一松書院のブログ -77ページ目

一松書院のブログ

ネット上の資料を活用し、出来るだけその資料を提示しながらブログを書いていきます。


 日本が植民地支配していた頃の京城の百貨店のことを調べていたら、偶然こんな映画に行き着いた。
 「迷夢(미몽)」という1936年に朝鮮映画株式会社京城撮影所で製作された映画である。この映画の冒頭に京城のデパートで洋服を買う場面がある。



全編は韓国映像資料院がyoutubeで公開している韓国古典映画(Korean Classic Film)で観ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=tmd_OBPFll8&vl=ko

この映画「迷夢」は全編台詞は朝鮮語で、日本語の字幕が入っている。当時書かれたものでは「百貨店」が多いのだが、台詞では「데파트」で字幕は「デパート」。会話ではデパートを使っていたのであろう。また、字幕に「妾」とあるが、これは当時の日本語の読みは「わらわ・わたし」。

 

 1936年当時、京城では日本資本の三越、三中井、丁子屋、平田と、朝鮮資本の和信が五大百貨店と言われていた。和信の創業者は朴興植パクフンシクである。日本資本の百貨店は本町とその周辺にあったのに対し、和信は鍾路二丁目、現在の鍾閣の北向かいにあった。

『大京城寫眞帖』中央情報鮮満支社 1937年5月発行
韓国中央図書館所蔵より

 

 この映画で、デパート店員と客の女性主人公エスンは朝鮮語で会話している。それに、前後関係がよくわからないのだが「鍾路警察署の裏」という台詞がこの場面に挿入されている。鍾路警察署は和信百貨店と道ひとつ隔てた西側にあった。そんなことで、このデパート場面は和信百貨店で撮影されたのではないかと思っている。
 実は、和信百貨店は1935年1月に火災で全焼している。隣接する商店の火が延焼したもので、出火が夜間で人命被害はなかったが、大火災として報じられた。

 「東亜日報」1935年1月29日

 「東亜日報」1935年1月29日

 

 和信百貨店は、この火災で急遽1929年まで鍾路警察署があった鍾路二丁目八番地の旧漢城電気のビルで臨時営業をすることにして、復旧工事を急いだ。この年の9月15日に東館だけをひとまず増築修理して営業を再開した。

 同時に、その西側に朴吉龍パクギルヨンの設計による地上6階地下1階の新館の建設に取りかかり、こちらは1937年11月にオープンすることになる。

 従って、和信百貨店でこの映画を撮影したとすると、この東館の方であったろう。東館の開店にあたっては「洋品部・文房具部・洋服部をいっそう拡張」したとあるので、映画での宣伝効果を期待し、同時に映画製作者の側からは朝鮮人側の百貨店の応援といった意味合いもあったのかもしれない。のちに、1937年の新館落成を報じる「東亜日報」の記事では、「朝鮮人側唯一の百貨店で躍進又躍進の和信は……」と書き出しており、三越や三中井に対してかなりの対抗意識があったことをうかがわせている。

 

 和信ファシン百貨店は解放後も営業を続け、1987年2月で営業を終え、建物はその年の6月に撤去された。和信前ファシンアップのバス停は、漢江ハンガンの南側から盤浦大橋バンポテギョ(下は潜水橋チャムスギョ)を渡って南山第3トンネルを通ってまっすぐ都心に至る場所に当たっていた。バスはここから光化門クァンファムンの前をぐるっと回って世宗文化会館セジョンムナフェグァンに向かい、そこからまた江南カンナム方面に向かうという路線がたくさんあった。和信で買い物をしたことはなくても、「ファシンアップ」という場所はバス停として日常会話によく出てきた。
 ちなみに、三越百貨店は解放後に東和トンファ百貨店となり、その後新世界シンセゲ百貨店となって今も健在。丁子屋は、美都波ミドパ百貨店として営業していたが、その後ロッテに買収されて現在はロッテのヤング館になっている。

 

