日本中世史 1
日本中世史の大転換
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これはもう15年も前に網野善彦の日本中世史に触れた時に書い
た感想文です。小さな事を除きほぼ再録です。
(だから文中の日時は2010年が基準になります。)
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最近の日本近世・中世史の研究の進展を覗くと、戦後直後生れの者が
習った近世・中世史像とはあまりにもかけ離れていて驚くばかりである。
どれだけ「虚像」を教えられていたのかと思うと嘆かわしい話だ。
しかしこれまでの史学者自体が分かっていなかった(誤っていた)のだ
から何とも仕方がないといえばそうなのだが。
(網野は戦後「進歩的史学者」たちを告発せざるを得ない。)
これはまさに日本的と批評される「立前」と「本音」、表の顔と裏の
顔を使い分け、時の支配者のみならず後世のエセ史学者までも騙して
しまった百姓の勝利(?!)と言える。
これは見ようによってはとても痛快な話となってくる。
最近日本中世史の大転換を主導している学者の一人網野善彦が横井清
とともに編集した『日本の中世6』のなかで次のような話を紹介して
いる。以下引用は同書から。
* 甲斐国都留郡史
(私達は先日都留市駅から御正体山周辺を歩き回ったばかりなのだが、
あの富士急線一帯なわけだ。今でも南都留郡ですね。)
江戸時代のもので『勝山記』(『妙法寺記』)というのがあるそうだ。
これは地元の日蓮宗寺院の僧侶が「生活者」の視点で記した稀有の
記録で、甲斐国都留郡-「郡内領」の状況をつぶさに伝えている。
(『山梨県史研究』10号)
「この地域の河口・吉田は15世紀には・・富士山登拝の道者たちを
「旦那」とする御師たちの集住地となっており・・早くから銭貨の
流通に依存する地域となっていた。
16世紀に入るころ吉田宿は「廿余人衆」という「長(おとな)」たちに
よって運営される自治都市になっており、その近辺の下吉田郷も
「百余人衆」の結集する自治的な郷村だった」のだそうだ。
そして「周囲を山でかこまれ、田畑も少なく交通も不便な
『貧しい山村』と、当時の”知識人”からも見られており、また自らも
役所への公的な訴状で、同様の事情を強調して山村の貧しさを訴えた
この地域の村々は、じつは
江戸へ向けて、商人たちに材木や薪炭、さらに多様な木製品を売却、
桂川などの河川を通じてこれらを輸送することによって、1回の取引で
金数十両から百余両、ときには金3000両をこえる巨額な貨幣の動く
事業を行うほど、林産物の交易を通じて富裕だったのである。」
* 表の顔と裏の顔
「さらに見逃してはならないのは、前者の「貧しい山村」像が役所
への訴状など、保存され伝来する蓋然性が大きく、比較的解読し易い
公的な文書の世界で見せる百姓たちの”表の顔”であり、
後者の林産物を交易する豊かな村と言う実態が証文や帳簿など、
用済みになれば破棄され、ときには襖の下張りとなって偶然伝来する
ような解読にも困難をともなう私的な文書での百姓たちの”裏の顔”
だったこと・・
これはまことに見事なまでの”公”と”私”、”表”と”裏”の使い分けといわ
なくてはならない。
重大なのは従来の近世社会像が、この解読し易く、保存・伝来される
ことの多い公的な文書を中心に、もっぱら”表の顔”に目を向けて描き
出されてきたことである。」
* 常識になっている虚像
「教科書的な”常識”として今も通用している、貧窮に苦しむ百姓
=農民を「生きぬよう死なぬよう」にしぼりあげる専制的な封建
社会という規定がそれであるが、
・・これは全く一面的で、極言すれば”虚像”といいきっても言い過ぎ
ではなかろう。」と網野はいうのである。
これは実に驚くべき話で私達は日本史でほとんど『虚像』を教え込ま
れていたことになる。
そしてよく”日本的”と批評されることの多い、いわゆる「立前」と
「本音」、表の顔と裏の顔の使い分けの本質はここにあったのだという
ことのようだ。
なぜこんなことになっているのかの理由のひとつは、いわゆる
「明治維新」によって権力を獲得した側が、滅びた江戸の社会を悪い
もの、酷いものとして描き出し、その克服によって「新しい社会」が
現前したと宣伝する必要があったことにもあると思われる。
出現したのは近代工業のための資本の蓄積期に見られる血みどろの
社会であったのだが。
これは権力の交替期にはいつも見られる現象といえるようだが、
問題はそれが100年以上も修正されないまま今日に至っているという
ことのようだ。
* 中世史の場合も
「このことは中世の社会についても全く同様でこれまでの中世社会
像は大寺社や貴族の家に伝来した、公的な世界に関わる文書を中心
に描き出されてきた。
しかし破棄された文書ー紙背文書の世界や考古学の発掘成果などを
考慮に入れたとき今までの中世社会像はやはり一面的であることは
明らか」だというのだ。
(続)