「疎開空地」と世運商街 | 一松書院のブログ

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 今の GoogleMapのソウルの中心部、1933年の『京城精密地図』(東京経済大学リポジトリーで公開)と比較すると3か所の明らかに異なっている部分が目につく。『京城精密地図』にはなかった道路ができていたり直線的な空間がある。

GoogleMapの航空写真の方ではこうなっている。

 ①は、鍾路チョンノ5街から南にのびて乙支路ウルチロ退渓路テゲロを横切ってアンバサダーホテル前から東国大学トングックに突き当たる幹線道路。突き当たりを東方向に行くと奨忠壇チャンチュンダンの交差点にでる。③は、タプコル公園横の道路を覆う楽園市場ナゴンシジャンの下の道がまっすぐ南にのびて南山ナムサンの1号トンネルの取り付け道路につながる幹線道路。三一大路サミルテロである。

 そして②は、航空写真からわかるように南北にわたって建造物が南北に立ち並ぶ並ぶ空間になっている。

 1945年までの京城の地図にはこの部分の空白は描かれていない。この都市空間の大きな変化は、日本の戦争の最末期、1945年の4月から6月にかけて起きたものであった。

 

 戦時下の日本は、1943年11月に首都圏への空襲を想定して「帝都重要地帯疎開計画」を立案し、その一つとして「防火地帯造成」を設定した。それは、

災害の拡大を一地域内に遮断するため、市街地を広幅員(五十米乃至百米)の防火帯をもつて縦横に疎開せんとするもの

というものであった。これを「建物疎開」ともいい、建物を撤去したところを「疎開空地」といった。この計画は1944年3月までに完了した。

 

 翌年3月10日、東京が大規模な空襲を受けた。B29の投下した焼夷弾の威力には建物疎開では対抗できず、東京では多くの人命が失われ、焼け野が原となった。それでも、朝鮮総督府は朝鮮でも「防火地帯」の造成を決定して、4月7日付の官報での京城・釜山・平壌の3都市での防火地帯指定を告示した。

 

 京城では、「鍾路西四軒町線」「宗廟大和町線」「慶雲町南山町線」「京城駅竹添町線」「京城駅岡崎町線」の5本の防火地帯が指定された。前者の3線は幅員50メートル、後者の2線は鉄道線路沿いということで30メートルに設定された。

 この前者3線が、前掲の①〜③の空間に該当するものである。

 翌日の『毎日申報』はこの告示の関連記事を掲載している。『毎日申報』は朝鮮総督府の機関紙の役割を果たしていた朝鮮語版の新聞で、『京城日報』が日本語で出されていた機関紙なのだが、残念ながら数種ある『京城日報』復刻版にはこの前後の紙面は収録されていない。

 紙面状態がよくないので読みづらいが、建物疎開に関しては概ね次のような記事内容である。

建物疎開の場合
建物は、防空空地として必要な地域について道知事からまず譲渡命令書を所有者に交付して取り壊すが、次のような基準で損失補償が行われる。
住宅や倉庫だけを取り壊す場合は建物についてのみ評価して補償し、住宅を売らずに別の場所に移築する場合は相当する移転費を払う。移転費は現金で、土地家屋の売却費用は希望する銀行の特殊預金証書で支払われる。

また、Q&Aには次のようにある。

問 防空空地帯に指定された地区の建物はどのような手順で壊すのか(本町生)
答 空家や商売をしていない店などすぐに壊しても大きな影響がない建物はすぐに壊すが、現在生活している建物はできるだけ早く余裕を持って他所への引越し準備をするものとするが、建築物の種類によってその時期や期間が異なってくる。(森総督府警備課長談)

「本町生」は、多分内地人を想定したものであろう。この建物疎開による空地地帯は、北側の鍾路周辺の朝鮮人居住区域から、南側の内地人の多い黄金町、本町通を越えて南山山麓まで設定されたもので、相当数の内地人の住居や商店も撤去対象になった。

 実際の取壊しは5月初旬に始まった。『京城日報』の記事によると、5月11日から12日にかけて、東大門警防団に倍材学校や徽文学校などの生徒も加えて取壊し作業を行ったとある。鍾路5丁目から南側の「鍾路西四軒町線」の作業であろう。

この時期から5月末まで、『京城日報』ではこうした建物疎開の撤去作業に関する記事が集中的に報じられている。普通学校(朝鮮人の初等教育機関)や中学の生徒たちも建物の取壊しと後片付けに動員され急ピッチで作業が進められた。これと同時に、防火地帯指定外の市内の茅葺屋根の家屋や老朽家屋も取り壊されていった。

