鬼川の日誌 -10ページ目

 日本中世史 3

  『日本中世の百姓と職能民』 網野善彦



  日本中世の百姓について網野の別の著書からもう少し紹介する。

 (一)
  中世の百姓が田畠を耕作する農業民だけでなく、多様な生業に従事

 する人々を相当の比重で含んでいたことは、
 ・・田地に賦課された
年貢が米だけでなく・・多彩な物品であった
 事実によってみても、
 また・・田堵(たと)、網人、海人
等しく「百姓」とされた点を考えて
 も明らかといえよう。それ故、塩や鉄などを年貢としている百姓は、
 ・・海民、製塩民、製鉄民ととらえる必要がある。

  桑による養蚕、糸・綿・絹の生産、漆を用いた漆器の製作、
 柿の果実、さらに柿しぶの利用、栗・・堅果・・材木としての活用・・

  
養蚕、糸・綿・絹の生産は、百姓の女性が独自に担っており、
 その売買、交易も女性によって行われたのである。

  (これらは)・・おそくとも弥生時代には確実に開始された・・と

 すると・・百姓の女性たちは、すでに1500年の長きに及ぶ技術の蓄積

 を身につけていたことになる。

  
栗と漆の栽培と、栗の材木による家屋などの構築物の建造漆器の

 大量な生産とが縄文時代に遡ること・・5000年をこえるきわめて根深

 い技術的伝統に支えられていた・・

  中世の百姓の生業は・・多様であり、その生活の中に生きる技術が

 根深く長い伝統をもつ水準の高いものだったこと・・

 (二)
  百姓が農業を含むきわめて多様な生業に従事するふつうの人たちで

 あったという事実
 ・・決して自給自足の農業に専ら支えられていたのではなく、その

 生活は中世の当初から市庭と不可分に結びついていた。
 
  13世紀前半までの百姓は、
米や絹・布を主に交換手段ー貨幣として

 自らの生産した生産物の少なくとも一部を商品として市庭で売却し、

 生活に必要な物品を購入しており、そうした交易なしにその生活は成り

 立ちえなかった。

  そして米以外の物品を年貢として貢納する多くの荘園・公領の百姓

 たちは、・・米とそうした物品を交易する形式か、あるいは米、麦など

 を前借し、納期に年貢と定められた物品を納める形で、年貢を貢納し

 ていた。

 (三) 
  そして百姓のたやすく求め難い物品を市庭に供給し、百姓自身の

 生産物を購入・集荷する商人、手工業者、年貢物を含む商品を広域的

 に輸送する廻船人のような職能民の活動なしには、この時期の経済は

 動かなかったのである。
 
 (四)
  またそうした動きの中で、
出挙(すいこ)といわれた初穂物、上分物(*)
 の金融を行う
金融業の職能民も、年貢の収取の請負、市庭での取引

 など、さまざまな局面で不可欠な存在であり、百姓の生活はこうした

 各種の職能民と結びつくことによって、はじめて軌道にのりえた。

   * まず最初に神仏に捧げた産物や芸能などを初穂、初尾、
     上分といった

 (五)
  さらにこのような社会、経済の状況を前提として、国家や勧進上人
 による
資本の調達それを通しての職能民・百姓の雇用、大小規模の
 土木・建築などがすでに11世紀にはおこなわれていたのである。

 (六)
  ここにみられた市庭で交易される商品や貨幣、金融や土木建築の
 資本は、
古墳時代はもとより、弥生期からさらに縄文時代に遡って
 機能していたと考えることができるのであり、
 
  実際、・・
縄文時代の集落は、自給自足などではなく、交易を前提
 とした生産を背景とする広域的な流通によって支えられた、安定した
 定住生活を長期にわたって維持していたとされているのである。

  
とすると、商品・貨幣・資本それ自体は、人類の歴史の特定の段階
 に出現するのではなく、その始原から現代まで一貫して機能しており、
 人間の本質と深くかかわりのある物と考えなくてはなるまい。