 ところで、この「迷夢」という映画だが、当時の京城の街中の風景が結構出てくる。エスンの娘ジョンヒが街を歩いていて母親のエスンに出くわす場面。

前半の場面では、「フォード」の看板がある自動車販売店の前を歩いている。朝鮮におけるフォード社の車の販売総代理店は、1920年代からセールフレーザーという会社が独占契約をしていた。1924年7月8日の「京城日報」にこんな全面広告を出している。

しかし、1933年7月3日の「東亜日報」に次のような記事がある。

楠本商会活躍

フォードの特約を得る

フォード車はこの間セール商会が販売してきたが事情により販売権を返上することになりフォードでは後継会社を鋭意求めていたところ楠本商会を中部朝鮮六道の特約店とすることを決定し同商会は今後活躍することになるであろう

すなわち、1936年のこの映画の撮影時には楠本商会が京城総代理店で、そこが「フォード」の看板を掲げていて、その前の通りで撮影したものと推測される。楠本商会は京城府若草町二四。下図のこの辺りかと思われる。

後半の韓屋が並ぶ住宅地は、…ちょっと推測できない。

 

 さらに、この映画「迷夢」のクライマックス場面、3時5分京城駅発の釜山行き列車に乗ろうとしてハイヤーを急がせるエスン。南大門から京城駅に向かうが列車の発車時刻に間に合わない。エスンは次の停車駅龍山駅に向かうべく車の運転手を急かして漢江通を下る。そして、娘のジョンヒをはねてしまう。話の展開からはなぜそんなそんなところにいたのかはわからない。第二高等女学校(第二高女)にでも通ってたのかなぁ…などという想像は成り立つが。

 

 

この自分の娘をはねてしまう事故の場所なのだが、

第二高女から漢江通に出るあたり(現在の南営洞ナミョンドン)かと思ったが、道路との距離感とか橋桁の形状などから、もう一つ手前のここではないかと思う。

 

 こうやっていろいろたどってみる作業をしても、植民地時代に生きていた人々の思いがわかるわけではない。1936年の日本では2・26事件が起きるような世相の中で、朝鮮語だけのトーキー映画を作り、それに日本語字幕まで入れて公開しようとしていた朝鮮人映画人の胸中はどんなだったんだろうか。朝鮮語の新聞を読んでいくと、端々にその苦悩を感じさせられることが多い。

 2018年4月に日本で公開された韓国映画「タクシー運転手」(韓国公開は2017年)。1980年5月の光州事件を取材するドイツ人記者と、彼をソウルから光州まで連れて行くことになったタクシー運転手マンソプの話。
 この映画の日本公開に当たって劇場パンフに当時のタクシーの話を書いた。本筋ではないので拙稿では触れてないけど、この映画で気になっている場面がある。
 それは「イモ」の場面。じゃがイモとかさつまイモではない。ソンガンホ扮するタクシー運転手マンソプが、キサ食堂で食事をしていて、光州まで外国人を10万ウォンで乗せるという運転手の話を小耳に挟む。そして、金に困っていたマンソプがその外国人客を横取りしに行くのだが、その直前の場面。ここでキサ食堂シッタンの従業員の女性に「イモ」と呼びかけている。

 最近は、日本のネットなどでも、食堂のおねえさんを呼ぶ時には「イモ!」と呼ぶと書いてあることが多いのだが…。

 タクシーに限らず車の運転を職業とする人を「技士キサ」と呼ぶ。「運転手ウンジョンス」は差別的だとされる。だから、呼びかけは、「キサニム」「キサアジョッシ」。

 で、タクシー運転手相手の食堂が「キサ食堂」。70年代から80年代には、マンション開発の隙間のような空き地を利用してあちらこちらにあった。食事時にはズラッとタクシーが並ぶ。キサニムの食事中に、洗車—といっても行き場のない若者がモップとバケツの水でタクシーの車体を拭いて日銭を嫁せぐものだったが—してくれるサービスがついた。

 しかし、あの時代に、食堂で「イモ!」と呼びかけて注文するというのはなかった。あの映画のシチュエーションだったら、絶対に「アジュンマァ!」と言ってたはずである。その時代設定で、一人前追加するときのセリフで「イモ!」と使っているのが、いろんな意味で面白かった。今の時代に合わせてるのかなぁ。

