“迷い”と“願い”の街角で -29ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

最近悩むことが多いです。そんな中、ふと思うことがありました。自分がどれほど、人に「生かされてきた」かということです。家族、親戚、友人、知人、多くの方々に、よくしていただき、楽しい時間を過ごさせてもらいました。


しかし、私は、そのお礼を、ちゃんとできてきたのでしょうか。私はその恩を返すことが出来ているのでしょうか。自分を恥ずかしく思うところです。


多くの人に支えられ、なのに、ついそれに甘えてきてしまったような気がします。本当に楽しかったその思い出を胸に、何らかの形で少しずつ恩返しをしていけたら、と思います。

中学のころだったと思うのですが、国語の教科書で、以下のような趣旨の文章を読んだ記憶があります。


外国で筆者が車で砂漠を走っていたところ、道に迷った現地の人を見かけ、食料と水をあげました。その後、車内で、同行したその国の人が、「あなたは、彼らがあなたに、泣いてお礼を言うとでも思っているのですか? そんなことはありません。なぜなら、ここの人たちにとって、困った人を助けることは当然のことだからです」と言いました。


それを受けて、筆者は文を進めます。「ありがとう」の語源は「有り難し」で、「ありそうもない」ということ。だとすると、「ありがとう」と言うことは、「あなたがこんなことをしてくれるとは思わなかった」ということになり、これは失礼な発言といえる。


記憶があいまいですが、だいたいこんな感じだったと思います。


どう思われるでしょうか。確かに傾聴すべき意見です。相手のために何かをするとき、過度に相手の感謝を期待して行動するようなことは、慎まなければならないでしょう。いつのまにか傲慢な行動に転化することの無いようによう、純粋な気持ちを保つよう務める。ボランティア等をするに当たっては、いい教訓となるのではないでしょうか。


ただ一方で、全く異論の無いわけではありません。


ちょっとしたこと、当然のことであろうとも、それに対して「ありがとう」と感謝することもまた、大切なことではないでしょうか。小さなことにも感謝の気持ちを忘れないこと、それは非常に価値あることのように思います。


これは、どちらが正しい、どちらが間違っている、といえる問題ではないと思います。感謝の気持ちを忘れないことは重要ですが、最初に述べたような側面のあることは、気にとめておいていいでしょう。

「勝ち組・負け組」という格差社会のもたらす価値観が、社会にどのような影響を及ぼすかについては、何度かこのブログでも考えてきました。今回も、その影響のひとつを考えてみたいと思います。


価値観の多様化と格差社会については語られることもままありました。価値観が多様化し、「より大きな経済的・社会的成功をつかみたい」と考えなくなった人が増えたことが、二極化の要因のひとつと言われることがあります。


しかし、本当に価値観は多様化しているのでしょうか。私は、一面ではその通りだと思いますし、一面ではそうではないと思います。


確かに、物質的充実を至上視する価値観から外れる人が多くなったのは事実だと思いますし、社会的にも大きな力を持ちえなくなっているでしょう。そういった価値観から多かれ少なかれ、社会や人が自由になったという意味では、価値観は多様化していると思います。


しかし、他方、ひとつの価値観から自由になること=価値観の多様化であるのか、という疑問があります。価値観は、一人一人がバラバラに持っているのでは十分な力を発揮しえず、ある程度社会的に認知・受容されてこそ、価値観としての「力」を有するのではないでしょうか。そのある程度力を持った価値観が、複数成立することこそ真の「価値観の多様化」というのではないでしょうか。


では、今の社会がそうかというと、力のある価値観というのは見受けられません。そんな社会では、内容面では必ずしも優れているとはいえない「勝ち組・負け組」の価値観でも、対抗する価値観が不在ゆえに、浸透してしまっている気がします。


物質主義の時代が行き詰まりを見せているのは事実であり、また物質主義の負の遺産が顕在化している現在、真の「価値観の多様化」に基づく創造的な社会が必要なのではないでしょうか。しかし、格差社会の深刻化、「勝ち組・負け組」意識の浸透が、多くの人に絶望をもたらせば、真の「価値観の多様化」は阻害されるでしょう。


真の「価値観の多様化」の形成と、「勝ち組・負け組」意識の浸透。どちらが早いか、その勝敗の行方は、未だ見えません。

最近、悩んで気持ちが張り詰めていました。自分が嫌で仕方なくなるような感じがしてました。


今日もややそんな状態で外出。


不意に、とある家の庭から漂ってきた花の香り。ふっと、気持ちが楽になりました。


今も苦しいですけど、前よりは心が軽くなりました。


せめて、花の香りを楽しめる程度の余裕を常に持っていたいと思います。

今注目されている問題のひとつとして教育基本法の改正があります。改正点はいくつかあるようですが、その中でも最も重要なのが、いわゆる「愛国心」を盛り込むかというところでしょう。