 (七) 
  一方、13世紀後半以降になると、中国大陸から流入した銭貨が社会の

 深部まで本格的に浸透、流通するようになり、米以外の年貢は急速に

 市庭で売却、銭貨に代えて送進され、14世紀には米もまた銭納された。

  そのころ・・多額な銭は10貫文を額面とする
割符ー手形で送られて

 おり、信用経済が安定した軌道にのっていた

 (八)
  また・・15世紀には職能民の職種の分化も著しく進展し、各地の
 津・泊をはじめとする交通の要衝には酒屋、土倉、問丸、宿屋などを
 中心に、
大小の都市が簇生した。

 (九)
  ・・江戸時代の社会は当初から高度に発達した商工業、成熟した
 信用経済をもつ経済社会として、大きな発展をとげていった・・

  明治以降の近代国家はそうした近世までの社会の中での長年の
 厚い蓄積を前提として、初めて存立、発展しえたこと・・



 

 日本中世史 2

   中世史の場合 (続)

 

 

 

  私達が近世社会について「虚像」を常識として持っていたように

  「中世の社会についても全く同様で
これまでの中世社会像大寺社や

 貴族の家に伝来した、公的な世界に関わる文書を中心に描き出されて

 きた。

  しかし破棄された文書ー紙背文書の世界や考古学の発掘成果などを

 考慮に入れたとき今までの中世社会像はやはり一面的であることは明

 らか」だと網野は言う。

  1、で見た江戸時代の百姓の「表の顔と裏の顔」を使い分ける

 「したたかさ」は、中世の百姓のそれを受け継ぎ発展させてきたものに

 他ならない。

  「14世紀初頭、毎年のように損亡・減免を要求し、
生活の苦しさ、

 窮乏を東寺に訴えた若狭国太良庄の百姓たちが、実は広い視野を持つ

 富裕な人びとで、当時最強の権力、北条氏得宗が地頭となり、領家

 東寺の立場が弱化したことを見通して、自らの利を確保しようとして

 いたという事態」などにそれはうかがえる。

   *中世都市の発掘

  とりわけ最近の考古学的な発掘成果は目覚しい。
  「草戸千軒町遺跡(広島県福山市)、持躰松遺跡(鹿児島県金峰町)
 大物遺跡(兵庫県尼崎市)、安濃津遺跡(三重県津市)、六浦(横浜市

 金沢区)、荒井猫田遺跡(福島県郡山市)、そして・・十三湊遺跡

 (青森県市浦村)・・」などなど中世の都市が続々と発掘されている。
  多分普通は「中世の都市」というだけで、違和感を憶えるのでは
 なかろうか?

  「いまや中世社会像、さらには「封建社会」の学問的規定自体が、

 根本的な再検討を 迫られている・・
 
  しかもそれは、たんに中世にとどまらず・・青森の三内丸山遺跡

 発掘成果によって明らかになったように、すでに縄文時代、「自給

 自足」どころか広域的かつ恒常的な交易・流通によって支えられた

 安定的な定着集落がそこにはきわめて長期間にわたって存在したので

 ある。」

  「・・従来の経済史の”常識”-たとえば狩猟・漁撈・採集経済から

 農耕・牧畜、そして工業中心の経済へという発展、あるいは自給自足

 の農村が生産力の発達とともに商品貨幣経済の浸透によって分解して

 いくという定式そのものが、否応なしに再考を迫られることになって

 きた。」

  これは決定的に重大な話になってくる。これまでの日本史は事実を

 解明するのではなく、こうした定式に当てはまるように現実の断片を

 解釈してきたのではないか?ということのようだ。

  (これはいわゆる戦後の進歩的史学者たち、つまり戦後を風靡した

  「エセマルクス主義=日共支持」史学者たちを告発することでも

  ある。)

   * 中世の百姓

  まず我々が土地に緊縛された隷属農民のようにイメージしている百姓

 の実像が全く違うのである。

 (これが決定的だが、そもそも「百姓=農民とする常識」が過ちなのだ。

 百姓はその名の通り「百つまり実に多様な」仕事を生業とするところ

 からきている言葉なのだ。これから解説する。)