 取り壊しが順調だと報じられる一方で、補償金を受け取った上でその家ごと丸々持ち去るとか、取崩した家屋の廃材が持ち去られるという事態も数多く発生している。

「防火地帯造成」は永登浦でも行われ、5月21日から第二次の建物除去が行われている。『京城日報』は、建物除去にまつわる「美談」としてこんな記事を載せている。

 その話とは、

西平大鉉の家族10人は、大鉉の長男のわずかな収入で暮らしていたが、前年秋にその長男が徴用で内地に送られ、生活にますます窮する状態になっていた。さらに建物疎開の対象となって住んでいた家が取り壊されて一家が路頭に迷うことになり、見かねた町会の原田総代が町民から寄付を集めて一家を出身場所に送り返した

という「美談」である。こうした「美談」報道は往々にして出来事の裏面を照らし出し、実態をを教えてくれるものとなる。

 西平大鉉は、その名前から創氏改名した朝鮮人であることがわかる。長男が「徴用」で内地に行かされ(本人が好んで行ったのではない)、これによって一家の収入は絶たれた。さらに建物疎開命令で住んでいた家が取り壊されることになった。西平大鉉一家には何らの補償がなかった。つまり疎開令に基づく立退き・取壊しについては、所有者に対しては補償や移転費の支払いがあったが、借家人などの実際の居住者には補償がなかったことがわかる。そして、西平大鉉一家は、町会総代の「善意」で、京城よりもさらに生活の見込みの立たない田舎に送り出されることになってしまったのである。

 京城市内の疎開空地造成過程においても、実際には、西平大鉉一家のように何の補償も無いまま住む家を失って路頭に迷うことになった朝鮮人や内地人が相当数いたものと思われる。

 

 5月に一気に家屋を撤去して作られた疎開空地は、その後日本の敗戦までの2ヶ月半、一部は道路として用いられたが、多くは野菜などの食糧の栽培のための菜園として京城府の各町会に貸与された。

 

 

 そして、京城の街は幸いなことに空襲に会うことなく1945年8月15日の日本の敗戦を迎えることになった。1945年9月から、京城の内地人は次々と引揚げて行った。疎開空地は、防火帯の役割を果たすことがないまま空き地として残された。

 

 年末12月25日の『東亜日報トンアイルボ』は、「改装されるべき市内の疎開廃墟」という次のような記事を掲載した。

 この記事によって、建物疎開実施時には、その指定区域内の官公署や病院、それに耐火ビルなどはすぐに取り壊されず、6ヶ月間の猶予期間が設けられていたことがわかる。すなわち、日本の敗戦までに完全な空地になっていたわけではなかった。従って、こうした建物も全て撤去して5000万ウォンをかけて幹線道路化するという計画が立てられたのである。1945年の解放直後の地図では、②と③の一部は描かれているが①は描かれていない。それも残余建物が多く残っていたという事情があったからかもしれない。

しかし、1947年の『東亜日報』の記事を見ても、「疎開空地」の整備はなかなか進まなかったようだ。その後も舗道にするとか小公園化といった案などが出されているが具体化しないままであった。

 

 そして1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、京城の市内でも朝鮮人民軍と韓国軍・国連軍の間で数度にわたって市街戦が繰り広げられた。

서울역사아카이브 「전재피해지역에 대한 토지구획사업지역」1960

 

 上掲の1960年の地図にも、1958年の「地番入서울特別市街地圖」にも、①〜③の空間がはっきり描かれている。

 この時点で、①の鍾路5街から東国大学方面に向かう道路と、③のパゴダ公園(現在のタプコル公園)横から退渓路2街に至る道路は、道路して機能するようになっていた。しかし、②の宗廟チョンミョから忠武路チュンムロに至る旧「疎開空地」は、南北の両サイドが宗廟と南山とに突き当たっていたこともあり、道路として活用されないまま朝鮮戦争時の避難民や家を失った被災民、貧民が住み着いたという。1952年に疎開道路として拡張されたが、その後ここに無許可住宅が2000軒以上建てられ、首都ソウルの都心スラム街となっていた。さらに付近に私娼窟街(仁義洞イニドン一帯)もあったこともあり、治安上の問題ともなっていた。当時のソウル市長金玄玉キムヒョノクはこの地区の再開発を計画した。1966年6月に朴正煕パクチョンヒ大統領の承認を得ると(この当時ソウル市長など首長は大統領からの任命制だった)8月までに不法建築を一気に撤去し、建築家金寿根キムスグンの基本設計に基づいて1966年10月25日に再開発工事に着工した。

 

 まず、1967年7月27日に世運セウンアパートの完成式が行われ、同時に1階から4階の店舗がオープンした。3階部分で他地区の建物と空中歩道で連結される設計になっていた。

 その半年後の11月17日には、世運商街セウンサンガA・B地区の竣工式が行われ、翌1968年には残りの地区の建物も竣工して忠武路3街から鍾路3街まで1キロの商街が完成した。

