日本中世史 4
中世前期の社会に生きる人々
(前期から後期へー南北朝の動乱)
私達が中世の社会を考える上で分かりづらいのが中世(前期まで)
の人々の自然への対し方、接し方ではないだろうか?
確かに今でも私達は常人を超えたすばらしい技能や芸能に「神業」
を見るわけだが、神仏の力を実感しているわけではない。
人によって濃淡はあれ「聖なるもの」は基本的にどこにもない。
* 「聖なる世界」との接点、境界
「中世前期まで、山野河海のかなりの部分は、なお人力の全く及ば
ぬ「無所有」の自然の状態にあり、人間にとって、畏敬・畏怖する
ほかない世界として、その社会に力を及ぼしていた。
自然の力に人間はなおかなりの程度圧倒されていたのであり、時に
社会に及んでくる猛威に対して、人々は多分に呪術的な意味をもつ
神仏の力に依存するほかなかったのである。
このことは西欧中世も全く同じであった。
「この頃の人々はいわば深い霧の中で生きていたようなものであった。
病気や死だけでなく、嵐や不作などの自然現象も当時の人々には理解
不可能な暗闇の世界から突如として襲ってくる出来事なのであった。
こうした事態に対しては供物(贈与)をささげ、神の怒りを鎮めるしか
方法はなかったし、その際には供儀の形式が大変重んじられていた。
初期中世の王はいわばそれらの供儀をとり行う特殊な能力をそなえた
存在であった。」 (阿部謹也、この後西欧中世について学びたい。)
そうしたいわば「聖なる世界」と人間の社会との接点、境界が、海に
ついては浦・浜、川については河原・中洲、山については山根、ある
いは峠・坂であったが、
そのような場がすでに中世前期までに、先にあげたような市、津、
泊、関、渡、また道路、橋、宿、墓所、祭庭などとして人間の社会活動
の中に組み入れられていたことはいうまでもない。
しかしこれらの場には、なお「無所有」の自然、神仏の力が強く投影
しており、定住地として確保された田畠、在家等の場とは明確にその
性格を異にしていたのである。
このような場に、それぞれの性格に即した神ー市神、関の神、渡の神
等が祀られ、しばしば多くの寺院が集中して建てられたことは、その
特質を端的に示しており、
・・そこは垣根などによって囲まれた空間とは異なり、「穢れ」の伝染
しない空間だったのである。
(「穢れ」の伝染を中世の貴族などは殊更恐れた。)
* 神仏の世界との交流
職能民の主たる活動、その生業の営まれた空間は、まさしくこう
した「聖なる場」だったのであり、神仏の直属民として職能民がとら
えられた理由のひとつはここに求めることが出来る。
「聖なるもの」と職能民との結びつきは、このような場そのもの
のもつ「聖地」性のみによるものではなかった。
職能民の活動、その職能に即した行為自体が人ならぬものと結び
ついて考えられていた・・
神の声を語り、常人の知りがたいものの力を知る巫女や陰陽師、
「穢」を「キヨメ」うる力をもつ非人など、呪術的な宗教民の場合は
もとよりのことであるが、遊女や傀儡、猿楽、田楽、獅子舞などの
狭義の芸能も、鍛冶、番匠、鋳物師などの工人の技術も・・当時の
人々は神仏の世界との交流の中でとらえていたものと思われる。
・・それ故に、これらの人々はその最初の演技や産物ー初尾を、
まず神仏に捧げたのである。
神人、供御人の「公事」「上分」・・
売買・交易という・・行為そのものが神仏を媒介とし、その
影響下にある市庭あるいは門前という特定の場においてはじめて
おこないえたこと・・
神人・悪僧の出挙ー金融も・・神物としての初穂の貸与、返却に
当たっての利稲の収取に源流をもつ、神物・仏物である初尾としての
「上分米」「上分銭」の貸与であり、それ故にこうした行為は、神仏に
直属する人によってはじめて行うことができた・・
