“迷い”と“願い”の街角で -28ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

先日、あるテレビ番組で、生徒の保護者から教員に対する無理な要求が増えているという話が紹介されていました。その中で、「童話の中身を変える」というものがありましたが、そのタイトルを見たとき何のことなのか正直分かりませんでした。


その内容は、生徒の学芸会での役が気に入らないという保護者からの文句であり、一つの事例として、ある幼稚園の学芸会で「桃太郎」をやった際、保護者からの苦情を避けるため、園児全員に主役の桃太郎をやらせたということが挙げられていたのです。


どう思われるでしょうか。可愛い我が子の晴れ舞台なのだからという気持ちを分かる人もいるかもしれません。親バカが過ぎると言う方もいるでしょう。この番組でも、保護者のわがままという趣旨での言われ方がなされていました。


しかし、この事態には、もっと深刻な問題が隠されているようにも思うのです。


劇は、主役・脇役・悪役等がいて初めて成り立ちます。一見、全員に主役をというのは平等かもしれません。しかし、これはある意味、脇役・悪役といったものへの軽視・蔑視ともとれるのではないでしょうか。晴れやかな主役は誰でも憧れるものでしょう。しかし、目立たなかったり格好悪くても脇役・悪役は劇には不可欠であり、それを担うことは非常に大切なことです。


また、学芸会は、学園生活の1コマに過ぎません。その時主役になれなくても、別なところで主役になることもできます。


常に主役でいる必要もなければ、主役だけが重要なわけでもありません。さまざまな役割がどれも重要であり、それぞれの重要性を認識して取り組むこと、それぞれの違った役回りを理解・尊重することこそ価値あるもののように思えます。


社会もまた、花道を歩む人、目立たないところで頑張る人、それぞれの役割があってこそのものです。それぞれの重要性を認め合いながら、自分の立場で頑張れることこそ大切なのではないでしょうか。花道を歩む人ばかりに価値をおき、目立たない立場を蔑視するなど間違っています。そのような社会は決して安定しないでしょう。


全員を花道を歩む主役にしてしまうことは一見平等ですが、その背後には、それぞれ違った役割の重要性を軽視する差別的な見方が潜んでいるように思うのです。

ここしばらく、いじめ、そしていじめを苦にした自殺の問題が再びクローズアップされています。


いじめを苦にした自殺を予告した手紙が相次いで文部科学省に送られた件について、1通の手紙の自殺予告日が本日(11日)であったため、その手紙の消印から投函された可能性の高い東京都豊島区では、警戒態勢が続いているようです。今現在、何か起きたという情報はありません。何よりです。


この手紙の信憑性については、疑問の声もあります。しかしながら、いずれにしても、私は、この警戒態勢をとったことに意義はあると思います。この警戒態勢をとったことは、命を大切にする社会の姿勢を、「この社会は命に価値をおいている」というメッセージを多少なりとも発信することになったのではないでしょうか。


人はその社会の価値観に大きく左右される側面があると思います。社会が命に価値をおかなければ、命を軽んじる行動は当然に助長されるというべきでしょう。今回のことは、豊島区における当の予告自殺を物理的に防止するだけでなく、間接的に自殺一般について歯止めをかける効果を、ある程度果たしてくれるのではないかとも感じます。


イラク人質事件の時には、命という価値に向き合うことなく、自己責任の名のもと税金と命が軽々しく天秤にかけられました。今回は、そういった発想が見られないことに安心しています。小さいことですが、警戒態勢をとった社会の姿勢は好ましいことだと思います。


しかし、自殺を防ぐのには、社会が命の価値を示すだけでは十分とはいえません。「命は大切」のメッセージだけをただ繰り返すだけでは、硬直的な単なるスローガンになり果ててしまうおそれがあります。


以前、公共広告機構でやっていたCMは示唆的でした。


「『命は大切だ』、『命を大切に』。そんなこと何千何万回言われるより、『あなたが大切だ』、誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける。」

今日は、電車に乗って1時間半ほど、秩父方面へ行ってきました。目的もなく、どこへ行くかも明確に決めず、適当な駅で降りてしまいました。いい加減な旅です。


住宅は割と密集しており、比較的新しい家もあったので、山村というのは大げさかもしれません。ただ、コンビニもスーパーもなく、山に囲まれた静かなところでした。


私の自宅からは、秩父方面に出やすく、このような緑溢れた「田舎」には割合短時間で行けます。今までも何度かこのような自然をたずねての小旅行をやってきました。


しかしながら、今回の場所は、いままでとは何か雰囲気が違います。このあまりにも寂しい雰囲気は何でしょうか。高圧電線の通る山から感じる生気のなさなのか、子供たちがいない元気のなさなのか、大きな観光地でないことからくる閉ざされた空気なのか。


