“迷い”と“願い”の街角で -26ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

図書館でふと目にとまり、石井めぐみ著『笑ってよ、ゆっぴい』を読みました。生まれながらにして重度の脳性マヒを負ってしまった子供を育てる母親が綴った手記です。


生まれてきた我が子が重度の脳性マヒであると分かったときの苦悩、訓練してもうまくいかず、病状の悪化に治療の繰り返し、周囲の人の温かさに支えられながら、著者は「答え」ともいうべき生き方を見つけ出していきます。


「私のやるべきことは、優斗を健常児に近づけることではない。

 優斗に、あたりまえの楽しい生活をさせてあげることだ。

   ・・・

 なにごとも、無理のないように、つらいことはなるべく少なく、楽しいことをできるだけいっぱい。

 優斗の好きなことを、とにかく探そう!

 優斗だけに没頭したつもりになって、自分自身から逃げてはいけない! 自分を見失ってはいけない! 優斗も私自身も、もっともっと自分の世界を広げなくては!」


誰にだって超えるのが困難な壁、越えられない壁はあります。それは、障害者と呼ばれる人だって、健常者と呼ばれる人だって同じです。そんな意味では、誰もが多かれ少なかれ「障害者」なのかもしれません。多くの人に支えられながら社会生活を送っているのは、「健常者」も「障害者」と同じであると著者が指摘するところです。


「壁」が立ちはだかる現実を否定して、無理に越えようとしたり、突き破ろうとしたりして苦しむよりも、現実を受け入れた上で、自分なりに輝くこと、行くべき道を探し、進むこと。それは、誰にとっても大切なことなのではないでしょうか。


ところで、バリアフリーやノーマライゼーションという言葉が浸透した今日でさえ、「障害者差別」という言葉は、まだ消え去ったものではありません。誰だって人に支えられて生きている、それを忘れることが障害者差別の温床の一つであるとしたら、そんな社会は、誰にだって居心地の悪いものでしょう。障害者差別の問題は、社会のあるべき姿として、社会の生きる人間全てに影響する問題なのだと思います。


「物事に行き詰まった時、落ち込んで前に進めなくなった時、どうぞ、優斗たちのことを思い出してください。優斗たちの生き方そのものが、私たちが忘れかけている大切な何かを教えてくれるかもしれません。

 急がないで! 焦らないで! 立ち止まってゆっくりとまわりを見わたしてみようよ。

 優斗たちの目は、いつも、そう語りかけてくれています」



石井 めぐみ
笑ってよ、ゆっぴい

先日、ロビン・ウィリアムズ主演『パッチ・アダムス』をDVDで観ました。「笑い」によって患者を癒すという理想の医療を追求する医者(医学生)を描いた映画であり、実話に基づくものです。


最初の感想として、非常に様々な要素・側面が盛り込まれた話だと思いました。パットのユーモアやジョークもさることながら、患者や恋人に降りかかる悲劇とパッチの悲しみ、医療界の現実とパッチの崇高な理想そして業績、それらが絡み合って一つの話を形作っています。


「笑いあり、涙あり」と表現も出来ますが、ややニュアンスが違うかという気もします。実在のパッチ・アダムス氏が「僕の人生は面白く楽しいものだけではないんです。おかしさや楽しさだけに、笑いを使っているのではなく、それは目的の手段として使っている」と言っているとおり(http://www.rsk.co.jp/attochannel/report_adams/ )、これは、医療界の問題や患者の悲劇に対して、高い理想を掲げ「笑い」を武器に闘いを挑む話なのだろうと感じました。ただ、実在のパッチ・アダムス氏は、その部分の描き方に不満をもっているようですが(上記URL参照)。


また、DVD特典として付いていたフィリップ・シーモア・ホフマン監督のインタビューに共感する部分がありました。「現代の人は、人に何かを与えるより、むしろ何かを得ようとしている。しかし、パッチは見返りのない無償の奉仕を行った。だからこそ、見返りを求める医者や弁護士はパッチの行動に脅威を感じた。でも、実は、パッチのような生き方が本当に自由な生き方なんだ」と、記憶が定かではないですが、大要こんな感じだったと思います。


医者や弁護士が求める見返りというと、財産もありますが、地位や名誉、権威といったものがあるでしょうか。これらの職業に限りません。一見奉仕的に見えて、いえ、奉仕的な要素が強い行動であれ、その実見返りを求めている場合は多いものです。「愛」や「感謝」が見返りとして望まれる場合もあるでしょう。ある意味当然の思いともいえ、一概に否定も出来ません。


