“迷い”と“願い”の街角で -25ページ目

“迷い”と“願い”の街角で

確固たる理想や深い信念があるわけではない。ひとかけらの“願い”をかなえるために、今出来ることを探して。

歌手の倖田來未さんが「35歳以上の羊水は腐ってる」というような発言をして、批判が集まっています。ラジオ番組「倖田來未のオールナイトニッポン」(ニッポン放送)の冒頭での発言だったようですが、アメーバニュースには、やや詳細な発言の内容が掲載されていました。


「いつ子供作るの、みたいな話とかしててね。やっぱ35ぐらい回ると、お母さんの羊水が腐ってくるんですね(笑)。なので(笑)・・・いや、ホントに。いや、汚れてくるんですよね。できれば35までに子供を作って欲しいという話をしていたんですけど……」

倖田來未「35歳以上の羊水は腐ってる」発言に、事務所は……
 倖田來未(エイベックス所属)の「問題発言」に批判が集中している...........
[アメーバニュース]  



実際に聴いていたわけではないので何とも言えませんが、この発言に明確な悪意はないように思います。何も考えずにポロっと言ってしまったような雰囲気を感じます。


やっていいこと・悪いこと、言っていいこと・悪いことの境界線が曖昧になってきているというような言説を耳にすることがありますが、この「羊水」発言も、そんな状況下で、何の気なしに、見えにくい境界線を大きく飛び越えてしまったものといえるかもしれません。


この「羊水」発言は、決して好ましいものではありません。しかしながら、現実社会、そしてネット上では特に、この程度の発言は氾濫しているのではないでしょうか。そのような社会から、激しい倖田批判が湧き出していることに、何とも言えない違和感も覚えるのです。


「人が傷つくようなことを言ってはいけない」。小学生の頃から言われてきたことであり、当たり前のことだと思います。人が傷つかないで済む「優しい社会」を実現するためには、言ってはならないことが言われた際、それをたしなめることも必要です。裏を返せば、人を傷つけるようなことをたしなめる時、それは「優しい社会」の実現へと向かうものでなくてはなりません。


今回の「羊水」発言批判は、そんな「優しい社会」の実現へと向かうものでしょうか。そうでなければ、どこへ向かうものなのでしょうか。向かい先の見えないヒステリックな批判の渦に、かえって不安を感じてしまいます。

友人が薦めてくれたエレナ・ポーター著『少女パレアナ』を読みました。1913年にアメリカで出版されて以降、今なお読み継がれている物語です。


早くに母親を亡くし、父親とも死別したパレアナは、叔母パレーに引き取られます。パレアナは、気難しいパレーの下で苦労もしますが、亡き父親から教わった、どんな事からも喜ぶことを見つけるゲームで前向きに生きていくうち、町の人たちの、そして叔母パレーの心をも明るくしていくのです。


ところが、パレアナを、再び大きな不幸が襲います。その時、パレアナによって心に光を灯した周囲の人たちが、パレアナのために立ち上がりました。


純粋な少女の心が、周囲の人たちに希望をもたらす。心温まる物語としては、典型的な内容ともいえますが、学ぶべきことは多いと思います。


パレアナは、ただただ楽天家なのではありません。自分の置かれた境遇に悲しみ、苦しみながらも、父親の形見ともういうべき「何でも喜ぶ」ゲームを武器に、前向きに歩んでいくのです。それは一種の“闘い”にも見えます。


ところで、パレアナの試みは、“思い込み”によって暗い現実を楽しくするというものなのでしょうか。この話は、「心の持ち様」を説くだけのものなのでしょうか。


この話には、自分に素直になれず、義務の観念にばかり縛られるミス・パレーのほか、何に対しても不満を持つホワイトさんや、世間との交流を絶ってしまったペンデルトンさんのような人物が登場しますが、彼らの心を後ろ向きにしているのもまた、“思い込み”ということができます。


パレアナは、暗い“思い込み”を打破し、明るい“思い込み”へと転換しようとします。それも、単に思い込もうとするのではなく、ゲームという方法で“行動”を起こし、常にその努力を続けていきます。それはやがて、周りの人たちにも広がり、心を明るくした人たちがパレアナの危機に立ち上がったその時、パレアナの周囲において、“世界”は間違いなく変わったのです。


“思い込み”もそれにしたがって行動すれば現実となり、多くの人がその“思い込み”を共有し行動すれば、その“思い込み”は世界観となって、それに則った行動が世界を創ります。