 同じ頃の時代背景の映画「弁護人」では、舞台は釜山という違いはあるが、「アジュンマァ!」と呼んでいる。「弁護人」は2013年公開である。

 

 何年前だったか。韓国に行って食堂で注文を頼もうと「アジュンマ〜ァ!」って叫んだら、横にいたソウル駐在の教え子の卒業生から、「ダメですよ。アジュンマは。今はイモッ!って言わないと」って注意された。
 何言ってんだ。オレはお前なんかよりずっと前から韓国に関わってて、ポジャンマッチャで呑んだくれてた若かりし頃からずっと「アジュンマ〜ァ!」でやってきたんだ!!といきがってみせたのだが、周りをみると「イモォ!」と呼ぶのが主流になっていた。ただ、私の世代くらいになると、本当のイモ(母の姉妹)は90とか100歳だったりするので、「イモォ!」と呼ぶのはちょっと……。
 

 日本語に訳せば、アジュンマも「おばさん」、イモも「おばさん」なのだが、アジュンマがブロッコリー頭(映画「サニー」からの借用)のミドルエイジの女性一般を総称する言葉である(あった?)のに対し、イモは母方の姉妹の「伯母・叔母さん」を呼ぶ時に使う呼称という違いがある。もっと正確に語源を遡ると、母方の姉妹が未婚の場合に「イモ」、結婚すると「アジュモニ」、これが親族の正しい呼び方とされる。幼児が「アジュモニ」を呼ぶ時には「アジュンマ」という言い方をする。父方の「伯母・叔母さん」はコモというが、コモよりもイモの方が親近感を抱かれやすいという。コモも結婚すると「アジュモニ」と呼ばれる。つまり、「アジュンマ」は、本来は親族の中でその一族の幼児の使う呼び方で、それをアカの他人のそこそこの年齢層の女性に対する呼び掛けに「流用」してきたということである。

 

 2004年に公開された映画「내 머리 속의 지우개(私の頭の中の消しゴム)」でも、ポジャンマチャで「「アジュンマ」って呼んでいる。

 

 検索してみたら、こんな記事が出てきた。

2006年5月23日付の京郷新聞文化面に載った記事だ。

아무에게나 '언니' '이모' 무분별한 가족호칭 남용

誰にでも「オンニ」「イモ」無分別な家族呼称乱用

ただ、この記事では食堂などで「イモ」と呼ぶことは書かれていない。「아이들이 옆집 아줌마, 엄마의 친구들을 이모라고 부르는 것에 문제가 있다는 것이다.(子供達が隣のおばさんとか母親の友達をイモと呼ぶのは問題だということだ)」と子供達が親戚でもない女性に対して「イモ」と呼ぶことについて、これでいいのかと書いてある。

 その一方で、

식당에 가면 종업원들에게 나보다 나이가 많건 적건 간에 '언니'라고 부른다. 종업원이라는 말보다는 언니라는 말이 더 자연스럽고 편하기 때문인데 이 말은 남자들도 즐겨 사용한다. 남자가 부르는 '언니'. 다소 우습지만 우리는 그냥 자연스레 받아들이고 있다.

食堂に行くと自分よりも年上であろうと年下であろうと「オンニ」という。従業員というより「オンニ」と言う方が自然だし何かと便利だからだが、男性もこれを使っている。本来女性が使う「オンニ」という呼びかけを男性が使うのはおかしいのだが、なんとなくそのまま通っている。

確かに、女性客が食堂に限らず女性店員に「オンニ」と呼びかけるのはかなり前からあった。男性が「オンニ」と呼びかけるのは、あるにはあったが相応の年寄りでないと違和感があった。しかし、その後だんだん年齢層が下がっておっさんが「オンニ」と呼ぶのも見かけることが多くなったなぁと思ったのもすでにかなり前。

 

