板門店ポプラ事件 | 一松書院のブログ

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 板門店共同警備区域で「帰らざる橋」脇のポプラの伐採を巡って衝突事件(韓国の呼称をそのまま翻訳すれば「斧蛮行事件」)が起きたのは1976年8月18日午前。
 実は、その年の3月、私は初めて韓国に行って、大韓旅行社がやっていた板門店ツアーにも参加して休戦会談場に行っていた。1990年代後半まで、板門店の休戦会談場見学ツアーは大韓旅行社だけがやっていた。当時、ガイドブックもあまりない時代に私が入手したのは日本交通公社『海外ガイド23〈韓国〉』(1976)。多分ソウルに行ってから大韓旅行社に直接電話したんだったと思う。


 当時は、まだ臨津江沿いの自由路はなく、板門店まで旧来の義州路を北上していく道を「統一路トンイルロ」と呼んでいた。


1976年3月筆者撮影

途中、汶山ムンサンを過ぎたところに「鉄馬は走りたい」と書かれた京義線分断点の看板があり、その先の国連軍や韓国軍の記念碑に立ち寄って臨津閣イムジンガクに到着。この臨津閣の場所が韓国の一般人が行ける北朝鮮に最も近い場所とされていた。そこには、休戦ラインの北側に故郷があって、墓参や祭祀ができなくなった「失郷民シリャンミン」のための望拝壇マンべダンが設けられていた。

 2018年に日本でも公開された映画『1987』の冒頭で、治安本部対共本部の朴チョウォン処長がこの望拝壇で受勲報告する場面が出てくる。全斗煥チョンドゥファン大統領から勲章をもらった朴チョウォン処長は北朝鮮出身の「失郷民」という設定だからである。


映画『1987』より

 この場面の左側の橋、今は南北を連結する鉄道橋に戻されたこの橋が1997年までは車両用の唯一の橋で、車両はここを交互に一方通行で渡った。板門店ツアーバスも臨津閣前の望拝壇の駐車場で通行許可をもらい「一般の韓国人は入れない」という橋を渡り、キャンプ・キティホークに入る。ここのかまぼこ兵舎で国連軍側のブリーフィングがあり、その横の将校クラブでバイキング式の昼食。食材はすべてアメリカから空輸したものだというガイドの言葉が印象に残っている。


 そして休戦会談場のエリアに向かう。その入口には北朝鮮の人民軍の兵士の哨所があって、バスの窓越しではあるが目の前に人民軍兵士を見ながら会談場エリアに入る。八角亭に登って説明を聞き、休戦会談場に入って見学する。当時は、北朝鮮側の「板門閣」はあったが、国連軍側には今の「自由の家」とか「平和の家」はなかった。この時の写真を見直したら、この時は、休戦会談場の外側には南北の休戦ラインを表示するセメントの境界表示はなかった。


1976年3月筆者撮影

 

映画『JSA』では、この境界表示を挟んで、知り合いになっていたイビョンホンとソンガンホが睨み合シーンが分断の象徴的な場面として挿入された。


映画『JSA』より(映画セット)

 その後、第三哨所でバスから降りて北朝鮮側を遠望して、「帰らざる橋」を見てキャンプ・キティホークに帰ってきた。
 この私の最初の板門店ツアーでは、国連軍側でエスコートに出てきたのはアメリカ軍の軍人。所属は「国連軍」となっているが実際にはアメリカ軍である。韓国人の軍人もいたが、彼らはKATUSAといわれる兵士。KATUSAとは、Korean Augmentation To the United States Armyの略で、駐韓米軍に出向する韓国軍の兵士で、軍籍上はアメリカ軍人となる。朝鮮戦争中に李承晩イスンマン大統領とマッカーサー司令官の合意で始まった制度で、英語と韓国語のコミュニケーションの補助などを行うことを主たる任務とするとされ、語学資格試験をクリアーしている韓国軍内で志願した候補者から選抜されていた。若い男子の海外渡航が特に難しかった1980年代後半までの時期には、韓国軍の待遇が悪かったことに加えて英語実践学習の場としてもKATUSAの人気が高かった。
 板門店の共同警備区域は、休戦協定に調印した国連軍と北朝鮮人民軍との共同警備区域であり、1953年の休戦協定に李承晩大統領が最後まで反対したて署名しなかった韓国を、北朝鮮は当事者とは認めていない。したがって、南側の当事者は国連軍ということで、共同警備区域には韓国軍は表立っては関与していないことになっていた。