一人の“思い込み”も、何らかの形で世界に大きく影響します。無意識に暗い“思い込み”に縛られれば、知らず知らずのうちに暗い世界を招くような行動をしてしまうことでしょう。その“思い込み”を意識して、それを変革するための行動を起こすことにより、世界そのものを変えていくことができる。この物語を、そのような世界変革の話と捉えるのは大げさでしょうか。



少女パレアナ/エレナ・ポーター
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昨日、高校時代の友人の結婚式がありました。私達が参加したのは二次会のみでしたが、2人の幸せそうな雰囲気は十分伝わってきました。


私も、他の人も、かける言葉の大半は、「幸せになってください」でした。ただ、ふと思ったのです。「幸せになってください」って、どういう意味なんでしょう。「結婚=幸せ」なのでしょうか。結婚したのだから、当然幸せであって、それを満喫してください、ということなのでしょうか。否、今現在の離婚率の高さ等をみても、単純に「結婚=幸せ」とはいえないのは、誰もが知っていることでしょう。


「幸せ」や「愛」は、どこかにあるのではなくて、築くものだというようなことを、どこかで聞いた気がします。だとすれば、「幸せになってください」というのは、これから2人で、頑張って「幸せ」や「愛」を築いてくださいというエールなのでしょう。結婚を「ゴールイン」と称することがよくありますが、むしろ「スタートライン」という表現の方がふさわしいのかもしれません。


長い人生苦しいときも多々ありますが、そんなときこそ、「幸せになるため」の努力をする必要があるのでしょう。日常には、やらなければいけない様々なことがありますが、「幸せであること」以上に大切なものはありません。だから、それを最優先して構わないはずです。本当の幸せは、自分や周囲の新たな幸せを呼ぶものです。ならば、自分の幸せを大事にすることは、決して我侭なことではないと思います。


本人達がこれを目にすることはないとは思いますが、門出の2人を、心から祝福したいと思います。ご結婚おめでとうございます!

最近まで、偶然ながら、多少なりとも仕事がスムーズに行っていました。逆にそれが大切なことを忘れさせていたようです。壁にぶつかり、二重の意味で自分の弱さを実感しています。


人はそれぞれ、持って生まれた、また幼少期からずっと身につけてきた限界の中で生きています。その限界という「枠」は大きさも形も、人生の形と同じく多様です。不変ではないにせよ、簡単に越えられるものではありません。


その限界を前提に、自分にできることを精一杯やることが重要なのだと思います。自分と人とを比較し、世間並みかそれ以上であろうとすることは、ある意味真面目なのかもしれません。しかし、他人並にやろうと無理をすれば、自分を傷つけ、今度はそれを補うように、自分並でない他人を足蹴にします。


限界を超えるための努力は素晴らしいですが、一方で超えられない限界もあります。また、いずれにせよ、限界というものは、そもそも自分の人生をともに歩んできた要素として、大切に扱う必要があるのではないでしょうか。それを邪険にして、他人との比較から潰し合いを行い、自分も他人も不幸にするよりは、それぞれの限界に応じて自分にできることを提供し、皆がよりよい結果を享受できるようにすべきなのではないでしょうか。それは、自分も他人も、ありのままに受け入れる優しさと、皆にとってのよい結果を企図する大きな視野を持つことに他ならないと思うのです。


実力主義の世の中で、甘えた考えだと思われるかもしれません。しかし、潰し合いによる不幸の増殖こそ、人的資源を無駄に消費し、よい結果を遠ざけるのではないでしょうか。限界に応じた形でも、皆がよりよい結果を求めて邁進するほうが、人的資源を活用することになるのではないでしょうか。また、

http://ameblo.jp/j-igarashi/entry-10052641414.html

で指摘されているように、実力があれば、何をしても、何を言っても許されるという発想こそ「甘え」なのではないかと思います。人間は弱い。恵まれた立場にあれば、様々なことを見落とし、忘れます。世の中全体を考えたとき、それがどこにせよ、「何をしても、何を言っても許される立場」などというものがあること自体が、大きな問題なのではないでしょうか。


「嫌われ恐怖症」な人達の悲痛な告白に共感の声
 2ちゃんねるの「嫌われ恐怖症なやつちょっと来て」と題されたスレッドがネットで話題となっている。..........≪続きを読む≫