* 神人・供御人制(じにん・くごにんせい)
神人・供御人制はこのような職能民に対する社会のとらえ方を
根底において形成された王朝国家の制度にほかならない。
天皇家自体が神仏とともに「聖なるもの」として、職能民を供御人
として組織しつづけ、それを自らの家産経済の一つの基礎としただけ
でなく、そこから天皇直属の軍事力を動員する手がかりをつかんだ・・
寺社にとってもそれは同様で、神人・寄人(よりうど)は荘園とともに
その経済を支え、仏事、神事を営むために欠くことのできぬ柱であり、
同時にまた、荘園支配を貫徹し、平民百姓を支配するための実力と
なった・・
「悪」という語が、・・一種の畏怖と畏敬をこめた両義的な意味で
用いられたのは、この当時の人々が、山野河海のタブーにつながる
「聖なるもの」の影をそこに見出していたからにほかならない。
* 聖なるものの転落
南北朝動乱の中で、それまでの「聖なるもの」-神仏、天皇の権威
は低落し、それとともに職能民の存在形態は大きな変化をとげていく。
網野はこの南北朝の動乱が、自然、神仏に圧倒されていた古代、
中世前期と中世後期から近世、近代(現代)までつまり私たちが理解
可能な社会との転機であったとする。
・・職能民のあり方の大きな変化、商工業、金融などの行為の世俗化は、
阿部謹也の強調する、キリスト教の浸透に伴っておこったといわれる
大宇宙と小宇宙の統合によるヨーロッパ社会の変化と酷似する過程と
して網野は捉える。
(この点については「西欧中世史」の方でも触れたい。)
(『日本中世の百姓と職能民』 網野善彦)
日本中世史 3
『日本中世の百姓と職能民』 網野善彦
日本中世の百姓について網野の別の著書からもう少し紹介する。
(一)
中世の百姓が田畠を耕作する農業民だけでなく、多様な生業に従事
する人々を相当の比重で含んでいたことは、
・・田地に賦課された年貢が米だけでなく・・多彩な物品であった
事実によってみても、
また・・田堵(たと)、網人、海人が等しく「百姓」とされた点を考えて
も明らかといえよう。それ故、塩や鉄などを年貢としている百姓は、
・・海民、製塩民、製鉄民ととらえる必要がある。
桑による養蚕、糸・綿・絹の生産、漆を用いた漆器の製作、
柿の果実、さらに柿しぶの利用、栗・・堅果・・材木としての活用・・
養蚕、糸・綿・絹の生産は、百姓の女性が独自に担っており、
その売買、交易も女性によって行われたのである。
(これらは)・・おそくとも弥生時代には確実に開始された・・と
すると・・百姓の女性たちは、すでに1500年の長きに及ぶ技術の蓄積
を身につけていたことになる。
栗と漆の栽培と、栗の材木による家屋などの構築物の建造と漆器の
大量な生産とが縄文時代に遡ること・・5000年をこえるきわめて根深
い技術的伝統に支えられていた・・
中世の百姓の生業は・・多様であり、その生活の中に生きる技術が
根深く長い伝統をもつ水準の高いものだったこと・・
(二)
百姓が農業を含むきわめて多様な生業に従事するふつうの人たちで
あったという事実
・・決して自給自足の農業に専ら支えられていたのではなく、その
生活は中世の当初から市庭と不可分に結びついていた。
13世紀前半までの百姓は、米や絹・布を主に交換手段ー貨幣として、
自らの生産した生産物の少なくとも一部を商品として市庭で売却し、
生活に必要な物品を購入しており、そうした交易なしにその生活は成り
立ちえなかった。
そして米以外の物品を年貢として貢納する多くの荘園・公領の百姓
たちは、・・米とそうした物品を交易する形式か、あるいは米、麦など
を前借し、納期に年貢と定められた物品を納める形で、年貢を貢納し
ていた。
(三)
