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一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。

 前のブログで、植民地支配下の京城で太平洋戦争最末期に設定された「疎開空地」と世運商街セウンサンガについて書いた。

   「疎開空地」と世運商街

 下の図の②の部分、すなわち1945年4月7日付の朝鮮総督府官報で指定された京城市内5本の防火線のうち「宗廟大和町線」と呼ばれるのが、後日世運商街となる疎開空地部分である。今回は③の「慶雲町南山町線」についてみてみたい。

 

 1936年発行の『地番区画入大京城精圖』で慶雲町から南山町線に線を引くと下の黄色いマーカーの線になる。

これを、1968年発行の『地番入最新ソウル特別市街地図』と比較してみる。すると、北側の校洞キョドン初等学校の南側の空地に「市場」の書き込みがあり①。そこから鍾路チョンノまでは空地部分が狭くなっている②。南側では、明洞ミョンドンの大聖堂のところで止まって③、迂回するかのように東側の回り込んで退渓路テゲロに出る空地が描かれている④。

狭くなっている②の部分を1936年の地図で拡大してみると、パゴダ公園(現在のタプコル公園)の西側に「図書館」という記載がある。

ここには、旧大韓帝国軍楽隊の建物があり、これを李範昇イボムスンが1921年9月10日に総督府から払い下げを受けて京城図書館として開館した。その後、1923年7月に寄付金を原資に石造の新館を建てた。しかし、私設の図書館であったため財政的に常に苦しく、ついに1926年3月に京城府に譲渡することとなった。そして4月1日からは京城府立図書館鍾路分館として運営されることになり、1938年にはさらに拡張された。


 この府立図書館分館は、1945年4月7日付官報で指定された建物疎開地域に含まれた。疎開地帯の家屋取り壊し作業はは5月中に急ピッチで行われたが、当該地域内の官公庁・病院・耐火建物については、取り壊しが6ヶ月間猶予されることになっていた。この図書館も猶予対象となり、そのまま8月の日本の敗戦を迎えた。そして、アメリカ軍の軍政が始まった中で9月18日にソウル市立鍾路図書館として新たなスタートを切った。府立図書館時代の資料はそのまま鍾路図書館に引き継がれた。府立図書館分館の蔵書印のある資料は今でも結構目にする。例えば、ネットでも公開されている「朝鮮半島5万分の1地図」にはこのような蔵書印や注意書きがある。

 

 1936年の地図で、もう一つ目につくのは、この図書館の向かい側にある「朝鮮劇場」である。この施設は、1922年11月6日に、演劇公演と映画上映の劇場としてオープンしたもので、実質オーナーは黄金館(黄金町4丁目)や喜樂館(本町1丁目)を経営した早川増太郎であった。映画上映だけでなく一時は朝鮮人の演劇活動の舞台ともなったが、その後は洋画中心の映画専門館になった。朝鮮人の多い街鍾路の映画館でありながら内地人もここに映画を観に足を運んでいたという。チャップリンの『街の灯』(1931)も1934年6月にここで封切られている。朝鮮語の『東亜日報』だけでなく日本語紙の『京城日報』にも朝鮮劇場の映画案内が掲載されている。

 1936年6月11日、朝鮮劇場は放火よる火災で全焼してしまい、そのまま閉鎖に追い込まれた。

その後、1943年6月に京城府に区制が敷かれた時にここに鍾路区役所が置かれた。その後狭隘だとして移転計画が具体化したが、建物疎開時には区役所はこの場所にあった。ここはぎりぎり疎開指定からは外れていた。

 

 こうして、1945年8月の日本の敗戦時、鍾路から南側から現在の明洞大聖堂の手前のところまでは50mの疎開空地が確保されていたが、鍾路から北側は府立図書館分館があったために十分な幅員が確保できないままになっていた。この道の狭まった図書館部分の北側の空地に自然発生的に市場ができた。楽園洞ナゴンドンにあったことから「楽園市場ナゴンシジャン」と呼ばれた。