 このツアー時に、第三哨所から「帰らざる橋」を見下ろして撮ったのが下の写真。この写真に写っている左側の大きなポプラの木をめぐって1976年8月に起きたのがポプラ事件であった。ポプラの右側が第五哨所である。

1976年3月筆者撮影

 1976年、この年の6月、韓米合同軍事演習チームスピリットが始まり、これに北朝鮮が強く反発して緊張が高まっていた。

 1976年8月6日、国連軍の警備隊は、第三哨所と「帰らざる橋」横の第五哨所の間にあるポプラの木が夏場で葉が生い茂って視野を遮っているとして、この木の枝を落とそうとした。しかし、北側警備兵が制止したため断念した。18日、5人の韓国人作業員に米軍将校2名とKATUSA1名など10名体制で再度枝打ちの作業を開始した。最初は北側警備兵は傍観していたが、20分後一転して作業の中止を求めた。しかし、指揮官のボニファース(Bonifas)大尉は作業の継続を指示した。韓国人作業員は、北側の朝鮮語にただならぬ雰囲気を感じて作業を中断して木から降りた。しかし、ボニファース大尉は作業の継続を命じた。その直後、北側の警備兵が手にした棍棒や作業用の斧で攻撃を始め、韓国側の作業用の斧で襲撃されたボニファース大尉とバレット(Barrett)中尉が死亡した。

大韓ニュース第1096号(1976-08-21)

 8月19日の軍事停戦委員会と警備将校会談が同時に開かれて非難の応酬があり、アメリカ軍は防衛準備態勢をデフコン3(高度な防衛準備態勢)に引き上げた。一方、北朝鮮は、人民軍全部隊と労働赤衛隊、赤い青年近衛隊に戦闘態勢を発令した。

 事件発生3日後の8月21日、米国の伝説的木こりの名前を冠した作戦「ポール・バニヤン(Paul Bunyan)作戦」が実行された。午前7時、国連軍警備隊・米軍工兵団が共同警備区域に進入して、電話とハンドマイクで事前通告を行い、やや手間取ったものの予定通りに問題のポプラを切断した。米第2師団の歩兵中隊が重火器を直近の車中に置いて外郭警備を担当し、韓国軍歩兵中隊が共同警備区域の外側で武装して待機。臨津江南側には戦車大隊と装甲歩兵隊が展開し、砲兵も北側目標に照準を合わせて警戒状態にあった。上空には沖縄から飛来したファントムと韓国空軍の戦闘爆撃機が待機していた。
大韓ニュース第1097号(1976-08-30)

 実は、この作戦には国連軍警備隊に紛れて韓国軍も加わっていた。朴正煕パクチョンヒ大統領がスティルウェル国連司令官に申し出て、韓国軍特殊戦司令部の第1空挺特戦旅団が投入された。文在寅ムンジェイン大統領は、この時この部隊に一兵卒として所属しており、この作戦に参加していたのである。

北朝鮮側が伐採を妨害したり衝突が起これば直ちに戦争が勃発するような状況だった。そんな状況に備えて部隊の最精鋭でポプラ伐採組を編成し、残りの兵力は外郭に配置した。その外郭をまた前方師団が囲んだ。