ちょうどこんな記事が出ていました。「嫌われ恐怖症な人の人物像について『ある程度優秀だったり、褒められて育った奴が多い気ガス。しかし絶対的な自信を持てる程の実力はないレベル』といった分析がなされ多くの賛同を得ている」とのことですが、私は若干違った見解です。本当に自分を支える自信は、「根拠のない自信」なのだと思います。つまるところ、「自分は自分でいい」という自信、ありのままの自分を受け入れる自己肯定感です。絶対的な自信を持てる程の実力のある人間など、この世に露ほどもいるのでしょうか。根本的な自己肯定感のない、外面的な自信など、むしろ脆いのが当然だと思うのです。


限界も含めて自分を受け入れれば、その余裕を持ってすれば、もっと色々なことが見えてくるような気がします。そうすれば、より大きな結果のために、無理なく邁進できる道が見えてくるようにも感じています。自分は、まだまだですが、そうありたいと思いました。

この社会には、色々な事情から実の両親と暮らせない子供がたくさんいます。そのことは、あまりにも周知の事実と言うべきでしょう。そういった子供達は施設で育つか、実の親以外の家庭で育てられることになります。実の親以外の人と親子になる制度として養子縁組がありますが、他にも、そのような子供達を行政が里親に委託する「里親制度」というものがあります。


坂本洋子著『ぶどうの木 10人の“わが子”とすごした、里親18年の記録』には、著者が里親として経験した数々の苦難や喜びが綴られています。


悩み、傷つき、諦めそうになりながらも、強い使命感と深い愛情をもって、子供を育て子供に育てられながら前に進んでいく著者の生き方には感服するばかりです。


他方、この本からは、家庭の問題から実の親と暮らせなかった子供が抱え込む問題の大きさ、そういった子供達を里親として育てることの難しさ、そして里親・里子に対しての社会の差別・偏見の深さ、そういったものが予想をはるかに越えるものとして感じられました。


幼少期の環境が子供に与える影響は、昨今とりわけ重視されているように思いますが、その影響は、成長しても、大人になっても続く場合も多いようです。問題ある環境から離せばそれですぐ変わるわけではなく、著者も里子に巣食う問題の根深さとそれによって引き起こされる数々のトラブルに苦しみます。


「実の親子ではない」ただそれだけで巻き起こる偏見や差別が、もともと深い問題を背負った子供をさらに追い立て、それによって問題が深刻化すると、周囲との摩擦が余計に激しさを増していく。そのような悪循環がどれほど里親・里子を苦しめたか、それは筆舌にもしがたいことでしょう。


この本に描かれた社会の偏見や差別に対し憤りを覚える一方、その里子が引き起こすトラブルのあおりを受けた周囲の人たちが、そしてその親たちが平静を失うことは、ある意味、無理もないことなのかとも感じました。しかしそれは、著者を「独りよがり」ととらえることでもなければ、そのような差別や偏見による苦しみを肯定するということではありません。ただ、その周囲の人々の立場にたたされていない私には、本来、その人たちに義憤を感じる資格もないでしょうし、またその人たちを責め立てるところで、問題は何も解決しないだろうと思うのです。


「僕、先のことが見える気がするんだよ。そんなことをすると、お父さんやお母さんが悪いと言われるだけだよ。言ってもわからない人には言わないほうがいいよ」

著者が最初に委託された子が小学2年生のとき、通っていた小学校の校長先生に対して著者が抗議しようとした際に、その子がそう言って止めたそうです。


怒ったり、批判したりしても、事態は好転しません。「誰が悪いか」「どちらが悪いか」という判断も、本質的な問題の解決からすれば、遠い位置にあるというべきです。「皆の」幸せを阻害しているものは何なのか、どうしたらそれを取り除けるのか、別の面から幸せを増進することはできないのか、今、自分の立場で、自分のキャパシティーの中でできることは何でしょうか。様々な人の思惑、感情、人生が交錯し、そうそう分かり合うこともできない社会の中で、問題の解決と幸福のために、どちらへ一歩を踏み出せばよいのでしょうか。


重く難しい問題ですが、著者が里子に託した「人と違うと悲しまないで、悲しむ人の心が自分ならわかると、そっと手を差しのべる人になってほしい」という願いは、活路を照らす一筋の光にも感じました。