しかし、それがゆえに人を傷つけたり、苦しめたりするようなことがあれば、問題といえるでしょう。そして何より、見返りに執着するあまり、その見返りが得がたい場合に大きなストレスを抱えてしまうという苦しみを本人も受けてしまう危険性があります。さらに、そのストレスが見返りへの更なる欲求、そして他者への無理な要求へとなれば、悪循環にもなりかねないのではないでしょうか。


他人に見返りを要求せず、自分の理想のため、自分に出来る範囲で、自分のやりたいことをやっていく。他人を振り回すことも、他人に振り回されることもない、本当に自由な生き方といえるでしょう。それは、簡単なことではなく、苦しみも伴うでしょうが、他者からの見返りに躍起になって苦しむくらいなら、むしろ楽な道なのかもしれません。


パッチ・アダムス
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大学時代の恩師が、節目節目によく言った言葉があります。それが「人を相手とせず、天を相手とせよ」であり、西郷隆盛の言葉をほんの少し変えたものとのことです。


時に人は嫌な相手と接しなければならない時がありますが、それが世の中のためと思えば何とかなる。目の前の嫌な相手ばかり見るのではなく、その相手の背後にある、より大きな天を見ることが大事だと、そのような意味合いで使われていたと記憶しています。


このことは、嫌な相手と接する場合に限らず、大切な教訓として当てはまるものではないでしょうか。


先のイラク人質事件は極端な例にせよ、人が死んだとき、苦しんでいるとき、特にネットで、「自業自得」や「お前が悪い」などという言葉が安易に投げられている気がします。また、何か問題が起きたとき、「誰が悪いか」ばかりに議論が終始して、人を責めることばかりに熱中している状況があるように思うことがあります。


しかし、社会の幸福を考えたとき、より大きな「天」を考えたとき、それでいいのでしょうか。


自業自得だろうと何だろうと、人は幸せな方がいい、幸せな人が多い方がいい。人を責めることに終始するより、深刻な問題から社会や人を解放する方法を考えた方がいいはずです。綺麗事かもしれませんが、難しいことかもしれませんが、「天」を念頭に置くだけでも、何か変わるような気がするのです。

以前友人の自動車の中でたまたま聴いていたラジオ番組でのことです。


リスナーからの次のような投書が紹介されました。

「スーパーでレジ待ちをしていた時のこと、穏やかそうな壮年の男性が弁当を購入していました。店員が『お箸はお付けしますか』と尋ねたとき、その男性の表情が豹変し、『俺に手で食えって言うのか?』と店員を怒鳴りつけました。」


それについて番組では、「奥さんに逃げられて1人で弁当買って食べるしかなく、イライラしていたのかな」などと話が進んでいました。ただ、司会の方は、「実は僕も『お箸はお付けしますか』って聞かれるの嫌いなんですよ。箸が不要なときはそう言うから、そうでないときは黙って付けてほしいんですよね」とも言ってました。


これに限らず、私も、店員さんに「こうしてくれればいいのに」と思うことはあります。ただ、それは個人的な感想であり、どういう対応が「正しい」かは一概には決められないでしょう。いえ、そもそも、この程度のことは店員さんの自由に任させしまってもいいのではないでしょうか。


ネット等では、常に色々なことが議論されています。議論はいろいろな考えを知り、自分の考えを発展させていく上で重要なことです。ただ、些細なことについて何が「正しい」のか議論しすぎることには疑問も感じます。


何が「正しい」のか考えるということは、前提に「たった一つの正解がある」という発想があるのではないかと思うのです。些細なことについて、何が「正しい」のか突き詰めすぎると、一挙手一投足について「正解はたった一つ」ということになってしまうのではないでしょうか。皆が、生活の全てにわたって、「たった一つの正解」を忠実に遂行しなければならないとしたら、あまりに息苦しいものになってしまわないでしょうか。


『鈍感力』という本が売れ、「空気を読め」というフレーズの息苦しさが指摘されている今日、マナーは何のためにあるのか、「何が正しいか」という議論をそもそも「何のために」やっているのか、肩の力を抜いて問い直してみてもいいのかもしれません。