 さらに探していたら、2012年3月5日の「京郷新聞」にこんな記事が出ている。

‘아줌마, 이모, 여기요’로 불리는 사람들

「アジュンマ」「イモ」「ヨギヨ」と呼ばれる人たち

こんなグラフがある。2011年9月22日に韓国女性民友会が発表した「食堂女性労働者の労働人権実態調査」のデータである。


この「京郷新聞」の記事には、食堂の女性従業員が劣悪な労働環境に置かれていることが書かれていると同時に、新しい呼称として2011年11月に女性民友会が「차림사チャリムサ=(食卓を)整える人・配膳士」というのを選定したも報じている。

 

 2012年8月18日に大邱の「毎日新聞」にもこんな探訪記事があった。

 8月9日午後、大邱北区の食堂で、記者が約1時間にわたって30人の客の呼び方を調べた。食堂は40代の女主人と40代の従業員女性。呼称順位1位は「イモ」(12人)、2位は「アジュンマ」(7人)。3位は「ヨギヨ」(5人)。続いて「社長」(3人)、黙って注文を取りに来るのを待つ(2人)、「ヨサニム」(1人)の順だった。

 インタビューで、女子大生は「よく行く行きつけの店では身近な感じのイモ、ほかではアジュンマと呼ぶ」と言っている。40代の自営業男性は、「一人で食べに行くとイモと呼ぶけど、同じ店でも家族と一緒に行くと、少し丁寧に「アジュモニ」と呼ぶ。ほんとの親戚でもないのにイモと呼ぶのは、教育上よろしくない」という。29歳の会社員は、「自分の母親の世代は「ヨサニム」と呼ばれると喜ぶ。食堂でもそう呼ぶとサービスがよくなるのでそうしている。笑ってくれるだけでも気分がいいし」と述べたとある。

 

 ヨサニムのヨサは「女史」。大統領夫人などは「ヨサニム」。29歳の息子がいる母親の世代というと、ちょうど全斗煥大統領夫人の李順子女史の時代だ。

 「ユクサよりもボアンサ、ポアンサよりもヨサ」と言われた。つまり、陸軍士官学校(ユクサ)出身が幅をきかせていたが、中でも全斗煥が司令官をやっていた保安司令部が泣く子も黙るポアンサだったのだが、さらにその上にはイスンジャ女史(ヨサ)がいるという大統領夫人の女史を揶揄するもの。いまどき食堂に行って、「ヨサニム!」というのもちょっと…って気もするのだが。

 

 こうして検索してみると、2011年〜12年くらいには「イモ」が多用されるようになっていたが、まだ「親戚でもないのに」という抵抗感は残っていたようだ。

 ただ、アジュンマ→イモという流れを加速化する事件がこの頃に起こっていた。2012年の「京郷新聞」と「毎日新聞」の記事も、この事件「菜鮮堂チェソンダン事件」に触発されて書かれたのであろう。

 「チェソンダン事件」、それは2012年の2月17日に起きた。チェソンダンは、フランチャイズチェーンを展開しているしゃぶしゃぶ店で、その天安チョナンにあった店で、妊娠6ヶ月の妊婦が店の女性従業員を「アジュンマ」と呼んだことで喧嘩になり、お腹を蹴られたとSNSに書き込んだことで大炎上するという事件が起きた。すぐにチェソンダンのボイコットの動きが広がり、チェソンダン側は平身低頭謝罪した。ところが、録画映像や証言、それに警察の取り調べの結果、喧嘩を仕掛けたのは蹴られたと書き込んだ妊婦の女性側で、胎児のいるお腹を蹴られたわけでもないということになってきた。結局、双方がつかみ合いの喧嘩をしたということで、双方が過失傷害で立件されたが、人々の脳裏には「アジュンマと呼んだことが発端」ということが印象付けられたのではなかろうか。

 こうやって調べてみながら、「ダメですよ、アジュンマは。今はイモッ!って言わないと」って言われたのはどうもこの2012〜3年くらいだったような気がしてきた。

 

