網野「日本」論の盲点 3
歴史の見方(日本とは何か)
古田は「魏志倭人伝」の原本を渉猟し、そこには「邪馬台国」では
なく「邪馬壱国」と書かれていることを実証的に明らかにし、卑弥呼が
女王であった国が、九州博多湾岸にあったことを証明した。
{ 3世紀の『魏志倭人伝』には正確には「邪馬壹国」-ヤマイチ
コクという表記。
5世紀の『後漢書、倭伝』には「邪馬臺国」-これもヤマダイ
コクであって、ヤマトとは読めない。
邪馬台国ヤマト論者たちは『倭人伝』の「邪馬壹国」は無視して
『後漢書、倭伝』の「邪馬臺国」の臺を持ち出し、それと台とは意味
も異なり、別字であるにもかかわらず、トとも読める台と意図的に
混用してきた。
こうして邪馬臺=邪馬台=ヤマトと読んできたのだ。
表記の詳しい変遷の考証は『失われた九州王朝』参照。
その他『「邪馬台国」はなかった』他。 }
(銅剣、銅矛とその鋳型の出土が、そして甕棺と沢山の王墓が、
圧倒的に博多湾岸に集中しているという考古学的な事実にもそれは
裏付けられている。)
そしてその「邪馬壱国」の後継が「倭国」であり、それは九州王朝
であったことを明らかにした古田の業績を、無視することはもはや出来
ないと思われるのだが。
* 九州王朝=「倭国」から近畿大和王権=「日本国」へ
網野は「「日本書紀」に初代として記された神武以降、少なくとも
九代まではその実在がほぼ否定されている」という。これはしかし
いわゆるも「戦後史学=津田史学」の議論を無批判に引き写したもの
でしかない。
また5世紀の倭の五王についても、倭王武を「ワカタケル」とする
なども大和王権の「天皇」の中から比定した戦後史学から持って来た
にすぎず、5世紀の倭国を常識的に大和王権と見なしていることを表白
しているようだ。
古田は九州王朝の分流としての「神武」一派が、日向の地から大和
の銅鐸文化圏に侵入して根拠地を作り(いわゆる「神武東征」)、後の
代で土地の王長脛彦をだまし討ちにして、支配地を広げていったのが
近畿大和王権の始まりであることを明らかにした。
(銅剣・銅矛文化を出自とする「神武」一派は異文化であった銅鐸
を徹底的に破壊した。銅鐸文化が歴史的に突然消滅してしまっていると
いう考古学的な事実は、この神武一派の銅鐸文化圏への侵略と占領・
破壊を据え置けば謎ではなくなるのである。)
だからもちろん「後の神武」は小さな根拠地を確保したにすぎない。
後に美化され神話化され「神武天皇」の名を冠せられたにしても、
また「神武東征」など堂々たる国家の軍隊の遠征のように美化(?)
されたにしても、美化には似ても似つかぬ少数の武装集団の侵略行為に
すぎず、九州日向(宮崎)を出自とする一部族長の姿でしかなかった
はずなのだ。
ましてやこれは近畿天皇家の始まりではあっても、「日本建国」など
とは何の関係もないし、そもそも「天皇」とかではありえず即位とかが
あったはずはないし、即位の日が割り出せるはずもない。
それは後世(近代)のでっち上げ以外ではない。
これは「古事記」「日本書紀」をどう読み解くかということとも関係
してくる。
いわゆる津田史学では、記紀の神話は、8世紀の史官たちによる
『造作』として切って捨てられる。しかし神話は後世の造作では片付け
られない史実の裏づけを核として持っている場合が多い。もちろんその
歴史を語りたい権力の大義名分によって変形・加工された史実である。
古田の読み解きは大体以下のようである。
(もちろん私の受け止めに過ぎないし、乱暴なまとめでしかないが。)
九州王朝「倭国」の分流=分家として大和の地に根を張り徐々に力
を付けてきた近畿大和王権が、倭国の衰退(決定的には倭、百済連合
軍が唐、新羅連合軍に壊滅的な敗北を喫した白村江の戦い、663年。)
に乗じて権力を簒奪した(天智の時)後
(「日本旧小国倭国の地を併す」、『旧唐書』)、
自分の王権が簒奪者ではなく古よりの列島の正当な支配者である
ことを、(倭国=本家の神話をも剽窃し継ぎはぎしながら)
書き記したもの (天武の言う「削偽定実」とはこのことだ)
これが「日本書紀」であると捉えるべきだということである。
(「古事記」は主に近畿天皇家に伝承された神話を核としたもの・・
列島といってもこの時代は関東以西がすべてであるが。)