フジテレビで10日、11日二夜連続で放送された『千の風になってドラマスペシャル・はだしのゲン』を見ました。命を、健康を、家族を、家を、町を、そして人間としての尊厳を奪いつくす原爆という化け物、やはり「しょうがない」では片付けられません。


多くの人間の命を奪う事象は多々あります。災害、交通事故、病気、そして犯罪。戦争ばかりを悲劇の代名詞として取り上げることに批判的な声を聞いたこともあります。


では、他の事象と戦争に区別されるべき点はあるのでしょうか。


よく聞かれるのは、不可避的な自然災害と異なり、戦争は国家が意図的に引き起こすものだという意見です。戦争を「国家的犯罪」ととらえる見方というべきでしょうか。この見地について、次のような側面から表現することもできるのではないかと思います。


災害や交通事故、病気、これらは、不可避の事象かもしれません。しかし、それによる被害は、本来的にはあってはならないものとして、防止に努められます。それによって奪われる命を尊いものとして、救われるべきことに異存は挟まれません。国家としても同じで、せいぜい対策をめぐるあり方が議論される程度です。


しかし、戦争は違います。戦争は、国家が積極的に、「正義」の名のもとに行います。それによる犠牲は、「あってはならないもの」ではなく「しょうがない」ものとされます。あるいは、当然払われるべき犠牲として「奨励」や「強要」さえされます。


国家が積極的に推進する「死」としては、他に死刑があります。しかし、死刑と戦争では決定的に違うと思うのです。それは、死ぬ者に罪があるか否か、人数が多いか否かに止まりません。死刑は、生命を奪う極刑ですが、それがゆえに重大な刑罰として扱われ、死刑判決は慎重になされることでしょう。反面、戦争による犠牲は、国益という目的のため、その手段の過程で生じます。その「死」は「目的」でさえありません。戦争が「命を軽んずる」所以ではないでしょうか。


不幸、苦しみ、誰にとっても辛いものです。しかし、その「不幸」や「苦しみ」を、「しょうがない」「当然」として、軽視されたり、正当化されたりすることは、もっと辛いことなのではないでしょうか。


戦争に限りません。辛い時、苦しい時、それをさらに増幅させるのは、「自分が悪い」「自分のせいだ」という自責の念や、「自分さえ我慢すればいい」「苦しむ方がおかしい」という感情に蓋をする意識ではないかと思います。それを他人から言われれば、悔しい、辛いことでしょう。


悲しいことですが、人の世から苦悩は消えません。しかし、それに抗うことはできます。戦うことはできます。その「抵抗」こそ、人間の務めではないかと思います。「よりよい世の中」を考えたとき、この世に正当化できる苦悩などありません。誰のどんな苦悩だって、解決すべき課題です。誰だって、幸せであるのがいいに決まっています。幸せな人間が一人でも多くなることが、「よりよい世の中」を導くことは自明です。


できる範囲でいいのです。ただそれを目指すだけで、抗うだけで、世の中は大分救われるのではないでしょうか。

以前は極めて高い社会的地位をもち、誰からも尊敬されていた職業がありました。大臣、裁判官、医者、そして教師などが挙げられるでしょう。しかし、今日、それらの職業の権威は崩壊の一途をたどっているように思います。


いずれの職業でも不祥事と呼ばれるものが相次ぐばかりでなく、その識見等への疑念までが取りざたされています。医者や教師にいたっては、患者や保護者からのクレームの嵐に、権威どころか、人としての心さえ傷つけられてしまうケースも多くなっているように見えます。


この権威の低下は、本当にその職についた人々の落ち度なのでしょうか。確かに、信じられないような不祥事等もあります。しかし、昔はそれらはなかったのでしょうか。また、医療や法制度など、分野全体としてみれば発展を続けていっているのは明らかだと思います。そうであるなら、本当に彼らの能力は低下しているのでしょうか。


これについて、以前、興味深い見解を目にしました。教師に特化した内容ではありましたが、親の高学歴化が大きな要因とするものです。すなわち、高等教育を受けられる者が少数であった時代は、高等教育により得た学識が大きな権威となっていたが、多くの人が高等教育を受けるにいたった現在、相対的に教師の権威が低下した、というような内容だったと思います。


