網野「日本」論の盲点 1
『「日本」とは何か』 網野善彦 講談社学術文庫
(11、6–19、1記「歴史の見方」表題変更、補筆)
日本中世史の研究者である網野の歴史の見方を紹介する。
網野は「自然経済から交換経済、自給自足経済から商品貨幣経済と
いう経済史の”常識”」また「経済史の発展段階とされてきた、狩猟・
漁労・採集経済から農耕・牧畜経済、さらに工業を基礎とする産業経済
へという経済の”進歩”の定式」
などを貫く”進歩史観”を槍玉に挙げる。
「敗戦後の歴史学の中で主流的な見方であった原始社会、アジア的
社会、奴隷制社会、封建社会、資本制社会、あるいはそれと深く結び
ついている、原始、古代、中世、近世、近代という時代区分についても、
・・徹底的に再検討する必要がある」とする。
なぜなら「交易、交換、それを目的とした生産、商品生産は、人間
社会の最初からあったと考えられる。・・「自給自足」の経済生活など、
実態としては決してありえないのであり、これは研究者のつくり出し
た「幻像」といわなくてはなるまい。」
「たとえば三内丸山遺跡をはじめとする縄文時代の発掘成果によって、
すでにこの時期、広域的・恒常的な交易・交換を背景に多くの人口から
なる大集落の安定した定住生活が営まれていたことがあきらかにされた
が、この事実自体、・・これまでの経済史の常識的な図式を完全に打ち
くだいた。」
また「これまでの歴史学は”進歩”の原動力としての農業・工業の発展
にもっぱら目を注ぎ、他を・・山野河海に関わる生業、その産物を原料
とした加工業についてまったく副次的にしか」取り上げなかった。
さらに「従来の歴史はまさしく男性の主導する歴史として描かれて
きた」が、例えば「女性は人類の生活の中で不可欠の衣料生産に、圧倒
的に大きな役割を果たしていた。実際、糸車と織機は世界的に女性を
象徴する道具ではないかと思われる。また、こうして自ら生産した織物
をはじめ・・日本の場合は魚貝や薪炭を持って市場などで売買する商人
にも女性が多く見られる。」
「しかしこのような女性の多方面での活動を、これまでの歴史学は
ほとんど正面からは取り上げてこなかった・・そして老人や子供に
ついても同様のことがいえる。」
「さらに社会の中で差別的な立場を強いられてきた被差別民にも・・
人類史的な視野から差別の要因、被差別民の多様な実態とさまざまな
役割が追究されなくてはならない。そしてそうした人々が社会の中で
果たしてきた積極的な役割、たとえば芸能の世界での被差別民の大きな
役割などにも、立ち入った研究が必要であろう。」
「浅薄な『進歩史観』や『農村中心主義』のために、これまで歴史
学の研究がほとんど無視してきた結果、生まれた空白はきわめて広大
といわざるをえない・・
たとえば、女性、老人、子供、さらに被差別民の社会の中での役割、
山野河海に関わる生業、河川・海上交通の実態、流通、情報伝達の問題
などをあげることができる・・」
これらはいちいち肯ける。こうした視点によって初めて私達が知ら
されなかった真実の歴史を発掘することが出来るといえるようだ。
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この本は「日本とは何か」が主題である。
網野は99年に成立した国旗、国歌法について「この法律は、
2月11日という戦前の紀元節、神武天皇の即位の日というまったく
架空の日を「建国記念の日」と定める国家の、国旗・国歌を法制化
したのであり、いかに解釈を変えようと、これが戦前の日の丸・君が代
と基本的に異なるものでないことは明白な事実である。このように虚偽
に立脚した国家を象徴し、讃えることを法の名の下で定めたのが、
この国旗・国歌法であり、虚構の国を「愛する」ことなど私には不可能
である。それゆえに、私はこの法に従うことを固く拒否する。」
これは網野の戦争体験に根ざした素直な気持ちで、歴史家として
虚偽は許せないとする強い意志を表明している。
そして「「日本」という国号、国の名前がいつ定まり「天皇」と
いう王の称号がいつ公的に決まったかについては、・・研究者の・・
大方の見解は7世紀末、689年に施行された飛鳥浄御原令とするが、
それと異なる見解にしても7世紀半ばを遡らず、8世紀初頭を下ら
ない。
「日本」はこのときはじめて地球上に現れたのであり、それ以前には
日本も日本人も存在しない。(ここで「日本人」というのは「日本国」
の国制の下にある人々・・という意味で使うべき・・と網野はしている。)
それゆえ、「日本国」の「建国」をもしも問題にするならば、この
国号の定まった時点にするのが事実に即して当然であり、実際702
年、中国大陸に渡ったヤマトの使者は周の則天武后に対し、それ
までの「倭国」に変えて、はじめて「日本国」の使者といい、国名の
変更を明言したのである。」
戦前型の紀元節の復活を思わせる「国旗・国歌法」に対してその
虚偽を明確にし(皇紀2600年とか、2月11日などというのは学問的根拠
もない皇国史観丸出しのお話だ)、
「日本」という国名が周の則天武后への「ヤマトの使者」によって
はじめて名乗られた702年が、日本国成立の画期であることを明らか
にすることは大きな意味がある。
「日本国」の成立が7世紀半ばから8世紀初頭とするのが既に研究者
の大方の見解となってきているし、「建国」とかを問題にするならば、
「この国号の定まった時点とするのが事実に即して当然」といえるの
だろう。
( 実はこの議論も、古田武彦の業績を日本史学者が核心を骨抜きに
して、受け入れて出来た見方に他ならないようだ。
つまり日本国は7、8世紀に成立したことは認めるけれど、本家倭国
の衰退に乗じて分家日本国が権力を簒奪して成立したことは認めない。
倭国とは何かを何も明確にしない。)
* それまでの「倭国」とは?
しかしこれでは網野にとって「それまでの「倭国」」とは何だった
のか、それをどう位置づけるのかということが全然明確ではない。
「倭国」は確かに「日本国」ではない。「倭人」は「日本人」ではない。
少なくとも名が違うから意味があるはずだ。
網野は「ヤマトの使者」が「国名の変更を明言した」という。
そのまま読めば実体は同じで、名前が変わっただけと受け取れる。
だが果たしてそうだったのか?
続く。