「お箸はお付けしますか」論議 | “迷い”と“願い”の街角で

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

以前友人の自動車の中でたまたま聴いていたラジオ番組でのことです。


リスナーからの次のような投書が紹介されました。

「スーパーでレジ待ちをしていた時のこと、穏やかそうな壮年の男性が弁当を購入していました。店員が『お箸はお付けしますか』と尋ねたとき、その男性の表情が豹変し、『俺に手で食えって言うのか?』と店員を怒鳴りつけました。」


それについて番組では、「奥さんに逃げられて1人で弁当買って食べるしかなく、イライラしていたのかな」などと話が進んでいました。ただ、司会の方は、「実は僕も『お箸はお付けしますか』って聞かれるの嫌いなんですよ。箸が不要なときはそう言うから、そうでないときは黙って付けてほしいんですよね」とも言ってました。


これに限らず、私も、店員さんに「こうしてくれればいいのに」と思うことはあります。ただ、それは個人的な感想であり、どういう対応が「正しい」かは一概には決められないでしょう。いえ、そもそも、この程度のことは店員さんの自由に任させしまってもいいのではないでしょうか。


ネット等では、常に色々なことが議論されています。議論はいろいろな考えを知り、自分の考えを発展させていく上で重要なことです。ただ、些細なことについて何が「正しい」のか議論しすぎることには疑問も感じます。


何が「正しい」のか考えるということは、前提に「たった一つの正解がある」という発想があるのではないかと思うのです。些細なことについて、何が「正しい」のか突き詰めすぎると、一挙手一投足について「正解はたった一つ」ということになってしまうのではないでしょうか。皆が、生活の全てにわたって、「たった一つの正解」を忠実に遂行しなければならないとしたら、あまりに息苦しいものになってしまわないでしょうか。


『鈍感力』という本が売れ、「空気を読め」というフレーズの息苦しさが指摘されている今日、マナーは何のためにあるのか、「何が正しいか」という議論をそもそも「何のために」やっているのか、肩の力を抜いて問い直してみてもいいのかもしれません。