日本中世史 2
中世史の場合 (続)
私達が近世社会について「虚像」を常識として持っていたように
「中世の社会についても全く同様でこれまでの中世社会像は大寺社や
貴族の家に伝来した、公的な世界に関わる文書を中心に描き出されて
きた。
しかし破棄された文書ー紙背文書の世界や考古学の発掘成果などを
考慮に入れたとき今までの中世社会像はやはり一面的であることは明
らか」だと網野は言う。
1、で見た江戸時代の百姓の「表の顔と裏の顔」を使い分ける
「したたかさ」は、中世の百姓のそれを受け継ぎ発展させてきたものに
他ならない。
「14世紀初頭、毎年のように損亡・減免を要求し、生活の苦しさ、
窮乏を東寺に訴えた若狭国太良庄の百姓たちが、実は広い視野を持つ
富裕な人びとで、当時最強の権力、北条氏得宗が地頭となり、領家
東寺の立場が弱化したことを見通して、自らの利を確保しようとして
いたという事態」などにそれはうかがえる。
*中世都市の発掘
とりわけ最近の考古学的な発掘成果は目覚しい。
「草戸千軒町遺跡(広島県福山市)、持躰松遺跡(鹿児島県金峰町)
大物遺跡(兵庫県尼崎市)、安濃津遺跡(三重県津市)、六浦(横浜市
金沢区)、荒井猫田遺跡(福島県郡山市)、そして・・十三湊遺跡
(青森県市浦村)・・」などなど中世の都市が続々と発掘されている。
多分普通は「中世の都市」というだけで、違和感を憶えるのでは
なかろうか?
「いまや中世社会像、さらには「封建社会」の学問的規定自体が、
根本的な再検討を 迫られている・・
しかもそれは、たんに中世にとどまらず・・青森の三内丸山遺跡の
発掘成果によって明らかになったように、すでに縄文時代、「自給
自足」どころか広域的かつ恒常的な交易・流通によって支えられた、
安定的な定着集落がそこにはきわめて長期間にわたって存在したので
ある。」
「・・従来の経済史の”常識”-たとえば狩猟・漁撈・採集経済から
農耕・牧畜、そして工業中心の経済へという発展、あるいは自給自足
の農村が生産力の発達とともに商品貨幣経済の浸透によって分解して
いくという定式そのものが、否応なしに再考を迫られることになって
きた。」
これは決定的に重大な話になってくる。これまでの日本史は事実を
解明するのではなく、こうした定式に当てはまるように現実の断片を
解釈してきたのではないか?ということのようだ。
(これはいわゆる戦後の進歩的史学者たち、つまり戦後を風靡した
「エセマルクス主義=日共支持」史学者たちを告発することでも
ある。)
* 中世の百姓
まず我々が土地に緊縛された隷属農民のようにイメージしている百姓
の実像が全く違うのである。
(これが決定的だが、そもそも「百姓=農民とする常識」が過ちなのだ。
百姓はその名の通り「百つまり実に多様な」仕事を生業とするところ
からきている言葉なのだ。これから解説する。)
「百姓は荘園支配者との契約に基づいて、所定の田畠を請負い、
定められた年貢の納入を請負う、移動の自由を社会的に保証された
自由民であることが明らかにされてきた。
その請負う田数と1反別の負担年貢量=斗代は領家や国守による
検注によって確定されるが、富沢清人氏の明らかにしたように
(『中世荘園と検注』)それは検注使と百姓たちの立会いの下で、
その”談合”によってはじめて公的に確定されたのである。・・・
”談合”の語がこのように古く遡り、請負の確定に関連して用いられ
ていること・・」に驚く。
「・・見落とすことのできないのは、・・荘園公領制の形成期にさき
のような手続きで確定された年貢が、その計数基準とされた田地の
産物-米だけでなく、むしろ全国的に見ると米以外のそれぞれの地域
の多様な特産物であったという事実である。」
「さらにそこで注目しておかなくてはならないのは、百姓自身が
請負、負担した多様な特産物を生産していた事実であり、
漁労、製塩、炭焼、採薪、苧麻の栽培と職布、養蚕・製糸と織絹、
さらに製油、製鉄、採金、そして多様な木器や焼物の生産、牛馬の
飼育等に主として携わる百姓が各地に広く見られたのである。
男女間の分業を含む社会的分業は、このように広く、また深く社会に
浸透していたのであり、後述する職能民の活動がこうした百姓の多様な
生業を基礎としていたことを十分に考えておかなくてはならない。」
* 列島全域に及ぶ交易・流通、都市的な場
これは「荘園公領制の形成期-11世紀後半から13世紀までの時期、
すでに各地域での活発な交易・流通が展開していたことを前提にしな
くては理解しがたい事態であり、
実際に交易の行われた市庭(いちば)をはじめ、各地での流通・交易の
結節点となる場-都市的な場の形成の社会的背景の一つはここにあった
といってよかろう。」
「中世社会とその国制は、その成立の当初から、
列島全域に及ぶ流通・交通と都市ないし都市的な場を不可欠の前提
として動いており、これを自給自足の農村、土地に緊縛された農民を
支配する「在地領主」の支えによって成り立つ「封建社会」と規定する
のは、まったく事実に反する・・」
(『日本の中世 6』)
「まったく事実に反する」とまで言われれば、面食らうのは私だけで
はないだろう。私達は何を教えられてきたのだろうか?という思いと
共に、こうした研究の進展によって確かにその当時生きていた人々の
実際の生活に触れていけると感じる。
歴史は権力の交替変遷のみに矮小化されてはならない。そこで生き
生活していた人びとの息吹を蘇らせなければならないということなの
だろう。(これが網野が最も重視することだ。)
「全く事実に反する」歴史教育が暴かれ、中世社会に生きていた人々
の真の現実が明らかになる、このことは
「中世社会はもとより、古代から弥生・縄文時代に遡り、近世から
近代に降る日本列島の社会のあり方総体を、考え直さなくてはなら
なくなってくる。」ということである。
(『日本中世の百姓と職能民』 網野善彦)