インド航空機墜落と日航機の事故
航空機墜落の大惨事
12日、インドの旅客機が離陸直後(30秒後)に墜落し、一人を
除く乗客、乗員241人の死亡が確認される大惨事が起こった。
また墜落したのが医科大学の学生寮もある住宅地で、学生5人が
死亡しさらに瓦礫に埋まっている犠牲者がいるかもしれないという。
文字通りの悲劇的な大惨事だが、墜落の様子を映した映像でも
空中で爆発した様子はなく、高度が上がることなく墜落し、直後に
大爆発しているようだからなんらかの不具合による事故のようだ
(原因はまだこれから追求されるだろう)。
今朝(14日)の新聞ではインド航空機事故の墜落現場で、巻き込
まれた人は24人で死者は265人となったそうだ。まだ増えそうだ。
*
航空機事故といえば日航123便が御巣鷹の尾根に墜落したのが、
今からちょうど40年前の85年8月12日だ。まもなくその日が来る。
既に慰霊の登山が始まっているようだ。もう40年!
航空事故では多分これが最悪の悲惨な事故で、福島原発事故も
世界最悪の原発事故であり、どちらも本質は事故ではなく、一方は
直接的権力犯罪であり、他方は権力による原発政策を基調にした
人災である。
*
先日亡くなった森永卓郎が、遺書として『書いてはいけない』
という本を出版している。
その中で森永はこの航空機事故についてこれは事故ではなく、
自衛隊の訓練中のミサイルの誤射で123便の尾翼を破壊したことが
発端となり、
この「誤射による事故」が明らかになることを恐れただろう
権力者が、123便のその後の横田基地への緊急着陸を阻止した上
意図的に墜落させたのであり、
更に墜落場所を長時間不明として、その間に自衛隊の特殊部隊
が御巣鷹の尾根に墜落した残骸を証拠隠滅のため、助かったかも
しれない人もろとも火炎放射器で焼き払ったらしい(助かった
4名は後部の機体もろとも沢に落ち、この時見つからなかったから
らしい)、
という「驚くべき推測」を、これまで「墜落の真相」を長年
追及してきた青山透子氏の本『日航123便墜落 遺物は真相を語る』
を紹介しながら明らかにしている。
ー『書いては行けない』(森永卓郎、フォレスト出版 第3章
日航123便はなぜ墜落したのか)ー
本が出てまもなく森永は亡くなった。
森永の本にもぜひ目を通して欲しいものだが、ここで紹介された
青山透子の新しい本『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相
に迫る』は真実に迫る読むべき本のようだ。
この本にも当時の首相中曽根の当日の行動、事故後の振る舞い等
客観的に明らかなものだけを載せている。
だが言外には、自衛隊のミスで(しかも民間機を擬似標的と
した訓練は常々やっていたらしい)ミサイルを当ててしまった重大
事件、「これを隠蔽するそのためには524人も乗っているジャンボ
機を証拠隠滅のために墜落させる」(更にその後焼き払う)、
などというおよそ正常な頭では考えられない非道な決定(だから
誰も考えようとしない)を出せるのは、首相など時の権力の最高
指揮官以外には考えられない、と言ってるのだと思う。
「誰が命令したのか」これは証拠を持っては多分絶対に明らかに
はならないことで推測にならざるを得ないからだろうが、(しかし
「あまりにも当然の推測」)森永も青山透子も直接には言及する
ことはできないのはやむを得ないことのようだ。
今アメリカではトランプによる権力犯罪が公然とまかり通り、
「自由の国アメリカ」の幻想がズタズタになっているし、トランプ
は軍隊を動員し「内乱」を挑発している。
日航機の墜落の真相を知ると権力は自分にとって都合の悪い事を
隠蔽するためには520人もの人命を葬り去って平然としているのだ
ということに思い至る。中曽根はその後も御巣鷹の尾根に慰霊に
訪れることはしなかった。(行けるわけはないか。)
日航機事故の真相はそのような権力者、支配者の下で私たちは
日常を過ごしているのだということに気づかさせてくれるわけで、
暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
トランプは権力者とはこういうものだと能天気にそれを表に出す
アホだというだけに過ぎないのだ。
日本の女性像 1
16世紀の女性像(ルイス・フロイス)
( 網野善彦『日本の歴史をよみなおす』から )
* 問
網野は16世紀ルイス・フロイスの描いた当時の日本女性像を詳しく
解読してますが、ここが一番驚くところです。
網野のいう南北朝の歴史的転換後の事で、女性差別が厳しくなる
近世直前でも、女性の社会的地位は驚くほど高く、「自由」(というと
語弊があるが)だったのではないか、少なくとも一方的に虐げられ
抑圧された中世女性イメージは違うのではないかと、思わされましたが?