  「
百姓は荘園支配者との契約に基づいて、所定の田畠を請負い、

 定められた年貢の納入を請負う、移動の自由を社会的に保証された

 自由民であることが明らかにされてきた。
 
  その請負う田数と1反別の
負担年貢量=斗代は領家や国守による

 検注によって確定されるが、富沢清人氏の明らかにしたように

 (『中世荘園と検注』)それは検注使と百姓たちの立会いの下で、

 その”談合”によってはじめて公的に確定されたのである。・・・
 
  ”談合”の語がこのように古く遡り、請負の確定に関連して用いられ

 ていること・・」に驚く。
 
  「・・見落とすことのできないのは、・・荘園公領制の形成期にさき

 のような手続きで確定された年貢が、その計数基準とされた田地の

 産物-米だけでなく、むしろ全国的に見ると米以外のそれぞれの地域

 の多様な特産物であったという事実である。」

  「さらにそこで注目しておかなくてはならないのは、百姓自身が

 請負、負担した多様な特産物を生産していた事実であり、
 
 
漁労、製塩、炭焼、採薪、苧麻の栽培と職布、養蚕・製糸と織絹、

 さらに製油、製鉄、採金、そして多様な木器や焼物の生産、牛馬の

 飼育等に主として携わる百姓が各地に広く見られたのである。

  男女間の分業を含む社会的分業は、このように広く、また深く社会に

 浸透していたのであり、後述する職能民の活動がこうした百姓の多様な

 生業を基礎としていたことを十分に考えておかなくてはならない。」

   * 列島全域に及ぶ交易・流通、都市的な場

  これは「荘園公領制の形成期-11世紀後半から13世紀までの時期、

 すでに各地域での活発な交易・流通が展開していたことを前提にしな

 くては理解しがたい事態であり、

  実際に交易の行われた市庭(いちば)をはじめ、各地での流通・交易の

 結節点となる場-都市的な場の形成の社会的背景の一つはここにあった

 といってよかろう。」

  「中世社会とその国制は、その成立の当初から、
 
列島全域に及ぶ流通・交通と都市ないし都市的な場を不可欠の前提

 として動いており、これを自給自足の農村、土地に緊縛された農民を

 支配する「在地領主」の支えによって成り立つ「封建社会」と規定する

 のは、まったく事実に反する・・」
    (『日本の中世 6』)

  「まったく事実に反する」とまで言われれば、面食らうのは私だけで

 はないだろう。私達は何を教えられてきたのだろうか?という思いと

 共に、こうした研究の進展によって確かにその当時生きていた人々の

 実際の生活に触れていけると感じる。

  歴史は権力の交替変遷のみに矮小化されてはならない。そこで生き

 生活していた人びとの息吹を蘇らせなければならないということなの

 だろう。(これが網野が最も重視することだ。)


  「全く事実に反する」歴史教育が暴かれ、中世社会に生きていた人々

 の真の現実が明らかになる、このことは
  「中世社会はもとより、古代から弥生・縄文時代に遡り、近世から

 近代に降る日本列島の社会のあり方総体を、考え直さなくてはなら

 なくなってくる。」ということである。
    (『日本中世の百姓と職能民』 網野善彦)
 

  


 

 日本中世史 1

   日本中世史の大転換

 

  *

  これはもう15年も前に網野善彦の日本中世史に触れた時に書い

 た感想文です。小さな事を除きほぼ再録です。

  (だから文中の日時は2010年が基準になります。)

 

  **

 

  最近の日本近世・中世史の研究の進展を覗くと、戦後直後生れの者が

 習った近世・中世史像とはあまりにもかけ離れていて驚くばかりである。
 
  どれだけ「
虚像」を教えられていたのかと思うと嘆かわしい話だ。
 しかしこれまでの史学者自体が分かっていなかった(誤っていた)のだ

 から何とも仕方がないといえばそうなのだが。

  (網野は戦後「進歩的史学者」たちを告発せざるを得ない。)

  これはまさに日本的と批評される「立前」と「本音」、表の顔と裏の

 顔を使い分け、時の支配者のみならず後世のエセ史学者までも騙して

 しまった百姓の勝利(?!)と言える。

  これは見ようによってはとても痛快な話となってくる。
 
  最近日本中世史の大転換を主導している学者の一人網野善彦が横井清

 とともに編集した『日本の中世6』のなかで次のような話を紹介して

 いる。以下引用は同書から。

   * 甲斐国都留郡史
   
  (私達は先日都留市駅から御正体山周辺を歩き回ったばかりなのだが、

  あの富士急線一帯なわけだ。今でも南都留郡ですね。)