高等な教育等により自負や自己実現欲求を身につけた人間にとって、ひれ伏すべき権威を認めることはそのプライドが許さなくなったということでしょうか。


ここで、全く関係ない話をするようなのですが、私は小さいころ、ウルトラマンをよく見ていました。再放送の初代のウルトラマンを一番多く見たと思います。


私は昭和ウルトラマンシリーズでは、その最初のウルトラマンが一番好きでしたが、その後の作品はそれほどまでは好きになれませんでした。その理由のひとつが、ウルトラマンの「権威低下」にあるような気がするのです。


ウルトラマン及びウルトラセブンの最初の2作では、他のウルトラマンが登場せず、ある意味唯一無二の超人でした。それが、作品を重ねるにつれて登場するウルトラマンが増え、人間関係のようなものがウルトラマン同士にできてきます。ウルトラマンタロウに至っては「光の国ではウルトラ兄弟の末っ子で甘えん坊」などという設定がなされ、兄のウルトラマンたちに説教される場面さえありました。そのような「現実くさい」要素は、無敵の超人のイメージとは相容れなかったような感じがするのです。


平成になってから新しいウルトラマンシリーズが製作されましたが、昭和のウルトラマンシリーズとは関係のない、世界観が全く違うものでした。


そんな中、去年から今年にかけて放映されたシリーズ最新作、ウルトラマンメビウスは、四半世紀ぶりに昭和ウルトラマンシリーズの世界観を受け継いだ作品であり、懐かしさから、この年で時々つい観てしまいました。


最初の感想として、ウルトラマンの「権威低下」の極みという印象でした。メビウスは、M78星雲の宇宙警備隊のルーキーで、戦い方も未熟、自分の力で地球を守りたいと思う地球防衛チームGUYSの一員からは疎ましがられる始末です。未熟なルーキーが苦労を重ねて成長するような、古めいたスポ根ものの雰囲気さえ感じ、あまり面白いとは感じませんでした。


しかし、何度か見るうち、別の側面に気づきました。未熟ながらも強いウルトラマンメビウスと、力をつけ自我を強めてきながら未だ力及ばない人類が、共に助け合いながら戦う物語という要素です。それを示すかのように、従来の作品にはなかった点として、物語の途中で、GUYSのメンバーはメビウスの正体に気づきますが、それ以降、より協力を深めて戦っていきます。無敵の超人ウルトラマンと助けられてばかりの人間という構図から脱皮し、進化した人間とウルトラマンの絆と協力という、新たな関係を描いたものだと感じました。


ここに、専門的な職業と、素人とされる人間の新たな関係へのヒントがあるように思いました。複雑多岐にわたる現代社会では、専門性が必要とされる一方、専門家といえども、完璧を要求することは難しいといえるでしょう。専門家も素人も、同じ人間であることに変わりはありません。同じ人間として互いを尊重するとともに、それぞれの立場で謙虚に協力し合う。人、社会の幸せのために、協働する。それもひとつの答えなのではないでしょうか。


それにしても、子供向け番組とはいえ、侮れません。メビウスの終盤の話で、このようなものがあります。GUYSのメンバーが人質になり、町を破壊する怪獣と本気で戦えない残りのGUYSとメビウス。街の人は、そんな彼らを非難し、「市民と仲間どっちが大事だ?!」「人質になんかなりやがって、恥を知れ!」と罵ります。現実世界でも、心あたりのある光景ではないでしょうか。メビウスは、「地球に来てこんなに恐ろしいと思ったことはありません」「僕たちは何のために戦ってきたんだ」と苦悩します。この話では、市民はGUYSの思いを理解し、GUYSとメビウスを応援し始めますが、現実世界ではどうでしょうか。大人こそ学ぶべきことが、ここにあるような気がします。

「失敗したっていい、思いっきりやりなさい」


そのような趣旨のことを、特に学校で、一度は言われたことがあるのではないでしょうか。私もこれまでに何度か聞かされたフレーズです。


しかし、正直なところ、私にはよく意味が分かりませんでした。


失敗はしないほうがいいに決まっている。失敗を重ねて成功にたどり着くと言うけれど、成功までの失敗が成功よりも大きかったら、社会の他の人に結果的には迷惑をかけてることになるんじゃないのか。そう思っていました。人に迷惑をかけたくない、そう思うと、失敗が怖くて仕方ありませんでした。


大学を出るころまで、失敗らしい失敗はしてこなかったと思います。「しっかり者」と言われるようになりました。しかし、一面、「思いっきり」何かをするというような経験はほとんどありません。失敗しないよう、小さいことに神経を使い、それだけで精一杯でした。それくらい失敗することが、他の人の期待を裏切り、失望させ、迷惑をかけることが怖かったのです。