 『運命 文在寅自伝』128ページ

実際に共同警備区域内に投入されたのは特戦司令部空挺部隊の跆拳道有段者など64名。KATUSAに偽装して、本来は警棒のみの丸腰で伐採の支援に当たるということであったが、実際には防弾チョッキの下に拳銃や手榴弾を隠し持って出撃した。さらに、北朝鮮側の哨所を破壊し、帰らざる橋の反対側の北朝鮮人民軍部隊に対して自分たちの隠し持った武器を示して挑発するなど、国連軍側の想定していなかったような挑発的行動に出た。さらにカービン銃なども携行して最初から北朝鮮兵がいたら殺す覚悟で出動したという証言もあり、KATUSAに偽装した韓国空挺部隊は一触即発の状態にあった。しかし、国連軍側は抑制的であり、北朝鮮の警備兵も一歩退いて敢えて挑発には乗らなかった。休戦協定が無効になりかねない危ない状態だった。
 文在寅自伝の書きぶりからすると、当時の文在寅一等兵は外郭配置組であったのではなかろうか。

 

 この事件以降、共同警備区域は分割警備されることになり、区域内にも休戦ラインが明示され、南側に置かれていた北朝鮮軍の哨所は撤去され、共同警備区域内での南北の自由往来はできなくなった。


1976年8月29日朝日新聞朝刊

休戦会談場の建物の外側に高さ5センチのコンクリートブロックの境界表示が設置されることになったのもこの時である。そしてキャンプ・キティーホークは、キャンプ・ボニファースと呼ばれることになった。

 

 2018年4月27日、文在寅大統領と金正恩委員長は手を繋いでこの境界表示ブロックを北側に越え、そして南側にも越えて見せた。1976年にはこの境界線表示はなかった。空挺部隊の文在寅一等兵が、板門店共同警備区域の外郭で緊張して銃を構えていたポプラ事件によって、南北交流の舞台装置ともなったこの境界表示は作られることになったのである。

 

 そして、2018年12月13日の『東亜日報電子版』はこのように伝えている。

板門店共同警備区域(JSA)の非武装化も進んでいる。南北はJSA内の9カ所の哨所(南側4カ所、北側5カ所)を対象に、すべての銃器や弾薬、哨所勤務を撤収した。南北軍事当局と国連軍司令部の3者が協議体を設けて3者での共同検証と、その後の勤務方式などについて協議している。
今後相手側の地域での警備勤務の実行や観光客の自由往来を保証するための監視装置の調整問題、そしてこれらに関する相互情報共有方式などについて議論を進めているという。
http://news.donga.com/View?gid=93269512&date=20181213

 去年までの十数年間はほぼ毎年板門店の休戦会談場を訪れてきた。新しい体制になるであろう板門店の共同警備区域、ぜひツアーに参加して見学に行ってみたいのだが、今のところまだ予約は入れられない状態のようである。
 1976年から42年目に再び自由往来が可能になったとはいっても、42年前の姿とは同じはずがない。それに、休戦会談場が「歴史的な遺物」になる日が遠からずくると信じている。その変わりゆくJSAをぜひ自分の目でもう一度確認したいものだ。

 

参考資料
・홍석률(洪錫律)「위기 속의 정전협정: 푸에블로 사건과 ‘판문점 도끼살해’ 사건(危機の中の停戦協定—プエブロ事件と「板門店斧殺害」事件)」『역사비평』63(2003)
・홍석률(洪錫律)「1976년 판문점 도끼 살해사건과 한반도 위기(1976年板門店オノ殺害事件と朝鮮半島の危機)」『정신문화연구』28-4(2005.12)
・허완「판문점 도끼만행 사건을 통해 본 한미동맹의 안보딜레마와 결속력 변화(板門店斧蛮行事件を通してみた韓米同盟の安保ジレンマと結束力の変化)」『통일연구』 18-1(2014)

MBC [이제는 말할 수 있다] 54회 (2002.03.31) 8.18 판문점 도끼 사건