  江戸時代のもので『勝山記』(『妙法寺記』)というのがあるそうだ。 

 これは地元の日蓮宗寺院の僧侶が「生活者」の視点で記した稀有の

 記録で、甲斐国都留郡-「郡内領」の状況をつぶさに伝えている。
  (『山梨県史研究』10号)

  「この地域の河口・吉田は15世紀には・・富士山登拝の道者たちを

 「旦那」とする御師たちの集住地となっており・・早くから銭貨の

 流通に依存する地域となっていた。
  
  16世紀に入るころ
吉田宿「廿余人衆」という「長(おとな)」たちに

 よって運営される自治都市になっており、その近辺の下吉田郷

 「百余人衆」の結集する自治的な郷村だった」のだそうだ。

  そして「周囲を山でかこまれ、田畑も少なく交通も不便な

 貧しい山村』と、当時の”知識人”からも見られており、また自らも

 役所への公的な訴状で、同様の事情を強調して山村の貧しさを訴えた

 この地域の村々は、じつは

  江戸へ向けて、商人たちに
材木や薪炭、さらに多様な木製品を売却、

 桂川などの河川を通じてこれらを輸送することによって、1回の取引で

 金数十両から百余両、ときには金3000両をこえる巨額な貨幣の動く

 事業を行うほど、林産物の交易を通じて富裕だったのである。」

   * 表の顔と裏の顔

  「
さらに見逃してはならないのは、前者の「貧しい山村」像が役所

 への訴状など、保存され伝来する蓋然性が大きく、比較的解読し易い

 公的な文書の世界で見せる百姓たちの”表の顔”であり、
 
  後者の
林産物を交易する豊かな村と言う実態が証文や帳簿など、
 用済みになれば破棄され、ときには襖の下張りとなって偶然伝来する

 ような解読にも困難をともなう私的な文書での百姓たちの”裏の顔”

 だったこと・・

  これはまことに見事なまでの”公”と”私”、”表”と”裏”の使い分けといわ

 なくてはならない。
  
  重大なのは従来の近世社会像が、この解読し易く、保存・伝来される

 ことの多い公的な文書を中心に、もっぱら”表の顔”に目を向けて描き

 出されてきたことである。」
 
   * 常識になっている虚像

  「教科書的な”常識”として今も通用している
、貧窮に苦しむ百姓

 =農民を「生きぬよう死なぬよう」にしぼりあげる専制的な封建

 社会という規定がそれであるが、
 
 ・・これは全く一面的で、極言すれば”虚像”といいきっても言い過ぎ

 ではなかろう。」と網野はいうのである。

  これは実に驚くべき話で私達は日本史でほとんど『虚像』を教え込ま

 れていたことになる。 

  そしてよく”日本的”と批評されることの多い、いわゆる「立前」と

 「本音」、表の顔と裏の顔の使い分けの本質はここにあったのだという

 ことのようだ。
 
  なぜこんなことになっているのかの理由のひとつは、いわゆる
 「明治維新」によって権力を獲得した側が、滅びた江戸の社会を悪い

 もの、酷いものとして描き出し、その克服によって「新しい社会」が

 現前したと宣伝する必要があったことにもあると思われる。

  出現したのは近代工業のための資本の蓄積期に見られる血みどろの

 社会であったのだが。
 
  これは権力の交替期にはいつも見られる現象といえるようだが、

 問題はそれが100年以上も修正されないまま今日に至っているという

 ことのようだ。

   * 中世史の場合も

  「このことは中世の社会についても全く同様で
これまでの中世社会

 像大寺社や貴族の家に伝来した、公的な世界に関わる文書を中心

 に描き出されてきた。

  しかし破棄された文書ー紙背文書の世界や考古学の発掘成果などを

 考慮に入れたとき今までの中世社会像はやはり一面的であることは

 明らか」だというのだ。

  (続)