日本人としてのアイデンティティを持たせるため愛国心教育が必要とする賛成派、生徒等の思想・良心の侵害や戦前の国家主義教育への反省を強調する反対派が、激しく議論を戦わせています。


しかし、そもそも、法制度の改正によって人間の内心・心情を左右することなどできるのでしょうか。


比較的単純な観念なら可能かもしれません。ある行為を法が禁止することによって、徐々にその行為を「やってはいけない」という感覚が広がることはあるでしょう。しかし、愛国心は、極めて内容が複雑・高度なものであり、そうでなければならないものです。一義的・画一的な法制度や施策がそれを生み出せるかは疑問です。


戦前の例があると言われるかもしれません。しかし、戦前は社会全体が国家主義へと向かっていました。その国家主義が、教育によって、極めて純粋な形で注入されたということはあるかもしれませんが、学校による教育のみがその原因とは限らないともいえるでしょう。


とはいえ、一定の思想を強権的に注入しようとすれば、むしろその「強権性」ゆえに、問題であるのは確かです。思想の貫徹のため権威・権力が濫用される社会は息苦しいことこの上ないでしょうし、そんな不自由な社会から豊かな文化・思想が生まれるとは到底思えません。


私には、思想・良心の自由な形成・発現がなければ、成熟した愛国心は生まれないと思えるのです。


藤原正彦著『国家の品格』では、自由も平等も、絶対王政の崩壊を達成したときに破棄すべきだったと述べられています。それには賛成できませんが、少なくとも、自由・平等は世界の最終的な目標ではないはずです。


自由や平等は、一定の価値観ではあるかもしれません。しかし、自由・平等に「何か」をやれることを保障するのみであり、その「何か」が定まっていないという意味では中身が無いものです。だからこそ、その「何か」を、与えられた自由をベースにして、中身として入れていかねばなりません。


法制度は、その中身である「何か」の形成においては、その形成が容易となる環境を保障することしかできないのではないでしょうか。法制度が、その中身にまで深く入り込みすぎれば、その形成を促す自由な雰囲気をむしろ破壊しかねません。


思想を広め、切磋琢磨し、確かな価値観を築いてゆくのは素晴らしいことだと思います。しかしそれは、自由な環境を保障する法制度のうえに成り立つものではないでしょうか。法制度による高圧的な手段をとろうというのは、議論と切磋琢磨を回避し、むしろ安易な手段へ逃れているようにも思えます。


法制度の効果を過信すること、そして、法制度による権限の発動を濫用すること。それらの弊害は大きいものではないでしょうか。

ヒューマニズムという言葉は耳慣れたものでしょう。しかし、その意味するところ、必ずしも一定ではありません。哲学のことか、ボランティア活動のことか、はたまた、民族救済のための爆撃のことか。


ヒューマニズムというものの具体的な内容は私には分かりません。しかし、それは、人間である以上通用するような普遍的なものを突き詰めてゆく上に成り立つものではないかと思います。そういう共通の土台をもってこそ、相互理解の可能性も出てきますし、それこそがヒューマニズムというものの果たすべき役割なのではないでしょうか。


現代は、特に先進国において、画一的な価値観が通用しない多元化した社会であるということが言われます。そういう状況こそ、見えにくくなっている共通の価値・土台の要素を見出し、洗練されたものへと構築してゆく必要があると思うのです。


絶対的・画一的な価値観が通用した時代の感覚のまま、それをたった一つの真実として行動すれば、どこかで深刻な衝突が起こることになるでしょう。その価値観に合わない人間を理解することができず、その人間の存在すら認められない、排除以外にあり得ないということにもなりかねません。


時代に応じてヒューマニズムの変化するというのなら、その本質は、常に人間というものを率直に見て、突き詰めて考え続けてゆくというところにあるのだと思います。そういった純粋な姿勢を欠き、自分の正しさを証明することに躍起になった場合には、正義の観念も、傲慢な欲望へと転落する危険性があるのではないでしょうか。

私は大体毎週フジテレビのサザエさんを観ていますが、本日放送の「タマのいない日」は、非常に社会批評の要素のある作品だったと思います。


波平の台詞に、「昔は犬や猫に服を着せたりはしなかった。ペットという言葉もなく、犬猫はもっと自由にしていた」というようなものがありました。ペットを可愛がるあまり、いつしか玩具のようにしてしまう傾向を鋭く衝いているのではないでしょうか。


