景福宮の一番奥、王宮の裏側、北門の神武門を出ると、そこは青瓦台(청와대)、すなわち韓国の大統領官邸の正門ゲートの真向かいである。そこからは、大統領執務室のある官邸本館を間近に見ることができる。ゲート前には道路に埋め込まれた車止めが設置されていて、ソウル市警と大統領警護室の要員が厳重に目を光らせている。
この青瓦台正門前の道を左に行くと孝子洞、反対に右に行くと三清洞。三清洞の道をあがってトンネルを抜けると高級料亭だった三清閣があり、その少し先は日本大使の公邸もある高台の閑静な住宅街が広がり、その先にいくと城北洞にでる。
朝鮮を植民地とした日本は、当初、南山の北麓の倭城台に統治の拠点を置いた。現在の忠武路の地下鉄駅から上がったところにある韓屋マウルの場所が、日本軍の憲兵隊司令部があったところである。植民地朝鮮の朝鮮人の民生全般にわたって睨みをきかせていたのが憲兵隊である。そしてそこを見下ろす高台に総督官邸があった。大韓帝国を併合する1910年までは統監官邸があった場所である。伊藤博文はここに住んでいた。1907の地図では、韓国駐箚軍司令部になっていて、憲兵隊は現在の乙支路2街の外換銀行ビルの場所に駐屯していた。
併合後の1910年の地図では、統監官邸の場所に朝鮮総督府があり、総督官舎の表示が韓国駐箚軍司令部の北側にある。1926年に景福宮前に朝鮮総督府の建物が完成して移転したのち、それまでの総督府が総督の官邸となり、この総督官舎は政務総監官邸となった。現在、忠武路のコリアハウスのある場所である。
朝鮮総督府があった場所にはソウルユースホステルの建物がある。この建物は、もともとは韓国中央情報部(KCIA)、全斗煥政権下で安全企画部と名称を変えたあの情報機関の建物だった。多くの民主化運動家や在日コリアンがここで取り調べを受け、過酷な拷問を加える別棟の取調室があった。
その総督府があった場所から少し下った所に、統監府があった場所を示す石碑があり、横には従軍慰安婦の記念碑が設置されている。
そして、上述したように景福宮の前面に王宮を覆い隠すかたちで築かれた朝鮮総督府の庁舎は1926年に竣工し、総督府はここに移転した。1937年に、景福宮の後園だった場所、現在の大統領官邸の場所に朝鮮総督の官邸を建てる計画が建てられ、1939年に竣工した。
官邸の落成式を、朝鮮総督府の機関紙『京城日報』はこのように伝えている。
すでに日中戦争が激しさを増し、国家総動員法が施行された戦時体制のもとで防空設備まで備えた総督官邸であった。
植民地から解放された後、大韓民国最初の統治者となった李承晩大統領は、この総督官邸を大統領の官邸とした。1940年代後半のソウルの地図には、「景武台(경무대)」という名称を冠せられた大統領官邸が記載されている。
朝鮮戦争が勃発すると、北朝鮮の人民軍に追われて釜山を臨時首都とせざるを得なくなった。この期間、釜山で臨時の大統領官邸として使われていた建物は、現在「臨時首都記念館」(부산시 임시수도기념도45)として公開されている。
1960年の4・19学生革命では、デモ隊が孝子洞側から官邸に迫り、ここに阻止線を張った警察や軍と激しい攻防戦を繰り広げた。実弾射撃で鎮圧しようとした強硬策がより大きな政権打倒のうねりを呼び起こし、李承晩政権は学生・市民の街頭闘争で倒れることになった。
映画「孝子洞の理髪師(효자동 이발사)」(2004封切)では鎮圧場面が出てくるのだが、この時のデモ隊は「景武台」を目指していた。戦車の軍人が「青瓦台はどこだ?」と尋ねている場面がそのあと出てくるが、これは1961年の5・16軍事クーデターの時の場面。大統領の官邸が「青瓦台」と呼ばれるようになるのは、1960年に李承晩政権が倒れて尹潽善大統領になってからのことで、確かにこの時は「青瓦台」になっていた。
朴正煕大統領の統治下では、北朝鮮と軍事的に対峙していたうえ、国内的にも「軍事独裁」という批判や抗議の声が高かった。そのため、青瓦台周辺は常に厳重な警戒態勢が敷かれて関係者以外の接近を拒んでいた。特に、1968年に、北朝鮮の武装ゲリラが侵入して、青瓦台北側の北岳山山麓で銃撃戦が展開される事件(1・21事件)が起き、青瓦台の警備は過敏なまでに厳重になった。北岳山の山頂の八角亭はソウルの街並みを北側から見下ろす観光スポットだったが、そこに行くための北岳スカイウェイは両側に高い有刺鉄線で設置され、車道以外には足を踏み入れることが禁止された。さらに、1974年に、在日韓国人の文世光が光復節の式典で朴正煕大統領の暗殺を狙って発砲し、壇上の大統領夫人陸英修が死亡する事件(文世光事件)があってからは、一層大統領周辺の警備は厳しくなった。青瓦台を遠望できる南山タワーに上がるときは、入り口でカメラを預けなければならなかったし、青瓦台を遠望できるプラザホテルのスカイラウンジの窓はベニヤで塞がれた。1968年の1・21事件までは、青瓦台の周辺道路は通行可能だったし、年間の一定期間は官邸内が一般公開されるという市民の憩いの場ともなっていた。しかし、70年代後半、私が韓国に行き始めた頃は、青瓦台は全く近づくことのできない「聖域」になっていた。
1979年10月に朴正煕大統領が暗殺され、粛軍クーデターで権力を掌握した全斗煥保安司令官が大統領となって青瓦台の主となると、軍事独裁の継続という印象を和らげるため「夜間通行禁止の撤廃」「学校の制服自由化」などとともに、青瓦台前の道路の通行が認められた。ところが、1983年10月9日にアウンサン廟爆破事件が起きると青瓦台前面の道路の一般車両の通行はできなくなった。
1988年に、与党民正党の代表として民主化宣言を出した盧泰愚大統領が就任すると、ソウルオリンピックを控えて青瓦台の開放も期待されたのだが、依然として一般市民の生活からは遠く隔離されたままであった。
この盧泰愚大統領の時代に、新しい官邸が旧官邸の西側に建設され、総督官邸だった建物は取り壊された。1990年10月に大統領一家の住居となる建物が完成し、翌年9月に執務室などとして使われる本館が完成した。もともと朝鮮総督官邸として建てられた旧大統領官邸は1993年に撤去された。
文民政権を看板に掲げた金泳三大統領が就任(1993年)してから、やっと青瓦台前の道路への車両の乗り入れだけは認められるようになった。それでも、検問所でチェックされたうえ、車を停めたり車外に出たりすることはできなかった。
規制が大幅に緩和されたのは金大中大統領の就任(一九九八年)以降で、この年五月から青瓦台の中に一般人が入って見学することが可能になった。
いまや青瓦台見学ツアーはソウルの観光コースの一つとして定着してきているが、新型インフルエンザ(신종플루)騒ぎの2009年には、青少年と外国人については青瓦台ツアーは参加ができなくなったことがあった。青瓦台への接近を拒む理由は、北朝鮮の脅威でも、反体制のデモ隊でもなく、病気感染からの防衛であるという時代になったのかもしれない。
