 1948年の3月に、楽園市場の商人たちによる「親睦会」が結成され、それが夏には「楽園市場商人組合」結成に発展した。さらに進んで、ハコバン(하꼬방)で暮らす「戦罹災細窮民」を中心に、ここで商売をする4500名が集まって「楽園市場株式会社」の設立が決議された。「戦罹災細窮民」とは、戦争最末期の朝鮮総督府による疎開空地の造成で立ち退きを余儀なくされ、箱程度のスペース=ハコバンに暮らすことになった人々である。そこに、北緯38度線以北からの南下避難者=「越南者ウォルナムジャ」なども加わって市場は拡大した。この楽園市場は、自然発生的ではあったが、規模が大きくなっただけでなく早い時期から組織として整備され運営されるようになっていた。

 

 

 朝鮮戦争休戦後、再び市場として繁盛していたが、その反面、1960年代半ばには様々な反社会勢力が入り込んだり権力と結託して暴利を貪るような一角も生まれるようになっていた。

 

 ちょうどその時期にソウル市長になったのが、強引な手法で開発を進めて「ブルドーザー」と異名をとった金玄玉キムヒョノクであった。

 1961年の5・16クーデターで権力を握り、1963年の大統領選に出馬して当選した朴正煕パクチョンヒは、1967年の次期大統領選挙を見据え、前回選挙で思うように票が集められなかったソウルで、大々的な都市開発計画を打ち上げることで票集めを狙っていた。その推進役として退役軍人の金玄玉をソウル市長に抜擢した。この当時、地方首長は大統領による任命制であった。

 次の動画は、2003年8月29日に放送された「KBS人物現代史 ブルドーザー市長“蜃気楼”’を建てる - 金玄玉(불도저시장 '신기루'를 세우다 - 김현옥)」の一場面である。

鍾路周辺の無許可住宅を取り壊し、鍾三チョンサムの私娼窟を除去し、そこに楽園商街と世運商街を建てた。

 

 このように、疎開空地の無届け住居を取り壊して、そこに新しい人目を引く大規模建造物の建築計画をぶち上げ、それを推進していった。その一つが世運商街であり、楽園商街の建設であった。

 1967年1月末に、パゴダ公園の改修と合わせて楽園市場部分の再開発について報じられている。


 

 3月に京郷新聞キョンヒャンシンムンに載ったこの図面では、北側に半円のアーケードがデザインされ、まだ楽園商街らしきものは描かれていない。

 このプランに伴って、パゴダ公園の西側に隣接していた市立鍾路図書館は移転をすることになった。8月に図書館は休館となり、1年後に社稷洞サジクダンの現在位置に移転オープンすることになった。

移転直前の鍾路図書館

現在のソウル市立図書館

 一方、10月までに、楽園市場から鍾路にかけて建てられていた無許可建物409戸が撤去され、そのうち185戸970名余は城北区ソンブック上渓洞サンゲドンに強制移住させられた。1600坪のその跡地には民間資金を導入して楽園商街・アパートが建てられることになった。この時の楽園市場の撤去にあたっては、400名ほどの商店主に対して建設費実費負担で楽園商街地下への入居権が約束されていたという。

 

 楽園商街は、世運商街などと同じく店舗とマンション居住区の複合建築物、いわゆる下駄履きマンションであった。1階は、幅40mの道路につながる車道と駐車場、2・3階は店舗、4階が事務室と映画館(ハリウッド劇場)、5階に公園空間が設けられて6階以上がマンションになっていた。また、地下部分にスーパーマーケットの食品部として、楽園市場の商店が入居することになっていた。これは、この年2月に、ソウルの主婦層へのアピールを狙った金玄玉市長が楽園商街への「家庭市場」開設を約束していたことと、解放後早い時期から組織的に市場運営をやってきた楽園市場をなくしてしまうことは難しいとの判断があったからである。

