今注目されている問題のひとつとして教育基本法の改正があります。改正点はいくつかあるようですが、その中でも最も重要なのが、いわゆる「愛国心」を盛り込むかというところでしょう。
日本人としてのアイデンティティを持たせるため愛国心教育が必要とする賛成派、生徒等の思想・良心の侵害や戦前の国家主義教育への反省を強調する反対派が、激しく議論を戦わせています。
しかし、そもそも、法制度の改正によって人間の内心・心情を左右することなどできるのでしょうか。
比較的単純な観念なら可能かもしれません。ある行為を法が禁止することによって、徐々にその行為を「やってはいけない」という感覚が広がることはあるでしょう。しかし、愛国心は、極めて内容が複雑・高度なものであり、そうでなければならないものです。一義的・画一的な法制度や施策がそれを生み出せるかは疑問です。
戦前の例があると言われるかもしれません。しかし、戦前は社会全体が国家主義へと向かっていました。その国家主義が、教育によって、極めて純粋な形で注入されたということはあるかもしれませんが、学校による教育のみがその原因とは限らないともいえるでしょう。
とはいえ、一定の思想を強権的に注入しようとすれば、むしろその「強権性」ゆえに、問題であるのは確かです。思想の貫徹のため権威・権力が濫用される社会は息苦しいことこの上ないでしょうし、そんな不自由な社会から豊かな文化・思想が生まれるとは到底思えません。
私には、思想・良心の自由な形成・発現がなければ、成熟した愛国心は生まれないと思えるのです。
藤原正彦著『国家の品格』では、自由も平等も、絶対王政の崩壊を達成したときに破棄すべきだったと述べられています。それには賛成できませんが、少なくとも、自由・平等は世界の最終的な目標ではないはずです。
自由や平等は、一定の価値観ではあるかもしれません。しかし、自由・平等に「何か」をやれることを保障するのみであり、その「何か」が定まっていないという意味では中身が無いものです。だからこそ、その「何か」を、与えられた自由をベースにして、中身として入れていかねばなりません。
法制度は、その中身である「何か」の形成においては、その形成が容易となる環境を保障することしかできないのではないでしょうか。法制度が、その中身にまで深く入り込みすぎれば、その形成を促す自由な雰囲気をむしろ破壊しかねません。
思想を広め、切磋琢磨し、確かな価値観を築いてゆくのは素晴らしいことだと思います。しかしそれは、自由な環境を保障する法制度のうえに成り立つものではないでしょうか。法制度による高圧的な手段をとろうというのは、議論と切磋琢磨を回避し、むしろ安易な手段へ逃れているようにも思えます。
法制度の効果を過信すること、そして、法制度による権限の発動を濫用すること。それらの弊害は大きいものではないでしょうか。