして想定されていたと考えられる。
こうした中で、1968年1月21日、北朝鮮の武装ゲリラが侵入して、青瓦台北側の北岳山山麓で銃撃戦が展開される事件(1・21事件)が起きた。この事件は韓国社会全体に大きなショックを与えた。映画「シルミド」のモデルになった北朝鮮攻撃秘密部隊が創設されたり、青瓦台が一般市民の近寄れない特別の場所になったのもこの事件が契機となっている。
北朝鮮との緊張状態の中で、首都ソウルの防衛体制が為政者にも市民にも大きな関心事として浮上した。朴正煕政権と金玄玉市長は、非常事態の際、旧市街からの避難経路として南山トンネルの早期完成を目指すとし、さらにトンネルを活用する待避壕の建設を打ち出した。1950年の朝鮮戦争で、北朝鮮軍の南下に抗しきれず、開戦3日で韓国軍がソウルを放棄し、その際に漢江大橋と漢江鉄橋を爆破したため多くの市民が漢江の北側に取り残された。その記憶から、有事の際の漢江南側への避難ルート確保は一般市民の大きな関心事であった。また、為政者にとっては市民の歓心を買う施策として非常に有効であった。
こうして芸場洞から漢南洞に至る1号トンネルが1969年3月13日に着工し、1970年8月15日には対面通行上下2車線のトンネルが開通した。この1号トンネル建設開始の1ヶ月後には、龍山の米軍基地に隣接する龍岩洞軍人アパート(旧日本軍射撃場跡)前から奨忠壇方面に通じる新たなトンネル、2号トンネルの建設工事も始まった。2号トンネルは1970年12月4日に開通した。
当初の計画では、この2号トンネルは南山の地下で1号トンネルと交差し、その交差点を地下待避壕ともなる広場ロータリーにするということになっていた。
しかし、実際には2つのトンネルを地中で交差させて地下待避壕を造成する計画には無理があるとして断念し、2本の別々のトンネルとして完成させた。
しかし、この2本のトンネルは、北朝鮮の軍事脅威への対応という名目で、非常に無理をして工期短縮を強いた突貫工事であったため、1号トンネルも2号トンネルも完成当初から様々な欠陥が指摘されていた。いく度も改修工事を繰り返したが、問題の抜本的な解決には至らなかった。特に、1号トンネルは通行量がもっとも多かったにも関わらず、片側1車線で常に渋滞が起きていた。そのため1983年からは朝の通勤時間帯には市内方向へのみ、退勤時間帯には漢南洞方面へのみとするなど通行方式を工夫したり通行量の抑制にも努めてきた。
2号トンネルは、急遽造成が決まったこともあり、設計や位置選定に問題が多いまま完成した。1号トンネル以上に補修工事が繰り返されたが、危険度が高いとして米軍関係の車両は通行を禁止する内部指示が出されていた。また取り付け道路が整備されていなかったために通行に不便があると同時に、梨泰院側と奨忠壇側とを結ぶ路線の需要がさほど多くなかったため、車両通行量も極端に少ないままであった。
3号トンネルは1976年に着工され、3月までに取り付け道路用地となる新世界デーパート裏の会賢洞側268戸と南側の龍山洞側の104戸の住宅が撤去された。取り付け道路は35m幅で6車線、会賢洞側の距離は520mとなっていた。このルートは上述の「大京城計画案」の旭町ー岡崎町線のトンネル計画とほぼ重なるように思える。この計画線を西に曲げずにまっすぐ南に突き抜けるとこれが3号トンネルルートとなる。さらに、1号トンネルや2号トンネルと違って、交通路として本格的に設計された上下線がそれぞれ独立したトンネル設計になっていた。さらに、その先の漢江には、75年9月に着工した潜水橋(盤浦大橋)が完成間近で江南に直結する。潜水橋を渡った盤浦洞には高速バスターミナルが既に建設中で、1976年9月からは部分的にバスターミナルとしての運用が始まっていた。
このトンネルの起工式は、南山ケーブルカーの駅で行われているが、現在も運行中のこのケーブルカーは1962年5月に開業している。動画中の発破場面で右上に見えているのが、当時建設中だった国立中央図書館である。長谷川町にあった朝鮮総督府図書館を引き継いで解放後は国立中央図書館として運用されてきたが、1976年にロッテに売却して南山に新たに図書館建物の建設に取りかかっていた。動画の後半部分には、潜水橋(盤浦大橋)の工事現場が映し出されている。
さらに、下の動画は、大韓ニュースの未公開動画だが、これには旧旭町2丁目の日本家屋と思われるものが写っている。北側に見える最上階に特徴のあるビルが1973年に完成した大韓貿易会館(1988年に江南三成洞に移転)で、その陰に見えるのが1971年に火災で多くの犠牲者を出した旧大然閣ホテルのビル(現在の高麗大然閣タワー)である。後半は、反対側龍山洞側から南山タワーを見上げる構図で取られている。トンネル上部は現在の解放村の東側あたりであろう(龍岩初等学校あたりか)。
ちなみに、南山タワーは1969年に着工して1975年7月30日に完成していた。ただ、この当時は一般開放されておらず、一般公開が始まるのは1980年10月になってからのことであった。

1978年5月1日に3号トンネルは開通した。開通式では、1974年に銃撃されて死去した陸英修夫人に代わって長女朴槿恵が朴正煕大統領とともにテープカットをしている。
こうして南山に3本のトンネルが貫通した。
1号トンネルと2号トンネルは、それぞれ問題を抱えたまま利用が続けられてきたが、1990年代に入って抜本的な対策が講じられた。1号トンネルは、交通量が激増して渋滞や排気ガス問題も深刻になったため、1989年5月から既存のトンネルの横に新たなトンネル建設に着手し、1993年12月にこれがが開通した。その上で旧トンネルを通行止にして1年半かけて再整備を行ない、1995年6月から新旧二つのトンネルで運用されるようになった。2号トンネルは1997年に2年間トンネルの通行を禁止した再整備事業を行なった。
余談:
1980年代、トンネルを通る車の運転手はこのバケツのような機械に100ウォン硬貨を投げ込んでいた。バスでもタクシーでも用達車でも自家用車でも、トンネルを通る場合は必ず投げる。バスやタクシーの運転手の中には達人がいて、スピードを落とさないまま100ウォンを投げ込む。憂さ晴らしに投げているんじゃないかと思うほど乱暴に投げるドライバーも多かった。逆に、完全に停止して狙い定めて投げても入らないというドライバーもいたりした。入ると青ランプが点くし、入らないと赤ランプが点く。しかし、別にストップバーが下りるわけではないので、ラッシュ時以外はスムーズに流れていた。
