 1967年10月26日に起工式が行われ、工事が始まった。地下の商店194店舗に関しては坪当たり25万ウォンの権利金で譲渡されるものとされ、6月16日には一部開店、1970年12月12日には全館オープンとなった。しかし、15階建てのビルが完成した後になって8階建ての建築許可しかなかったことが判明。第一建設は建築法違反で告発され、鍾路区の課長が収賄で逮捕されるという騒動が起きた。しかし金玄玉市長が介入してそのままうやむやにされた。

 一方、パゴダアーケードには、楽器店が多く入っていたが、1980年に入ると次第に楽園商店街に移り始めた。1983年7月にアーケードが撤去されると楽園商街が音楽専門店街に一気に変貌した。1980年代には、日本からカラオケ機械が急速に普及したが、韓国では、料亭やルームサロンなどでは生バンド(ベンドゥ)全盛期で、バンド関係者や手配業者などもこの楽園商街を拠点にしていた。

 

 1980年代の半ば、地下鉄3号線安国アングッ駅の地上の交差点から漢江の南側へいくルートはほぼ一直線だった。安国交差点から楽園商街の下をくぐってまっすぐ南に下って行くと三一高架道路サミルコカドロの下を通って退渓路テゲロのところで南山の1号トンネルにつながる取り付け道路に上がれる。そこから1号トンネルをくぐって漢南洞ハンナムドンに出て第3漢江橋ジェサムハンガンギョ漢南大橋ハンナムテギョ)を越えると新沙洞シンサドン、さらに行くと京釜キョンブ高速道路の取り付け道路。横にそれていくと狎鴎亭洞アプクジョンドンなど江南カンナムの新興繁華街につながっていた。1980年代、退勤時間どきに車でこのルートで南下すると、トンネルくぐって橋を越えるのに1時間半くらいかかったこともあったが……

 すなわち、この楽園商街ができることになった「慶雲町南山町線」の防火帯は、その後、トンネルや橋梁の建設を経て漢江の南側にまでつながるメインルートの一つになったのである。

 清渓高架道路・三一高架道路・南山のトンネルと漢江の橋も、すべてこの時期の都市開発と連動しているが、これについてはいずれ書くことにしよう。

 

 2007年、ソウル市は築40年の楽園商店街の撤去と再開発計画を打ち出したが、その後楽園商街の楽器市場としての価値が認められて、2013年にはソウル市未来遺産に登録されている。

 

 今の GoogleMapのソウルの中心部、1933年の『京城精密地図』(東京経済大学リポジトリーで公開)と比較すると3か所の明らかに異なっている部分が目につく。『京城精密地図』にはなかった道路ができていたり直線的な空間がある。

GoogleMapの航空写真の方ではこうなっている。

 ①は、鍾路チョンノ5街から南にのびて乙支路ウルチロ退渓路テゲロを横切ってアンバサダーホテル前から東国大学トングックに突き当たる幹線道路。突き当たりを東方向に行くと奨忠壇チャンチュンダンの交差点にでる。③は、タプコル公園横の道路を覆う楽園市場ナゴンシジャンの下の道がまっすぐ南にのびて南山ナムサンの1号トンネルの取り付け道路につながる幹線道路。三一大路サミルテロである。

 そして②は、航空写真からわかるように南北にわたって建造物が南北に立ち並ぶ並ぶ空間になっている。

 1945年までの京城の地図にはこの部分の空白は描かれていない。この都市空間の大きな変化は、日本の戦争の最末期、1945年の4月から6月にかけて起きたものであった。

 

 戦時下の日本は、1943年11月に首都圏への空襲を想定して「帝都重要地帯疎開計画」を立案し、その一つとして「防火地帯造成」を設定した。それは、

災害の拡大を一地域内に遮断するため、市街地を広幅員(五十米乃至百米)の防火帯をもつて縦横に疎開せんとするもの

というものであった。これを「建物疎開」ともいい、建物を撤去したところを「疎開空地」といった。この計画は1944年3月までに完了した。

 

 翌年3月10日、東京が大規模な空襲を受けた。B29の投下した焼夷弾の威力には建物疎開では対抗できず、東京では多くの人命が失われ、焼け野が原となった。それでも、朝鮮総督府は朝鮮でも「防火地帯」の造成を決定して、4月7日付の官報での京城・釜山・平壌の3都市での防火地帯指定を告示した。

