網野「日本」論の盲点 2 | 鬼川の日誌

網野「日本」論の盲点 2

  「歴史の見方」(『「日本」とは何か』・・網野善彦) 続き
                                 


  「日本国」の成立が7世紀半ばから8世紀初頭とするのが既に研究

 者の大方の見解となってきているし、「建国」とかを問題にするならば、

 「この国号の定まった時点とするのが事実に即して当然」といえる。

    * それまでの「倭国」とは?

  しかしこれでは網野にとって「それまでの「倭国」」とは何だった

 のか、それをどう位置づけるのかということが全然明確ではない。
 「倭国」は確かに「日本国」ではない。「倭人」は「日本人」ではない。

  また支配者が同じヤマト王権だったとするなら、「日本国」の成立

 は名前が変わっただけ(「日本」の始まりという意味で画期であるが)

 のことで、倭国時代も含めて、近畿天皇家一元主義になんら手をつける

 ものではなくなるし、決定的な転換点というほどの意味はない。
  
  倭国が自ら名前を変えて日本国を名乗ったのか?そうではなく倭国

 とは別の国家が「日本」を名乗り使者を使わせたのか?
  だが後者の場合は、これまでの「倭国の使者」とは別の使者となる

 わけで、実績がなければ不信に思われるのは当然で、事実そのような

 記述が「旧唐書」などにある。(使者同士の争いもあった様だ。) 

  網野自身は前者の説を取っているようだ。だがここは二つの国が

 別々に使者を送ったとしなければこの時点の矛盾は解決しない。

 ( 数十年に及ぶ列島の代表者争いはとても複雑な経緯を辿ったよう

 だが、その交通整理はとても私の手には負えない。
  『失われた九州王朝』古田武彦などを参照してください。)
  

  まさにこの時点こそが唐・周に対して、「倭国」と「日本国」の

 二つの国の使者が「わが国こそが列島の支配者だ」と争い、則天武后

 が、既に力の衰えていた、そして直前まで敵対(白村江の戦)していた

 倭国に変えて(唐を周に変えたのが則天武后である。)日本国を、列島

 の権力として正式に認めた決定的に大きな転換点だった、ということ

 を解き明かしたのが古田武彦である。
   
  そしてこの日本国の王が近畿天皇家である。だからこの702年に

 初めて近畿天皇家が列島の支配者として対外的にも認められたと言え

 るのである。
  

  
  補足
   
 
  確かに網野の言う論点も問題ではある。
 「縄文時代の日本」とかは、網野の様に「日本人というのは日本国の

 国制の下にある人々」と限定するならそれはありえないし、「あたかも

 縄文・弥生時代から日本が存在し、日本人がいた」かのように言うのは

 おかしいとはいえる。

  現在の国制を所与の前提として、日本、朝鮮、中国の人々と、

 「領土」などを、古代にまでそれを敷衍する明らかに間違った議論を

 するものは多いし、逆にその時代からまた現在の「領土」等の支配の

 正当・不当を云々するものもいるからだ。
  その意味で古代、日本人も、朝鮮人も、中国人もいなかった。
  居たのはその土地に住み着いた人々であり祖先たちである。
 そして国家自体流動的であった時代には、かなり流動的な人々の移動

 があったことを想定しなければならないのである。

  だからまた逆に日本人(アイヌ人、沖縄人)の祖先たちが縄文の

 時代はもちろん、それ以前から列島に生活していたことに何の疑問も

 ない。そして縄文、弥生期にも大陸、その他からの相当規模の人々が

 列島に移り住み、混血が進んで、日本人の祖先が形作られていった

 のだ。これはあまりのも当然のことだ。
  
    * 「日本旧(もと)小国、倭国の地を併(あ わ)す」

   
  近畿天皇家一元主義者たちは、「倭国」はもちろんそれ以前から

 天皇家が列島を支配してきたかのように脚色するのであって、これに

 対して、近畿天皇家の支配する「日本国」は7・8世紀頃に始まった

 のだという歴史的事実を対置しても(それ自体は絶対必要なことでは

 あるとしても)、これだけでは彼等の拠って立つ論拠を掘り崩すこと

 にはならない。

  やはり「倭国」とは何だったのか?この疑問は依然として残る。
 「日本旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)す」とか 、「倭」という名前

 は「雅」ではないので「日本」に変えたのだ、というような「旧唐書」

 などの文書をどう読むかとかいう古代史の難問を、網野は素通りして

 いるようである。そもそも問題として考慮していないのかもしれない。

  「たとえ邪馬台国が近畿にあったとしても」と自己主張を明確にし

 てはいないが、網野もまた「邪馬台国」「倭国」をヤマト王権と見る

 常識を否定はしていないようだ。
 
  これだけの研究者であっても、網野もまた、学者仲間ではない在野

 の古田武彦の研究をまったく無視してしまっているらしい。
 これは実に驚くべきことのように私には思える。

  古田は「魏志倭人伝」の原本を渉猟し、そこには「邪馬台国」では

 なく「邪馬壱国」と書かれていることを実証的に明らかにし、卑弥呼が

 女王であった国が、九州博多湾岸にあったことを証明した


  (『「邪馬台国」はなかった』他多数の著書参照。
  銅剣、銅矛とその鋳型の出土が、そして甕棺と沢山の王墓が、圧倒

  的に博多湾岸に集中しているという考古学的な事実にもそれは

  裏付けられている。)

  そしてその「邪馬壱国」の後継が「倭国」であり、それは九州王朝

 であったことを明らかにした古田の業績を、無視することはもはや出来

 ないと思われるのだが。

   * 九州王朝=「倭国」から近畿大和王権=「日本国」へ

  同じことは天皇号についても言える。「飛鳥浄御原令によって正式

 に大王から天皇に呼称が改められた」とするなら、それ以前の近畿

 大和王権の支配者は「天皇」ではなかった。ましてや初代「神武天皇」

 はありえなかった。
  これはそう言える。しかしこのことは後に天皇とされた歴代の王が

 存在しなかったことの証明にはならない

  (続く)