そして古田はこの読み解きを軸にして、「古事記」「日本書記」の、
長く解けなかった多くの謎を解き明かしているのである。
歴史特に権力の交替、変遷の場合、勝利した側が己の正当性を裏付
けるために歴史書を自分の都合のいいように書き改めるのは余りにも
当然のことだ。それが根本の大義名分になるわけだ。
{ これまでの歴史とは、勝利した側の権力が、己の支配の正統性を
書き記したものであったといってもいい。特にこの時代はそう言える。
その根本の大義名分に無批判に、書かれた歴史書を読むなどと
いうことは、歴史に興味を持つものとしてはあってはならない態度だ
ということも、古田は明確にしている。}
こうした古田の業績を無視した網野の議論はだから苦しい。
違和感を感じないわけにはいかない。
中世史の分野で素晴らしい問題提起をし、新しい視点を提供してく
れたともいえる研究者が、古代史についてこんな議論をしているとは
思わなかった。
(文中敬称略)
網野「日本」論の盲点 2
「歴史の見方」(『「日本」とは何か』・・網野善彦) 続き
「日本国」の成立が7世紀半ばから8世紀初頭とするのが既に研究
者の大方の見解となってきているし、「建国」とかを問題にするならば、
「この国号の定まった時点とするのが事実に即して当然」といえる。
* それまでの「倭国」とは?
しかしこれでは網野にとって「それまでの「倭国」」とは何だった
のか、それをどう位置づけるのかということが全然明確ではない。
「倭国」は確かに「日本国」ではない。「倭人」は「日本人」ではない。
また支配者が同じヤマト王権だったとするなら、「日本国」の成立
は名前が変わっただけ(「日本」の始まりという意味で画期であるが)
のことで、倭国時代も含めて、近畿天皇家一元主義になんら手をつける
ものではなくなるし、決定的な転換点というほどの意味はない。
倭国が自ら名前を変えて日本国を名乗ったのか?そうではなく倭国
とは別の国家が「日本」を名乗り使者を使わせたのか?
だが後者の場合は、これまでの「倭国の使者」とは別の使者となる
わけで、実績がなければ不信に思われるのは当然で、事実そのような
記述が「旧唐書」などにある。(使者同士の争いもあった様だ。)
網野自身は前者の説を取っているようだ。だがここは二つの国が
別々に使者を送ったとしなければこの時点の矛盾は解決しない。
( 数十年に及ぶ列島の代表者争いはとても複雑な経緯を辿ったよう
だが、その交通整理はとても私の手には負えない。
『失われた九州王朝』古田武彦などを参照してください。)
まさにこの時点こそが唐・周に対して、「倭国」と「日本国」の
二つの国の使者が「わが国こそが列島の支配者だ」と争い、則天武后
が、既に力の衰えていた、そして直前まで敵対(白村江の戦)していた
倭国に変えて(唐を周に変えたのが則天武后である。)日本国を、列島
の権力として正式に認めた決定的に大きな転換点だった、ということ
を解き明かしたのが古田武彦である。
そしてこの日本国の王が近畿天皇家である。だからこの702年に
初めて近畿天皇家が列島の支配者として対外的にも認められたと言え
るのである。
補足
確かに網野の言う論点も問題ではある。
「縄文時代の日本」とかは、網野の様に「日本人というのは日本国の
国制の下にある人々」と限定するならそれはありえないし、「あたかも
縄文・弥生時代から日本が存在し、日本人がいた」かのように言うのは
おかしいとはいえる。
現在の国制を所与の前提として、日本、朝鮮、中国の人々と、
「領土」などを、古代にまでそれを敷衍する明らかに間違った議論を
するものは多いし、逆にその時代からまた現在の「領土」等の支配の
正当・不当を云々するものもいるからだ。
その意味で古代、日本人も、朝鮮人も、中国人もいなかった。
居たのはその土地に住み着いた人々であり祖先たちである。
そして国家自体流動的であった時代には、かなり流動的な人々の移動
があったことを想定しなければならないのである。
だからまた逆に日本人(アイヌ人、沖縄人)の祖先たちが縄文の
時代はもちろん、それ以前から列島に生活していたことに何の疑問も
ない。そして縄文、弥生期にも大陸、その他からの相当規模の人々が
列島に移り住み、混血が進んで、日本人の祖先が形作られていった
のだ。これはあまりのも当然のことだ。