 

 京城では、「鍾路西四軒町線」「宗廟大和町線」「慶雲町南山町線」「京城駅竹添町線」「京城駅岡崎町線」の5本の防火地帯が指定された。前者の3線は幅員50メートル、後者の2線は鉄道線路沿いということで30メートルに設定された。

 この前者3線が、前掲の①〜③の空間に該当するものである。

 翌日の『毎日申報』はこの告示の関連記事を掲載している。『毎日申報』は朝鮮総督府の機関紙の役割を果たしていた朝鮮語版の新聞で、『京城日報』が日本語で出されていた機関紙なのだが、残念ながら数種ある『京城日報』復刻版にはこの前後の紙面は収録されていない。

 紙面状態がよくないので読みづらいが、建物疎開に関しては概ね次のような記事内容である。

建物疎開の場合
建物は、防空空地として必要な地域について道知事からまず譲渡命令書を所有者に交付して取り壊すが、次のような基準で損失補償が行われる。
住宅や倉庫だけを取り壊す場合は建物についてのみ評価して補償し、住宅を売らずに別の場所に移築する場合は相当する移転費を払う。移転費は現金で、土地家屋の売却費用は希望する銀行の特殊預金証書で支払われる。

また、Q&Aには次のようにある。

問 防空空地帯に指定された地区の建物はどのような手順で壊すのか(本町生)
答 空家や商売をしていない店などすぐに壊しても大きな影響がない建物はすぐに壊すが、現在生活している建物はできるだけ早く余裕を持って他所への引越し準備をするものとするが、建築物の種類によってその時期や期間が異なってくる。(森総督府警備課長談)

「本町生」は、多分内地人を想定したものであろう。この建物疎開による空地地帯は、北側の鍾路周辺の朝鮮人居住区域から、南側の内地人の多い黄金町、本町通を越えて南山山麓まで設定されたもので、相当数の内地人の住居や商店も撤去対象になった。

 実際の取壊しは5月初旬に始まった。『京城日報』の記事によると、5月11日から12日にかけて、東大門警防団に倍材学校や徽文学校などの生徒も加えて取壊し作業を行ったとある。鍾路5丁目から南側の「鍾路西四軒町線」の作業であろう。

この時期から5月末まで、『京城日報』ではこうした建物疎開の撤去作業に関する記事が集中的に報じられている。普通学校(朝鮮人の初等教育機関)や中学の生徒たちも建物の取壊しと後片付けに動員され急ピッチで作業が進められた。これと同時に、防火地帯指定外の市内の茅葺屋根の家屋や老朽家屋も取り壊されていった。

 取り壊しが順調だと報じられる一方で、補償金を受け取った上でその家ごと丸々持ち去るとか、取崩した家屋の廃材が持ち去られるという事態も数多く発生している。

「防火地帯造成」は永登浦でも行われ、5月21日から第二次の建物除去が行われている。『京城日報』は、建物除去にまつわる「美談」としてこんな記事を載せている。

 その話とは、

西平大鉉の家族10人は、大鉉の長男のわずかな収入で暮らしていたが、前年秋にその長男が徴用で内地に送られ、生活にますます窮する状態になっていた。さらに建物疎開の対象となって住んでいた家が取り壊されて一家が路頭に迷うことになり、見かねた町会の原田総代が町民から寄付を集めて一家を出身場所に送り返した

という「美談」である。こうした「美談」報道は往々にして出来事の裏面を照らし出し、実態をを教えてくれるものとなる。

 西平大鉉は、その名前から創氏改名した朝鮮人であることがわかる。長男が「徴用」で内地に行かされ(本人が好んで行ったのではない)、これによって一家の収入は絶たれた。さらに建物疎開命令で住んでいた家が取り壊されることになった。西平大鉉一家には何らの補償がなかった。つまり疎開令に基づく立退き・取壊しについては、所有者に対しては補償や移転費の支払いがあったが、借家人などの実際の居住者には補償がなかったことがわかる。そして、西平大鉉一家は、町会総代の「善意」で、京城よりもさらに生活の見込みの立たない田舎に送り出されることになってしまったのである。