原因はわかりません。私の思い過ごしなのかもしれません。それとも、三連休で逆に多くの人が都心部へ出ているのかもしれません。なので、以下、今回の小旅行の過程で考えたことではありますが、それとは一応無関係な話ということになります。


昨今、犯罪予防等に関して、地域コミュニティーの再生ということが言われます。地域のつながりの希薄さが犯罪を生んでいると。一方、それに対して異論も出ています。地域コミュニティーが強かった昔のほうが犯罪数も多く犯罪率も高かったというものです。


一概には言えませんが、閉ざされた地域コミュニティーの中が生活圏のすべてというような状況では、偏狭な考え、息苦しい雰囲気が生まれ、犯罪がむしろ起こりやすくなるという発想もできるかもしれません。そうでなくても、生活圏を広げ閉鎖性を打ち破ってきた歴史の進歩は意義あるものといえると思います。


しかし、現代社会において人のつながりの希薄さが犯罪を生んでいるという考えは、果たして否定されるものでしょうか。単純に昔のような社会に戻せばいいという意見は疑問視されるにせよ、地域コミュニティーが希薄になればなるほど犯罪が減少するということも言えないでしょう。


犯罪の背景にはその時代時代の社会がもつ複雑な事情があるのではないでしょうか。それは単純な図式で割り切れないものに思います。過去に地域コミュニティーの濃密さゆえの犯罪があったかもしれません。そして歴史がそれを打破してきたのなら、それは評価・重視に値します。しかしながら、時代の変化により逆に地域コミュニティーの希薄さが犯罪を招くようになったという考え方もできるのではないでしょうか。だとすれば、時計の針を昔に戻すのではなく、現代に合った新しい地域コミュニティーの創生という発想は、あっていいと思います。

更新がままならず、書きたいと思っている記事がたまっている状態です。なので、やや古いネタになりますがご了承ください。


さて、小泉総理は、公約を守る形で、終戦記念日である8月15日に靖国神社へと参拝しました。国内でも賛否両論渦巻き、外交上の不利益になることは確実な中の断行であり、当然のことながら、説明を求められることとなります。


しかし、私は、参拝後の小泉総理の記者会見に、真摯に説明しようという態度は全く感じませんでした。暴言にも近い開き直りの言葉が散見されたように思います。その中でも気になったのは、「私を批判する方は、つきつめれば中国、韓国が不快に思うことはやるなということだ」というような発言です。


中国韓国による参拝中止の要請が妥当か否かを一度おいておくとしても、少なくとも、「他者の感情を傷つけることはしない」というのはひとつの正義の観念であるはずです。それに反した行動をとる場合、公人であればなおさら、高度の説明責任が問われてしかるべきなのであって、「他者の感情への配慮」を、「迎合」と矮小化してのみ捉えるのには、疑問を感じます。


小泉総理が日本の社会を反映した存在であるという記事は、前にも 書きました。今回の小泉総理の発言にもそれを見てしまうのです。欲望や本音と、それを正当化するために使われる理論が今の日本の社会に広く存在し、正義や倫理というものが熟慮されることがなくなっているのではないでしょうか。


キレイゴトばかりが通用するとは思いませんが、それを失った社会は、果たしてどうなるのでしょうか。不安も過ぎります。

サザエさんについては、前にも一度 書いたことがあります。今回もまた、サザエさんを通して見た社会というようなものについて書きたいと思います。


以前、サザエさんのスペシャルで、磯野家の風呂の進化というようなことが紹介されていました。時代に合わせて、磯野家の風呂も、大きな桶のようなものから、現在のごく普通の風呂に変わっていったのです。時代に合わせて変わるのは当然のことと思われるでしょうか。


しかし、一方で、ユニットバスにまでなる気配はありません。また、乾燥機はおろか、クーラー、ビデオさえ設置される気配がありません。携帯電話を持つ人も誰もおらず、古色蒼然たる黒電話が今なお活躍しています。


私も人生がまだ浅い人間であり、サザエさんを見てきた期間も、時代の流れを見てきた期間も、そう長いわけではありません。しかし、風呂の進化等を見る限りでは、サザエさんが全く時代から取り残されていたとはいえないようですし、また、私が小学生くらいのころまでは、サザエさんは同時代を生きていたような感覚があります。