そして百姓のたやすく求め難い物品を市庭に供給し、百姓自身の
生産物を購入・集荷する商人、手工業者、年貢物を含む商品を広域的
に輸送する廻船人のような職能民の活動なしには、この時期の経済は
動かなかったのである。
(四)
またそうした動きの中で、出挙(すいこ)といわれた初穂物、上分物(*)
の金融を行う金融業の職能民も、年貢の収取の請負、市庭での取引
など、さまざまな局面で不可欠な存在であり、百姓の生活はこうした
各種の職能民と結びつくことによって、はじめて軌道にのりえた。
* まず最初に神仏に捧げた産物や芸能などを初穂、初尾、
上分といった
(五)
さらにこのような社会、経済の状況を前提として、国家や勧進上人
による資本の調達それを通しての職能民・百姓の雇用、大小規模の
土木・建築などがすでに11世紀にはおこなわれていたのである。
(六)
ここにみられた市庭で交易される商品や貨幣、金融や土木建築の
資本は、古墳時代はもとより、弥生期からさらに縄文時代に遡って
機能していたと考えることができるのであり、
実際、・・縄文時代の集落は、自給自足などではなく、交易を前提
とした生産を背景とする広域的な流通によって支えられた、安定した
定住生活を長期にわたって維持していたとされているのである。
とすると、商品・貨幣・資本それ自体は、人類の歴史の特定の段階
に出現するのではなく、その始原から現代まで一貫して機能しており、
人間の本質と深くかかわりのある物と考えなくてはなるまい。
(七)
一方、13世紀後半以降になると、中国大陸から流入した銭貨が社会の
深部まで本格的に浸透、流通するようになり、米以外の年貢は急速に
市庭で売却、銭貨に代えて送進され、14世紀には米もまた銭納された。
そのころ・・多額な銭は10貫文を額面とする割符ー手形で送られて
おり、信用経済が安定した軌道にのっていた。
(八)
また・・15世紀には職能民の職種の分化も著しく進展し、各地の
津・泊をはじめとする交通の要衝には酒屋、土倉、問丸、宿屋などを
中心に、大小の都市が簇生した。
(九)
・・江戸時代の社会は当初から高度に発達した商工業、成熟した
信用経済をもつ経済社会として、大きな発展をとげていった・・
明治以降の近代国家はそうした近世までの社会の中での長年の
厚い蓄積を前提として、初めて存立、発展しえたこと・・
日本中世史 2
中世史の場合 (続)
私達が近世社会について「虚像」を常識として持っていたように
「中世の社会についても全く同様でこれまでの中世社会像は大寺社や
貴族の家に伝来した、公的な世界に関わる文書を中心に描き出されて
きた。
しかし破棄された文書ー紙背文書の世界や考古学の発掘成果などを
考慮に入れたとき今までの中世社会像はやはり一面的であることは明
らか」だと網野は言う。
1、で見た江戸時代の百姓の「表の顔と裏の顔」を使い分ける
「したたかさ」は、中世の百姓のそれを受け継ぎ発展させてきたものに
他ならない。
「14世紀初頭、毎年のように損亡・減免を要求し、生活の苦しさ、
窮乏を東寺に訴えた若狭国太良庄の百姓たちが、実は広い視野を持つ
富裕な人びとで、当時最強の権力、北条氏得宗が地頭となり、領家
東寺の立場が弱化したことを見通して、自らの利を確保しようとして
いたという事態」などにそれはうかがえる。
*中世都市の発掘
とりわけ最近の考古学的な発掘成果は目覚しい。
「草戸千軒町遺跡(広島県福山市)、持躰松遺跡(鹿児島県金峰町)
大物遺跡(兵庫県尼崎市)、安濃津遺跡(三重県津市)、六浦(横浜市
金沢区)、荒井猫田遺跡(福島県郡山市)、そして・・十三湊遺跡
(青森県市浦村)・・」などなど中世の都市が続々と発掘されている。
多分普通は「中世の都市」というだけで、違和感を憶えるのでは
なかろうか?