坂本 洋子
ぶどうの木―10人の“わが子”とすごした、里親18年の記録

『ゴリオ爺さん』、19世紀のフランス文学であり、バルザックが著した全91編の『人間喜劇』のうちの作品です。舞台は19世紀初頭、王政復古時代のパリ、立身出世に邁進する青年ラスティニャックと、2人の娘を上流階級に嫁がせながら、貧窮の中で生活する老人ゴリオを中心に話は展開します。


フランスでは、1789年のバスチーユ監獄襲撃に端を発したフランス革命で王政は倒されたものの、ナポレオン帝政時代を経て、再び王政が復活しました。しかし、歴史は、近代市民社会の勃興へと確実に歩みを進めており、市民社会が基調とする個人主義や自由主義、そこから湧き上がる出世主義や拝金主義がパリを覆っていました。


田舎から出てきた青年ラスティニャックは、立身出世を望み、きらびやかな社交界へ足を踏み入れていきます。一方で、彼の普段の棲家は、社会の下層の人々が集まる貧乏下宿。その下宿で、ラスティニャックは、ゴリオ爺さんと出会います。


2人の娘を溺愛するゴリオは、娘達を上流階級に嫁がせますが、その娘達に豊富に持っていた財産を搾り取られ貧窮した挙句、娘やその夫達に冷たい扱いを受けていました。それでも娘達を愛し、その身をさらに削るのです。


ラスティニャックは、着実に立身出世への道を歩みながらも、ゴリオや様々な人たちとの出会いとその悲劇を通じて、パリ社交界の煌びやかさに押しのけられるようにして存在する暗部の絶望を見つめる一方、社交界の栄華もまた虚偽と浅薄な快楽、そして苦しみに満ちたものであるということに気づいていきます。


それでも、ラスティニャックは、その虚栄に満ちたパリで、立身出世の道を歩むのです。その都市に戦いを挑むように。


この『ゴリオ爺さん』は、当時の初期近代社会の矛盾と人間の本質を深く突いた作品とされています。人間の本性はそうそう変わるものではないですから、それを深くとらえた作品は時代を超えるものといえるでしょう。そればかりでなく、当時成立した自由経済と個人主義を根本とする近代社会の構造は、そのまま現在の社会に受け継がれていますから、その社会批判もまた今の時代に大きく重なってきます。


この作品の主題は、善良なる老人の父性愛と、娘の裏切りによる悲劇ともとらえられるでしょう。そうするならば、善人であるゴリオと悪人である娘という対比が成り立つかもしれません。


しかし、そう単純な作品ではありません。ゴリオの父性愛にも、臆病さから来る現実逃避や、欲望を孕む狭窄さを感じる一方、2人の娘も残酷なパリ社会の中で、身を切られるような苦しみに襲われるのです。


私は、この作品を、主に、社会に翻弄される人々の悲劇として読みました。ゴリオ、その2人の娘、その他多くの登場人物達は、皆、直接間接に、パリ社会の虚栄や快楽に欲望をかき乱され、振り回され、押しつぶされていきます。しかし、そんな見えない何かの操り人形となりながら、瀕死の人間性に一瞬の光を灯す場面もまた描かれます。


自由社会といいながら、個人の尊重といいながら、気づかないうちに、得体の知れない何かに絡めとられ、操られる。欲望は次々現れて、満たされ切ることはなく、ある時たちまちのうちに虚栄は崩壊し、絶望と虚無に襲われる。内なる自分が、幸せのために本当に欲するものは、そんなことだったのでしょうか。


一応「自由」な社会の中、そこを渦巻くものに支配され、内なる自分を瀕死に追い込む。空洞の自分は、本当に欲するものも分からないまま、振り回されるばかりで、どんどん蔑ろにされていく、傷つけられていく。そんな警鐘は、今の社会でも十分すぎるほど意義のあるものではないでしょうか。



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早いもので、もう2007年も終わろうとしています。個人的にも、また社会に目を転じても、色々あった、色々考えさせられた1年だったと思います。


今年の前半、とくに1月から3月は、仕事でもその他でも悩むことばかりでした。色々なきっかけがあり、分かったことがあり、徐々に落ち着いてきて、そして、思いました。焦らず、気負わず、自分を大切にして、無理のない範囲で自分にできることをやっていこう、自分に提供できるものを周りに提供していこう、と。


人にはそれぞれ限界があります。私自身、大きな欠陥を負ってしまった人間だと思っています。人が普通にできることが、自分にはできない。それでも、無理して空回りして自分も傷つけるくらいなら、開き直って、その欠点を受け入れ、穏やかに自分にできることを自分のペースで提供していく方が、自分にとっても周りにとっても、いい結果をもたらすのではないかと思ったのです。


