“迷い”と“願い”の街角で -27ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

「自分らしく生きればいい」、「自分らしくあれ」、そのようなフレーズをよく目に耳にします。しかし、「自分らしく」とは、一体どういうことなのでしょうか。「これが私らしさだ」と自信を持って言える人は、どれくらいいるでしょうか。


最近落ち着いてきていますが、一時期非常にはやった「自己実現」というものについても、同じことが言えるように感じます。


「自分らしさ」を求めあぐねて、かえって自分を見失ってしまうというような現象を指摘する声も聞かれ、心の病やニートの問題と関連して捉えられていることも多いです。


結局、「自分らしさ」や個性は、そんなに簡単に捉えられるものではないのではないでしょうか。一人一人違う人生を今まで歩み続けてきたのですから、その所産である「自分らしさ」も、一言二言で語れるものではないと思うのです。


ただ、「自分らしさ」が分からなくても、「自分らしく」生きることはできるのではないかとも思います。「自分らしく」生きるとは、「自分を大切に」生きることではないでしょうか。「自分の心を大切に」、「自分の幸せを大切に」生きていれば、自然と「自分らしく」あれるのではないでしょうか。


自分の外に「自分らしさ」を探しても、結果的に自己否定につながってしまいがちだと思います。自分の内面、感情に素直になること、大切にすること。なかなか難しいことだと私自身感じますが、大切なことだと思うのです。

最近生活環境が変わってテレビを見る機会が減りました。しかし、5月25日(金)にフジテレビで放映された山田太一ドラマスペシャル「星ひとつの夜」は、ついつい見入ってしまいました。


渡辺謙演じる野々山廣治は、無実の罪による11年の服役を終え、孤独に暮らす清掃員。玉木宏演じる岩崎大樹は、自宅で株の取引をして何十億もの大金を動かすものの、人間不信になっている青年。心を閉ざした孤独な者という以外に共通点のないこの2人の交流と変化を中心に話は展開します。


このドラマを見ていて、他のドラマとは違う特徴のようなものを感じました。


それは会話シーンです。どちらか片方がひたすら話し続け、もう一方がひたすら相槌を打ち続けるというパターンがかなり多かったのではないでしょうか。主人公2人の会話シーンでは特に顕著でしたが、他の登場人物との会話シーでも共通していたと思います。


たいていのドラマでの会話シーンは、一方が話し、そしてもう一方が話すというように交互に積み重なっていくパターンが多数といえるでしょう。


ドラマに限らず、昨今はコミュニケーションの時代といわれ、そのようなキャッチボール的会話が望ましいもの、それを超えて出来て当たり前のものという考えもあるように感じます。そう考えれば、このドラマの登場人物たちの会話は、劣等生的な会話なのでしょうか。


そもそも、キャッチボール的会話が唯一望ましいコミュニケーションの形なのでしょうか。


確かに、その重要性はあると思います。今の時代、そういった意見の相互交換と発展・創造こそ求められているというのは事実とも思います。


しかし、それがコミュニケーションの全てだとは思えません。キャッチボール的会話は、一方が意見を言い、それに対して他方が賛否を述べるような形で進むものと思います。しかし、あらゆる物事、賛否で割り切れるものとは限りません。むしろ割り切れないものの方が多いのではないでしょうか。


また、キャッチボール的会話は、自分の意見を言わない従来の日本的やり取りへの批判を背景として、自己主張を求めるものとして出てきている側面があると思います。ただし、自己主張という部分を強調しすぎると、かみ合わないやり取りになったり、場合によっては、お互いが意見を言いっぱなしにしているだけという状況も生まれてくる危険があります。


人の言うことを、肯定も否定もせず受け入れる。それは、人を人として尊重する上で、とても大切なことなのではないでしょうか。今の情報化社会、コミュニケーションの時代の中で、置き忘れられていることが、このドラマにあるように感じました。

転勤のため4月から群馬で一人暮らしをしています。


東京で、しかも実家で生活してきた身なので、当初は、きちんと一人暮らしをできるのか不安がありました。 しかし、「きちんと」できているかは分かりませんが、何とか気楽にやれるものですね。不便もあまりありません。


