「失敗したっていい、思いっきりやりなさい」
そのような趣旨のことを、特に学校で、一度は言われたことがあるのではないでしょうか。私もこれまでに何度か聞かされたフレーズです。
しかし、正直なところ、私にはよく意味が分かりませんでした。
失敗はしないほうがいいに決まっている。失敗を重ねて成功にたどり着くと言うけれど、成功までの失敗が成功よりも大きかったら、社会の他の人に結果的には迷惑をかけてることになるんじゃないのか。そう思っていました。人に迷惑をかけたくない、そう思うと、失敗が怖くて仕方ありませんでした。
大学を出るころまで、失敗らしい失敗はしてこなかったと思います。「しっかり者」と言われるようになりました。しかし、一面、「思いっきり」何かをするというような経験はほとんどありません。失敗しないよう、小さいことに神経を使い、それだけで精一杯でした。それくらい失敗することが、他の人の期待を裏切り、失望させ、迷惑をかけることが怖かったのです。
反面、「失敗らしい失敗をしていないしっかり者」の自分に自負もありました。そして、心のどこかで、失敗する人間と自分を比べての優越感を持っていたのかもしれません。他人の失敗で多少自分に被害があっても、私は比較的寛容だったとは思うのですが、その優越感がそうさせていたのかもしれません。
しかし、社会に出てからは、うまくいかないことの方がはるかに多くなりました。それまでの自負は簡単に壊れ、劣等感が強くなるようになりました。月並みですが、「自分って何だろう」という疑問が頭をめぐります。自分の本当にやりたいことが分からない、自分の本当の感情・気持ちさえ分からない、そんな状態になりました。一番ひどいときは、いつもフワッとした感覚を持ち、思考がほとんど止まって何も考えられない時もあったほどです。
その後、環境が変わり、何冊か本を読み、自分に巣食う問題に気づき始めました。
自分には限界がある。大したことはできないかもしれないけれど、その限界を受け入れて、でも、自分にできることをやっていこう。少しずつ、そう思うようになってきました。ただ、まだそう思い切れず、苦しむことのほうが多いですが。
ある程度他人と調和を保っていれば、自分の人生を輝かせること、幸せになること、それを第一にしたっていいはずです。むしろ、自分が幸せであって、そのゆとりがあって始めて、他人を大切にできる、他人に幸せのおすそ分けができるのです。そうであるならば、自分が苦しければ、自分の幸せを最優先したって、決してわがままではないと思います。
そう捉えたとき、思いました。何回失敗しても、幸せと思えるところにたどり着ければよい、と。自分の人生、自分の幸せを何よりも重視したとき、「失敗したっていい」という意味が分かったような気がしました。
モラルがないといわれる社会、せちがらいといわれる社会、自己中ばかりの社会と謳われて久しく、規範意識等の重要性が繰り返し主張されています。しかし、それよりもまず、皆が自分の幸せを最優先し「ゆとり」を持つことが、今の社会を救う第一歩であると同時に、何よりも効果の上がる方法だと思うのです。
6月14日読売新聞の教育ルネッサンス「ネット モラル(13) フリーライター・渋井哲也さんに聞く…間違いながら学ぶ知恵」で渋井氏は「いまも昔も、子供は、失敗することで、何が悪いか学びながら成長する。なのに社会は間違いに対する寛容さがなくなっている。家庭や友人関係、学校、会社など、現実世界の中に、自分が自然に落ち着いていられる場所がない。・・・そんな生きづらさを感じている若者は、薄く広く、潜在的に存在する」といいます。
話はちょっと変わりますが、TWO-MIXの歌『LAST IMPRESSION』に印象深いフレーズがあります。「過ちをこえて、気づく真実(ほんとう)のやさしさ」。
過ちは過ちであり、過ちを過ちとして認めないのでは意味がありません。しかし、自分の過ちを認め受け入れられれば、他人の過ちにも寛容になれる。自分の幸せと他人の幸せにとって、よりよい未来を企図できるようになるのではないでしょうか。それは社会についても、同じであると思うのです。