* 「日本旧(もと)小国、倭国の地を併(あ わ)す」
近畿天皇家一元主義者たちは、「倭国」はもちろんそれ以前から
天皇家が列島を支配してきたかのように脚色するのであって、これに
対して、近畿天皇家の支配する「日本国」は7・8世紀頃に始まった
のだという歴史的事実を対置しても(それ自体は絶対必要なことでは
あるとしても)、これだけでは彼等の拠って立つ論拠を掘り崩すこと
にはならない。
やはり「倭国」とは何だったのか?この疑問は依然として残る。
「日本旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)す」とか 、「倭」という名前
は「雅」ではないので「日本」に変えたのだ、というような「旧唐書」
などの文書をどう読むかとかいう古代史の難問を、網野は素通りして
いるようである。そもそも問題として考慮していないのかもしれない。
「たとえ邪馬台国が近畿にあったとしても」と自己主張を明確にし
てはいないが、網野もまた「邪馬台国」「倭国」をヤマト王権と見る
常識を否定はしていないようだ。
これだけの研究者であっても、網野もまた、学者仲間ではない在野
の古田武彦の研究をまったく無視してしまっているらしい。
これは実に驚くべきことのように私には思える。
古田は「魏志倭人伝」の原本を渉猟し、そこには「邪馬台国」では
なく「邪馬壱国」と書かれていることを実証的に明らかにし、卑弥呼が
女王であった国が、九州博多湾岸にあったことを証明した。
(『「邪馬台国」はなかった』他多数の著書参照。
銅剣、銅矛とその鋳型の出土が、そして甕棺と沢山の王墓が、圧倒
的に博多湾岸に集中しているという考古学的な事実にもそれは
裏付けられている。)
そしてその「邪馬壱国」の後継が「倭国」であり、それは九州王朝
であったことを明らかにした古田の業績を、無視することはもはや出来
ないと思われるのだが。
* 九州王朝=「倭国」から近畿大和王権=「日本国」へ
同じことは天皇号についても言える。「飛鳥浄御原令によって正式
に大王から天皇に呼称が改められた」とするなら、それ以前の近畿
大和王権の支配者は「天皇」ではなかった。ましてや初代「神武天皇」
はありえなかった。
これはそう言える。しかしこのことは後に天皇とされた歴代の王が
存在しなかったことの証明にはならない。
(続く)
網野「日本」論の盲点 1
『「日本」とは何か』 網野善彦 講談社学術文庫
(11、6–19、1記「歴史の見方」表題変更、補筆)
日本中世史の研究者である網野の歴史の見方を紹介する。
網野は「自然経済から交換経済、自給自足経済から商品貨幣経済と
いう経済史の”常識”」また「経済史の発展段階とされてきた、狩猟・
漁労・採集経済から農耕・牧畜経済、さらに工業を基礎とする産業経済
へという経済の”進歩”の定式」
などを貫く”進歩史観”を槍玉に挙げる。
「敗戦後の歴史学の中で主流的な見方であった原始社会、アジア的
社会、奴隷制社会、封建社会、資本制社会、あるいはそれと深く結び
ついている、原始、古代、中世、近世、近代という時代区分についても、
・・徹底的に再検討する必要がある」とする。
なぜなら「交易、交換、それを目的とした生産、商品生産は、人間
社会の最初からあったと考えられる。・・「自給自足」の経済生活など、
実態としては決してありえないのであり、これは研究者のつくり出し
た「幻像」といわなくてはなるまい。」
「たとえば三内丸山遺跡をはじめとする縄文時代の発掘成果によって、
すでにこの時期、広域的・恒常的な交易・交換を背景に多くの人口から
なる大集落の安定した定住生活が営まれていたことがあきらかにされた
が、この事実自体、・・これまでの経済史の常識的な図式を完全に打ち
くだいた。」
また「これまでの歴史学は”進歩”の原動力としての農業・工業の発展
にもっぱら目を注ぎ、他を・・山野河海に関わる生業、その産物を原料
とした加工業についてまったく副次的にしか」取り上げなかった。
さらに「従来の歴史はまさしく男性の主導する歴史として描かれて
きた」が、例えば「女性は人類の生活の中で不可欠の衣料生産に、圧倒
的に大きな役割を果たしていた。実際、糸車と織機は世界的に女性を
象徴する道具ではないかと思われる。また、こうして自ら生産した織物