人間はどんな時に一番力を発揮できるのでしょうか。人それぞれという側面はあると思いますが、内心が安定している方が、くよくよと病んでいる時より、うまくやれるのは言うまでもないでしょう。落ち着いている時にできないことが、落ち込んでいるときにできるということは、まずないと思うのです。置かれた状況の厳しさ、自分の至らなさを認識することは必要かもしれませんが、それを受け入れた上で、楽な気持ちで無理せず進んでいっていいのではないでしょうか。そうすれば、周囲ももっとよく見えるようになるのではないかと思います。


だとすると、落ち込まないことが才能でしょうか。でも、それも個性です。人間、落ち込むときは落ち込むもの。苦しいときは、自分をいたわり、癒すことを優先していいと、そういう風に考えればよいのではないでしょうか。


地位や財産、才能等にかかわらず、いつでも一人の人間としての自分を大切にすること、どんな状況でも、自分以外の何かを優先しすぎて潰されることなく、一人の人間として、無理のない可能な範囲で最善を尽くすこと。これらは、卑屈になり自分を踏みにじることのみならず、傲慢になって他者を傷つけることを防ぐことにもなるのではないかと感じています。卑屈になる背景に、地位や才能で人を序列付けるような価値観があるとすれば、それをもって他者を見下すことにも容易に結びつくからです。


社会に目を転じたとき、ややこじつけ的かもしれませんが、今年電撃的な辞任をした安倍前総理とその一代前の小泉元総理が、まるでその卑屈と傲慢の表裏を反映しているような、そんな印象を感じました。


小泉元総理も、安倍前総理も、ある意味個人主義的な方だったと思います。個人的な思想・主義、否、むしろ「趣味」と言った方がしっくりくるかもしれませんが、そういったものを前面に押し出したやり方をしたといえるのではないでしょうか。この「個人主義」は、先ほどの「一人の人間としての自分を大切にすること」とは全く相容れないものだと考えるべきでしょう。むしろ総理の立場で自分の主義を押し通すことに躍起になっていた意味で、地位・立場・権威に踊らされていたと見たほうがいいのではないかと思います。


小泉元総理は、類稀な政治的才能(総理としての有能さというより、マスコミ等を利用した人心掌握術とでもいうべきものでしょうが)、強引な手法とそれをやり通せる鈍感力的なもので、長期に渡り在任し、悠々と去っていきました。これに対して、安倍前総理は、ある種の未熟さとそれを補うものの不足、強引な手法をとりながら繊細さのためそれを遂げられず、潰れる結果となってしまったのではないでしょうか。いずれにせよ、前者では、格差問題に象徴されるような「構造改革の歪み」が、後者では大きな政治的混乱が残されました。


分かりやすい解答・解決策を信じさせた小泉マジックが効力を無くし、「構造改革の歪み」と政治的混乱の中、年金、食品表示偽装、防衛事務次官の収賄容疑と様々な問題が渦を巻いていたのが、この2007年だったのではないでしょうか。小泉前総理の示す端的な解答と、それに対する批判という二項対立が終焉を迎えた今、皆思っているのではないでしょうか、「もう、どうにもならないのかもしれない」と。


八方塞の不安の中、端的な解決を得られないストレスが、ひょっとしたら、モンスターペアレンツのようにモラルを欠いた言動を行う一因にもなり、一方で多くの自殺者や、心を患う人の増加にも絡んでいるような気もします。


問題のない状況を通常ととらえ、問題を「あってはならないもの」とし、だからこそ一朝一夕で解決しなければならないとする発想があるとすれば、もうそれでは立ち行かなくなっているのではないでしょうか。また、問題の原因を特定の人や物事に全て負わせ、それを駆除すれば足りるという考えも、社会を混乱させるだけというべきでしょう。責任の押し付け合いが、ストレスのはけ口としての攻撃の応酬が、問題の解決を遠ざけるだけです。


多くの人がひしめき合う社会では、問題は必ず起きてきます。起きてくる問題を冷静に受け止めて、それぞれの立場の人が、一人の人間として、無理のない可能な範囲で力を発揮していけば、確実に解決に近づくのではないでしょうか。甘い考えかもしれません。しかし、責任の擦り付け合いの中、傷つけあいの中で、多くの人が潰されていくぐらいなら、その方がよほど効果的だと思うのです。