 2013年4月から撮影された「弁護人」では、台詞として「アジュンマ」と書けたけど、2016年6月から撮影した「タクシー運転手」では「アジュンマ」じゃまずいから「イモ」と呼ばせることにしたのかなぁ、なんて配慮があったのかと思う。


 言葉って本当に面白いものだと思う。覚えたらおしまいというものじゃない。生き物なんだと思う。生きている人間が使ってて、その人間が暮らしている社会の変化を反映しているものなんだから。

 でも、「イモ!」って叫ぶのは俺には無理だよなぁ。やってはみたいけど。

 板門店共同警備区域で「帰らざる橋」脇のポプラの伐採を巡って衝突事件(韓国の呼称をそのまま翻訳すれば「斧蛮行事件」)が起きたのは1976年8月18日午前。
 実は、その年の3月、私は初めて韓国に行って、大韓旅行社がやっていた板門店ツアーにも参加して休戦会談場に行っていた。1990年代後半まで、板門店の休戦会談場見学ツアーは大韓旅行社だけがやっていた。当時、ガイドブックもあまりない時代に私が入手したのは日本交通公社『海外ガイド23〈韓国〉』(1976)。多分ソウルに行ってから大韓旅行社に直接電話したんだったと思う。


 当時は、まだ臨津江沿いの自由路はなく、板門店まで旧来の義州路を北上していく道を「統一路トンイルロ」と呼んでいた。


1976年3月筆者撮影

途中、汶山ムンサンを過ぎたところに「鉄馬は走りたい」と書かれた京義線分断点の看板があり、その先の国連軍や韓国軍の記念碑に立ち寄って臨津閣イムジンガクに到着。この臨津閣の場所が韓国の一般人が行ける北朝鮮に最も近い場所とされていた。そこには、休戦ラインの北側に故郷があって、墓参や祭祀ができなくなった「失郷民シリャンミン」のための望拝壇マンべダンが設けられていた。

 2018年に日本でも公開された映画『1987』の冒頭で、治安本部対共本部の朴チョウォン処長がこの望拝壇で受勲報告する場面が出てくる。全斗煥チョンドゥファン大統領から勲章をもらった朴チョウォン処長は北朝鮮出身の「失郷民」という設定だからである。


映画『1987』より

 この場面の左側の橋、今は南北を連結する鉄道橋に戻されたこの橋が1997年までは車両用の唯一の橋で、車両はここを交互に一方通行で渡った。板門店ツアーバスも臨津閣前の望拝壇の駐車場で通行許可をもらい「一般の韓国人は入れない」という橋を渡り、キャンプ・キティホークに入る。ここのかまぼこ兵舎で国連軍側のブリーフィングがあり、その横の将校クラブでバイキング式の昼食。食材はすべてアメリカから空輸したものだというガイドの言葉が印象に残っている。


 そして休戦会談場のエリアに向かう。その入口には北朝鮮の人民軍の兵士の哨所があって、バスの窓越しではあるが目の前に人民軍兵士を見ながら会談場エリアに入る。八角亭に登って説明を聞き、休戦会談場に入って見学する。当時は、北朝鮮側の「板門閣」はあったが、国連軍側には今の「自由の家」とか「平和の家」はなかった。この時の写真を見直したら、この時は、休戦会談場の外側には南北の休戦ラインを表示するセメントの境界表示はなかった。


1976年3月筆者撮影

 

映画『JSA』では、この境界表示を挟んで、知り合いになっていたイビョンホンとソンガンホが睨み合シーンが分断の象徴的な場面として挿入された。


映画『JSA』より(映画セット)