 京城市内の疎開空地造成過程においても、実際には、西平大鉉一家のように何の補償も無いまま住む家を失って路頭に迷うことになった朝鮮人や内地人が相当数いたものと思われる。

 

 5月に一気に家屋を撤去して作られた疎開空地は、その後日本の敗戦までの2ヶ月半、一部は道路として用いられたが、多くは野菜などの食糧の栽培のための菜園として京城府の各町会に貸与された。

 

 

 そして、京城の街は幸いなことに空襲に会うことなく1945年8月15日の日本の敗戦を迎えることになった。1945年9月から、京城の内地人は次々と引揚げて行った。疎開空地は、防火帯の役割を果たすことがないまま空き地として残された。

 

 年末12月25日の『東亜日報トンアイルボ』は、「改装されるべき市内の疎開廃墟」という次のような記事を掲載した。

 この記事によって、建物疎開実施時には、その指定区域内の官公署や病院、それに耐火ビルなどはすぐに取り壊されず、6ヶ月間の猶予期間が設けられていたことがわかる。すなわち、日本の敗戦までに完全な空地になっていたわけではなかった。従って、こうした建物も全て撤去して5000万ウォンをかけて幹線道路化するという計画が立てられたのである。1945年の解放直後の地図では、②と③の一部は描かれているが①は描かれていない。それも残余建物が多く残っていたという事情があったからかもしれない。

しかし、1947年の『東亜日報』の記事を見ても、「疎開空地」の整備はなかなか進まなかったようだ。その後も舗道にするとか小公園化といった案などが出されているが具体化しないままであった。

 

 そして1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、京城の市内でも朝鮮人民軍と韓国軍・国連軍の間で数度にわたって市街戦が繰り広げられた。

서울역사아카이브 「전재피해지역에 대한 토지구획사업지역」1960

 

 上掲の1960年の地図にも、1958年の「地番入서울特別市街地圖」にも、①〜③の空間がはっきり描かれている。

 この時点で、①の鍾路5街から東国大学方面に向かう道路と、③のパゴダ公園(現在のタプコル公園)横から退渓路2街に至る道路は、道路して機能するようになっていた。しかし、②の宗廟チョンミョから忠武路チュンムロに至る旧「疎開空地」は、南北の両サイドが宗廟と南山とに突き当たっていたこともあり、道路として活用されないまま朝鮮戦争時の避難民や家を失った被災民、貧民が住み着いたという。1952年に疎開道路として拡張されたが、その後ここに無許可住宅が2000軒以上建てられ、首都ソウルの都心スラム街となっていた。さらに付近に私娼窟街(仁義洞イニドン一帯)もあったこともあり、治安上の問題ともなっていた。当時のソウル市長金玄玉キムヒョノクはこの地区の再開発を計画した。1966年6月に朴正煕パクチョンヒ大統領の承認を得ると(この当時ソウル市長など首長は大統領からの任命制だった)8月までに不法建築を一気に撤去し、建築家金寿根キムスグンの基本設計に基づいて1966年10月25日に再開発工事に着工した。

 

 まず、1967年7月27日に世運セウンアパートの完成式が行われ、同時に1階から4階の店舗がオープンした。3階部分で他地区の建物と空中歩道で連結される設計になっていた。

 その半年後の11月17日には、世運商街セウンサンガA・B地区の竣工式が行われ、翌1968年には残りの地区の建物も竣工して忠武路3街から鍾路3街まで1キロの商街が完成した。

 全体として「世運商街」と通称されるが、正確には現代ヒョンデ商街・世運商街・大林テリム商街・三豊サンプン商街・新星シンソン商街などの複数の商街で成り立っていた。

 東西にソウルを横断する幹線道路を縦に貫いて1キロに渡って南北に伸びる建造物は完成当初は「ソウルの新名所」「ソウルの名物」と注目された。いかにも目立つ巨大構造物だったが、空中歩道で自由な往来を目指した設計の目論見とは裏腹に、人の往来や車の通行の障害になる側面もあり、完成から10年ほどで「怪物ビル」とまでいわれるようになってしまった。設計者の金寿根は、役人が設計を無視して完成を急がした結果、とんでもない失敗作になってしまったと悔やんでいたという。