皆が、一人の人間としての自分を大切にしながら、自分でできる限りのことを提供していけるようになれば、今よりは確実に生きやすい世の中になるのではないかと思います。そうすれば、問題やうまくいかないことが生じたとき、短気を起こすような反応で混乱することなく、もっと解決に向けた道筋が見えてくるのではないでしょうか。自分の責任におびえ、自分の立場に踊らされることなく、皆の幸せに適った結果へとゆっくりと進んでいくことができるのではないでしょうか。


奇麗事と思われるかもしれませんが、皆が自分を大切にし、気負うことなく自分にできることで他の皆を大切にできる社会を望んでやみません。2008年が少しでも、そういった社会に近づける年でありますように。


読んでいただいた皆様、今年は本当にありがとうございました。

「誰に対しても平等に、同じように接してください。」


中学校の卒業式の日、私のクラスの担任だった先生が、生徒に最後に贈った言葉です。当時は、「最後の言葉が、こんなありきたりのものなのか。」などと、ちょっと思ったものでした。しかし、最近になって、この言葉の重みが、少し分かってきた気がします。


「誰に対しても平等に、同じように」というのは、簡単なようで、非常に難しいことだと思います。人には個性がある以上、合う合わないは必ず生じますので、当然といえば当然でしょう。また、同じようにといっても、相手の個性やその人とどういう関係にあるかを無視して、画一的に接するというのは好ましくないでしょう。


しかし、合わない人だからといって色々な理由をつけて不当に差別したり、人の一面だけを見て優劣を決め込んで見下した態度をとったりするようなことは避けるべきことです。合う合わないはあって当然にしても、「劣った人間」「問題のある人間」というレッテルを貼られて蔑まれれば、人間にとって、これほど悔しいことはないと思います。


そのような差別は、そうそうあるものではないと、そう思われますでしょうか。でも、周りを見渡してみると、そういった差別・侮蔑は日常的に起きているとともに、誰の中にも、そのようなことを行う要素があるような気がするのです。


他方で、そのような差別・侮蔑は、それを行う者自身の苦しみから生じ、その苦しみをさらに増大させるものではないかとも思います。人の一面だけを見て見下す人は、どこかで自分のことも一面的に評価しており、また、他人の自分に対する一面的な評価にも傷つきやすくなるのではないでしょうか。個性の違いから来る合う合わないを受け入れられず、人を攻撃する人は、自分の個性を尊重することも出来ず、自分を責めてしまう場合も多いのではないでしょうか。


様々な個性がひしめきあい、合う人合わない人いる中、自分を見失わず、どうしても合わない人とは適度な距離をとりながらも、出来る範囲で、無理のない範囲で受け入れていけばよいのではないでしょうか。そうすれば、徒に個性を否定して、責め立てることは、他人に対しても、自分に対しても、必要ないものとなると思います。


個性の否定は、多様な社会のそして未来の否定。不当な差別は、同じ人間としての尊厳を認めないこと。そして、あって当然の合う合わないから来る摩擦を、相手に問題があるから、相手が劣っているからとして、一方的な攻撃・粉砕を実行するなら、規模が大きければ大きいほど、取り返しのつかない事態を招くでしょう。


「誰に対しても平等に、同じように接してください。」

恩師のこの言葉は、自分の中に巣食う問題を直視して、立ち止まって冷静に考えるためのきっかけとなってくれるような気がします。

高校時代、修学旅行で沖縄へ行きました。平和学習として、戦争を体験した現地の講師の方の話を聞きながら戦争にまつわる場所をまわることが、大きな内容の一つでした。


その際、コース終盤で、講師の方が仰った印象深い言葉があります。「平和を守る」という言葉は好きではない。これからの時代はもっと前に出て、積極的に「平和を築く」ことが必要だと思う、というようなものだったと記憶しています。


その後、別の機会に、別の人から、同じく「平和を築く」ことの重要性を示唆する話を聞くことになりました。「平和を守る」という発想は、平和を脅かす外敵がいて、その攻撃から守るというニュアンスを孕んでいて、戦争を肯定しやすい発想なのではないか。だからこそ、皆で「平和を築く」という発想こそ必要だと思う。そのようなものだったと思います。


「築く」という発想の重要性は、平和の問題に限ったことではないと思います。何か問題が生じて、既存のもので対応しきれない場合、「築く」という発想なしに解決は難しいのではないでしょうか。