反面、「失敗らしい失敗をしていないしっかり者」の自分に自負もありました。そして、心のどこかで、失敗する人間と自分を比べての優越感を持っていたのかもしれません。他人の失敗で多少自分に被害があっても、私は比較的寛容だったとは思うのですが、その優越感がそうさせていたのかもしれません。


しかし、社会に出てからは、うまくいかないことの方がはるかに多くなりました。それまでの自負は簡単に壊れ、劣等感が強くなるようになりました。月並みですが、「自分って何だろう」という疑問が頭をめぐります。自分の本当にやりたいことが分からない、自分の本当の感情・気持ちさえ分からない、そんな状態になりました。一番ひどいときは、いつもフワッとした感覚を持ち、思考がほとんど止まって何も考えられない時もあったほどです。


その後、環境が変わり、何冊か本を読み、自分に巣食う問題に気づき始めました。


自分には限界がある。大したことはできないかもしれないけれど、その限界を受け入れて、でも、自分にできることをやっていこう。少しずつ、そう思うようになってきました。ただ、まだそう思い切れず、苦しむことのほうが多いですが。


ある程度他人と調和を保っていれば、自分の人生を輝かせること、幸せになること、それを第一にしたっていいはずです。むしろ、自分が幸せであって、そのゆとりがあって始めて、他人を大切にできる、他人に幸せのおすそ分けができるのです。そうであるならば、自分が苦しければ、自分の幸せを最優先したって、決してわがままではないと思います。


そう捉えたとき、思いました。何回失敗しても、幸せと思えるところにたどり着ければよい、と。自分の人生、自分の幸せを何よりも重視したとき、「失敗したっていい」という意味が分かったような気がしました。


モラルがないといわれる社会、せちがらいといわれる社会、自己中ばかりの社会と謳われて久しく、規範意識等の重要性が繰り返し主張されています。しかし、それよりもまず、皆が自分の幸せを最優先し「ゆとり」を持つことが、今の社会を救う第一歩であると同時に、何よりも効果の上がる方法だと思うのです。


6月14日読売新聞の教育ルネッサンス「ネット モラル(13) フリーライター・渋井哲也さんに聞く…間違いながら学ぶ知恵」で渋井氏は「いまも昔も、子供は、失敗することで、何が悪いか学びながら成長する。なのに社会は間違いに対する寛容さがなくなっている。家庭や友人関係、学校、会社など、現実世界の中に、自分が自然に落ち着いていられる場所がない。・・・そんな生きづらさを感じている若者は、薄く広く、潜在的に存在する」といいます。


話はちょっと変わりますが、TWO-MIXの歌『LAST IMPRESSION』に印象深いフレーズがあります。「過ちをこえて、気づく真実(ほんとう)のやさしさ」。


過ちは過ちであり、過ちを過ちとして認めないのでは意味がありません。しかし、自分の過ちを認め受け入れられれば、他人の過ちにも寛容になれる。自分の幸せと他人の幸せにとって、よりよい未来を企図できるようになるのではないでしょうか。それは社会についても、同じであると思うのです。

今月8日、東海道新幹線小田原駅で、JR東海の社員が新幹線にはねられて死亡しました。遺書らしきものが見つかっており、自殺と考えられています。


事件の後、JR東海が記者会見を行いましたが、「鉄道マンとして起こしてはならないこと。こちらの原因でダイヤが大幅に乱れたことをおわびしたい」と述べました。


上記のコメントですが、どうにも違和感を感じてしまいます。鉄道マンとして、電車の安全・円滑な運行を確保するのは当然のこと、そう考えれば筋の通らないコメントではありません。


しかし、単なる不祥事とは違います。30歳という若さで1人の人間が自ら命を絶ったのです。それ自体、大きな悲劇です。数で計るべきものではないかもしれませんが、日本の自殺者数は平成10年以降、毎年3万人を超えており(平成18年度は3万2,155人)、大きな社会問題となっています。国を、社会を挙げて防止に取り組まなければならないものとして「自殺」を捉えたとき、「鉄道マンとして起こしてはならないこと・・・ダイヤが大幅に乱れたことをおわびしたい」というコメントには釈然としないものがあります。