 80年代の世運商街といえば、電気関係のものならどんな部品でもあるといわれたし、メディア関係、特に海賊版のビデオやカセットで手に入らないものはないというほどであった。さらにビルの周囲には小さな店がひしめきあって、荷物運びの自転車やリアカー、それに用達車ヨンダルチャが排気ガスを撒き散らして走り回っていた。

 三豊商街の北端にあった「豊田プンジョンホテル」は、1980年代・90年代には日本のパックツアーでよく使われていた。今は改装してPJホテルと名前を変えて営業している。豊田ホテルの時代は、ホテル前の喧騒を抜けてホテル内に入ると、吹き抜けのあるシックなインテリアの落ち着いた雰囲気で、しかもこのホテルにはプールがあった。当時、市内中心部で屋内プールがあったホテルはロッテと新羅くらい。だから1990年代には、格安でプールで泳げるこのホテルによく泊まっていた。ひと泳ぎして10階のプールサイドから見下ろすと、眼下に小学校が見えて周囲にはちまちまと小さな屋根がひしめいきあっていて、このビルの内側と外側の何とも言えない落差を感じさせられたものだった。

 

 そして、建築から50年近く経った2017年。9月19日に世運商街は改装されて新たにオープンした。

 前ソウル市長の呉世勲オセフンは、2008年に世運商街を撤去し公園や高層ビルを作る計画を発表したが実現しなかった。その後、市長に当選した現在の市長朴元淳パクウォンスンは2014年3月に世運商街再生計画を発表し、世運商街建設当初の設計者金寿根の弟子である承孝相スンヒョサンの「再び世運プロジェクト」をサポートすることになった。2016年1月18日、その第1段階事業(鍾路〜世運商街〜清渓・大林商街区間)の着手が宣言され、それが竣工したのが2017年であった。

 第2段階については、2018年3月27日にPJホテルで開かれた事業着手式で朴元淳市長が第2段階事業の開始を宣言した。

 2018年3月28日付の「国民日報クンミンイルボ」デジタル版には以下のような事業内容が記されている。

「再び世運」は、三豊商街からPJホテルを経て南端の進洋ジニャン商街までを空中歩道で連結すると同時に、忠武路・仁峴洞イニョンドン・乙支路・五壮洞オジャンドン一帯の古い印刷路地を創作的印刷業の拠点として再生させる事業である。

これに先立ってソウル市は、昨年9月に世運商街〜清渓商街〜大林商街を対象とした第一段階事業を完了した。2020年の第二段階事業まで終わると世運商街から進洋商街までの計1㎞にわたる世運商街群の七つの建物全体が歩道でつながり、宗廟から南山まで続くソウルの南北歩行軸が完成することになる。
「再び世運」は、都心製造業の再生プロジェクトでもある。第一段階では、製造企業が密集した世運商街にデジタル技術と若手技術者を供給して「メーカーシティ」に変貌させる事業だったが、第二段階は、印刷路地に最新の技術とデザインを融合させて新しい活気を吹き込む事業となる。
中区の印刷路地には、3000以上の印刷関連企業が集まっている。ソウルの印刷会社の67.5%がこの地域に集中している。ソウル市はこの地域に都市再生の拠点施設となる「印刷スマートアンカー」を新築する。地下6階、地上12階の建物は、一人だけの会社の入居スペース、サンプルワークショップ、教育施設、駐車場などとして使用される。また、印刷関連のスタートアップ入居空間である「創作キューブ」を24個設置し、若手のコミュニティが形成されるように、若手起業家向けの住宅400戸も供給する。進洋商街には、独立出版物を製作して購入できるスペースが設けられ、仁峴地下商店街には博物館や印刷技術学校、印刷工房のような施設が作られる。

