前のブログで、植民地支配下の京城で太平洋戦争最末期に設定された「疎開空地」と世運商街について書いた。
下の図の②の部分、すなわち1945年4月7日付の朝鮮総督府官報で指定された京城市内5本の防火線のうち「宗廟大和町線」と呼ばれるのが、後日世運商街となる疎開空地部分である。今回は③の「慶雲町南山町線」についてみてみたい。
1936年発行の『地番区画入大京城精圖』で慶雲町から南山町線に線を引くと下の黄色いマーカーの線になる。
これを、1968年発行の『地番入最新ソウル特別市街地図』と比較してみる。すると、北側の校洞初等学校の南側の空地に「市場」の書き込みがあり①。そこから鍾路までは空地部分が狭くなっている②。南側では、明洞の大聖堂のところで止まって③、迂回するかのように東側の回り込んで退渓路に出る空地が描かれている④。
狭くなっている②の部分を1936年の地図で拡大してみると、パゴダ公園(現在のタプコル公園)の西側に「図書館」という記載がある。
ここには、旧大韓帝国軍楽隊の建物があり、これを李範昇が1921年9月10日に総督府から払い下げを受けて京城図書館として開館した。その後、1923年7月に寄付金を原資に石造の新館を建てた。しかし、私設の図書館であったため財政的に常に苦しく、ついに1926年3月に京城府に譲渡することとなった。そして4月1日からは京城府立図書館鍾路分館として運営されることになり、1938年にはさらに拡張された。
この府立図書館分館は、1945年4月7日付官報で指定された建物疎開地域に含まれた。疎開地帯の家屋取り壊し作業はは5月中に急ピッチで行われたが、当該地域内の官公庁・病院・耐火建物については、取り壊しが6ヶ月間猶予されることになっていた。この図書館も猶予対象となり、そのまま8月の日本の敗戦を迎えた。そして、アメリカ軍の軍政が始まった中で9月18日にソウル市立鍾路図書館として新たなスタートを切った。府立図書館時代の資料はそのまま鍾路図書館に引き継がれた。府立図書館分館の蔵書印のある資料は今でも結構目にする。例えば、ネットでも公開されている「朝鮮半島5万分の1地図」にはこのような蔵書印や注意書きがある。
1936年の地図で、もう一つ目につくのは、この図書館の向かい側にある「朝鮮劇場」である。この施設は、1922年11月6日に、演劇公演と映画上映の劇場としてオープンしたもので、実質オーナーは黄金館(黄金町4丁目)や喜樂館(本町1丁目)を経営した早川増太郎であった。映画上映だけでなく一時は朝鮮人の演劇活動の舞台ともなったが、その後は洋画中心の映画専門館になった。朝鮮人の多い街鍾路の映画館でありながら内地人もここに映画を観に足を運んでいたという。チャップリンの『街の灯』(1931)も1934年6月にここで封切られている。朝鮮語の『東亜日報』だけでなく日本語紙の『京城日報』にも朝鮮劇場の映画案内が掲載されている。
1936年6月11日、朝鮮劇場は放火よる火災で全焼してしまい、そのまま閉鎖に追い込まれた。
その後、1943年6月に京城府に区制が敷かれた時にここに鍾路区役所が置かれた。その後狭隘だとして移転計画が具体化したが、建物疎開時には区役所はこの場所にあった。ここはぎりぎり疎開指定からは外れていた。
こうして、1945年8月の日本の敗戦時、鍾路から南側から現在の明洞大聖堂の手前のところまでは50mの疎開空地が確保されていたが、鍾路から北側は府立図書館分館があったために十分な幅員が確保できないままになっていた。この道の狭まった図書館部分の北側の空地に自然発生的に市場ができた。楽園洞にあったことから「楽園市場」と呼ばれた。
1948年の3月に、楽園市場の商人たちによる「親睦会」が結成され、それが夏には「楽園市場商人組合」結成に発展した。さらに進んで、ハコバン(하꼬방)で暮らす「戦罹災細窮民」を中心に、ここで商売をする4500名が集まって「楽園市場株式会社」の設立が決議された。「戦罹災細窮民」とは、戦争最末期の朝鮮総督府による疎開空地の造成で立ち退きを余儀なくされ、箱程度のスペース=ハコバンに暮らすことになった人々である。そこに、北緯38度線以北からの南下避難者=「越南者」なども加わって市場は拡大した。この楽園市場は、自然発生的ではあったが、規模が大きくなっただけでなく早い時期から組織として整備され運営されるようになっていた。
朝鮮戦争休戦後、再び市場として繁盛していたが、その反面、1960年代半ばには様々な反社会勢力が入り込んだり権力と結託して暴利を貪るような一角も生まれるようになっていた。
ちょうどその時期にソウル市長になったのが、強引な手法で開発を進めて「ブルドーザー」と異名をとった金玄玉であった。