「築く」ことは、時間もかかる厄介な作業です。一朝一夕で成果が出るものでもないでしょう。しかし、焦って、新しい問題を既存のもので無理に解決しようとすれば、偏見や誤解による原因のすり替えが行われる危険もあります。「築く」ことの前提として、既存のものにとらわれることなく、ありのままの問題の様相に「気づく」ことが必要なのかもしれません。


「築く」余裕を無くし、既存のものによる安易で無理な解決を図って、かえって混乱を招いているようなことはないでしょうか。その混乱や、それによるフラストレーションは、皆で協調し「築く」ことをさらに阻害するようにも思えます。


混乱の流れに気づかぬうちに流されぬよう、一呼吸おいて周りを見渡してみれば、色々なことに「気づく」ことが、「築く」ための小さな布石を置くことが、できるのかもしれません。

本屋でふと気になった本を衝動買いすることがありますが、ステファノ・フォン・ロー文:トルステン・クロケンブリンク絵『小さい“つ”が消えた日』もその中の1冊です。長らく本棚に放置していましたが、最近ようやく読みました。


“あ”さんから“ん”さんまで、いろいろな文字が住んでいる五十音村。ある日、小さい“つ”は、「音を持たないやつなんて、文字でもなんでもない」と皆からバカにされて、傷つき、家出をしてしまいます。すると、新聞、テレビ、人の会話までから、小さい“つ”が消えてしまいます。混乱する人間達をよそに、小さい“つ”は、それまで見たことのなかった広い世界を目の当たりにする一方、他の文字達は小さい“つ”を探し始めました。


この話で、特に印象深かった場面が2ヶ所ありました。


1つ目ですが、自分は必要とされていないと感じて五十音村から飛び出した小さい“つ”は、広い世界に飛び出して、様々なものに触れていきます。そして、太陽や月、虹、雲など、自分と同じように口をきけないものがあるということに気づきます。さらに、滝や海、風も、声はあっても言葉で話すことはできないことを知り、小さい“つ”は、言葉を話せないことが自分の価値を決めることではないんじゃないかと感じるのです。


これは、五十音村で文字達が「誰が一番偉いか」ということに躍起になった挙句、小さい“つ”をバカにした偏狭さと対照的といえるでしょう。


中日新聞で今年1月から7月にかけて連載された「いじめと生きる」 の中で、このことと通じる内容のものがありました。「第1部・ドラえもんのいない世界で 空間の違い=「町内」飛び出すとジャイアン変身」(2007年1月5日中日新聞) では、通常の短編ドラえもんで描かれる町内ではいじめっ子のジャイアンが、広い世界を舞台にした大長編(アニメでは劇場版)では、友を助けるかっこいいジャイアンになることが指摘されています。その上で、閉じられた空間で繰り返されるいじめについて、もっと開かれた広い世界があることを教えることの重要性が語られていました。


続いて2つ目ですが、小さい“つ”が消えて大混乱が生じた際、最初、文字達は自分達の過ちを省みることもなく口々に小さい“つ”を「無責任だ」と責め始めました。それに異を唱えたのは、最年長で一番賢い“こ”さんでした。小さい“つ”に心無い言葉を浴びせたお前達の方がよほど無責任だ、と。すると、今度は文字達は内輪で責任の擦り付け合いを始めます。再び“こ”さんがそれを遮り、小さい“つ”を探すことが先決だとたしなめるのです。


小さい“つ”が消えたことで混乱が生じたとき、すぐさま文字達が自分の非に気づく流れだったなら、あまり注目もしませんでした。しかし、最初に自分達が言い放った悪口も忘れ小さい“つ”を責める文字達に、ある種のリアリティーを感じたのです。


閉鎖的空間で「誰が一番偉いか」という単一の価値基準に縛られ、無意識にうちにもゆとりを無くしているとするならば、それが小さい“つ”への悪口を生んだとするならば、そうそう自省の上の行動などとれないのが当然でしょう。“こ”さんの知恵がそれを目覚めさせました。


しかし、転じて、今の社会を見たとき、小さい“つ”に対するような行動は、あちこちに見られる一方、“こ”さんの役割を果たすものはどれだけあるでしょうか。“こ”さん的な歯止めと軌道修正を図ることの出来る存在を欠くための暴走のようなものを、むしろ感じる場合が多くあります。


もし、“こ”さんの知恵がなかったら、この話は一体どう展開していたのでしょうか。


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