 この記事は、ソウル市が作成したプレスリリースに基づいて書かれたもので、第2段階の事業計画が具体的に記されている。この世運商街再生プロジェクトの第2段階のプロセスとして、2019年早々、乙支路での取り壊しが始まっている。

 

 日本の植民地支配と戦争遂行の中で作られた疎開空地から始まったソウルの中心を南北に縦貫する商街。その周辺を巻き込みながらこれからどのような街を作ろうとしているのか、そしてどのような街になっていくのであろうか。

 KakaoMapのスカイビューや3D表示では、青瓦台部分は緑の森の表示になっている。

 

 一方、Google Mapsでは、建物まで丸見えである。

 

 もっと詳細な衛星写真などを北朝鮮が入手しているのは確実なので、そんなに問題視してはいないのだろう。

 

 青瓦台ツアーの手続きは、大統領官邸のサイトから申し込む。

 外国人の場合は英語サイトから申し込む。

 http://english.president.go.kr/

ただ、日本の一部の商用プロバイダーからはつながらないことがある。一昨年の夏に申し込んだときもつながらなくて苦労した。ずっとそうなのかも。理由は不明。

PCでの申し込み方法は以下の通り。

CONTACT>TOURSWO選択

参加する日時と時間帯、参加者数を記入

参加者のデータを入力

これで申し込みは完了。

あとは当日に景福宮の指定場所に行けばよい。

 

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 青瓦台は鍾路区チョンノグ世宗路セジョンノ一番地に位置しており、約76,000坪の敷地に大統領執務室と官邸、秘書室、警護室などがあり、春秋館・迎賓館などの建物がある。

 

 ツアーは東側の春秋館チュンチュグァン側から入る。

 春秋館は韓国のマスコミ関係者が出入りし、大統領の国政運営とそれに関連する様々な事項を取材するところで、1階に記者室と会見室があり、2階に大統領年頭記者会見や各種行事が行われる多目的室がある。ツアー参加者は、ここで手荷物検査を受け1階のブリーフィングルームで全体的な説明を受ける。外国人参加者には外国語の音声ガイドシステムが渡される。

 春秋館から階段を上がって外に出ると緑地園ノクチウォンが広がる。ここには100本を越える木があり、歴代大統領の記念植樹がここで行われる。その北側に樹齢は310年、高さ16メートルの緑地園を象徴する韓国産の盤松ばんしょうがある。その裏手に全斗煥チョンドゥファン大統領時代の1983年4月に完成した常春斎サンチュンジェという建物がある。樹齢200年以上の春香木チュニャンモクを使った伝統家屋で、賓客との朝食会や非公式非公式会合が行われた。ここの芝生では大統領が主催する様々な行事や野外パーティの会場としても使われる。

 緑地園の南側に大統領を補佐する秘書官の勤務する大統領秘書室と、大統領とその家族の身辺警護に当たる大統領警護員が勤務する大統領警護室の建物がある。

 ここから守宮跡スグントにちょっとした登り坂を上がっていく。

 

以下は、20年以上前、金大中キムデジュン大統領時代の案内文である。

ここでは青瓦台が歴史の中でどのように変化し、なぜ青瓦台と呼ばれるようになったのか、青瓦台の由来についてご説明申し上げます。現在、青瓦台があるこの地域は古くから風水地理学上、韓半島の中で最も良い場所と言われております。朝鮮時代に景福富が創建された当時この地域は景福宮の裏庭にあたり、ここで科挙試験や武術大会が行われました。また王が直々に耕された水田があり、農業が国事の根本であることを国民に示した歴史的に由来深き場所でもあります。

1910年以降、日本の植民地下では景福宮は朝鮮総督府の庁舎として使用され、その裏庭にあたるこの場所に総督の官邸を建てることによって、朝鮮王室を押さえ込んでその脈を断ち、永遠にこの国を支配することを目論んだ場所でもあります。独立後、大韓民国政府が樹立され、李承晩イスンマン初代大統領は朝鮮総督の官舎として使われた建物を大統領執務室と官邸として使用し、景武台(キョンムデ)と呼びました。