大きな国道に近い場所に住んでいますが、それでも空気はいいのかもしれません。環境に癒されている感じがします。


個人的な事情もあって、昨年の秋冬ころから精神的に不安定なことが多かったです。それが群馬に来てから大分落ち着いてきました。減ったとはいえ、今でも憂鬱になったりすることはありますが、そんな時でも、どこか安定したところがあるように感じます。


東京育ちの私には、大きくそびえる山を見ながらの出勤は新鮮です。


“迷い”と“願い”の街角で-赤城山「新生活」

ご無沙汰しております。生活環境の変化で慌しくしており、書きたい記事はままあるものの、更新できないでいました。


ところで、やや前のニュースですが、非常に胸の痛むものがありました。


「JR北陸線の富山発大阪行きの特急「サンダーバード」の車内で昨年8月、大阪市内の会社員の女性(当時21歳)が暴行」され、「同じ車両には約40人の乗客がおり、一部の乗客は異変に気付いたものの、植園容疑者にすごまれ、制止できなかった」というものです(2007年4月22日付け毎日新聞)。


インターネット上をざっと見て回りましたが、この事件については、かなり多くのブロガー等が意見を書いているようでした。見て見ぬふりをした乗客への非難も見受けられます。40人もいながら、誰一人通報さえしなかったというのは、あまりにも白状だというものです。


一方で、そのような考えに異論を唱える方々も少なくありませんでした。上記引用にもあるように「40人もいながら」とはいえ、異常に気づいたのはその一部だということ。「異常」は察知したものの、知り合い同士の喧嘩のような事態と判別できなかった可能性があること。自分がその場に居合わせた場合、本当に勇気ある行動がとれただろうか、という声もありました。


多くの目のある公共の場、そのような意味では安全といっていいはずの場で暴行を受けた被害者の心情は、察するに余りあります。今後どれだけ深い心の傷をかかえて生きていかねばならないのか、想像も及びません。


一方、他のブログで指摘する声もありましたが、その場にいた乗客も、大きな精神的なダメージを受けている可能性は大きいと思います。自分が何もしなかったために人が深く傷つく結果となってしまったという罪悪感、それを報道やブログ等で取り上げられたならば、なおさらでしょう。


今回の事件は、被害者や他の乗客に深い不幸を落としているように思います。その「不幸」に、社会の一員たる私たちはどう向き合うことができるのでしょうか。状況さえ把握しきれない中、「たら」「れば」で乗客を非難することが、果たしてそれに適うものなのでしょうか。


ひとしきり話題にされた後、その「不幸」だけが置いてきぼりにならないよう、ただ願います。

今日、あるテレビ番組でフロリダ州沿岸部に生息するマナティが瀕する絶滅の危機と、それからマナティを保護する取り組みについて紹介されていました。


この地域でマナティが減少し、絶滅の危機に瀕している原因は、ボートと衝突しスクリューに体を切られたり、発電所の建設による海中環境の変化があるということでした。


これに対して、マナティを保護する取り組みとしては、マナティが数多く生息する地域についてボートの侵入を禁止したり、生命の危機に瀕したマナティを救助・治療してリハビリさせ海に戻したりということが行われているとのことです。また、全てのマナティに発信機をつけ、生息場所を管理する試みもされているようなのです。


どう思われるでしょうか。マナティを危機に追いやった人間の罪と、それを保護する素晴らしい取り組み、そのような単純なものとは違った別の面があるようにも思います。


マナティの生息地域についてボートの侵入を禁止することはまだしも、マナティの救助・治療・リハビリ、そして発信機による生息場所の管理、これらは、本来野生の生き物であるマナティの生態に、あまりにも深く人間の手を加えるもののようにも感じます。


自然に対して人間が手を加えたために起きたマナティの危機を、さらに人間の手を加えることで解決しようとする。どこか矛盾したものもあるのではないでしょうか。


しかし、では、人間のために絶滅しかけているマナティを放っておくことが望ましいかといえば、そうは言えないのも確かです。


ところで、どこかで目にしたある物語に印象深いフレーズがあります。

「狂った歴史は狂わせ続けなければならない」


人間のために狂ったマナティの歯車、模索は続けられることでしょうが、マナティの絶滅という歯車の停止を避けるため、今は狂った歯車を狂わせ続け、回し続けなければならないのかもしれません。