* ジェミニ
網野善彦氏が解読する16世紀日本女性像:フロイスの記述から見
えてくる「自由」
網野善彦氏がルイス・フロイスの記述を解読する中で、特に注目し、
そして多くの読者を驚かせたのは、近世を目前とした16世紀において
も、日本の女性の地位が想像以上に高かったという点です。これは、
一般的に認識されている「中世の女性は一方的に虐げられ、抑圧され
ていた」というイメージを大きく覆すものでした。
網野氏が指摘するように、南北朝の転換を経て、女性の地位が相対
的に低下していくという流れはあったものの、フロイスが記した当時
の日本の女性たちは、以下のような側面において、現代の私たちが考
える以上に「自由」な存在であった可能性が示唆されます。
・経済的な自立性: フロイスの記述からは、女性が経済活動に積極的
に参加し、財産を所有し、それを自由に処分する権利を持っていたこと
が読み取れます。これは、家父長制が強化される近世以降の女性像とは
大きく異なります。
・婚姻・離婚における主体性: 網野氏は、女性が婚姻の選択において
ある程度の自由を持ち、また、離婚も比較的容易であったことを指摘
しています。現代の感覚からすると驚くべきことですが、女性が自ら
の意思で人生の選択を行える余地があったと考えられます。
・社会における影響力: フロイスの記述には、女性が社会的な場面で
発言力を持ち、政治や文化において影響力を行使する様子が描かれて
いると網野氏は解釈しています。単なる家庭内の存在に留まらず、
社会の一員として認識されていた側面があったということです。
・性的自由の認識: 網野氏の解読では、当時の女性たちの性的自由、
あるいはそれに対する社会の認識が、後世の道徳観とは異なる部分が
あったことも示唆されています。
もちろん、「自由」という言葉には語弊があるという留保は重要
です。現代的な意味での「自由」とは異なる文脈で理解する必要が
ありますし、身分や地域による差も大きかったことでしょう。
しかし、それでもなお、フロイスの記述を通して網野氏が提示した
16世紀日本女性の姿は、私たちが抱く中世女性の固定観念を揺さぶり、
より多角的で複雑な実像があったのではないかと考えさせられるもの
です。
この網野氏の解読は、歴史を見る上での新たな視点を提供し、私
たちが過去の社会や人々の生き方を理解する上で、いかに先入観に
とらわれているかを改めて問いかけるものと言えるでしょう。
** 以下は私の補足
この16世紀ルイス・フロイス(1562年に日本に来て1597年世を去
るまで35年間日本で生活した)の描き出した日本女性像は実に驚く
べきものです。これは是非知っておいてもらいたい。
*「日本の女性は、処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いて
も名誉も失わなければ結婚もできる」
* 財産は「日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が
夫に高利で貸し付ける」
*「日本では(妻を)意のままにいつでも離別する。妻はそのこと
によって名誉を失わないし、また結婚もできる。日本ではしばしば
妻が夫を離別する」
* 「日本では娘たちは、両親に断りもしないで、一日でも数日でも
ひとりで好きなところに行く自由を持っている。日本の女性は夫に
知らせず、好きなところに行く自由を持っている」
* 「日本では堕胎はきわめてふつうのことで、20回も堕ろした女性
がある。日本の女性は、赤子を育てていくことができないと、みんな
のどの上に足を乗せて殺してしまう」
* 「日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の町になる」
これら全てがフロイスのキリスト教的倫理観からする偏見に根ざし
たものではなく、当時の女性像としては真実であることを、網野も
認めざるを得なかった。そしてこの状況は江戸時代になってもごく
自然に続いていたという(江戸時代の離縁状からみる離婚の実態)。
第二次大戦前まで、「少なくとも西日本ではいわゆる『夜這い』の
習俗が生きていた」し、網野も岡山で30年代までの実体験を聞かさ
れている。
宮本常一の『忘れられた日本人』でもかなり最近まで「お祭りの
ときや仏教の法会のとき、あるいは神社、仏閣にお籠りしたとき
などに、いわゆる『歌垣』と同じように、男女のフリーなセックス
が行われる習俗があったこと」を明らかにしている。
江戸時代まで普通であったらしい「間引き」(堕胎)についても、