「とにかく昔は良かった」というようなノスタルジーを主張するつもりはありません。以前よりも、動物を大事にしようという社会になったのは、「動物愛護法」の成立を見ても確かだと思います。


とはいえ、そんな中でも問題が無いとはいえないでしょう。愛着を持ちすぎるためか、種々の世話を施し、結果として、相手を束縛してしまうという現象は無いでしょうか。世話の根底にある、「愛情」、「愛着」が、あくまで「自分自身の感情」であることを忘れ去ってしまうと、いつしか相手を考慮しない独りよがりなものになる危険性があるように思えます。


一家がご飯を平らげてしまい、お隣からご飯をもらって、タマにあげるサザエさん。ご近所と、そして猫と、自然に接する様子を描いたそのシーンに、意味深なものを見るのは考えすぎでしょうか。

社会的に問題となる何らかの現象がある場合、その原因が当然探られることになります。そしてそれは、ある人間の個人的な要因であったり、社会システムの問題であったりするわけです。


100%個人的な要因であれば、その人の自己責任ということになるので、簡単な話ですが、隠れた社会的な要因があることも多々あるのではないでしょうか。


従来は個人的な要因からくるといわれていた「ニート問題」について、社会的な要因を指摘する声が大きくなってきました。以前このブログで紹介した本田由紀・内藤朝雄・後藤和智著『「ニート」って言うな!』はその代表的な例の一つといえるでしょう。


個人的要因と決め付けて、当事者を切り捨てる。そのような状況を打破し、社会的な問題を指摘する方向性は、決して間違ったことではなく、とても望ましいものだと思っております。


しかしながら、その議論について、結果的に生じる危険性のある落とし穴があるように思います。


何らかの問題があり、それに苦しむ人がいる。それは社会的な要因である。とはいえ、社会的な要因というものは、一朝一夕でどうにかなるものではありません。では、その人たちが救われるためには、どうすればいいのでしょうか。社会の問題なのだから、どうしようもないのでしょうか。


社会的な要因が大きく、自己責任といえない場合でも、個人としてできることはあるはずですし、その個人としてできることが示されていいはずです。個人の取り組みによる解決の可能性を、わざわざ放棄する必要はないでしょう。


ある意味で、人は生まれながらに不平等です。境遇、事情は人それぞれなのですから、それは当然です。そんな不平等のひとつとして社会的に追い詰められることもあります。自己責任として切り捨てるのではなく、社会的なものだからといって諦めるでもなく、その不平等に配慮しながら個人の努力を暖かく後押しすることは大切なのではないでしょうか。


社会的な要因を指摘する声が、個人の努力を否定するものだなどというつもりは毛頭ありません。しかし、いかんともしがたい社会的要因を指摘することが、個人の努力についての無力感を与えてしまう危険性、それは注意する必要があるように思います。

人間は一人だと、言われます。


一人で生まれ、一人で死んでゆく。双子だって、一緒に生まれるわけではないのだと。


だから、人間は孤独。そんなことは分かりきったこと。それは、確かに、正しいのかもしれません。


しかし、人間が、その合理的で正しい答えを受け入れられるのか、という問題もあります。


その孤独が、合理的に正しくあったとしても、不合理に孤独に苦しむ人間。


それが人間の真実なら、何を正しいというべきなのか、難しい問題です。



最近忙しく、今日は思いついたままを文にしてしまいました。こういった、詩もどきのものも掲載していこうかとも思っています。

「敬意」とは何に対して払われるものなのでしょうか。地位、名誉、金銭、学歴、人徳など、様々な考え方があるでしょう。


ところで、そもそも、「敬意」とは、人格にしろ、知能にしろ、容姿にしろ、「持たざる人」が「持てる人」に対して一方的に払うものでしょうか。だとすると、尊敬を受ける「持てる人」は偉く、敬意を払う「持たざる人」はだめということにもなってしまいかねません。


私は、「尊敬する」ということは「認め受け入れる」ということと深く関わっているような気がします。本当の「敬意」とは、「持てる人」に対して払うことを強いられるものではなく、相手を認め受け入れることから生まれる感情だと思うのです。そうならば、人を尊敬できる人こそ、器の大きな人間と言えるでしょう。


また、自分を否定してしまえば、大きな心で人を受け入れることなどできません。尊敬の念をもつには、まず自分自身を認め受け入れる必要があるのでしょう。


自分を認めるからこそ、他人を認め尊敬できる。その「尊敬」は、形式的で一方的なものでは決してなく、豊かで双方向的な「認め合うこと」につながるのではないでしょうか。