1月24日付の読売新聞によると、「政府は、『フリーター』らに対する『再チャレンジ支援総合プラン』の一環として、2007年度の国家公務員採用試験から中途採用枠を新設」し、「17~21歳未満が受験資格の国家公務員III種試験(高卒程度、06年度は1274人採用)と同レベルの試験を今年9月、29~39歳以下を対象に実施し、計100人程度を採用する」ということです。


理由として、「就職氷河期」と呼ばれる時期に「就職活動をした現在の30歳代には、定職に就けなかったため、自分の意思に反してフリーターとなった人が多い」ということが挙げられています。


上述の理由が正当なものかどうか、それが議論の焦点にもなりそうな気がしますが、そのような議論にはあまり意味がないでしょう。それ以上に、この記事の記述だけ見ると、施策としての妥当性に根本的な疑問を感じます。


その疑問というのは、ごく簡単なもので、国家公務員III種試験で100人程度を採用することが、2004年の推計で213万人にも上るフリーターの支援にどれほどの効果があるのかということです。


その上、そういった特別な採用枠を設けて試験・採用を実施するには、かなりの手間とコストを要することが懸念されます。


安倍総理の再チャレンジ政策の宣伝的な意味合いはあるのかもしれませんが、個々人にとって社会全体にとって深刻な事態を招くフリーター問題について、同じ手間とコストをより有効に用いることはできないものでしょうか。

人を幸せにできる人間が偉い。そのような趣旨のことを時折耳にします。昨今のボランティアブームの背景には、このような価値観があるようにも感じます。ただし、そのボランティアブームには疑問の余地もあることについては、以前 も記事にしました。


しかし、人を幸せにできない人間よりもできる人間が偉いのでしょうか。人は人を幸せにしなければいけないのでしょうか。


また、人を幸せにするためには自分がまず幸せでなければならない、ともよく言われます。だから幸せでなければいけない、と。


確かに、「人を幸せにするにはまず自分が」ということには一理あります。ところが、上に述べた二つのこと、解釈の仕様によっては、ひどく残酷なものにもなるのではないでしょうか。


人を幸せにできなければならない。それには自分が幸せでなければならない。よって、不幸な人間は、駄目な人間である、と。


私は無理に人を幸せにする必要はないと思います。


幸せな人間が他の人を幸せにするのは何も特別なことではないでしょう。本当の幸せは伝播するのではないでしょうか。自分の幸せが人へと自然に伝わる、そんな幸せのおすそ分けが「人を幸せにする」ということだと感じます。「やってやる」とでも言わんばかりの人助けは、ある程度人の助けにはなっても、人を幸せにはしないのではないでしょうか。


一方、何かに苦しんでいる人、悩んでいる人は、無理せずそれに取り組めばいいと思います。理由のない苦しみなどありません。深い苦しみには、本人さえ気づかなくても、大きな意義があると思います。それだけで十分尊いのではないでしょうか。苦しんでばかりで人を幸せにできないと、自分をさらに追い込む必要はないと思います。


ただし、自分が幸せになる方法の一つとして、人の幸せのために行動するということもありなので、一概に言えることではないでしょう。でも、「幸せ」をめぐって人が不幸になるということは、避けたいものです。

今の日本の社会には問題が山積しており、閉塞感の中にいるといってもいいでしょう。20世紀、とりわけ高度経済成長期に顧みられなかった危険な芽が、一気に顕在化してきているようにも思います。年金、財政、環境問題などは最も分かりやすい例でしょう。


そもそも、20世紀、とりわけ高度経済成長期に、なぜ多くの危険な芽が放置されてきたのでしょうか。私は、未来の企図、10年後、20年後、50年後の考慮を欠いていたためであるように思います。