従来のように単純に貧困と生活苦によるものとだけで捉えるのでは
なく、フロイスから見れば「性的放縦」と見える状況から、「未婚の
母」が非常に多かったと言えるわけで、「当時の女性の現実に対する
一つの対処の仕方」であったし、社会的にも黙認されていた。
また当時は「七歳までは神のうち」と言われたように子どもは人間
の範疇に入ってなかったのかもしれないのであり、今の倫理観から
見るわけにはいかない。
この中世の女性像を見ると、現代も根強く続く日本社会の女性差別
の現実(「選択的夫婦別姓」こんなことすら一向に実現しない)は
むしろ歴史的退歩ではないかとすら思える。単線的に「歴史の進歩」
を信じる史観はまさに眉唾でしかない。
これらを考える上でもう少し古の女性像を見ていきたい。
時国家文書(続き)
多角的大企業家
先のジェミニの返答では時国家文書によって明らかになった衝撃
の大きさはほぼ伝わってきませんのでもう少し触れたいと思う。
時国家は武士身分ではなく百姓で、300石の石高に相当する田畑を
持ち大きな農業経営をやっていた。
しかし他方で、大きな北前船を四艘も持ち(それも千石積、八百
石積の巨大な船)、北海道(松前)から佐渡、敦賀、さらに琵琶湖を
こえて、近江大津や京、大阪とも取引をしていた。(一航海で千両を
こえる取引をして、三百両の利潤をあげる船ーサハリンまで行って
いた。上時国家。)
時国家は製塩、炭焼き(山林経営、材木)をやりこれらの商品を
北方に運び、松前などからは昆布などを運んで京、大阪などで販売
する大規模な廻船交易を活発に行い、さらに鉱山の開発、(荘園の)
蔵元の役割も果たし、預かっている米や塩の代金や、交易の利潤を
使って金融業も営んでいた。
時国家は百姓であるが、これを「大規模農業経営者」と規定して
事足れりとするわけには到底いかない。百姓=農民とする常識が
いかに的外れかだが、他方今の歴史学ではこの時国家をどう表現する
かの用語がないのが実情だという。
網野は差し当たり「多角的企業家」とする。
「廻船を営む頭振(水呑)百姓」
さらに網野が愕然とする事実が出てきた。
江戸初期時国家とも姻戚関係にある柴草屋という、大船を二、三艘
持ち日本海の廻船交易にたずさわっていた富裕な商人が頭振(水呑)
ー石高を持たない百姓ーに位置付けられていたことが分かった。
これまで「貧しい農民、小作人」とされてきた水呑(年貢を賦課
される田畑を持たない百姓)が、実は時国家に百両もの金を貸し付け
るだけの資力を持つ商人で、土地を持ってないのは事実だが持つ必要
のない人だったのだ。こういう人も制度的には「水呑」に位置づけ
られるということだ。
またこの時国家の下人(わずかの田地を借りて耕す)友之助が、
実は北前船で千両の取引を自分の判断でやることのできる大船頭
だった、ということが襖の下張り文書から分かった、ということも
あり、制度的な身分(からするイメージ)と実態とは大きく異なる
ことが次々と明らかになってきた。
「村」は農村ではない
奥能登最大の都市輪島(1700年代)について調べると、家数の71%
が頭振(水呑)で、その中には漆器職人、素麺職人、それらの販売に
たずさわる大商人、北前船を持つ廻船人、などがたくさんいたことは
間違いないことで、「土地を持てない人ではなくて、土地を持つ必要の
ない人がたくさんいた」ことが明白になった。
網野は「江戸時代までの奥能登の実態は、港町、都市が多数形成
され、日本海交易の先端をいく廻船商人がたくさん活動しており、
貨幣的富については、きわめて豊かであり、日本有数の富裕な地域
だったとすら言えるのではないか」としている。
「百姓は決して農民と同じ意味ではなく、農業以外の生業を主と
して営む人々ー非農業民を数多く含んでいること」
また江戸時代、実態としては明瞭な中世以来の都市が全て制度的
には村とされていた。
「村にされれば、自ずから検地が行われ、田畑、石高を持つものは
百姓、持っていなければ水呑の身分にされます、、、江戸時代の「村」
は、全てが農村なのではなく、海村、山村、それに都市までを含ん
でいる」(そうした「村」は土地が少ないのだから、当然「水呑」
身分が多くなるわけだ。)
だから網野は奥能登の調査によるイメージの大逆転は能登のみには
とどまらず、列島社会全体に言えることであり、「列島社会が、農民
が人口の圧倒的多数を占める農業社会であったという常識も、自ずと
完全に覆る」として奥能登以外の具体的都市の例を挙げている。
まさにこの発見は「大逆転」であり、近世、中世、そして古代にも
遡る日本社会像の見直しを不可避に迫るものであることは間違いない。