 その後、第三哨所でバスから降りて北朝鮮側を遠望して、「帰らざる橋」を見てキャンプ・キティホークに帰ってきた。
 この私の最初の板門店ツアーでは、国連軍側でエスコートに出てきたのはアメリカ軍の軍人。所属は「国連軍」となっているが実際にはアメリカ軍である。韓国人の軍人もいたが、彼らはKATUSAといわれる兵士。KATUSAとは、Korean Augmentation To the United States Armyの略で、駐韓米軍に出向する韓国軍の兵士で、軍籍上はアメリカ軍人となる。朝鮮戦争中に李承晩イスンマン大統領とマッカーサー司令官の合意で始まった制度で、英語と韓国語のコミュニケーションの補助などを行うことを主たる任務とするとされ、語学資格試験をクリアーしている韓国軍内で志願した候補者から選抜されていた。若い男子の海外渡航が特に難しかった1980年代後半までの時期には、韓国軍の待遇が悪かったことに加えて英語実践学習の場としてもKATUSAの人気が高かった。
 板門店の共同警備区域は、休戦協定に調印した国連軍と北朝鮮人民軍との共同警備区域であり、1953年の休戦協定に李承晩大統領が最後まで反対したて署名しなかった韓国を、北朝鮮は当事者とは認めていない。したがって、南側の当事者は国連軍ということで、共同警備区域には韓国軍は表立っては関与していないことになっていた。

 このツアー時に、第三哨所から「帰らざる橋」を見下ろして撮ったのが下の写真。この写真に写っている左側の大きなポプラの木をめぐって1976年8月に起きたのがポプラ事件であった。ポプラの右側が第五哨所である。

1976年3月筆者撮影

 1976年、この年の6月、韓米合同軍事演習チームスピリットが始まり、これに北朝鮮が強く反発して緊張が高まっていた。

 1976年8月6日、国連軍の警備隊は、第三哨所と「帰らざる橋」横の第五哨所の間にあるポプラの木が夏場で葉が生い茂って視野を遮っているとして、この木の枝を落とそうとした。しかし、北側警備兵が制止したため断念した。18日、5人の韓国人作業員に米軍将校2名とKATUSA1名など10名体制で再度枝打ちの作業を開始した。最初は北側警備兵は傍観していたが、20分後一転して作業の中止を求めた。しかし、指揮官のボニファース(Bonifas)大尉は作業の継続を指示した。韓国人作業員は、北側の朝鮮語にただならぬ雰囲気を感じて作業を中断して木から降りた。しかし、ボニファース大尉は作業の継続を命じた。その直後、北側の警備兵が手にした棍棒や作業用の斧で攻撃を始め、韓国側の作業用の斧で襲撃されたボニファース大尉とバレット(Barrett)中尉が死亡した。

大韓ニュース第1096号(1976-08-21)

 8月19日の軍事停戦委員会と警備将校会談が同時に開かれて非難の応酬があり、アメリカ軍は防衛準備態勢をデフコン3(高度な防衛準備態勢)に引き上げた。一方、北朝鮮は、人民軍全部隊と労働赤衛隊、赤い青年近衛隊に戦闘態勢を発令した。

 事件発生3日後の8月21日、米国の伝説的木こりの名前を冠した作戦「ポール・バニヤン(Paul Bunyan)作戦」が実行された。午前7時、国連軍警備隊・米軍工兵団が共同警備区域に進入して、電話とハンドマイクで事前通告を行い、やや手間取ったものの予定通りに問題のポプラを切断した。米第2師団の歩兵中隊が重火器を直近の車中に置いて外郭警備を担当し、韓国軍歩兵中隊が共同警備区域の外側で武装して待機。臨津江南側には戦車大隊と装甲歩兵隊が展開し、砲兵も北側目標に照準を合わせて警戒状態にあった。上空には沖縄から飛来したファントムと韓国空軍の戦闘爆撃機が待機していた。
大韓ニュース第1097号(1976-08-30)

 実は、この作戦には国連軍警備隊に紛れて韓国軍も加わっていた。朴正煕パクチョンヒ大統領がスティルウェル国連司令官に申し出て、韓国軍特殊戦司令部の第1空挺特戦旅団が投入された。文在寅ムンジェイン大統領は、この時この部隊に一兵卒として所属しており、この作戦に参加していたのである。

北朝鮮側が伐採を妨害したり衝突が起これば直ちに戦争が勃発するような状況だった。そんな状況に備えて部隊の最精鋭でポプラ伐採組を編成し、残りの兵力は外郭に配置した。その外郭をまた前方師団が囲んだ。