1961年の5・16クーデターで権力を握り、1963年の大統領選に出馬して当選した朴正煕は、1967年の次期大統領選挙を見据え、前回選挙で思うように票が集められなかったソウルで、大々的な都市開発計画を打ち上げることで票集めを狙っていた。その推進役として退役軍人の金玄玉をソウル市長に抜擢した。この当時、地方首長は大統領による任命制であった。
次の動画は、2003年8月29日に放送された「KBS人物現代史 ブルドーザー市長“蜃気楼”’を建てる - 金玄玉(불도저시장 '신기루'를 세우다 - 김현옥)」の一場面である。
鍾路周辺の無許可住宅を取り壊し、鍾三の私娼窟を除去し、そこに楽園商街と世運商街を建てた。
このように、疎開空地の無届け住居を取り壊して、そこに新しい人目を引く大規模建造物の建築計画をぶち上げ、それを推進していった。その一つが世運商街であり、楽園商街の建設であった。
1967年1月末に、パゴダ公園の改修と合わせて楽園市場部分の再開発について報じられている。
3月に京郷新聞に載ったこの図面では、北側に半円のアーケードがデザインされ、まだ楽園商街らしきものは描かれていない。
このプランに伴って、パゴダ公園の西側に隣接していた市立鍾路図書館は移転をすることになった。8月に図書館は休館となり、1年後に社稷洞の現在位置に移転オープンすることになった。
移転直前の鍾路図書館
現在のソウル市立図書館
一方、10月までに、楽園市場から鍾路にかけて建てられていた無許可建物409戸が撤去され、そのうち185戸970名余は城北区上渓洞に強制移住させられた。1600坪のその跡地には民間資金を導入して楽園商街・アパートが建てられることになった。この時の楽園市場の撤去にあたっては、400名ほどの商店主に対して建設費実費負担で楽園商街地下への入居権が約束されていたという。
楽園商街は、世運商街などと同じく店舗とマンション居住区の複合建築物、いわゆる下駄履きマンションであった。1階は、幅40mの道路につながる車道と駐車場、2・3階は店舗、4階が事務室と映画館(ハリウッド劇場)、5階に公園空間が設けられて6階以上がマンションになっていた。また、地下部分にスーパーマーケットの食品部として、楽園市場の商店が入居することになっていた。これは、この年2月に、ソウルの主婦層へのアピールを狙った金玄玉市長が楽園商街への「家庭市場」開設を約束していたことと、解放後早い時期から組織的に市場運営をやってきた楽園市場をなくしてしまうことは難しいとの判断があったからである。
1967年10月26日に起工式が行われ、工事が始まった。地下の商店194店舗に関しては坪当たり25万ウォンの権利金で譲渡されるものとされ、6月16日には一部開店、1970年12月12日には全館オープンとなった。しかし、15階建てのビルが完成した後になって8階建ての建築許可しかなかったことが判明。第一建設は建築法違反で告発され、鍾路区の課長が収賄で逮捕されるという騒動が起きた。しかし金玄玉市長が介入してそのままうやむやにされた。
一方、パゴダアーケードには、楽器店が多く入っていたが、1980年に入ると次第に楽園商店街に移り始めた。1983年7月にアーケードが撤去されると楽園商街が音楽専門店街に一気に変貌した。1980年代には、日本からカラオケ機械が急速に普及したが、韓国では、料亭やルームサロンなどでは生バンド(ベンドゥ)全盛期で、バンド関係者や手配業者などもこの楽園商街を拠点にしていた。
1980年代の半ば、地下鉄3号線安国駅の地上の交差点から漢江の南側へいくルートはほぼ一直線だった。安国交差点から楽園商街の下をくぐってまっすぐ南に下って行くと三一高架道路の下を通って退渓路のところで南山の1号トンネルにつながる取り付け道路に上がれる。そこから1号トンネルをくぐって漢南洞に出て第3漢江橋(漢南大橋)を越えると新沙洞、さらに行くと京釜高速道路の取り付け道路。横にそれていくと狎鴎亭洞など江南の新興繁華街につながっていた。1980年代、退勤時間どきに車でこのルートで南下すると、トンネルくぐって橋を越えるのに1時間半くらいかかったこともあったが……
すなわち、この楽園商街ができることになった「慶雲町南山町線」の防火帯は、その後、トンネルや橋梁の建設を経て漢江の南側にまでつながるメインルートの一つになったのである。
清渓高架道路・三一高架道路・南山のトンネルと漢江の橋も、すべてこの時期の都市開発と連動しているが、これについてはいずれ書くことにしよう。
2007年、ソウル市は築40年の楽園商店街の撤去と再開発計画を打ち出したが、その後楽園商街の楽器市場としての価値が認められて、2013年にはソウル市未来遺産に登録されている。


























