1960年尹潜善ユンボソン大統領の就任後、3・15不正選挙など李承晩独裁政権の「負の象徴」のようになってしまった「景武台キョンムデ」は平和を象徴する青い瓦という意味の「青瓦台チョンアデ」と呼ばれることになりました。

その後歴代大統領がこの建物を使用したのですが、1990年と1991年に現在の大統領官邸と大統領執務室である本館建物が新たに建設されました。そして1993年11月に「景武台」であった建物を撤去して元の姿に復元した後、景福宮を守る守宮スグンすなわち禁衛があった地という意昧の守宮跡スグントと名付けることになりました。以前景武台時代にあったものとしては、その玄関前にあった白い標石だけが当時のものとして残されています。

 守宮跡の上方に見える青い瓦の建物が大統領一家が生活する大統領官邸である。1990年10月25日に完成した。

 守宮跡には「天下一福地」という石碑がある。これは官邸を新たに建てようと基礎工事で掘ったところ地中から「天下第一福地Jという文字が刻まれた岩が出てきた。まさにこの地が天下第一の良い場所だということでその文字を石碑にし、官邸の裏手の岩にも3倍に拡大した文字が刻まれている。

 これが撤去された旧官邸である。

 

 この守宮跡から西側に移動すると、大統領執務室の正面にでる。

皆さまがご覧になっているこの建物は、大統領執務室のある青瓦台本館の建物です。この建物の屋根は韓国宮殿建築様式の中でも最も美しいとされる八作パルジャク屋根となっています。あの青い瓦は30万枚ほど使われていますが、一つ一つ手作りで焼き上げたもので、100年以上の耐用年数だと言われています。

 1990年代後半の金大中大統領時代には、中央の大きな建物の1階に大統領夫人室と接見室があり、2階に大統領執務室と会議室があった。本館左袖の別館は、国務会議や各部署長官会議が開かれる世宗室セジョンシル、右側は小規模の会議が開かれるルビ忠武室チュンムシルといった。本館前の広い芝生は、大統領が国賓を迎える際に、陸・海・空軍儀仗隊のパレードが行われる場所である。

 

 そして青瓦台の最西端に位置する迎賓館に向かう。

 この迎賓館の1階は接見室として使われ、2階はイべントホールとして使われているが、内部構造は1階と2階は同じ構造になっている。迎賓館内部には、木槿の花や月桂樹、太極模様を形象化して作られたデザインが用いられいている。上部には「喜び」を意味する「」の文字が三つ描かれている。この建物では21本の石柱が2階までを支えて日が、前面の4本の石柱は継ぎ目のない高さ13メートル、周囲3メートルの一枚岩で作られたものになっている。2階建てではあるが、一般の建物でいうと5階に相当する高さの建造物である。

 

 ここで、青瓦台のツアーは終了する。

 以前は、朝鮮王朝時代の七人の後宮のために設けられた祠堂がある「七宮チルグン」のツアーも希望者を募ってやっていたが、昨年からは一般の観覧者も入れるようになった。

ここも1968年の1・21事件以降警備の強化のため観覧が禁止されていた場所であった。

 ツアー終了のゲートを出てすぐ前が、朴正煕大統領が暗殺された宮井洞クンジョンドン 安家 アンガという大統領専用の宴会場があった場所である。今はムグンファドンサンという公園になっている。ここの「安家」で、1979年10月26日に朴正煕大統領は中央情報部長金載圭キムジェギュによって射殺された。モデルの申才順シンジェスンとともに宴席に同席していた歌手沈守峰シムスボン が同席していたことで、2005年に沈守峰の1979年のヒット曲「그때 그사람クッテクサラム」をタイトルにした「あの時のあの人たち」(2005)という映画が封切られている。

 この「安家」は、密室政治・情報政治の象徴であるということで取り壊された。さらに、その向いにあった秘書室長の官舎建物も取り壊され、孝子洞ヒョジャドンサランバンが新たに建てられた。