をはじめ・・日本の場合は魚貝や薪炭を持って市場などで売買する商人
にも女性が多く見られる。」
「しかしこのような女性の多方面での活動を、これまでの歴史学は
ほとんど正面からは取り上げてこなかった・・そして老人や子供に
ついても同様のことがいえる。」
「さらに社会の中で差別的な立場を強いられてきた被差別民にも・・
人類史的な視野から差別の要因、被差別民の多様な実態とさまざまな
役割が追究されなくてはならない。そしてそうした人々が社会の中で
果たしてきた積極的な役割、たとえば芸能の世界での被差別民の大きな
役割などにも、立ち入った研究が必要であろう。」
「浅薄な『進歩史観』や『農村中心主義』のために、これまで歴史
学の研究がほとんど無視してきた結果、生まれた空白はきわめて広大
といわざるをえない・・
たとえば、女性、老人、子供、さらに被差別民の社会の中での役割、
山野河海に関わる生業、河川・海上交通の実態、流通、情報伝達の問題
などをあげることができる・・」
これらはいちいち肯ける。こうした視点によって初めて私達が知ら
されなかった真実の歴史を発掘することが出来るといえるようだ。
**
この本は「日本とは何か」が主題である。
網野は99年に成立した国旗、国歌法について「この法律は、
2月11日という戦前の紀元節、神武天皇の即位の日というまったく
架空の日を「建国記念の日」と定める国家の、国旗・国歌を法制化
したのであり、いかに解釈を変えようと、これが戦前の日の丸・君が代
と基本的に異なるものでないことは明白な事実である。このように虚偽
に立脚した国家を象徴し、讃えることを法の名の下で定めたのが、
この国旗・国歌法であり、虚構の国を「愛する」ことなど私には不可能
である。それゆえに、私はこの法に従うことを固く拒否する。」
これは網野の戦争体験に根ざした素直な気持ちで、歴史家として
虚偽は許せないとする強い意志を表明している。
そして「「日本」という国号、国の名前がいつ定まり「天皇」と
いう王の称号がいつ公的に決まったかについては、・・研究者の・・
大方の見解は7世紀末、689年に施行された飛鳥浄御原令とするが、
それと異なる見解にしても7世紀半ばを遡らず、8世紀初頭を下ら
ない。
「日本」はこのときはじめて地球上に現れたのであり、それ以前には
日本も日本人も存在しない。(ここで「日本人」というのは「日本国」
の国制の下にある人々・・という意味で使うべき・・と網野はしている。)
それゆえ、「日本国」の「建国」をもしも問題にするならば、この
国号の定まった時点にするのが事実に即して当然であり、実際702
年、中国大陸に渡ったヤマトの使者は周の則天武后に対し、それ
までの「倭国」に変えて、はじめて「日本国」の使者といい、国名の
変更を明言したのである。」
戦前型の紀元節の復活を思わせる「国旗・国歌法」に対してその
虚偽を明確にし(皇紀2600年とか、2月11日などというのは学問的根拠
もない皇国史観丸出しのお話だ)、
「日本」という国名が周の則天武后への「ヤマトの使者」によって
はじめて名乗られた702年が、日本国成立の画期であることを明らか
にすることは大きな意味がある。
「日本国」の成立が7世紀半ばから8世紀初頭とするのが既に研究者
の大方の見解となってきているし、「建国」とかを問題にするならば、
「この国号の定まった時点とするのが事実に即して当然」といえるの
だろう。
( 実はこの議論も、古田武彦の業績を日本史学者が核心を骨抜きに
して、受け入れて出来た見方に他ならないようだ。
つまり日本国は7、8世紀に成立したことは認めるけれど、本家倭国
の衰退に乗じて分家日本国が権力を簒奪して成立したことは認めない。
倭国とは何かを何も明確にしない。)
* それまでの「倭国」とは?
しかしこれでは網野にとって「それまでの「倭国」」とは何だった
のか、それをどう位置づけるのかということが全然明確ではない。
「倭国」は確かに「日本国」ではない。「倭人」は「日本人」ではない。
少なくとも名が違うから意味があるはずだ。
網野は「ヤマトの使者」が「国名の変更を明言した」という。
そのまま読めば実体は同じで、名前が変わっただけと受け取れる。
だが果たしてそうだったのか?
続く。