ひょっとしたら、それまで同時代を生きていたサザエさんは、いつの時点からか、時代の流れから取り残されてしまったのではないでしょうか。今現在のめまぐるしく変わる時代に、サザエさんはついてこれなくなったのではないでしょうか。それに理由があるとすれば、ひとつ、それを見る私たちが望まないからに思えます。


一昔前のもっとゆったりしていた時間、私たちは、その時代に生きるサザエさんこそを求めているように思うのです。それは、慌しい現在に疲れた私たち自身の、その時代への憧れを反映しているのかもしれません。


サザエさんが時代から取り残されたと書きましたが、一面逆かもしれないと思いました。サザエさんはいつまでもあの時代を前向きに生きています。一方で、私たちは混沌とする現在に翻弄され先に進めなくなっているのでしょう。むしろ、私たちこそ、サザエさんに置いていかれているのではないでしょうか。

学ぶというのは楽しいものです。知らなかったことを知る、世の中のことを理解する。素晴らしいことではないでしょうか。


しかし、人は時に、自分の持つ知識や見識を否定されないがために躍起になるような場合があります。意見が対立したとき、考えが食い違ったとき、自分の知を潰されないように必死になります。逆にそれが、知のけなし合い、人格の貶めあいということにもなりかねません。


人は考える葦、人は知的な生き物です。しかし、その「知」は一面的には計れないものなのではないでしょうか。偏差値だけが知ではありません。知識だけが知ではありません。ひとつの議論で自分の意見が否定されたとしても、それすなわち自分の知を否定されたわけではありません。


また、人は絶えず不完全な情報のもとにあります。人が完全な情報の下で100%正しい意見を構築するなど不可能でしょう。「あいつは何も分かってない」というような台詞があります。しかし、では誰が「分かっている」のでしょうか。


自分がすべてを知っているなどということはありません。自分よりも情報をもった人がいるでしょう。そして、その人よりさらに情報をもった人がいるでしょう。環境や状況の違いがあるのですから、それは仕方のないことなのです。


大切なのは、知をもって人を見下さない、知をもって自分を貶めない。知ってるから偉い、知らないから駄目なのではありません。自分なりの価値観を持ち、道を歩むこと。その中で、自分の持てるものを振り絞って考え、そして、謙虚に学び続けることが重要なのではないかと思います。

ご無沙汰しております。忙しさから更新を大分ストップしておりました。申し訳ありません。


そういう訳で、かなり前になってしまいましたが、前回書いた「道州制」とも関わりますが、地方分権というもの、とりわけ、近時の「地方分権」という概念の使われ方について書いてみようと思います。


「地方分権」ということについて、よく言われるフレーズが「地方にできることは地方に」というものがあります。ただ、よく考えてみると、地方に「できる」とはどういう意味合いなのかという疑問があります。国が実施するよりも内容面では劣り、実施する公共団体にも負担は大きいが、国が直接やることが必須ではなく、地方でも一応できないことはないような仕事。これは、地方に「できる」ことでしょうか。


地方分権というと単純に良いことのようにも思われがちですが、移譲される仕事によっては、財政基盤の脆弱な自治体では確実な実施が困難になる可能性もあります。また、自治体ごとに、人口、面積、財政等各々事情が異なる以上、大きな自治体間格差を生みかねない側面も併せ持っているというべきでしょう。


地方分権推進という聞こえのいい言葉の裏側で、国の財政負担を軽くするためだけに、安易な権限委譲が行われることがあってはなりません。地方がその特性を生かすことのできる地方分権のあり方を、地方が「よりうまくできる」ことは何かを、しっかり考えていかなければならないと思います。

多忙のため、久々の更新です。お越しいただいた方々、申し訳ありません。


さて、近時、「道州制」の議論が活発です。一口に「道州制」と言っても形態は様々でしょうが、近時想定されているのは、都道府県を合併しより大きな組織(道、州)にして、国の権限を委譲するというものです。


ところで、話は変わりますが、憲法には「地方公共団体」についての規定があり、そのあり方が定められています。しかしながら、現在「地方公共団体」と呼ばれているものの中には、この憲法上の「地方公共団体」ではないものが含まれています。


都道府県や市町村は、当然憲法上の「地方公共団体」です。ところが、東京23区、これについて最高裁(最判昭和38年3月27日刑集17巻2号121頁)は、憲法上の「地方公共団体」ではないとしたのです。その結果、憲法の規定は適用されず、憲法上の「地方公共団体」であれば長は選挙で選ばれるところ、東京23区の区長は選挙で選ばれる必要はないこととなったのです。