また、他方、人間も生物である以上は生きるということを本能としているはずなのに、それを踏み越えて自ら死ぬということは、よほどの要因がなければありえないのではないでしょうか。自殺者の多くは、精神疾患を抱えていたという指摘もあります。冷静な判断や行動を求める方が無理といえるでしょう。それができるくらい余裕があれば、自殺という不幸な結末には至らないように思います。


「自殺」に関して、次のような趣旨のことを、誰でも1度は聞いたことがあるのではないでしょうか。「死にたければ、勝手に死ねばいい。でも、他人に迷惑をかけないようにやってくれ」。そのような他者に関心を払わず、命を軽んじる社会の風潮が、上記のようなコメントをJRに言わせ、自殺者の背中を押しているように感じてしまいます。


好きで自殺する人間などいません。好きで苦しむ人間などいません。誰もが苦しい今の時代、だからこそ皆が、自分を大切にすることでゆとりを持ち、そのゆとりの範囲で寛容な対応ができるようになればと思います。

「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」


この発言が発端となり、7月3日に久間防衛大臣は辞任に追い込まれました。発言当初より、安倍総理のある程度の擁護を除いては、被爆者団体、野党はもちろん与党内からも大きな批判を浴びました。


確かに、今回の久間発言は不適切なものであったと思います。しかし、今回の発言から辞任までの騒ぎには、何か空虚で違和感のあるものであったとも感じるのです。


そもそも、今回の発言を糾弾し大臣を辞任に追い込んだ一方で、今の日本は、それほど核というものに対し毅然とした態度をとっているのでしょうか。政府・市民ともに、核に対する重い認識があったのでしょうか。


昨年10月、中川昭一自民党政調会長が、日本の核兵器保有に関する論議に理解を求める発言をした際、そこまで大きな騒ぎにはならなかったように記憶しています。また、安倍総理も、官房長官時代の2002年、早稲田大学の大隈塾という授業において、日本が核兵器を保有することは、憲法上禁止されていないと述べています(憲法上禁止されていないが、政策上保有はしないと言ってはいましたが)。


核の脅威・悲惨さへの想い、そして核を巡る確固たるスタンス、本来、そういったものが根底にあって、核兵器への批判が展開されるものではないでしょうか。


しかし、久間発言後の、特に政治家の間で巻き起こった騒ぎは、与党も野党も、参院選を念頭に置いたもの以外の何でもなかったように感じられてなりません。大臣の辞任会見でも、選挙で自民党・公明党に迷惑はかけられないというような発言がなされていました。


参院選をめぐり、叩きやすい人間を叩いただけ、そんな空虚さを感じてしまうのです。


問題の本質は忘れられ、特定の人物に対する批判がただ更なる批判を呼ぶ。それよりも、あるべき姿、大切にすべき価値、それを深く掘り下げた議論が求められているように思います。

「たくさん弱い部分を出そう。たくさん泣こう。たくさん心から笑おう。怒りたいときは、怒ろう。感情を出していこう。決して、完全を求めないで。個性が消えてしまから」


非常に印象に残ったフレーズです。高橋いずみ著『パニック発作、自分が壊れていく―私はアダルト・チルドレン』の終盤で書かれていました。この本は、パニック発作等の病気に苦しみながら生きてきた著者が、その病気の根底にあった心の傷に気づき、癒しを得ていく過程が綴られたものです。


アダルトチルドレンという言葉については、「幼稚な大人」というような理解がされる場合もありますが、本来は、十分に機能しない家族で育ったために心に傷を負い、大人になってからも何らかの生きにくさを抱えたり、生きることに苦しみを感じる人のことをいいます。


自尊心が低く、自分の感情がよく分らない、楽しめないというようなこともアダルトチルドレンの特徴として挙げられますが、最初のフレーズは、まさにそこからの癒しを表しているように思います。


また同時に、アダルトチルドレンということから頭を離しても、示唆的なフレーズといえるのではないでしょうか。


完全を求めるあまり、完全でないことに大きなマイナスの感情を抱く。自分の欠点、他人の欠点が目につき、自分も他人も傷つけてしまう。そんなことはないでしょうか。


そもそも、私たちはいったい何を目指しているのでしょう。多くの人が、願わくば全ての人が幸せであるのがいいに決まっています。ゆとりをもって、自分も他人も許していくほうが、それに近づくのではないかと思うのです。


高橋 いずみ
パニック発作、自分が壊れていく―私はアダルト・チルドレン