 『運命 文在寅自伝』128ページ

実際に共同警備区域内に投入されたのは特戦司令部空挺部隊の跆拳道有段者など64名。KATUSAに偽装して、本来は警棒のみの丸腰で伐採の支援に当たるということであったが、実際には防弾チョッキの下に拳銃や手榴弾を隠し持って出撃した。さらに、北朝鮮側の哨所を破壊し、帰らざる橋の反対側の北朝鮮人民軍部隊に対して自分たちの隠し持った武器を示して挑発するなど、国連軍側の想定していなかったような挑発的行動に出た。さらにカービン銃なども携行して最初から北朝鮮兵がいたら殺す覚悟で出動したという証言もあり、KATUSAに偽装した韓国空挺部隊は一触即発の状態にあった。しかし、国連軍側は抑制的であり、北朝鮮の警備兵も一歩退いて敢えて挑発には乗らなかった。休戦協定が無効になりかねない危ない状態だった。
 文在寅自伝の書きぶりからすると、当時の文在寅一等兵は外郭配置組であったのではなかろうか。

 

 この事件以降、共同警備区域は分割警備されることになり、区域内にも休戦ラインが明示され、南側に置かれていた北朝鮮軍の哨所は撤去され、共同警備区域内での南北の自由往来はできなくなった。


1976年8月29日朝日新聞朝刊

休戦会談場の建物の外側に高さ5センチのコンクリートブロックの境界表示が設置されることになったのもこの時である。そしてキャンプ・キティーホークは、キャンプ・ボニファースと呼ばれることになった。

 

 2018年4月27日、文在寅大統領と金正恩委員長は手を繋いでこの境界表示ブロックを北側に越え、そして南側にも越えて見せた。1976年にはこの境界線表示はなかった。空挺部隊の文在寅一等兵が、板門店共同警備区域の外郭で緊張して銃を構えていたポプラ事件によって、南北交流の舞台装置ともなったこの境界表示は作られることになったのである。

 

 そして、2018年12月13日の『東亜日報電子版』はこのように伝えている。

板門店共同警備区域(JSA)の非武装化も進んでいる。南北はJSA内の9カ所の哨所(南側4カ所、北側5カ所)を対象に、すべての銃器や弾薬、哨所勤務を撤収した。南北軍事当局と国連軍司令部の3者が協議体を設けて3者での共同検証と、その後の勤務方式などについて協議している。
今後相手側の地域での警備勤務の実行や観光客の自由往来を保証するための監視装置の調整問題、そしてこれらに関する相互情報共有方式などについて議論を進めているという。
http://news.donga.com/View?gid=93269512&date=20181213

 去年までの十数年間はほぼ毎年板門店の休戦会談場を訪れてきた。新しい体制になるであろう板門店の共同警備区域、ぜひツアーに参加して見学に行ってみたいのだが、今のところまだ予約は入れられない状態のようである。
 1976年から42年目に再び自由往来が可能になったとはいっても、42年前の姿とは同じはずがない。それに、休戦会談場が「歴史的な遺物」になる日が遠からずくると信じている。その変わりゆくJSAをぜひ自分の目でもう一度確認したいものだ。

 

参考資料
・홍석률(洪錫律)「위기 속의 정전협정: 푸에블로 사건과 ‘판문점 도끼살해’ 사건(危機の中の停戦協定—プエブロ事件と「板門店斧殺害」事件)」『역사비평』63(2003)
・홍석률(洪錫律)「1976년 판문점 도끼 살해사건과 한반도 위기(1976年板門店オノ殺害事件と朝鮮半島の危機)」『정신문화연구』28-4(2005.12)
・허완「판문점 도끼만행 사건을 통해 본 한미동맹의 안보딜레마와 결속력 변화(板門店斧蛮行事件を通してみた韓米同盟の安保ジレンマと結束力の変化)」『통일연구』 18-1(2014)

MBC [이제는 말할 수 있다] 54회 (2002.03.31) 8.18 판문점 도끼 사건