もう顕在化した数々の難問を前に立ち止まることは許されません。未来をしっかりと見据えた対策が求められています。


しかしながら、今の日本の社会に、未来を見据える雰囲気があるでしょうか。正反対に、未来を放棄した今のみを重視する雰囲気をより強く感じてしまいます。「勝ち組・負け組」や「セレブ」という言葉が広く使われて久しいですが、そのような価値観が「今の重視」を象徴しているような気がしてなりません。これらが、後世において、より良い何かを生むものではないことはないでしょう。


「未来の放棄・今の重視」の原因の一つとして、少子化があるのではないでしょうか。なぜならば、子供を大切にする社会は、その子供が担う未来を放棄したりはしないと思うからです。


地域コミュニティーの崩壊も一役買っているようにも思います。孤立した家族が子育てに悩むケースが多いことは周知のとおりです。地域が一体となり、その地域の子供たちを大切に育てようという雰囲気が、個々の家族を後押しし、また、自身には子供のいない人も巻き込んで、子供と未来を大切にしようという大きな流れを生むのではないでしょうか。


少子化や地域コミュニティーの崩壊が「未来の放棄・今の重視」の風潮を招き、「未来の放棄・今の重視」の風潮が少子化や地域コミュニティーの崩壊を加速化するというような悪循環が生じてはいないでしょうか。


今のみを重視した享楽は、一見愉快でも、本質的には空しいもののように感じます。逆に、未来に希望をもち、後世に残し、託すべき何かができるのであれば、人は謙虚に、真の喜びをもって生きれるのではないかと思うのです。

最近は生きにくい世の中であると言われることが、ままあります。では逆に、生きやすい世の中とは、どのような世の中なのでしょうか。


様々な考え方があるでしょう。何に「生きやすさ」を感じるかは人それぞれとも言えるかもしれません。


私が思う「生きやすい世の中」の条件の一つは、「本当に大切なことが大切にされている世の中」です。


命、心、自然、これらのように、ほとんどの人が大切だと言うものがあります。しかし、今の世の中は、本当にそれを大切にしているのでしょうか。


命について言えば、殺人事件など例外的な場合のみならず、社会一般に本当に命を重んじる風潮があるでしょうか。


一方で、よくよく考えればどうでもいいことに、左右され、踊らされ、苦しめられているような気がします。


本当に大切なものについて苦しむとき、それは前向きな苦悩にもなるでしょうが、どうでもいいことに悩まされ苦しめられたとしたら、それこそ後ろ向きにしかなれないのではないでしょうか。


本当に大切なものを感じられる、そのために生きられる、当たり前のように思えるこのことが、今の社会では想像以上に難しくなっているように感じてしまうのです。

「人間は戦わずにはいられない生き物である」というフレーズを目にすることが、ままあります。確かに、その通りかもしれないと思います。


人間が自分を高め、よりよく生き抜き、そして社会を発展させてゆくためには、競争や闘争が必要なのかもしれません。そして、人間には、そういった競争や闘争に適した傾向があるようにも思います。このことは、日本の社会の悪平等性を批判し、競争原理のさらなる導入を取り入れよという主張の根拠にもなりえます。


しかし、格差・貧困、差別、戦争など、過度な競争原理の導入が社会にもたらす負の側面も無視できるものではありません。


競争・闘争は、目的、対象、手段を適切に見極めたものであるべきだと思います。


競争・闘争の対象は誰か。特定または不特定の人かもしれません。あるいは、「貧困」や「暴力」など、人でないものが戦う相手かもしれません。


いかなる手段による競争か。武器を持って争うのか、成績や業績で競うのか、あるいは夢の実現で競争するということがあるかもしれません。


そして、そもそも、何のために競争・闘争をするのか。自身の名誉のため、家族のため、社会のため。様々なことが考えられます。


これらの、目的や対象、手段が適切でなければ、競争・闘争も有害となるように思います。目的を見誤り、対象を間違い、不適切な手段を選択すれば、その競争の果ては、自己や社会の発展はおろか、破滅が待っているのではないでしょうか。


競争や闘争を至上視せず、やみくもに勝つことばかりを追い求めず、何のために、何と、どのように戦うのか。それを真摯に、冷静に判断しなければならないように感じます。