 全体として「世運商街」と通称されるが、正確には現代ヒョンデ商街・世運商街・大林テリム商街・三豊サンプン商街・新星シンソン商街などの複数の商街で成り立っていた。

 東西にソウルを横断する幹線道路を縦に貫いて1キロに渡って南北に伸びる建造物は完成当初は「ソウルの新名所」「ソウルの名物」と注目された。いかにも目立つ巨大構造物だったが、空中歩道で自由な往来を目指した設計の目論見とは裏腹に、人の往来や車の通行の障害になる側面もあり、完成から10年ほどで「怪物ビル」とまでいわれるようになってしまった。設計者の金寿根は、役人が設計を無視して完成を急がした結果、とんでもない失敗作になってしまったと悔やんでいたという。

 80年代の世運商街といえば、電気関係のものならどんな部品でもあるといわれたし、メディア関係、特に海賊版のビデオやカセットで手に入らないものはないというほどであった。さらにビルの周囲には小さな店がひしめきあって、荷物運びの自転車やリアカー、それに用達車ヨンダルチャが排気ガスを撒き散らして走り回っていた。

 三豊商街の北端にあった「豊田プンジョンホテル」は、1980年代・90年代には日本のパックツアーでよく使われていた。今は改装してPJホテルと名前を変えて営業している。豊田ホテルの時代は、ホテル前の喧騒を抜けてホテル内に入ると、吹き抜けのあるシックなインテリアの落ち着いた雰囲気で、しかもこのホテルにはプールがあった。当時、市内中心部で屋内プールがあったホテルはロッテと新羅くらい。だから1990年代には、格安でプールで泳げるこのホテルによく泊まっていた。ひと泳ぎして10階のプールサイドから見下ろすと、眼下に小学校が見えて周囲にはちまちまと小さな屋根がひしめいきあっていて、このビルの内側と外側の何とも言えない落差を感じさせられたものだった。

 

 そして、建築から50年近く経った2017年。9月19日に世運商街は改装されて新たにオープンした。

 前ソウル市長の呉世勲オセフンは、2008年に世運商街を撤去し公園や高層ビルを作る計画を発表したが実現しなかった。その後、市長に当選した現在の市長朴元淳パクウォンスンは2014年3月に世運商街再生計画を発表し、世運商街建設当初の設計者金寿根の弟子である承孝相スンヒョサンの「再び世運プロジェクト」をサポートすることになった。2016年1月18日、その第1段階事業(鍾路〜世運商街〜清渓・大林商街区間)の着手が宣言され、それが竣工したのが2017年であった。

 第2段階については、2018年3月27日にPJホテルで開かれた事業着手式で朴元淳市長が第2段階事業の開始を宣言した。

 2018年3月28日付の「国民日報クンミンイルボ」デジタル版には以下のような事業内容が記されている。

「再び世運」は、三豊商街からPJホテルを経て南端の進洋ジニャン商街までを空中歩道で連結すると同時に、忠武路・仁峴洞イニョンドン・乙支路・五壮洞オジャンドン一帯の古い印刷路地を創作的印刷業の拠点として再生させる事業である。

これに先立ってソウル市は、昨年9月に世運商街〜清渓商街〜大林商街を対象とした第一段階事業を完了した。2020年の第二段階事業まで終わると世運商街から進洋商街までの計1㎞にわたる世運商街群の七つの建物全体が歩道でつながり、宗廟から南山まで続くソウルの南北歩行軸が完成することになる。
「再び世運」は、都心製造業の再生プロジェクトでもある。第一段階では、製造企業が密集した世運商街にデジタル技術と若手技術者を供給して「メーカーシティ」に変貌させる事業だったが、第二段階は、印刷路地に最新の技術とデザインを融合させて新しい活気を吹き込む事業となる。
中区の印刷路地には、3000以上の印刷関連企業が集まっている。ソウルの印刷会社の67.5%がこの地域に集中している。ソウル市はこの地域に都市再生の拠点施設となる「印刷スマートアンカー」を新築する。地下6階、地上12階の建物は、一人だけの会社の入居スペース、サンプルワークショップ、教育施設、駐車場などとして使用される。また、印刷関連のスタートアップ入居空間である「創作キューブ」を24個設置し、若手のコミュニティが形成されるように、若手起業家向けの住宅400戸も供給する。進洋商街には、独立出版物を製作して購入できるスペースが設けられ、仁峴地下商店街には博物館や印刷技術学校、印刷工房のような施設が作られる。

 この記事は、ソウル市が作成したプレスリリースに基づいて書かれたもので、第2段階の事業計画が具体的に記されている。この世運商街再生プロジェクトの第2段階のプロセスとして、2019年早々、乙支路での取り壊しが始まっている。

 

 日本の植民地支配と戦争遂行の中で作られた疎開空地から始まったソウルの中心を南北に縦貫する商街。その周辺を巻き込みながらこれからどのような街を作ろうとしているのか、そしてどのような街になっていくのであろうか。