現に一時期、23区の区長は選挙を経ずに任命されていました。現在では、公選制になっていますが、判例上は今でも選挙で選ばれる必要はないこととなっています。


さて、最高裁は、その時、憲法上の「地方公共団体」というために必要な条件を上げ、23区はそれに当たらないとしました。その条件というのが、「事実上住民が経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在し、沿革的に見ても、また現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を付与された地域団体であることを必要とする」というものです。


この判例についても問題はありそうですが、今日は別の観点から考えます。


東京23区でさえ否定されたこの条件、道州制における道や州に当てはまるのでしょうか。いくつもの都道府県を合体させた州に「経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在」するといえるのでしょうか。


そもそも、法律論以前に、今まで慣れ親しんだ県が、他の県と合併するというのは、住民にとっては一大事だと思います。実際事が起これば、様々な実利上の問題が発生するのは当然でしょうが、そこに住む者としての精神面の影響も大きいのではないでしょうか。


そんな大きな問題にもかかわらず、国民レベルでの議論を置き去りにしたまま、政治レベルでの議論だけが軽い雰囲気で盛り上がっているようにも感じます。全国民に大きな影響を与える問題の重さ大きさと、議論される範囲の狭さと調子の軽さのギャップに、非現実性を感じざるを得ません。


「道州制」という観念、言葉だけが浮き足立ってはいないでしょうか。これに限らず、理念や概念だけが、現実から乖離して踊るような議論が多くなされてはいないでしょうか。


転換期にある日本ですが、地に足ついたリアリティある議論が求められているように思います。

私は、都会を離れるときに楽しみにしているものがあります。それは、きれいな夜空を見ることです。都会では見られないような、美しい星空を見ることが出来ます。


ところで、星を見て思うことが、二つあります。人は死ぬと星になる、というようなことも言われますが、確かに、星と人を重ねると、興味をそそるものがあるのです。


一つ目は、地球から見える星の数々は、地球よりもはるかに大きく輝くものであるはずなのに、遠く離れたこの地球上では、かすかな光に過ぎないということです。人もそうではないでしょうか。


手塚治虫作『ブラック・ジャック』に「六等星」という話があったと思います。腕も人柄もよく、もっと輝くべきなのに目立たない医師を思い、ブラック・ジャックは、もっと大きく輝いている星にもかかわらず、ただ地球から離れているというだけで、かすかな光しか見えない六等星に、彼を例えます。


人それぞれ、かけがえのない人生を、自分なりの世界を生きているはずなのに、他人がそれを窺い知ることは困難です。町には、そんなそれぞれの、かけがえのない人生が、世界が無数にあるのに、見えてくるのは単なる人の群れに過ぎません。


二つ目は、人工的な光とにごった空気に星が見えにくくなっている都会の空についてです。


多くの星の光も、とりわけ六等星の光は、そこでは消えうせてしまいます。都会の夜空が都会の社会を象徴しているような印象を持つのは、私だけでしょうか。


皆が忙しく生きている日本の社会ですが、星に思いをはせる余裕は持ちたいものです。それがまた、人に思いをはせることに繋がるようにも感じます。

「メンタルヘルス」という言葉は、誰もが馴染みのあるものになるほど広まったと思います。現代のストレス社会、心の健康を重視しようと生まれた言葉であろうと、私は理解しています。


しかし、最近、「ヘルス」が外れた「メンタル」という言葉を多く聞くようになりました。これは、「メンタルヘルス」を単に縮めただけのものなのでしょうか。私は、そうは思いません。より、深刻な事態が、そこにはあるように思うのです。


「メンタルヘルス」は、先ほどと重複になりますが、心の健康への配慮から広がったものというべきでしょう。そこに伺えるのは、ストレス社会に傷つき心を病める人々への思いやりでしょう。


一方、「メンタル」はどうでしょうか。「メンタルに問題がある」ならいざしらず、心を病む人をさして「あいつはメンタルだ」と言った場合、そこにはどういうニュアンスがあるでしょうか。「メンタルヘルス」という言葉を広めたのとは正反対の、心を病む人への侮蔑のような雰囲気さえ感じます。


心の問題を個人的な要因として問題ともされなかった従来、ストレス社会化によるものとはいえ、「メンタルヘルス」がそれを打破しました。ところが、そこから派生したような「メンタル」という言葉は、劣った存在としての新たな弱者類型を社会に生み出してしまったとはいえないでしょうか。


同じような言葉でも、使いようで毒にも薬にもなります。重要なのは、目指すべき社会を見据え、それを年頭に言葉を使うことでしょう。それがなければ、優しさから生まれた言葉も、知らないうちに凶器となりかねません。


言葉を凶器とする社会は、決して望ましいものとはいえないと思います。