「いまや中世社会像、さらには「封建社会」の学問的規定自体が、
根本的な再検討を 迫られている・・
しかもそれは、たんに中世にとどまらず・・青森の三内丸山遺跡の
発掘成果によって明らかになったように、すでに縄文時代、「自給
自足」どころか広域的かつ恒常的な交易・流通によって支えられた、
安定的な定着集落がそこにはきわめて長期間にわたって存在したので
ある。」
「・・従来の経済史の”常識”-たとえば狩猟・漁撈・採集経済から
農耕・牧畜、そして工業中心の経済へという発展、あるいは自給自足
の農村が生産力の発達とともに商品貨幣経済の浸透によって分解して
いくという定式そのものが、否応なしに再考を迫られることになって
きた。」
これは決定的に重大な話になってくる。これまでの日本史は事実を
解明するのではなく、こうした定式に当てはまるように現実の断片を
解釈してきたのではないか?ということのようだ。
(これはいわゆる戦後の進歩的史学者たち、つまり戦後を風靡した
「エセマルクス主義=日共支持」史学者たちを告発することでも
ある。)
* 中世の百姓
まず我々が土地に緊縛された隷属農民のようにイメージしている百姓
の実像が全く違うのである。
(これが決定的だが、そもそも「百姓=農民とする常識」が過ちなのだ。
百姓はその名の通り「百つまり実に多様な」仕事を生業とするところ
からきている言葉なのだ。これから解説する。)
「百姓は荘園支配者との契約に基づいて、所定の田畠を請負い、
定められた年貢の納入を請負う、移動の自由を社会的に保証された
自由民であることが明らかにされてきた。
その請負う田数と1反別の負担年貢量=斗代は領家や国守による
検注によって確定されるが、富沢清人氏の明らかにしたように
(『中世荘園と検注』)それは検注使と百姓たちの立会いの下で、
その”談合”によってはじめて公的に確定されたのである。・・・
”談合”の語がこのように古く遡り、請負の確定に関連して用いられ
ていること・・」に驚く。
「・・見落とすことのできないのは、・・荘園公領制の形成期にさき
のような手続きで確定された年貢が、その計数基準とされた田地の
産物-米だけでなく、むしろ全国的に見ると米以外のそれぞれの地域
の多様な特産物であったという事実である。」
「さらにそこで注目しておかなくてはならないのは、百姓自身が
請負、負担した多様な特産物を生産していた事実であり、
漁労、製塩、炭焼、採薪、苧麻の栽培と職布、養蚕・製糸と織絹、
さらに製油、製鉄、採金、そして多様な木器や焼物の生産、牛馬の
飼育等に主として携わる百姓が各地に広く見られたのである。
男女間の分業を含む社会的分業は、このように広く、また深く社会に
浸透していたのであり、後述する職能民の活動がこうした百姓の多様な
生業を基礎としていたことを十分に考えておかなくてはならない。」
* 列島全域に及ぶ交易・流通、都市的な場
これは「荘園公領制の形成期-11世紀後半から13世紀までの時期、
すでに各地域での活発な交易・流通が展開していたことを前提にしな
くては理解しがたい事態であり、
実際に交易の行われた市庭(いちば)をはじめ、各地での流通・交易の
結節点となる場-都市的な場の形成の社会的背景の一つはここにあった
といってよかろう。」
「中世社会とその国制は、その成立の当初から、
列島全域に及ぶ流通・交通と都市ないし都市的な場を不可欠の前提
として動いており、これを自給自足の農村、土地に緊縛された農民を
支配する「在地領主」の支えによって成り立つ「封建社会」と規定する
のは、まったく事実に反する・・」
(『日本の中世 6』)
「まったく事実に反する」とまで言われれば、面食らうのは私だけで
はないだろう。私達は何を教えられてきたのだろうか?という思いと
共に、こうした研究の進展によって確かにその当時生きていた人々の
実際の生活に触れていけると感じる。
歴史は権力の交替変遷のみに矮小化されてはならない。そこで生き
生活していた人びとの息吹を蘇らせなければならないということなの
だろう。(これが網野が最も重視することだ。)
「全く事実に反する」歴史教育が暴かれ、中世社会に生きていた人々
の真の現実が明らかになる、このことは
「中世社会はもとより、古代から弥生・縄文時代に遡り、近世から
近代に降る日本列島の社会のあり方総体を、考え直さなくてはなら
なくなってくる。」ということである。
(『日本中世の百姓と職能民』 網野善彦)